harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

こちらのブログの読者が100人に達したので、メルマガつくりました!

こちらのブログの読者が100人に達したので、メルマガつくりました!

 

こんにちは。原澤出版の原澤です。

ご無沙汰的になってしまいましたが、

活動場所が変わると言いますか、リアルに引っ越しがありまして、

ようやく、無事済みました。

 

その間、執筆も止まってしまいましたが、

本日より、執筆再開予定で御座います。

 

また、2冊目「大和魂の研究」も伸び伸びておりますが、

ちょうど良いので、自分の誕生日の6/18にでも

出そうって事になりました。

 

後は、校正を頑張るだけで御座いますが、

その間にも、日本研究、大和魂研究は進めておりますので、

多少、内容が変わる可能性もあります。

 

そして、今回の記事は、

 

こちらのブログの読者が100人に達したので、メルマガつくりました!

 

ということで、こちらの原澤出版のブログの読者が100人に達したら

原澤出版のオフィシャルメルマガつくろって事で、

99人からなかなか100人にならなかったのですが、

遂に、100人になったのでメルマガ開始します。

 

 

原澤出版オフィシャルメルマガ

 

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一応、このメルマガで何を発信していくのか?

その他、何をするのか?

 

って事ですけど、

 

個人的には、原澤出版では読者の方の意見や

リクエストなどをいただきながら、

新刊を作っていきたいと思いますので、

意見交換の場がメインになれば良いなと思っています。

 

ちょっとこちらの執筆記事にコメントいただいても、

いただいたコメントに返事を返すことはほぼないと思います。

 

なぜかというと、執筆中は集中しているので、

ちょっとコメントを読んで返事する事は難しいです。

 

「ふーん」とすら思ってないかもしれません。

頭に入ってこないってのが実際のところです。

 

なので、メルマガでのやりとりであれば、

執筆後落ち着いてから、メールを拝見して、

何か返すべきことであれば、

 

こちらのブログで取り上げるかもしれませんし、

メルマガもしくはメールで返事を

返すこともあると思います。

 

という事で、遂に原澤出版の

オフィシャルメルマガも開設され、

 

さらに原澤出版は本格的に活動していきますので、

よろしくお願いします!!

10:知識と知恵、「分かる」と「できる」の二枚舌構造について

10:知識と知恵、「分かる」と「できる」の二枚舌構造について

 

 この章の最後に、知識と知恵、「分かる」と「できる」の二枚舌構造について思いっきり語って、この章を終わらせることにしたい。正直なところ、日本の教育のダメダメな部分を書いていたら、かめはめ波を食らった以上のダメージを受けたかのような状態になってしまい、もう二度と、日本の既存の教育については言及したくないというある種のトラウマ状態になってしまった。やはり、語るのであれば明るい未来を創っていくための前向きで建設的な論述をしたいのだが、日本の教育に関して、多くの人達が未だにそれほど危険を感じていないのだから、この気違いが声を大にして叫ぶ必要があると判断したし、今「何言ってんだ、コイツ。」と思われたとしても、何年か経てば世の中は私が言っていることに傾いてくることは間違いない。何故ならば、既存の日本の教育に可能性も未来も何も期待するものなど存在していないからだ。

 時間が経つにつれて教育の質が下がっている理由は、知識一辺倒の教育になったからに他ならないだろう。「知」については「知識」と「知恵」に分類することが出来る。教室の中で席について、あーだこーだと教師たちの講釈を真に受けて身につけられるそれらはすべて「知識」でしかなく、本来社会に出て通用するかどうか、活躍できる人材になる事ができるかどうかは、その人間の持つ「知恵」の部分に集約されている。例えば金山に金でも堀りに行った時に金はその金山の岩の中にほんのちょっとしか含まれていない。そのほんのちょっとの金が「知恵」のようなもので、「知識」というのは、その金の含まれた岩石全体だと考えれば良いだろう。では、その岩石からほんの少量の金を取り出すにはどのようにすれば良いのか?本来は教育の本質はそこにあるような気がしてならない。「知識」からどうやって「知恵」を取り出すのか。そこに学習の本来の楽しさであり、醍醐味が含まれていると私は考えている。前の項で、何故あれだけ集団登下校を批判したのかの理由はここにもある。「寄り道」というその営みが一つの「知識」から「知恵」を取り出す営みになっているからだ。その営みを奪った者であり、組織、機関の罪は大きい。子ども達が「知恵」という金を取り出す術を奪ってしまったからだ。

 「知恵」を身につけるには、多少の痛手であれ、危険を伴う。そんな安全な状態で手に入る「知恵」など知恵でもなんでもない。知恵とはまさに、量子的であり、不確定的な要素の多いものなのだ。そこで、本人が世の中の現象であれ、現実と、自分の身につけた知識を利用して、実際に「人生に使える形」を見つけ出したり、作りだしたりする。これが「知恵」の正体だ。それをただ教室の中で良い子ちゃんをして覚えた「知識」の状態で、どれだけ沢山の「知識」を手に入れていたところで、その「知識」を「知恵」に変えるだけの力がある種の錬金術のスキルを身につけていない人間は、社会に出ると必ず同じ呼び名で呼ばれることになるだろう。その名とはもちろん『頭でっかち』という呼び名だ。『頭でっかち』とは「知識」ばかりはあるけれど、それを「知恵」に錬金できない者の事をそう呼んでいるのだ。

 実際に良い大学を出たところでこの「知識」を「知恵」に変えるための錬金術を教えてくれるわけではないし、学歴に問わずこの錬金術を身につけている者は存在する。むしろ学歴などない者達の方が、この錬金術に長けていたりもする。なぜならば、学歴などというものは「全国どんだけ知識持ってるか選手権」みたいなもので、知識を知恵に変換するという部分は評価する対象になっていないからだ。しかし、皮肉な事に学校という隔離された世界から一歩出た、大人の世界では、「知識」をいくら持っているかなどという事に関しては大した評価を受ける事はなく、「知恵」として世の中で、社会でいかに使えるように、使っていける人間が社会で活躍していく残酷な事実がある。これは時間が経てば経つほど、その傾向が強くなり、もはや今の時代において、学歴などというものはそれほどコスパの高いバッヂではなくなっている現実がある。私が既存の学校教育を馬鹿にしている理由もここにある。既存の学校教育など、ただのクイズ王を日本中で養成しているだけで、特にすぐれた「知恵」錬金術師たちを養成している訳ではないのだ。
 しかし、学校教育において、さらには学習塾が流行るという事は、その某「クイズ王」を決めるイス取りゲームが現在も流行り続けている事を証明している。だけど、学習塾・お受験文化がいくら流行ったところで、その恩恵にあやかることが出来るのはせいぜい、会社に就職するところぐらいまでで、そこから先はどれだけ多ジャンルのクイズに正解できる知識を持っていたところで、『頭でっかち』の人間は、知恵者に勝つことは出来ない。もしも、Kingの称号を得るのであれば、クイズ王ではなく、錬金術王を目指すことをおススメする。それは、時代がどっちの方向に進んだとしても、知恵を蓄えることが出来れば、どんな社会でも通用もすれば、活躍する事が出来るからだ。それこそ、どんな筋力自慢の人間がその「知識」という岩石を保持したとしても限界があるだろう。実際、「知識」と「知恵」の関係も同じことが言える。ハードディスクの要領と同じで持てる量が決まっているのだから、少量の金の含まれている岩石をそのまま保持するという事はいかにも効率が悪く、身動きも取りづらい馬鹿げた状態であると言わざるを得ない。「知識」を「知恵」に錬金することが出来ぬ『頭でっかち』は言ってみれば、このスマホの時代に、昭和の時代の肩にかけるタイプの携帯電話とは呼びづらいあの重そうな移動電話を持ち歩いているようなものだ。もはや、身動きのとりづらいその状態で『頭でっかち』は、忍者の如く身軽な知恵者に指一本も触れることはできないだろう。
 実際、何故いつの時代においても、『頭でっかち』など使い物にならないというのに、この国は幼少期からその「頭のデカさ」ばかりを競うのか。昔は自然もあったし、外遊びをする場所も豊富だったし、コンピューターゲーム以外のおもちゃも沢山あった。今ほど、首から上側しかでかくならないような環境ではなかったため、ここまではおかしな世界にはなっていなかったとも言える。そして学習塾というビジネスがここまで流行ってもいなかったのだから、社会は『頭でっかち』不要論を掲げているというのに、なぜか昔よりも今の時代の方が、世の親たちは我が子を『頭でっかち』にしようと躍起になっている親が多いというのはまったくもって理解が出来ない。
 正直なところ、私と同年代の人間が子どもを『頭でっかち』にしようと躍起になっているのを見て、「こいつら目の前の世界がどう見えているのだろうか?」と不思議で仕方がない。なぜなら、今、どこの分野に『頭でっかち』が重宝される分野があるのだろうか。どこを見渡しても、そんなものは見当たらない。それなのに親たちは、パチスロに狂ったギャンブラー以上に、自分の子どもより『頭でっかち』にするため、金を注ぎ込み、少年時代の貴重な時間を頭をデカくする事だけに目を血走らせて躍起になっている者達のいかに多い事か。昨今では、スマホ持ってない、学習塾に通ってないというこの二つはいじめの原因になる程だから、もう学校というあの狭き箱が、いかにアルカトラズよりも恐ろしき箱であるかは言うまでもない。無実の者達が、とんでもなくくだらない理由によっていじめられるのだから。これからは漢字の読みのテストに「学校」という言葉が出たらふりがなに「けいむしょ」とか「ろうや」と記入しても正解にしてもらいたい。

 世の中を見渡せばサイズはともかく、ドクタースランプアラレちゃんに出てきた学校の栗頭先生のような、『頭でっかち』ばかりで、それこそ『頭でっかち』は「知識」を「知恵」に錬金する方法を知らない。そういう者達はただひたすらその「知識」にしがみついて分かったつもりになって、社会の中で使えもしない「知識」という岩石で弱き者の頭をカチ割りにいく、『頭でっかち』同士の弱肉強食システムの中で、再び『頭でっかち』ヒエラルキーを築くだけで、もはやそれは今の時代においてはただの老害でしかない。ただ『頭でっかち』共の唯一のメリットとしては、薬物もアルコールも不要で、「現実」を見ずに、自分の「知識」に溺れて、現実を見ずにひたすら酔っぱらっていられることかもしれないが、これはだの皮肉であってそんなものメリットでもなんでもない。大事な事は、実際に現実を動かせるだけの「知恵」をどうやって手に入れ、しっかり現実的に、世界をバージョンアップさせるだけの真の実力を身につけていくかであって、社会に出てまで、「知識」をひたすらコレクションして頭のサイズと重量だけにこだわって生きる事ではない。とは言っても、『頭でっかち』の者達は、成りたくてなったという訳でもなく、物心ついていた時には、頭がでっかくなってきて、そのでっかくなった頭の中に詰め込まれた「知識」を「知恵」に錬金して、首の下側に栄養を送り込むことができず、苦しんでしまった被害者とも言えるのだ。

 この『頭でっかち』社会の負のスパイラルをいつ誰が止めるのか?止めることが出来るかは正直難しい。それはこの章で散々述べてきた。ある種一つの国が民主主義と社会主義に分裂したように、「知識主義」の教育と「知恵主義」の教育に二分すれば良いのだ。これからも『頭でっかち』になりたい人間は、既存の日本の教育にすがり、頭の大きさをさらに大きく、誰よりも大きく、アメリカ主義ではないが「デカけりゃ勝ち」「デカけりゃ価値」のような世界で生きていけばよいだろう。

 問題は「知恵主義」の教育環境を提供したくとも、今の時代に「知恵主義」の教育環境が整備されていないという事だ。knowledgeを追いかけることに慣れっこになり、intelligenceを手に入れるための教育が出来る人間が、この日本に現在どれだけ存在するのかは非常に怪しい。「知識よりも知恵」、「日本の既存の学校教育は今の時代にマッチしていない」口で言う事は誰でも出来るし、それこそ頭の良さそうな有能っぽい者達がこの事を最近はブログやSNSなどで意見しているを見かけるようになった。とはいえ、彼らは特に「知恵主義」の教育環境を自ら作ろうとはせず、ただ単に「既存の日本の教育は時代錯誤、ナンセンス」だとDisっているだけで、「じゃあどうしたら良いの?」というアンサーを求められると、またなんかカッコイイ事を言ってるだけで、自らその教育環境を創る者はほとんどいない。特に、子ども達を対象にした「知識主義」の教育環境を創って提供しようという人間はもっと少ない。

 口で言うだけであれば、それは「知識」の領域であり、「分かる」という箱庭で遊んでいる程度の価値しかない。「知恵」の領域、つまり「できる」の領域こそが世界と繋がっているレベルでの価値になるのだから、「できる」の領域で実際にどうやってこの『頭でっかち』教育大好きニッポンの中で、「知恵主義」の教育環境を実際に創っていけるのかという実際はずっと突き付けられていたが、政治家たちが先の世代へとたらいまわしにしている数々の「ツケ」と同じで、この「知恵主義」教育環境の実現も長年ずっとたらいまわしにされてきた。もしかしたら、某「ゆとり教育」も本当はこの「知恵」を身につける為の時間を子どもであれ、家族に提供するためのものだったのかもしれないが、あっけなくその「ゆとり」という時間は、学習塾に通わせる時間へと変換され、「知識」が「知恵」へと錬金される事はなかった。

 私が創る学校嫌いが創る学校は、もちろん「知恵主義」の教育環境を提供する。それがこの章で既存の日本教育をDisりまくった事に対するアンサーだ。「分かる」主義だけでなく、「できる」主義の教育環境を提供していける環境を創れば、確実に日本は変わる。レベルがアップする。その事実が証明されれば日本の教育はひっくり返る。別に連中がひっくり返らなくても、誰もついていく者がいなくなれば、ひっくり返るしかなくなる。それは世界を見ればわかる。社会主義国家が資本主義国家側に近づいたり、ひっくり返ったりしたのと同じようなもので、粘り強くやる必要もあるかもしれないが、時代が後押ししている以上、それほどこちらは粘る必要もなく教育環境はひっくり返る。むしろ、どこまで悪あがきして粘り続けることが出来るかは、『頭でっかち』教育側だろう。

 しかし、そうとは言っても「知恵主義」の教育環境づくりを実践する者達は今現在ほとんどいない。個人で実践する者はいても、これを教育の形として提供する者達はほとんどいない。実際に「天才」とは学校という箱の中からは輩出されない。「天才」は学校の外でつくられる。それはもちろん「できる」という力、「知恵」が備わらない限り、「天才」になどならないからだ。学校でつくられる「天才」はせいぜいクイズ王ぐらいだろう。天才〇〇と呼ばれるような子ども達は、皆学校の外側に出ているし、学校教育になど重きを置いていない。見方を変えれば、学校教育やお受験に躍起になる親の「教育力の低さ」が、子どもを「天才」に育てられない原因であると言っても間違いない。それこそ「天才」とは「天がその人間に与えた才能」であって、おそらく多くの人間がイメージする「天才とは特別な人間」のようなものではない。皆誰でも「天から与えられた才能」は自分の中に備わっていて、それをただ発揮するかしないかだけの事なのだが、学校教育などという「平均化教育」であり、「知識主義」のような教育をすれば、その人間達の持っている「天から与えられた才能」が発揮されることなく、封印され年月をかけて、一番のGIFTの存在を人は忘れてしまうのだ。

 そういった意味でも、「分かる」教育、「知識主義」の教育を私は断固否定する。なぜ、皆「天から与えられた才能」をただ発揮して生きていればそれこそ、アベレージの高い人生を皆が生きることができるというのに、いちいち自分の苦手な事を無理やりやらされてみたり、自分の才能を生かせないハンデのあるレースに参加させられる必要があるのかがまったくもって理解できない。人生とは自分に与えられた「天才」を生かしてそれぞれが楽しく生きれば良いだけであって、本来の教育環境とは、その「天才」をそれぞれが生かせる環境を提供してあげるだけで、人は勝手に育つ。これは、私の好きなRAPであり、ダンスであり、Hiphopの環境がそれを実際に証明してくれている。特に、最近のRAPの世界はまさにそれぞれの持つ「天才」を発揮する場になっていて、もしもあの環境がなければ、くすぶって埋れていたかもしれない者たちが輝いている部隊が提供されている。それは非情に素晴らしい事で、そういう環境をそれぞれの「天才」が発揮されるように環境を用意して提供していけば、人は勝手に自分の持っている「天才」を発揮して、世の中をガンガン進化させてくれるのだ。

 一番よろしくないのは、古ダヌキ共が自分たちの既得権益を保守したいばかりに、このそれぞれの持つ「天才」が発揮されないようなクソ教育を国民に押し付ける事だろう、そしてオリンピック競技でもよくある事で、日本がやたらメダルを大量に獲得するようになると、ルールを変えられてしまうあの状況と同じで、社会はその古ダヌキ共が優位に立てるようなくだらないルールになっているのは間違いない。ここをぶち壊さない限り、本当の意味で日本も変わらなければ、日本の教育も変わる事は無い。

 しかし、今それらをぶち壊すチャンスはやってきているし、古ダヌキ共の権力をもってしてでもその勢いを抑えることができない。古ダヌキ共の権力で人々を自由自在に操ることが出来たのは、インターネットが普及するまでの時代であって、今はもはや古ダヌキ共の密教パワーは薄れているというよりも、ほぼ通用していない。あとは全体のシステムがひっくり返ってしまえば、日本は明治維新以来の革命が起こる可能性すらある。それは、日本の外側からの脅威によって起こる革命ではなく、日本そのものが、生まれ変わるという意味合いでの革命だ。人々が本来持っている個々の「天才」が発揮され、もっと多くの人間が活躍し、輝く事が出来る土台が築かれて提供される時代がやってくるという事だ。本当の意味での「民主主義」の時代が遂にやってくるということだ。

 と、ようやくこの本を書いていて、自分の胸が躍るような事が書けた。もう流れは出来ている。後はやるだけ。それでは、革命の扉を開けることにしよう。

9:なぜ、モンスターペアレントは誕生したのか

9:なぜ、モンスターペアレントは誕生したのか

 

 これまでは学校でありそこにいる教師達をDisってきましたが、もちろん教育というものは学校に任せる者ではなくて、それこそ親たちが本来は責任をもって自分の子どもを立派な大人に育てる義務など貸す必要もない、責任を問う必要も本来はない、「当たり前」が存在するのだが、まあ、世間を見てみれば赤紙が家に届いたような無責任さで「勝手に子どもが出来て生まれた。だから育てる義務も責任もない。」というような親も世の中には存在する。そういう意味では、「平均化」という最低限の教育を受けられる国のシステムはすべてを否定するものではないのかもしれないが、子どもをつくるという事に対しては、資格のようなものはないので、大人たちの意識が高かろうが低かろうがやることやれば、子どもは生まれてきて、運が悪ければその子どもはろくな教育を受ける事ができない境遇に生まれてくることになる。現時点では、子どもは親を選んで生まれてこれないという事になっているので、そういう恵まれない環境に生まれてきてしまった子どもは何も悪い事をしていないのに、相当ハードル高い人生を幼少期から生きることを課せられる。

 本来は、教育すべきは先生にしろ、親にしろ「大人側」に義務的な何かを課すべきで、実際子ども自身など伸び伸び育てればそれで普通にその「平均点」以上の大人に育っていくのだが、どうしても「教育」というものは、立場の弱い者達に無理やり押し付けるそのやり口を「This is 教育」と日本全体でそういう空気を作っていて、もうそれ自体に私はうんざりしている。「教育」と「学習」とはセットのようなもので、それこそ鳥の雛が自分の力で飛べるようになるまで最低限の面倒を見てあげることが「教育」であり、ここでいう「自分の力で飛べる」というのは、「自分の意志で生涯学習して人間力その他を高めていく」という事に他ならない。しかし、見渡せば、大人になって自分の力で飛んでいる大人達の数は少なく、ただただ飯を食って命を食いつないで、あとは自分の趣味にでも興じていればそれで良いのだばかりの生き方をしている大人達だらけだったりする。

 もう、その事実が日本の教育は失敗している証拠のようなもので、何故、大学まで出た人間が社会に出ると急に勉強・学習の類をしなくなるのかが分からない。分からないというのは「本来の目的からして意味不明」という意味で、なぜ高卒よりも大卒の人間の方が優秀と見るかは、その「勉強意欲・学習意欲」のようなところが買われているのではないのか。大学を出て社会に出てろくに勉強もせずに、スマホでゲームでもしている人間と、中卒で、現在自分を磨くために日々、何か学習したり、チャレンジしている人間を比較した時に、それでも学歴を社会は優先するのだろうか?このあたりを、私は非常に今の時代の日本の社会、評価システムを嫌っている部分はそこにある。過去の栄光にすがるような評価し課せず、「今」その人間がどれだけ精進しているかを評価しないのだ。そんな二十代半ばまでどのくらいお勉強してきたかなどという事で、その後の人生における部分の評価までされてしまってはたまったものではない。

 少し、話が逸れたように思われるかもしれないが、逸れていない。例えばこの項のタイトルにもなっているモンスターペアレントだが、果たして、そのモンスターペアレントとやらは学歴の低い人間がそうなるのだろうか。といえばそうではない。それこそ有名な大学を出たエリートと称されるような者達の中からも、モンスターペアレントは輩出される。むしろ排出されると表現した方が適切かもしれないが。

 何が言いたいのかというと、モンスターペアレントは学力が低いからなどという理由で誕生する訳ではなく、別の何かが原因で、モンスターペアレントは誕生するという事だ。それは「学力」では計れないコンテクストというかパラメータが存在していることを意味していて、さらに言えば日本の教育システムではそのコンテクストをまったく無視した教育システムを導入しているという事だ。「学力が高ければ、人間的にも質が高い。」本来国ではこういうレッテルを貼りたいというか、そういう形にしたかったのだろうが、残念ながらそうはならなかった。それを形にして見せたのがモンスターペアレントという存在だ。

 では、モンスターペアレントになるような親たちに共通する要素は何か?それは紛れもなく、『自分たちさえ良ければ、それでいい。』というこの価値観だろう。この価値観ではない人間がモンスターペアレントになるということはなかなか難しいというか、実際無理な話だろう。では、学力の高い優秀な学歴のエリートさま達は、そんなにおしとやかで、それこそまわりにも配慮できるだけのゆとりであったり、心の広さを兼ね備えているかと言えばそうとも決まっていない。むしろ受験戦争という名の通り、我も我もと頂点を目指して己の欲望をむき出しにしてお勉強をしてきた人間達は、それこそモンスターペアレントになる要素を十分に兼ね備えてしまっている事を証明しているような気がしてならない。

 それこそ、親として「優秀な親」とはどんな存在なのか?何も言わなければそれで良いのかといえばそうでもない。むしろ数十年前の親は、学校や先生の言いなりになっていた節がある。それはそれでよろしくはない。しかし、その反動で今度は過剰な主張をしはじめるお騒がせなモンスターたちが誕生する。モンスターペアレントが世に蔓延るとどうなるか。大人しい親たちをほったらかしにして、モンスターペアレントたちを逆なでしないようなルールであり対応に変わっていく。「どんなモンスターが来ても、やり過ごせるように」という縮こまったルールが確立していく。そしてこの負のスパイラルによって、学校という存在は、パン工場のような存在になり、子ども達はただただその工程に流されていくほとんど意味などない名前だけは「学校教育」という名の何かを施されて、毎日工場に集団で入っていって、数時間何かされて、再び工場から集団で自宅に帰っていく。というこれをひたすら繰り返す。個人的には、学校に通う子ども達というのは、さほど刑務所に入れられている囚人たちの生活と変わらないように見えてしまう。何時に起きて、何時に学校に行って、決まったことをやらされて、何時に帰る。活動して良い領域が「学区の内と外」に決められその境界線から出ることも禁じられている。もはや脱走するなと決めているようなものだ。

 私が以前住んでいた某サッカーの街で名を売っている市内の小学校では、校庭にサッカーゴールは立っていなかった。つまり休み時間に子ども達はサッカーをすることがてぎないのだ。さらには年数が経つと、「グラウンドでボールを蹴る事を禁止」していた。極力何か問題が起こらないように、モンスターペアレントが騒がないようにという配慮なのだろう。こういった事情を見てしまうと、恐ろしくて愛するわが子を学校に通わせようなどと言う気持ちにはなれず、「なぜ、自分の子どもを刑務所のようなところに毎日のように送り込まなくてはいけないのだ?」と思ってしまうが、このような子ども達を雁字搦めのルールに縛り付けることを、世の大人たちはそれ程問題視していない。

 私自身、小学校に通っていた一番の楽しみは、二時間目が終わった後の二十分休みと昼休みの時にクラスメイト達とやるサッカーだった。もちろん放課後もみんなで集まって学校の校庭でサッカーをやった。しかし、今の時代に生まれていればそれらをする事ができないのだ。地獄でしかない。まだ、刑務所の囚人たちの方が楽しい事を休み時間にしていそうな気がしてならない。

 そして、私が長年Disっているのは、集団登下校だ。おそらくだが、あの登下校スタイルによって事故に遭う確率が減るという目的だろう。では、その集団登下校の集団に車が突っ込んで死んでいった子ども達は浮かばれるのだろうか。自分の意志で自分の時間で自由に学校に通っている際に事故に遭うのであれば、まだ、やりきれない気持ちをなんとかすることは出来るが、命じられた集団登下校によって、その集団に車なりなんなりが突っ込んできた時は、個人的には学校の校長はもちろん、文部科学省から何からやれることを全部やってやろうという気持ちになる。それこそ死刑になる事も厭わない。自由を奪った代わりに安全を提供したというのに、その約束が破られたときにはそれなりの責任は、法を犯してでも取ってもらおうと思っている。それが自己満足と言われても構わない。もちろん、そこまでの大惨事になるので、絶対に集団登下校になど私が応じる事は無いが。変なオッサンに連れていかれてしまったのであればそれはそれでその子の運命なのだと割り切れる。もちろん、ここは個々の価値観によるとは思うが、それだけ国の憲法で与えられた「自由」を奪うという事はとてつもなく、大きなものを奪っている事を学校だろうが、文部科学省は自覚をした方が良い。

 実際、子ども達から「自由」を奪ったのは、モンスターペアレントなのか、腰の引けた文部科学省やら教育委員会なのかは分からない。もはやこれはたまごが先かにわとりが先かという問題と同じで、どっちが先かはもうどうでもよい。どっちも原因である事には変わりがないのだから。とはいえ、もうモンスターペアレント達に「お前ら頭イカレてんじゃねーのか?」的な事を指摘したところで、頭がイカレてるんだからいうだけ無駄だ。ではどうすれば良いのかそれは、「価値観の似たような親たちを集めて学校に通わせる」とかそういう事をすればよいのではないか。それでも個人的には学校には通わせないかもしれないが。

 「ゴールが倒れて子どもに何かあっても構わないので休み時間に好きな事をさせて欲しい。」と思う親子はその親子たちだけで学校を創れば良いし、なんか訳の分からない事を主張するモンスターペアレント達は、ひとつの学校に固めてしまえば良い。ある種の隔離戦法みたいなものだ。それは教師達にも同じことが言えて、ロボットみたいなオリジナリティのない教師は、ひとつに集めてそういう学校で活動すれば良いし、現代に残る珍獣のような人間力を育むことに重きを置ける教師たちは似たような価値観の教師たちを集めてひとつの学校でそういう「校風」のようなものを創ればよいのではないだろうか。とにかく、誰かをいちいち犠牲にするような訳の分からないシステム、平均化をする必要がない。

 寄り道も楽しめない世界になってしまったら世も末だと思っている。昨今では登下校時の「見守り隊」的な存在を担う大人が子どもを殺してしまうなどというもう何を信じて良いのだか分からないような事件まで発生してしまっている。もはや、何をしたところで安全など保証されていないのだ。それなのに「自分の子どもだけの安全」ばかりを追い求める画ばかりに、子ども達の環境はどんどん劣悪になり、不自由極まりない学校生活を送らされている。それでは子どもは育たない。権利ばっかり主張している大人は、子どもを育てることもできないばかりか、自分自身を育てる事も出来ない。

 むしろ、そんなに訳の分からない権利を主張したいのであれば、学校になど通わせずに自分ですべて責任を持って子育てをすれば良いのだ。個人的には、もしも私が子育てをすることになったらそうする事に決めている。こんな今の時代の劣悪な学校という環境に子どもを預けたら、いらぬストレスが溜まるのは目に見えているからだ。義務教育よりも質の良い教育を我が子に与えればそれで、親としての義務は果たせるのだから。

 とにかく、大事な事は、大人自身が社会に出てこそ、勉学に励み、精進していく事。ここから目を背けなければ、モンスターペアレントなどという化け物に成り下がる事は無いだろう。

8:常識という名のローカルルール、礼儀という名の洗脳儀礼について

8:常識という名のローカルルール、礼儀という名の洗脳儀礼について

 

 非常識を教える学校などおそらく存在しないだろう。ということは、学校は「常識」を教える場なのだ。そして教育とは「常識」を叩きこむ事であるとも言える。もちろんその考えは偏見なのだが、一般的に日本の教育とは「常識」を叩きこむ場であり、「いかに尖って非常識に生きるか」などということを推奨しているところではない。右向け右とかけられた号令に対し、左を向けば確実に「何をやっているんだお前は。」と怒られる事だろう。何が言いたいのかというえば、日本の教育とは皆に「右向け右」と号令をかけて、同じ方向に進ませるというその教育というか洗脳を「教育」と呼んでいて、もしかしたらお国のトップが「一番力を注ぐべきは教育」などと発言してるその意味は、いかに日本国民を「右向け右」的な号令に対して、従順な飼い犬へと飼育していけるかどうかという「ここ」に力を注げという最低最悪なメッセージである可能性があるということだ。そのような発言の真意であるにも関わらず、国民は「教育に力を注げ」発言に対して、勝手な解釈をして感動し、支持してしまったりするから人間っという存在は手に負えないのかもしれない。それこそ、表面上の言葉ではない、その中側にある真意を読むための教育を、我々国民は学校ではされてこなかった。とにかく表面上の言葉をそのまま忠実に受け入れて、言われたとおりに命令されたことに対して、決まった正解を返すというこのサーカス団でしつけられた動物たちのような反応を繰り返し繰り返し擦りこまれてきたのだ。

 しかし、「日本の常識、世界の非常識」と表現されるように、「常識」とは、世界的に共通のルールではなく、その場におけるローカルルールでしかないという事に人々は気づかなくてはならない。やたらと、常識を盾に善悪を決める人間達がいるが、残念ながらそれは「常識」という名のローカルルールをこちらに無理やり押し付けて善悪を決めているだけに過ぎない。トランプの大富豪のルールが、人によって違うアレとまったく同じでなんとなくは一本筋の通った共通ルールはあるものの、時には赤の3が強かったり、時には11が出たらカードの強弱が逆転してみたり、それが正しいかどうかは誰も決める事ができない。決めることができるのは、その場にいる者達の主観的な判断でしかない。

 本来「常識」などという絶対的なルールは存在しない。信号が赤だったら止まるのが常識だ。というが本当にそうだろうか?後ろから津波が襲ってきた時、あなたは信号が赤だからといって止まるのだろうか。まず、その状況において止まる人間はほぼいない。だけど、「常識」に雁字搦めになっている者は、もしかしたらそのような状況でも止まるのかもしれない。「常識」とはどこで決められているのか?それはそれぞれの頭の中で作られている事を理解していく必要がある。「常識」という言葉を振りかざす人間とは付き合わない事をおススメしたい。なぜならば、建設的な会話などできる訳がないからだ。もちろん建設的な会話ができないということは、建設的な人間関係など築く事が出来ない事も意味する。基本的には人はそれぞれの「常識」を持った非常識な存在なのだという事を理解した人間達と付き合う事をおススメしたい。もう誰かの「常識」になど縛られた人生はそれこそ、SMプレーの好きなオッサン達以上に縛られることを愛好している変態でしかない。人生を幸せに生きるセオリーは、誰かの常識に縛られずに生きる事だ。しかし、気を抜けばいつの間にか自分を「常識」という鎖で縛りあげるご主人様があなたの前に立っているなんて事はよくあることだろうし、そのご主人様の数は決して一人ではなく、複数存在しちゃってもう体が引きちぎれるぐらい、いろいろな人間の作り上げた「常識」という鎖で縛られまくっている可能性すらある。本当に「常識」という鎖は恐ろしいものなのだが、学校教育によって、しっかり「常識」に縛られることを学んだ我々日本人は、結構「常識」に縛られることに快感を覚えていたりもする。まあ、そうやって国を挙げて人間を幼少期から「常識」という鎖に繋いで飼いならしていく事が、既存の日本の「教育」における主たる目的の一つとも言えるのだ。

 そして、「常識」のお友達というか親友というか非常に仲の良い存在に「礼儀」というものが存在する。これも「礼儀がある」だの「礼儀がない」だのと他人を洗脳するには格好のツールなのだ。それこそ、私自身「礼儀のない奴」が「礼儀」という言葉を使って他人を洗脳したケースを何度も目撃したことがある。「常識」よりも恐ろしい洗脳ツール、それが「礼儀」なのだ。

 日本人の多くは、「常識がない」と言われるよりも、「礼儀がない」と言われるとNAZOの催眠効果がはたらき、「礼儀がない」と指摘された人間に、なぜか従順に従うようになってしまうのだ。おそらく、幼少のころから「礼儀」という言葉を使われ、教育を受けてきたのだろう。それこそ、「礼儀」を教える存在は学校というよりも、家庭で教わるケースが多い。つまり自分の親が「礼儀」についての大切さを幼少期の頃から何度も何度も叩きつけてきたのだろう。それこそ、親は「しつけ」と称し親から見て「礼儀」のないような言動を子どもがしたときには、手荒な事をして「礼儀」を教え込んだケースも多い事だろう。

 だからこそ、そのような人間は、常に「礼儀」にだけは気を付けている。だからこそ、自分自身が「礼儀がない」などといわれるとは思ってはいないのだ。そこにだけは自信があるからだ。そのような人間が、「あなたは礼儀がない。」などと誰かに言われたらどうなるだろうか。脳内は「なぜ?礼儀だけには気を付けているのに・・・」と混乱する。そして、その人間は、必死に「自分のどこに礼儀のない部分があったのだろうか?」と必死にその自分に礼儀のない部分を検索し始める。これで、従順な奴隷の一丁上がりなのだ。不思議な事に「礼儀がない」と言われた人間は、もはや操り人形のように「礼儀がない」と指摘した人間に従う事になってしまうのだ。

 これは、大げさな話ではなく本当の話で、「礼儀」以外にも「まさか自分がそんな事を言われるとは思わなかった・・・」というような事を言われると人間の脳は混乱をきたし、「自分のどこにそのような部分があるのだろうか?」と必死に検索し始める。あくどい連中は、この効果という作用を利用して、人を洗脳する。もしも、こういう事を「先生」という存在が使い始めたらそれこそ大惨事になるのだが、実際は、「先生」と呼ばれるような人間達がこのような洗脳手法によって、人を縛り上げに来る例は枚挙に暇がない。それは「先生」と呼ばれる立場の人間と、「先生」と呼ぶ側の人間には上下関係が出来ていて、「先生」が「お前には〇〇がない」などと言えば、それこそいちころで奴隷を作ることが出来る。さらには、ダブルバインドという縛り上げ方によりもう縛られた人間はどこまでもおかしくなっていく。

 これが、国で禁じている危険な薬物的なものを使用したことによって起こるのであればそれほど恐ろしいものではない。それは手を出さなければ良いだけだからだ。しかし、今論じているこの内容は、回避する事が不可能というか、日常平気で歩いている道に地雷が埋め込まれているのと同じで、いつその洗脳の地雷を踏むかなど予想がほとんどつかないのだ。「常識」「礼儀」といった一見、「人として正しき道を進む」というような方向に進ませているように見せておいて、実際はなんてことのないただの洗脳手法である事は、世の中の至る所に潜んでいて、それこそ日本は治安のよい国などと言われているが、精神的な意味での治安など決して良い国ではなくむしろ最低ランクに属されている国だと個人的には思っている。それこそ、国自体で怪しい宗教的な儀式を国民にさせているような恐ろしい国のように見える。自由で平等という常識を掲げつつ、実は不自由で不平等な事ばかりを国民に押し付けてくるとてつもなく恐ろしい国になってしまっているのだ。その諸悪の根源は、日本の教育システムに他ならない。ここさえなんとかなれば、日本は日本らしさを取り戻せると私は考えている。日本をダメにした一番の原因は、既存の日本の教育システムにある。日本という国が自らこういったやり方を創ったのか、それとも戦後の混乱した状態でやむを得ずこうなったのかは、その当時の日本を生きていない私にとっては、はっきりとした事は分からない。しかし、現状からすれば、日本の教育システムは悪魔に魂を売って、代わりに何かを得たような非常に汚らしい存在へと成り下がっているようにしか見えないのだ。

 人を洗脳し、ダブルバインド的な作用で縛り上げてまでして、人間一人の人格をボロボロにしてでも従順な傀儡を量産していこうとするそのシステムに、「礼儀」までもが利用されている悪しき世界を見逃しては、良い国などできる訳がない。かと言って、もはや国民はそこまで日本の教育が恐ろしいものであるなどということに耳を傾ける者はそれほど多くないだろう。

 しかし、少し立ち止まって客観的にこの国の教育を見てもらいたい。そうすれば、この国の教育がいかにイカレた映画MATRIXもビックリの洗脳システムを創り上げているかに気づくことができるだろう。すべての常識をまずは疑うことから始めよう。そうすれば、この国が提供している「教育」というものが、「教育」などではなくただの「洗脳」である事が見えてくる。「礼儀」がどうこうと言っている人間時代に「礼儀」があるのかを冷静に、客観的に見てみよう。ただの口だけで、「礼儀」がどうこうと言っている偉そうな奴らほど、「礼儀」などという事を重んじてもいなければ、「礼儀」知らずである事に気付けることだろう。「常識」だの「礼儀」だのと言った他人の都合でつくられたローカルルールに、自分の貴重な人生を縛り付けられないように、ここにだけは細心の注意を払わなければ、いつどこで、そういった「洗脳」という鎖に縛り付けられるかは分からない。決して日本は我々が思う程、安全な国ではない。これは陰謀論の類ではなく、日常誰にでも起こり得る話をしているのだ。もしもこの話が大げさに思えるのであれば、すでに「常識」や「礼儀」だのと言った他人のつくった鎖にあなたは縛られてしまっているのかもしれない。それほど、このローカルルールの鎖は恐ろしい存在なのだ。「教育」という名にすり替わって、油断すればいつでも侵入してくる日本という国に蔓延している毒ガスのような見えない空気としてそこら中に漂っているようなものなのだ。それこそ、我々は「非常識」というガスマスクを携帯する必要がある。

7:子どもが育たないのは、先生が育っていないから。という皮肉

7:子どもが育たないのは、先生が育っていないから。という皮肉

 

 教育という言葉は子どもであり、未成年者、学生に対してというイメージが強いが、実際日本の教育が浅はかなのは、社会に出ると勉強する者が著しくいなくなるという部分だ。子ども達は「大人になると勉強しなくて良くなるのか、夏休みの宿題も出ないのか、いいなぁ大人って。」とばかりに大人=勉強しなくて良い存在としてみるため、皆大人になると「もう自分は学校に行く必要はない」とばかりに勉学する事を放棄する。もちろん学生時代も自ら勉学を進んで行っていたわけではなく、言われたことをただただやっていただけなのだろうから、自ら進んで勉学をするなどという者は、片手で砂浜の砂を掴んで掴める程度、ほんの一握りの人間しか大人になって勉学する者などいなくなる。

 もちろん、社会人になれば要求されるのはテストで高得点を叩き出す事ではない。それこそ学校のお勉強のような事が好きな人間は何かの資格取得のためのお勉強にでも精を出すのが、精いっぱいだろう。学校教育の仕組みについてもそれと同じことが言える。学校教育の質を上げるためには、教師たちがもっとレベルを上げるための教育を受ける必要がある。「受ける必要がある」というのも少し変で、受けるというよりも教師自身が己を磨き続ける美学を持つ必要があるのだが、そのようなストイックな精神の持ち主が、今の時代の教師の中にどれだけいるのかは分からないし、皆無に近いだろう。「教師」というバッヂに胡坐をかいて、学校という一般社会から見ればある種なアングラな世界の中で、「先生様」として君臨して生徒たち相手にふんぞり返っていれば、それで事なきを得る職業なのだから、いちいち社会に出て自分を磨くなどという事をあえてしに行く必要もない。そんな事をすれば、自分たちがどれだけ「学校」という囲まれたエリア内でしか通用しないのかという臭いものにしていた蓋を開けて向き合うことになってしまうからだ。

 しかし、本来「先生」などと呼ばれる存在は、誰よりも社会経験豊富で、幅のある人生経験を持ったものが、教壇に立って何か人生経験を伝えていくような存在であるのであればこちらも、そういう人物たちを「先生」と呼んでみたい気にもなる。現実はそうではなく、短大やら大学出たての兄ちゃん、姉ちゃん達であっても、教育実習に行って採用されれば、その日から「先生」と呼ばれ、「先生」ヅラをして生きていく事になる。これがこの日本の「先生」を作るシステムだ。そんな若造のどこをどう「先生」と評価してよいのか分からない。まさにどこかのイメージクラブで「先生」を演じる者達と大差なく見えてしまうのは私だけなのだろうか。

 そういう事実からして、日本は「先生」という存在を教育してもいないし、育てようともしない。それこそ教員免許は三十五歳までしか取得できない。などというルールがあるが笑うことも出来ない。普通だったらその反対で、教員免許は三十五歳以上ではないと取れないというルールならば理解できるが、「日本では人生経験の浅い若造が「先生」役をするのに相応しい。」というルールを作っていて、「人生経験」などという部分は「先生」になるためにはまったくもって価値を感じていないという意思表示をしているのだ。そういう事からも「日本の学校教育」というものがどういうものなのかは理解できる。「人を育てよう」などという意志も意思もそこには存在しないのだ。

 学校嫌いの私は、むしろ「先生」という資格は三十五歳からぐらいで良いと思っている。学生から社会人になり、そこから十年、二十年どういう生き方をして、何を学び、何を得てきたのか。そこが問われて、世間から選出されれば良いのだ。「先生」に資格など不要だ。必要なのは「先生」としての自覚であり、生き様なのだ。現実はその逆で、先生としての自覚のない公務員共が、資格にふんぞり返ってるだけ。だからこの国にはろくな「先生」が存在しない。こんなぞんざいな制度にしたことによる損害は大きい。

 次に、広い意味で「教育者」の事を考えてみれば、「教育者」に資格などは本来は要求されていない。世の親は子どもがいれば資格など要求されずに教育者になる訳で、教育者ということはそれはすでに誰かにとっては「先生」のような存在になっているということだ。

 しかし、家庭における教育者、つまり子の親は、やはり子ども達の習い事にでも散財して、教育者側である親である自分たちは年間に本の一冊も読書せず、スマホいじったり、ワイドショーでも見て何も学ぼうとしない散々な人生を送っている者ばかり。そんな親の背中を見て育てば、「大人になったら勉強しなくていいんだ。早く自分も大人になって勉強しない生活を手に入れたい。」というような願望を持ってしまうのはしょうがない。それなのに親自身は自らは勉学などしないその「背中」で、子ども達には「勉強しろ、勉強しろ、とにかく勉強しろ。」とお経のように唱え続ける。そんなお経よりも背中で語っている真実の強力さに気付かず、「大人になったら勉強しなくていい」というひとつの日本国中に蔓延するウィルスのような宗教のようなその空気によって、ずっと負のスパイラルは続くのだ。

 教育改革とはこの「大人になったら勉強しなくていい教」の負のスパイラルを断ち切る事だ。方法は単純明快。子どもの何倍も大人たちが勉強する事。一般の社会人の何倍も「先生」という立場の人間が勉強する事。これだけだ。それが出来ない人間は「先生」などという役を演じるべきではないし、演じ切れるわけがない。それこそ、昨今RAPでバトルをする文化が世の中で流行っているが、「先生」同士が、どれだけこの一年の間に己を磨いてきたかをぶつけ合う大会を開催して、「先生道」的なものを正々堂々とぶつけ合って、一般の大人達に感動を、そして子ども達には夢と憧れを提供し続ければ良いのだ。そうすれば、私が激Disっているようなクソの役にも立たないペーパードライバーならぬ「ペーパーティーチャー」のような資格だけで、人間力が大阪のうどんのつゆよの濃さよりもうっすい連中は「先生」などと呼ぶに値しない人物であることがはっきりすることだろう。などと提案しても、既得権益にしがみつく連中は自分の実力の無さが露呈する事などする訳がないし、己を磨くなどという大変な事もしたくないだろうから、そんなバトル文化が教育界に創られることは今後百年経とうが、千年経とうがあり得ないだろう。

 だったら新しく作ればよい。というかその方法しか日本の教育は変わらない。たしかに良くも悪くも歴史のあるものを変えるのは難しい。だったら一から作り直せばよいのだ。それこそ日本の教育の歴史の歩みの中で、何が良くて、何が悪かったのかは事実として残っている。その事実をしっかり受け止めて新しい教育を一から作っていけばそれでよいのだ。時間がかかってもやりつづけていれば、いずれ新しい教育システムが人々に受け入れられる日が必ずやってくる。もう、日本の教育は終わっているのに、表面上終わっていないように見せている悪あがきに過ぎないので、とにかく、気持ちのある人間達が日本に「新しい教育の形」を提案し続けていけば、いずれ近いうちに既存の教育システムはビルが解体するように一気に崩壊するのは目に見えている。もう「あと一押し」である事は間違いない。それは時間の問題だ。

 しかし、「ここがヘンだよ、日本の教育」と主張している人間が増えるなか、実際に火中に手を突っ込んで栗を拾いに行く勇者はいない。崩壊寸前とは言え、誰かが止めを刺しに行かねばならぬのだが、悪あがきをする状態程タチの悪い状態はない。「日本の教育」という生き物は、それこそ意味もなく人を飲み込むみつづけているので、この虎を退治にしに行く人間がなかなか現れないのも事実だ。

 それ以上にこの「新しい教育づくり」は自分自身に負担がかかる。なによりも自分が率先して己を磨き続けなければ「先生失格」となるルールだからだ。教育以外にも「先生」と呼ばれる職業を想像すれば分かる。ほぼすべてといって良い程「先生」と呼ばれる職業は、その「先生」という資格で、ふんぞり返って甘い汁をすするような職業ばかりだ。これが何を意味しているのか。「先生」という職業に就く人間達は、己を磨くなどという苦行を自分に課したくないのだ。資格を得る事だけで「もう自分たちの苦行は十分だろう。後は好き勝手にやらせろ。」という主張が、この「先生」という言葉の中に怨念として憑りつかれてしまっているような気がしてならない。

 「これ以上努力しなくても良い」という状況下で、あなたはひたすら努力し、己を磨くことを果たして選択する事ができるだろうか。言葉にするのは簡単だが、それは容易な事ではない。容易であれば、現在の「先生」たちだって精進し続けている事だろう。「先生」というバッヂをもらい、己を磨き続けることは非常に難しい事なのだ。それは、魔王が魅力的な事で魔界に引き込むあの囁きのようなもので、魅力的なその囁きに人は自分を保って、己を磨き続けるなどという苦行を選択する事はそれこそ、神の領域にも近いほど人間が磨かれていなければできないことかもしれない。だからこそ、そこまでできる人間が「先生」と呼ばれ尊敬されるべきで、訳の分からない資格取得者共を「先生」などと呼ぶ文化であり社会そのものが、ただの「イメクラ文化」でしかないことを我々はそろそろ気づく必要があるし、もう「イメクラ文化」での「先生と生徒ごっこ」を卒業し、リアルな「教育環境」を真剣に創る必要に迫られた時代が到来したことに気付くべきなのだ。

 「大人になってこそ勉強を。」「学生終えてから勉強を。」という自分磨き文化を確立していかない限り、現在日本で行っている教育などというものはただの案山子づくり的な伝統工芸に過ぎず、新しい人づくりとしてのハードとしても幼ければ、ソフトとしても幼い代物にしか過ぎない。今の時代にゲームウォッチを無理やりやらせているようなもので、スマホ世代の人間達にそんなものが流行る訳がない。それを国で「義務」として強制的に課しているのだからたまったもんじゃない。何事も「自分から率先する力」を養っていかない限り、人も崩壊するし、国も崩壊する。後悔は先には立たないので、する前に手を打つ必要がある。もう転んでいるようなものなので、転ばぬ先の杖は無用であり、現時点ではどうやって立ち上がるかというここが問題になっている事を理解し、出来ることをやっていくしかない。これまでの日本教育については、反面教師としてああならないように、新しい教育を創っていくしかない。

6:「先生」という設定に溺れ、「生徒」という設定に溺れている日本教育の罠

6:「先生」という設定に溺れ、「生徒」という設定に溺れている日本教育の罠

 

 「自分とは何者だ?」と問われたとき、自分が何者であるかを説明するには自分と自分以外の何者かとの関係によって「自分は〇〇だ。」と説明することが出来る。全ては何者かとの関係であり、設定によってそれらは決まる。「教育」というこれも同じで教える側の人間が一人でポツンと立っていたところで「教育」は成立しないし、教わる側の人間が一人でポツンと立っていたところで「教育」は成立しない。教える側と教わる側がセットになってはじめて「教育」という場が作られる。学校に先生しかいなくて、生徒が誰一人いなければ、そこは教育の現場とは言えないだろう。

 教室といういわばひとつのコントの舞台のような箱が設定されていて、「運転手は君だ、車掌は僕だ。」の如く、先生役が誰かで、生徒役が誰かというような場において教育が始まる。もちろん教育は教室の中でも外側でも行われてはいるが、「先生」と「正当」の両者が存在しない場においては「教育」は成立しない。

 そして、これは日本だけかどうかは分からないが、もはや「生徒」は全力で生徒を演じる。それはライオンに捕食されるシマウマを全力で演じるシマウマのようなもので、ただただ、「先生」に言われたことを無感情にこなしていくだけのような自称教育者たちの獲物のようにしか見えない。生徒は先生に反論する事など許されず、という前にもはや反論するという選択肢がそもそも今の生徒たちにはない。感覚の鋭い者達は反論ではなく暴れだしたりするのだが、個人的にはその判断の方が正しき判断のような気がしてしまうが、そういう者たちを世間では「〇〇病」だとか「〇〇症」だとか「〇〇症候群」だとか何かしらの病的なレッテルを張って「不適合者」として扱ってみたりもする。

 もはや学校教育というものは、「こうきたらこう」「ああきたらああ」というようなお約束事をひたすら繰り返している場に過ぎないのだ。先生が生徒になる事も無ければ、生徒が先生になることもない。これは、子どもに限ったことではない。私自身大人相手に何度も講座を開いてきたが、もうそれは生徒側の生徒を演じる力のセンスの高さはそれはそれは見事であり、完璧超人達もビックリなほどに完璧な指示待ちちゃんを演じてくれるのだ。その「場」をいかに壊すかが、新しい教育の風を入れ込むチャレンジになっていたが、その分厚い壁に風穴を空けるのは至難の業であり、なかなか「先生」と「生徒」というイメージプレーの常識をぶち破る事は非常に難しい。それは幼少のころから大人になるまで徹底してそのごっこ遊びというかごっこプレーをサラリーマンのごとく週休二日でひたすら叩き込まれ、挙句の果てには学習塾でさらにそのイメージプレーの力に磨きをかける。それこそ我々日本人は、「先生」の言う事に従う演技力に関しては世界有数のプレーヤーだと言ってしまってよいだろう。そのジャンルの世界大会があれば、日本人は世界トップクラスだろう、ベスト4に全員日本人が入る可能性すらあるような気がしてならない。そのくらい日本人の「指示待ち力」は脅威だ。

 私個人としてはこの「先生」と「生徒」の設定をしてしまうことが、質の高い教育環境を作っている大きな要因になっている気がする。なので、解決策としては

 

1:先生のことを「先生」と呼ばずに、「〇〇さん」と呼ぶ

2:いっそのこと、全員「〇〇先生」と呼ぶようにする。

3:先生の当番制

 

このような事で、「場」をおかしくさせてしまえば、少なくとも今の時代の日本の教育環境のようなイメージクラブとは違うコンセプトのお店が出来上がるはずだ。学校の教室の授業などというものは、性的な要素のないイメージクラブそのものであって、そのコンセプトがひたすら「先生の言う事を生徒が聴いてこなす。」というこのイメージプレーを繰り返すというもうこれそのものが劣悪な教育環境を作っている要因なので、この「教室で先生と生徒ごっこ」というイメージクラブのコンセプトをどう変えて、おもしろくしているかが本来は教育改革を行うための問題になっているのだが、国であり教師連中は、この「教室で先生と生徒ごっこ」であり、「指示待ちプレーの質の向上」というようなもはや、何がやりたいのか良く分からない方向に向かってしまっているので、それこそ頭のイカれた連中が日本の教育環境を作っているに過ぎないのだ。

 もちろん、その頭のイカれた連中を改心させるか、全員追っ払うかなどする事が現実的に可能であるのであれば、それはそれで真剣に考えても良いのだが基本的には現状それは無理な話なので、そのイカれたイメージクラブへの来店を自分から辞め、真っ当なお店へと足を運ぶという方法が現実的で建設的な方法と言えるだろう。ただし、このイメージクラブには少なくとも六歳から十五歳の九年間は、国から子どもの親たちに毎週約五日間通わせるように命じられている。そして、命じられていないのに放課後はまた民間のイメージクラブに通わせる。そこではさらに優秀な指示待ち人間、決まった問題に対し決まった答えを的確に返せるテクニックを伝授されていく。

 こう表現していけば、いかに日本の教育がナンセンスでバカバカしく、非常にコスパの悪いものであるかがお分かりいただけたであろうか。そして、何故学校教師はときたま本当に性的な意味合いにおける「先生と生徒ごっこ エロバージョン」に走ってしまうのかもなんとなくお分かりいただけたであろうか。それは、もはや学校という「場」がそういったイメージクラブと似たような構造になっていて、先生は先生なりに役を演じるその過程で、現実とイメージプレーの境界線がなくなってしまうと、変態エロ教師が一丁アガってしまって、学校教師の破廉恥事件へと進展してしまうという流れになっている。もちろんその事件自体を見れば、許されざることではあるが、もし許せないのであれば学校教育というそのイメージクラブ的構造を完全に破壊しない限りはそういった由々しき問題を根こそぎ絶つことは不可能だろう。

 また、この「先生と生徒ごっこ」では、ダブルバインドという状況を非常に作りやすく、これは言ってみれば人を統合失調症のような状態にしてしまう危険な環境なので、もはや人が人でなくなっていくような洗脳を、あれだけ長い時間毎日のように徹底して義務付けているのだから、本当に日本の学校教育というものは悪魔よりも恐ろしい存在であるようにしか私には見えない。ちなみに、教師たちの言う事を聴かないというかいわゆる「生意気なガキ」的な存在の子どもは、教師共に大人と子どもという埋められない力を駆使されて、ダブルバインドだろうがその他催眠的な事であろうがいいようにやってくるので注意が必要だ。その注意が必要というのは親が学校であり、教師を正しい批判の目で評価する事ができるかどうかであって、いちいちくだらない事にもケチをつけるケチなモンスターペアレントになれという事を提唱している訳ではない。個人的には、学校教育になど愛するわが子を毎週五日も漬け込むこと自体が恐ろしいので、出来る限り親自身が自分の子どもを教育する事をおススメする。

 「義務教育」の意味は「学校に通わせる」ことの義務ではない。「最低限の教育は何人も受けられるように」ということの義務であって、学校に通うかどうかではなく、その子どもが教育を受けられるのであれば、学校になど通わせる必要はないのだ。少なくとも貴重な幼少期であり少年期の時間の使い方をそんなイメージクラブに通わせることを第一義にしてしまうこと自体がどうかしているのだ。学校教育など「暇だったら行ってみるか」程度で良いのだ。

 それこそ、昨今「好きな事だけやれば幸せになれる」「やりたいことだけやれば幸せになれる」というような事を提唱している者達が増えてきたが、さんざん指示待ちイメージプレーを徹底的に教育されてきた指示待ちサラブレッド達が大人になって急に「好きな事やっていいんだよ。」「やりたい事やっていいんだよ。」などと言われたら困惑するだけに決まっている。それは太平洋戦争の時に沖縄で大人達と逃げていた女学生たちがいきなり「解散。」と言われて野放しにされたあの状態と大差がない。

 だからこそ、子どもの頃から自分の好きな事をやり、やりたい事をやり、自分の得意分野にのめり込み、ひたすら自分の才能と可能性を磨かせるような教育を親は子どもに施せばよいのだし、その教育に対しての支援を国が行えばそれで良いのだ。もちろん世の親達も千差万別、十人十色であるからそのイメージクラブにどうしても通わせて、当店のナンバーワンに育てたいという鬼畜のような親もいるだろうからもうそれはそれで、かわいそうだとは思うが自分の運命を受け入れるしかないのだが、親自身も「義務教育=学校に通わせる」というこの考えを改めるべき時が来ている事を知る必要がある。自分の人生を自分でデザインするためには、教育自体を自分でデザインする必要があるし、今の時代はそこを問われているのだ。子どもにはオリジナリティ溢れるユニークな名前を命名しているのだから、その調子で教育自体もオリジナリティ溢れるユニークな教育をわが子に施せばよいのではないだろうか。などと言えば、無秩序で無法的な教育が世に蔓延るだけなのだろうか。子どもを産んだ責任として、親はしっかり我が子に愛情をもってその子どもの生命力が最大限に発揮される教育を施してもらいたいと願う。あくまでも「義務教育」然り、その他義務ではない学校教育という仕組みであり、環境は、家庭教育の補助に過ぎない。と考えた方が良くて、この国の教育を誰がこのようにした戦犯だのと探すのもそれほど有意義ではないので、各自で教育のあり方、どういう環境を作り、子ども達であれ、若者たちに提供していくのかを真剣に考え議論すべき時がやってきているのだ。誰かお偉いさんのデカい声に尻尾を振って賛同するというのも、過去のイメージクラブの「先生と生徒ごっこ」の名残が強烈に残ってしまっている事に気づく必要がある。日本の教育を変えていくには、全員で取り掛かる必要が本来はある。もちろんそんなことは現実的でないことは分かっているので、やはり気持ちのある人間が立ち上がって地道に穴が開くまで掘り続けていくしかない。

 教育を変えるにしてもチャレンジする者達が「先生と生徒ごっこ」の延長でそんな議論なりチャレンジをするのは本末転倒そのものになってしまう。七転八倒したとしても七転び八起きの精神で、粘り強く世界に誇れる教育環境づくりにチャレンジしていく必要があり、今まさにそこが問われているのだ。

5:減点大好き日本人、基本的に人の上に人をつくるの大好き日本人

5:減点大好き日本人、基本的に人の上に人をつくるの大好き日本人

 

 この章では既存の日本の教育を徹底的にDisり、その後の章で「では、日本の教育はどう進んだら良くなるのか?」という問いに対しての考察と論述をしていく構成になっているのだが、正直なところこの項でこの章の半分になるのだが、すでに滅入っている。本当に日本の教育ってタバコ以上に百害あって一利もないなって気がしてならないからだ。まだまだ日本の教育のDisりどころなど、それこそ即興で語らせてもいくらでも温泉の如くひたすら湧いて出てきてしまう。

 さて、この項では日本の教育の悪しき根源とも言える「減点システム」を取り上げることにする。もはや日本で生まれて育った者にここに関しての説明は不要だろう。「百点満点」によるテスト、いかにできないかという採点を行うあのシステムの事だ。

 「減点システム」が存在するという事は、もちろんその反対の「加点システム」が存在し、「百点満点」などという小さな箱に閉じ込めるのではなく「あなたは五万点」「あなたは二十一万点」などというまさに宇宙規模の採点システムを採用する事も可能なのだ。もちろん加点システムは収拾がかないかもしれない。だけど、人を評価するのに百点満点という漠然な評価基準で出来不出来を決められる方がたまったものではない。社会を見れば、出来の良い人間達は例外なく「加点システム」によって生きている。そして息苦しく生きている人間達は例外なく「減点システム」という密室において酸素の少ない生き方をしているため、窒息寸前になっているのだ。たしかに、幼き頃からこの「減点システム」によって洗脳され続けているとは言え、そのような狭い箱の中で何十年も息苦しい生活をしている事に関しては、傍から見ている者にとっては滑稽にしか見えない。なぜならば、今すぐに「加点システム」に加担すればよいだけで、未だに何かの赤点に怯えながら生きる事がバカバカしいことぐらいはなんとしてでも分かってもらいたい部分ではあるのだが。

 これは、外の著書でも説明したことがあるが、「コップに半分入った水」に対して、人はそれをどう表現するかという「コップに半分入った水問題」という問題がある。誰がそんな問題を作ったかというとそれは私に他ならないのだが、このコップの中に半分入った水を「半分『も』」と表現するか、「半分『しか』」と表現するかでは、その人たちの見ている世界が違うという事を理解する必要がある。「同じ世界が目の前にあったとしても見ている世界、生きている世界は別ものだ。」というこの現実を知る必要がある。

 「減点システム」という色眼鏡をかけた者に見えている世界と、「加点システム」という色眼鏡をかけた者に見えている世界では、同じ場所に立っていたとしても見えている世界が違うのだ。この原理に気付かぬ限り、「減点システム」なる色眼鏡をかけて生きることがいかに毒ガスを吸い続けている浅はかな行為であるかを理解する事が出来ない。

 それは、もはや学校教育において常に減点される事を繰り返されている我々は、もはやもっと可能性も才能も溢れんばかりに秘めていた、自分の原点などとっくの昔に忘れてしまい、常に誰かからの「減点システム」の目に怯えながら、むしろ怯えるというよりも感覚が麻痺してそれこそ、四六時中何者かに後ろから頭を小突かれ続けているような痛々しい生活を送っていると言っても過言ではない。それは幼少のころから受け続けている国からのドメスティックバイオレンスであり、長年浴び続けているからと言ってそれを受け続けることでストレスを受けている自覚症状がなくても、それこそ見えない毒牙にはずっとかかりつづけていて、いつの間にか犬猿の仲になってしまった不仲の夫婦関係においても起こりがちの、妻が夫に塩分高めの食事をさせ続けるあの嫌がらせ同様の「目に見えない殺人行為」を我々はこの「減点システム」によって日々、゛イメ威力を弱体化させられてしまっているのだ。減塩は体に良いかもしれないが、減点は体を蝕む。今すぐ、「減点システム」からの支配から逃れるべきだし、愛するわが子であり、未来のある子ども達からこの悪しき「減点システム」を遠ざける必要がある。

 よく国のトップは、「力を入れるべきは教育」と本心で発言しているのであれば、今すぐ、日本の教育システムを「減点システム」から「加点システム」へと革新すべきなのだが、彼らを見ていてもどう考えても変えたがっているのは教育とは違うジャンルの事ばかりで、「一番大事なのは教育」と言っておきながら、教育になどまったく力を注いでいないことが分かる。それは主観ではなく客観的にそういう事実しかないので、そういうことなのだろう。国や政治家達に頼っていては、日本の教育が確信されることもない。そっちの方面で変えていくのであれば、政治家自体を刷新する必要があるが、利権のという蜜をすすっている者達をいない状態にするのは難しい。これは政治も教育も同じ問題が蔓延っている。社会における悪しき問題の根源は、この「既得権益」的な問題にすがる亡者たちが作り上げていると見て間違いない。しかし、現時点での亡者を追っ払ったところで、また新しい誰かがそのポジションにつくだけなので、やはり気持ちのある人間達が、草の根から少しずつ「加点システム」の教育環境を創り上げていくしか可能性はないだろう。それこそ、ここは根強く雨にも負けず風にも負けず、圧力にも負けずに進み続ける必要がある。

 その社会の亡者達が寄り付くようなシステムというのは、もはや人間の本能的な部分に作用しているため、取り除こうにもなかなか取り除けない。この世界が弱肉強食のピラミッドのようなヒエラルキーを作っている以上、やはり人の上下にも人が作られてしまう構造が生み出されてしまうことは致し方のない事だろう。それでも、ヒエラルキーをつくるのであれば、それは「減点システム」ではなく、「加点システム」によってつくられるべきなのだ。何故、個々の才能や可能性を根こそぎ削いだ上で、ある特定のタイプの人間達しか優位に立てないくだらないルールでそのピラミッドを作るのか。それこそ古今東西、個々の才能であり可能性が発揮されるルール化において、その中でピラミッドが創られてしまうのであれば、それこそ上に立つ者達を尊敬する事もできるだろう。しかし、偏った評価基準で、一方的に押し付けられた社会的には意義を見出せないそのルール下で無理やり作られた「エリート」達を少なくとも私は尊敬することも出来なければ、するつもりもない。「国から極力減点されなかった人たち」を私は特段凄いとも何とも思っていない。

 尊敬すべきは、その小さな箱の外を飛び出して、これだけ窮屈なルールをぶっ壊してきた人間達の方だ。もちろん彼ら彼女らはその圧力に屈せず飛び出したのか、先天的にブッ飛んでいたから箱の中に納まることが出来なかったのか、また別の何かが原因なのかは分からないが、箱の外へ飛び出して、世の中を変えてきた。それは尊敬にしか値しない。

 しかし、私がここで主張したいのはその「ブッ飛んだ人間」は特別だったとしても、もしも自分がそのブッ飛んだ人間に生まれてこなかったとしても、人は与えられた教育によって誰でもブッ飛べるんだという事を一人でも多く伝えたいのだ。そして、教育によってはその者たちよりももっとブッ飛べて世の中を面白くできた者もいただろうに、そのブッ飛べる自分に出会うことが出来ず、くだらない減点を繰り返されて、しょーもない人生を送っている者達であり、送っていった者達がいたという事を忘れてはならないのだ。もしも、日本の教育が加点教育であったのであれば、日本という国は違う方向に進んでいた。誰が英雄であるかも大きく変わっていただろう。

 もしも、あなたの現在の人生がそれほど面白くもなく、特段凄い人間として活躍できていなかったとしても、それはあなた自身が今現在活躍している人間達と比べて、元から才能がなかったとか、可能性がなかったという証拠にはならない。もしそうだとするのであれば、この日本の教育ルールという物差しでは優秀な人間だと計測することが出来なかっただけで、もしも日本の教育が加点教育であったのであれば、あなた自身はすでに有能であることを自他ともに認められていた事だろう。

 私が~はじめに~において何故既存の日本の教師共に中指を突き立てたのかの理由はここにある。あいつらは日本では教育のプロとして見られているだろうが、それは「減点教育のプロ」であって、ただそれだけの事。むしろ減点行為は、RAPの世界で言えばDisりとも言えるが、実は本当のDisとは相手を減点する事ではない。Disには愛がなければDisではない、既存の日本教育における教師共がやっている事は、愛のないDisでしかない。

 もしも、私が総理大臣の立場で本心から「一番力を注ぐべきは教育」と豪語するような人物であれば、加点教育のできるプロフェッショナルな教師を量産できるように人力を注ぐ。もしも、日本の教育システムが加点教育であり、加点のセンスに長けた者達が「教師」と名乗り、子ども達の才能や可能性を開花させることに一役買えるような存在であれば、私が立てた指は決して中指ではなく、親指を立てたはずだ。しかし、現実は両手の中指を突き立てても飽き足らず、舌でも出さなければ気が済まない位減点中毒者達を撲滅したい気持ちに満たされている。

 何故なのか分からないが、日本のこの減点教育については私以外にもとっくに気づいているのに加点教育を導入する教育者たちはほぼ皆無に近い。優秀な人間達は別のジャンルに属し、この腐敗した日本の教育環境を変えようというチャレンジャーはほぼ見当たらない。だから、学校嫌いの私が遂に、加点教育の学校を創る事にした。勝てん勝負だったとしても加点教育の環境を創るチャレンジをしなければ、それこそ合点がいかず、ここまで日本をつないでくれたご先祖さま達に申し訳が立たないからだ。どこかで、日本の教育は加点教育から、減点教育にすり替わったのだ。少なくとも多くの教育者は加点教育をする者達が多かったはずだ。何故、減点教育になってしまったのかは義務教育という「平均化」を行った結果からだろう。「平均化」をすれば、古きよきものは、なきものとされる。そのいじめを黙って見ていられるほど、私はみじめな人間ではない。なので加点教育の学校を私は創る事にしたのだ。