harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

3:オタクイズビューティフルは、ジャパンアズナンバーワンの要因となりえるのか

3:オタクイズビューティフルは、ジャパンアズナンバーワンの要因となりえるのか

 

 「日本人性とはオタク性である」という仮説を1章の中でしたのだが、本当にそうなのだろうかとこの項では敢えて疑ってみたい。さて、「オタク」とはどういう意味なのかとりあえず辞書を引いてみるとこのような意味合いになっている。

[オタク]

おたく(オタク、ヲタク)とは、1970年代に日本で誕生した呼称であり大衆文化の愛好者を指す。元来は漫画・アニメ・アイドル・SF・特撮・パソコン・コンピュータゲーム・クイズ・模型・鉄道・格闘技などの、なかでも嗜好性の強い趣味や玩具、の愛好者の一部が二人称として「お宅」と呼び合っていたことを揶揄する意味から派生した術語で、バブル景気期に一般的に知られはじめた。その頃は「お宅族」、「オタッキー」、「オタッカー」と呼ばれた。明確な定義があるわけではなく、現在はより広い領域のファンを包括しており、その実態は一様ではない。

 

 面白い事に、大体の言葉はどの辞書で調べてもほとんど同じ意味で説明されているのにこの「オタク」に関しては御託を並べるかのように、結構個性のある説明がそれぞれの辞書に入っていたりする。中には、


社会的にその価値が理解されがたいサブカルチャーや趣味に嗜好をもち,その細部にこだわり,自分の世界に閉じこもって没頭する傾向が強い。

 

 となっていたり、

 

特定の分野・物事にしか関心がなく、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人。

 

 と書かれいたりもする。最後の「社会的な常識には欠ける人」という定義は面白い。わからない事はないのだが、特定の分野・物事にしか関心がなく、そのことには以上に詳しく、社会的な常識も持っている人というのは「オタク」と定義されないという事になる。それともオタクというのは「特定の分野・物事」にしか興味がないので、必然的に「社会的な常識に欠ける」ということになるのだろうか。そもそもここでいうところの「社会的な常識」とは何を指しているのかもよく分からない。

 とりあえず、「オタク」という意味合いにはリスペクトの要素は含まれつつも、Disりの要素も含まれているのは理解できた。「何かに非常に突出している代わりに、何かが非常に突出して欠落している」というような具合だ。かと言って、物凄い運動神経が良くて例えばサッカーでは世界トップクラスの実力を誇るのに、社会常識が欠落して稲人間の事を「オタク」とは呼ばないような気がする。そこにはこれまた一般的に「あまりそのジャンルの事が詳しかろうが、実力が高かろうがなんだかちょっと気持ち悪い」という要素を含むものでないと、「オタク」とは呼ばれない印象をもつ。例えば「アイドルオタク」「アニメオタク」「ゲームオタク」というように、何か社会的にはそれを追いかけて極めたところでそれほど評価されないようなものを追いかける者たちを「オタク」と呼ぶような気がするが、ここについても時代が進めば価値観が変わるので、今の時代の「オタク」と、当時の「おたく」とでは大分意味合いが違うという事を主張している者もいるぐらいだ。

 私自身、日本人の本来備え持っている日本人性の中に「オタク性がある」という仮説を立てたが、この「オタク」という言葉と対話している内に、似ている概念という言葉に出会う。それは『マニア』という言葉なのだが、「オタク」と「マニア」とは何が違うのだろうか。「マニア」についても辞書を引いてみると、

 

[マニア]

特定の分野・物事を好み,関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。 「鉄道-」 「切手-」 → おたく(御宅)

 

 結局ほぼ同じ意味合いのようだが、私が先ほど疑問に思った「一般社会常識」を持っているソレを「マニア」と定義するというような意見もあるようだが、特にそう定義されている節もない。印象としては「オタク」は「マニア」以上にある特定のソレにハマリ込み過ぎて、ソレの話以外はほぼできず、コミュニケーションもろくに取れないような印象を与えているようだ。そして、マニアとはmaniaであり、どうやらこの言葉はギリシア語で「狂気」という意味らしいが、「オタク」はギリシア語でもなければラテン語でもなく、日本語から来ている言葉だ。この両者を比べれば行儀のよいイメージを持っているのは「マニア」であり、凶器を持ち出そうなイメージを与えているのは「オタク」なのかもしれない。正気でもない方も「オタク」なのかもしれない。

 「オタク性」というものは本当にこの犯罪的な変態性を伴うものなのだろうか。もしもそうであるならば、私が1章で述べた仮説の中の「日本人の本来性は「オタク」にある」という主張は取り下げたくなってくる。私は決して「日本人の本来性は変態的趣向を持つコミュニケーション能力のない引きこもりである」などという事を言いたかったわけではない。どちらかというと、日本人のイメージは国旗のイメージと同じで、丸なのだ。つまりそれは「何とでも融合できる」というイメージなのだ。良くも悪くも角がないイメージなのだが、もしも「オタク」が、ここまで性犯罪的なイメージを匂わすのであれば、そしてコミュニケーション能力が著しく低いという条件がついてしまうのであれば、ちょっと「オタク性」が「大和魂に含まれる要素」と考えるのは難しくなってきたのだが、それでも「オタク」という言葉は純日本産であり、なんらかの日本人性がそこに表れている気がしてならない。そうでなければ、「オタク」の事を外国人達が「OTAKU」とは言わず、自国の言葉に当てはめるはずだ。

 だがしかし、調べてみると英語でも「オタク」「マニア」と似ているような関係の言葉を発見した。その言葉が、「ギーク」と「ナード」という言葉だ。「オタク=ナード」「マニア=ギーク」というような関係にあるようにも見える。それどもなんとなく「オタク」というこの言葉には日本人しか持てないような日本人の特異性が含まれているような気がしてならないのだ。私が、抽出したいのはその「オタク」の中に含まれている「日本人ならではの要素」なのだ。

 ちなみに、私は「大和魂」を研究しているくせに、非常にヒップホップ文化を愛している人間でもある。若者と言われていた時代は、ヒップホップのダンスにハマリ、中年と呼ばれる今現在、ラップにハマリまくっている。しかし、ダンスにしてもラップにしても特に優秀なダンサー、ラッパーは、私は良い意味合いにおいての「オタク性」が含まれているような気がしてならないのだ。そして、彼ら彼女らには、「そのことに非常に没頭している」という事は見られるが、何か嫌悪感を与えるような要素は見当たらず、それこそDanceにおいては本場アメリカ以上に強烈なパフォーマンスを披露して世界を魅了させている事実もあるし、ラッパーにしてもいかつい感じのいかにもアメリカンスタイル的な不良ではなく、何かちょっと「オタク」っぽさを感じるラッパーが非常に素晴らしいパフォーマンスを発揮しているのをよく見かけるのだ。

 「オタク」であれ「マニア」であれ「〇〇狂」というようなイメージも受けるが、どちらかというとそれは狂っているというよりも、『深く潜り込んでいる』印象をこちらは感じるのだ。そして私が「オタク性の中に日本人らしさが内在しているような気がしてならない」と思わせる部分は、その『深く潜り込んでいる』というその部分なのだ。なんというか、職人がモノ作りにおいて、外の外的世界を感じずに、そのものにズバリ没頭して集中している状態。「自分の世界に入り込む」という表現も出来るが、それが独りよがりではなく、言ってみれば「神の世界との同化している状態」というか、融合している状態というか。

 神の世界というのはまさに「オリジナル」の事であり、もしも『西洋』で言うところの「神は人を自分に似せてお創りなさった」的な発想が正しかろうと、それは「神と全く同じ」ではなく、「似せて創った」だけに過ぎない。言ってみれば、どこかの国で売ってそうなブランド品のバッタモンみたいな関係が、「神と人間」にあるようなものなのだが、日本人的発想は「人もそこらへんの石も木も神さまが作ったもの」というような発想なので、「神とのシンクロ」みたいな言ってみれば、スポーツの世界で言われるところの『ゾーン』の状態に入っているような状態。それは「神さま=創造主」と自分がぴったり重なり合っているような状態と表現するのがなんとなく私の立てた仮説の中で使った「オタク性」のことだ。そこに性的に偏った変態的要素は加味されない。

 日本には素晴らしい、日本らしくて世界からそれこそ「ビューティフル」と称賛されるモノたちが数多く存在する。それらはまさにこの「神さまとぴったり重なった状態」で創られるモノたちのような気がしてならないのだ。それは、ドラゴンボールであれ、スーパーマリオであれ、同じ原理が働いているように見える。その過去も現在も働く、日本人の独自性が光る「ソレ」を「オタク性」と呼ばないのであれば何と呼ぶのか教えてもらいたい。私が「大和魂の重要な要素」と言いたいのはそこにある「神さまとぴったり重なるセンス」のようなものなのだ。

 たしかにそれは、やはり「神さまとぴったり重なる」ような状態なので、人から見れば人間離れて強いるのである種の「気持ち悪さ」を感じさせる可能性もあるのかもしれない。しかしそれは嫌悪的な「気持ち悪さ」ではなく、カタルシスを味わう程の機会を喚起させるだけの「気持ち悪さ」(非日常という意味合いでの)なのだと考える。その領域に入り込むには、相当の「入り込み」が要求される。そして、その「入り込み」の技術が、技術ではなく日本人はある種の先天的なセンスとして持ち合わせていると私は個人的に主張したいのだ。

 皮肉な事に、その「入り込み」のセンスが高すぎて招いた悲劇が、前項でも取り上げた「日本人はサラリーマンという鉄仮面が皮膚化して顔になってしまった現象」の事だ。これも言ってみれば、戦争に負けた日本が、いち早く復興しようとして立てた戦略「サラリーマン大作戦」に多くの人間達が「入り込み」過ぎてしまったため、驚異の回復力で復興を成し遂げたそこまでは良かったものの、応急処置モードで戦略上用いた「サラリーマン大作戦」のサラリーマンを極めすぎてしまい、復興をとっくに終えた今も、日本人は「サラリーマンオタク」としてその力を無駄に発揮しすぎてしまっているのではないだろうか。そこまでは良かったのだが、それこそ何故、社内では、上司と部下、そして取引先などと健康的なコミュニケーションをとることができないのだろうか。それこそ「オタク」の定義に書かれているような「コミュニケーション能力が乏しい」というような欠点を露呈させてしまっているのではないだろうか。個人的には、「指示待ち人間」であれ、「誰かに飼われて生きる生き方」そのものが、それこそ悪い意味合いにおけるオタク的要素を発揮してしまっているように見えてしまうのだ。

 なので戦後の日本人は、アメリカの飼い犬のような存在になってしまい、これまた皮肉な事に「飼い犬オタク」みたいなものまで身に着けてしまって、挙句の果てには「終身雇用」だの「年功序列」だのともうそれはそれは「依存オタク」みたいになってしまって、そこからひきこもりだの、ニートだのとさらに発展していって、という具合に進んだため、「オタク性」というものが、あまりよくない印象を与えているように思えるが、日本人が特別持っている良い意味合いにおける「オタク性」というのは、「神さま(創造主)とぴったり重なることができるセンス」の事を私は指している。やはり、それは深海に潜るような深みに「入り込む」事が必須であるように見えるので、見方によれば引きこもっているように見えるし、その「神さまとぴったり重なった状態」というのは、意識は俗的な世界ではなく、どこか別の世界にワープしているような状態になる。「没頭」というのはまさにそういう状態の事なのだろう。

 つまり、私が言うところの「オタク性」というのは、「没頭力」のことであり、その先天的かつこうてう的にも優秀な没頭力が存分に発揮されてつくられたものであり、モノ達はやはり、世界から「ビューティフル」であり、それらによって「ジャパンアズナンバーワン」と言わしめるだけのインパクトを魅せる事が出来ているのだから、「オタクイズビューティフル」と表現しても遜色ない気がするのだが、たしかに、その「入り込み」というセンスが、度が過ぎてしまったり、どこかしらに偏ってしまうと、やはりちょっとそれはあまり良くない意味合における「気持ち悪い」になってしまうが、またそれはそれで世界から見たら、へんてこだったり、奇妙でおもしろかったりするので、「オタクイズビューティフル」と言っても良いのかもしれない。

2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める

2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める

 

 最近、ブログのタイトルの流行りなのか「サラリーマン辞めた」的なブログを見かけることがある。これは、ある意味私が提唱している流れに人々が乗っているように見える。別にその人たちは私が提唱したからそういう生き方をしているのではなく、「こんなに辛いならもうそのレールから外れた方が楽じゃね?」ってことに気付いたのだろう。そして、冷静に世界を見てみれば、「サラリーマンじゃないと飯を食っていくことが出来ない。」などという世の中になっていないことに気づく。そう思っていたのは自分の思い込みで、幼少のころからかけつづけられた催眠術にかかり続けていただけに過ぎないのだ。

 その催眠術が解けたとしても、「いやいや、自分はサラリーマンというこの生き方が性に合っているのだ。」と思うのであれば、思う存分、毎朝起きて、いつもと同じ時間の電車に乗り、定時に会社に行って仕事をこなして、定時で帰宅する。的な生活を繰り返せばよいのだが、問題はその生き方が性に合ってもいないのに、「大人になったらそうやって生きていくしか方法はないのだ。」と思い込んでいる者たち。そういう人達にとって日本のサラリーマン文化はいろいろときつすぎる。それによって若いのに自ら命を絶つ者もいるが、やはり、なんとかその「日本社会ではサラリーマンとして生きる事しか選択肢がない」みたいな催眠キャンペーンから抜け出せるようにそこに関しては祈るしかないし、こうやって本でも書いて発信していくしかない。その内容に常識人共からバッシングを受けたところで別に気にはならない。

 そもそも、朝、駅のホームに立ってそこにいる人間達を見てみればいちいち言葉を尽くして説得するよりも火を見るよりも明らかに「サラリーマンたちがどれだけエネルギー低い」のかを誰でも確認することが出来る。元気はつらつオロナミンC的な元気そうな大人を見かけることは出来ない。それこそ、朝からキヨスクで、気安くファイト一発でもやってなんとかしてるモノも少なくないかもしれない。そして、そのまま彼ら彼女らと電車に乗ってみれば良い。そこにどれだけの「ストレス」が生じているか。朝の駅のホームから電車でギューギューのあの一連の流れは、まさにこの国におけるストレス発電所のようにしか思えない。

 さらに人ごみの中を会社に向かって歩き、最近で言えば歩きスマホでまわりなどまったく見ずに歩いている、それこそゲームの障害物のような者達の突進をかわしつつ、会社へ。会社に行けば、話の分からない上司、言っても分からないような部下達とのNAZOのとれてるんだかとれてないんだか分からないコミュニケーションをとりつつ仕事をこなす。こなしているのであれば良いが、変なおじさんが「なんだチミは?」と言われる以上の勢いで「何やってんだ」と説教なんか受けてみたりして、上下関係においては言い返したくても言い返すことも出来ず、自分の本音は飲み込んで、納得いかない効率の悪そうな仕事の仕方を強制されたりしながら、さらにストレスを溜める。

 そんなこんなで朝から晩までストレスを溜めるもんだから、ビールでも飲むか日本酒でも温めるかでもして酒を飲んで、その日のストレスを洗い流す錯覚でもしてみるが、酒などというものがストレスを洗い流すものではない事は、それこそ現代人であれば常識の一つなのだが、時代遅れの者は未だに「朝から夜までストレス溜め込んで、夜になったら酒を飲んでストレスを洗い流す」的な事をルーティンとして行っている。

 正直なところ、このルーティンは「負のルーティン」でしかない。なぜなら、酒を飲めば人体にどういう影響があるかなどというものは、それこそ科学的に実証されている訳であって、酒に「ストレスを洗い流す」などという効果はなく、「その人のストレスから逃避する」ぐらいの効果でしかないから、結局その洗い流されていないストレスは、心身へと蓄積される。例えば、酒を飲んで8時間寝た時と、酒を飲まずに8時間寝た時では疲れの取れ方が違う。そう考えるのであれば、その日に溜めたストレスを洗い流すのであれば、早い時間にゆっくり風呂にでも浸かり、寝てしまって、早起きしてジョギングでもした方がよっぽど健康を保てるだろう。

 それこそ、昨今の見た目重視で、添加物たっぷり的な食べ物を食べ続ければどうなるのかというのと同じで、その「体に悪いもの」は体内に入れば、もちろん我々の内臓たちは非常に優秀なので、ある程度はなんとかしてくれるが、摂り続ければ花粉症になるあの原理と同じで、コップから溢れればいろいろな症状として体が「もう勘弁してくれ」とばかりに、病気という形で我々にイエローカードを提示してくるだろう。

 「ストレス」というのもそれと同じで、ちゃんと考えないで「大丈夫だろう」と思ってみたり、例の「酒でなんとかしよう」みたいな事をすれば、どんどん蓄積されていく。もちろん食べ物と同じで、ストレスも溜まって自分のコップの許容量を超えれば、溢れだしてしまうのだから、何かしらの変調をきたすことになる。ちなみに「酒を飲めば何とかなる」というのはたしかに現象としてはそうなのだが、それはなんとかなっているのではなくて、「センサーがバカになっている」だけであって、いずれ気づいた時には取り返しのつかない位、身も心もダメージを負っている事に気づくだけなのだ。

 多少、酒Disリが激しくなってしまったが、一番良くないのは「ストレスを酒で何とかしよう」というこのルーティンなのだ。「楽しい時に酒を飲もう」という事であればそんなに危険ではないのかもしれないが、基本的に健康な人間は、そんなに酒を自分自身が要求してこない。デブが甘いものをやたらと要求して食べてぶくぶく太るのと同じで、必要がないのだ。

 「それが「大和魂」と何の関係があるのか?」と思うかもしれないが、ここで問題にしたいのは『ルーティンの危険性』なのだ。前著である『自分』を最大限に生かす人生戦略の中で、この事を「人類総鉄仮面計画」として論述したが、役を演じていた者が、そのままその役の人間に成り代わってしまって、もう元には戻れない状態になるのだ。もはや日本人は「サラリーマンという顔の鉄仮面」をそれが日本人の顔とばかりに思い込むというよりもそれを「当たり前」として生きてしまっている。

 前項でも述べたがその「サラリーマンという顔の鉄仮面」は、戦後における応急処置モードで活躍したお面であって、本来の日本人の顔そのものではないのだ。だけど、それほどの年月ではないのに被って復興のために頑張ってきた日本人達はそのお面が皮膚化してしまって「これこそが日本人」というまさに、役を演じていたら、役そのものになってしまった現象が起こってしまい、ここ数十年程度のお面を「自分たちの顔」と勘違いして、今もはや復興など終わったというのに未だに復興モードの有効アイテム「サラリーマンの顔のお面」を愛用し続けてしまっているのだ。むしろ、愛用というよりもそれは国民の義務レベルにおいて。

 正直なところ、そっちの方が上で国民をコントロールする立場の者にとっては扱いやすいのも事実だろう。だけど、それで良いのだろうか?扱いやすさによって捨てられた日本人性。もしかしたら上で扱っている人間自体も本来の日本人性など疾うに忘れてしまい、みんなでその「ただのお面」を「これが日本の顔だ」とばかりに勘違いして、日本を創り上げている節がある可能性もある。

 おそらく以前の学生運動的なムーブメントは、その表現こそ過激ではあったが彼ら彼女らが本来訴えかけたかったメッセージは、「それが日本じゃねーだろ」「それが日本人じゃねーだろ」というメッセージだったのかもしれない。そしてその牙まで抜かれた今の日本は、もはやこのお面を自分の顔と信じて疑わない、日本の歴史と伝統については二の次以下にして、いかに従順な労働ロボットとして日々のルーティンを黙々とこなすかどうかに焦点を当ててしまった結果としての社会が今の日本社会なのではなかろうか。

 単純に、朝の駅のホームや電車の中がそれこそパーティ状態で、人々がパーリーピーポーにでもなっているのであれば話は別で、それこそ毎日が楽しくてしょうがない事だろう。だけど、行けば分かる。見れば分かる。そこにいる覇気のない人々の表情、そしてエネルギーの低さを。別にそこにいる人たちをDisっているのではなく、そういう生き方をすればそうなるのはそれこそ当たり前の事なのだ。私はあのライフスタイルを「死への行進」のようにしか今は見えていない。

 それこそ、私自身もそれに気づかず毎朝駅のホームへ行き、電車にギューギューになて通勤していた時代がある。そうしなければ生きていけないと思ったからだ。だけど、まったくそんなことはなかった。なぜ、「サラリーマンをしないと生きていけない」と思ったのかが分からない。ということはなく、やはり子どもの時からずっと、「勉強が出来ることが良い事」「良い会社に入ることが良い事」と擦りこまれてきた。それこそルーティン以上に、もはやそれは空気となって我々を包み込んでいたし、息を吸えばその空気が体内に入ってきてしまうのだから、「いやいや、今の日本は別に復興モードの緊急事態じゃないんだから、もっと自由に楽しく生きられるでしょ?」なんていう事に気づく心の余裕もないし、「これおかしくね?」と何度も疑問に思ったが、それこそ「思春期によくある反抗期的なアレですね。」ぐらいにまわりの大人達からは軽くあしらわれ、反抗期を過ぎて「やっぱおかしくね?」なんて事を言えば、それこそ今度は大人達からだけでなく、同年代の者達からも「お前の方がおかしくね?」ぐらいの事を言われ、一人疎外されていく。そしてやっぱり自分の方が間違っているのかなと自信をなくし、社会に迎合してしまい、その「復興モード用のお面」をこんな時代でも重宝してしまったのだが、やっぱり現実を冷静に見てみれば、やはりそれは戦後日本復興モード用のお面に過ぎなかったのだ。

 サラリーマンはストレスがハンパない。先ほどなんとなく典型例を挙げてみたが、上司であれ、取引先であれ、もちろんあいつらが好きな事を言うのは良い。だけど、こちらが好きな事を言い返せるようなそれこそ平等なルールはなく、かなりのハンデ戦をさせられるというよりもそもそも勝ち目がない。そうは言ってはいないけど、ある種のご主人様ごっこであって、下の者はある意味の奴隷のような状態として生きることになる。もちろん、会社であったり、そこにいる人間達の質によってその奴隷をどのくらいの強弱で強制させられるかの度合いは違うが、最悪な環境に入ってしまえば奴隷以下と言っても良いかもしれないし、基本的には無駄にストレスが溜まる環境に週に5回×8時間程度身を置くことになる。

 極端な話、「自分の内側の世界」を健康に保つことが出来れば、そういう劣悪な環境下においてもストレスを溜めずに、健全さを保って生きていく事も可能だろう。だけど、考えてもらいたいのはだからと言って「自分は心強き人間だからどんな状況でも大丈夫だ。」とばかりに、敢えて自分の家をゴミ屋敷状態にして腐った生ごみに囲まれた中で生活をするだろうかと問えば、いちいちストレスの溜まりやすい状況下にわざわざ身を置くというのはナンセンスであって、それを繰り返すことを楽しめるのは、SMごっこを生きがいに感じている者でしかないような気がしてならない。

 それに、多くの人間は「不労所得」的なライフスタイルに憧れているのは何故なのだろうか?それは「働きたくない」という願望の表れそのものだろう。ちなみに私は「サラリーマンはやりたくない」が、「働きたくない」などと思ったことは人生の中で一度もない。なので、「働きたくない」と思う人間というのは、相当毎日がきついのだろうなと察してしまうのだ。むしろ「働けない」なんて事になったら個人的には、もう死んだ方がマシなんじゃないだろうかという気持ちになってしまう。働けるから幸せな気持ちになれるし、個人的な話をしてしまえば私はいつ休みがあるかも分からないし、1日何時間働いているかもわからない。それこそ日本人の本来性を発揮させて、遊びなんだか仕事なんだか分からない「迎合的融合」をしたライフスタイルを確立することが出来たので、サラリーマンが朝から夜までこつこつ毎日溜めるようなストレスをほとんど受ける事がないのだ。

 これは自慢ではない。ちょっと自慢したい部分も無くはないが、別に自分が特別能力が高いからこういう生活が出来るという事を述べたくて書いたわけではなく、「今の時代ならばそういう生き方を誰でも出来る」と提唱しているということだ。「では多くの人は何故できないのか?」それは約20年前の私と同じで、その「サラリーマンというお面」を自分の顔だと信じて疑わずに生きているから、というただのそれだけの事。だけど、その「ただそれだけの事」に気づくことも難しい。だって「それが当たり前」なのだから。そして、例えば40年もそのお面を自分の顔だと信じて疑わずに生きてきた人間が、今更気づいてしまうとやっぱりある種のパニック状態というか、「それは分かるんだけど、今更もう無理だろ・・・」という事で、気づいたけど見て見ぬふりをする人間も少なくないだろう。その気持ちはもちろん分からなくもない。前に進もうが、後ろに下がろうが、どっちにしても不利なように思えるからだ。もう、その生き方に慣れてしまったのだから疑わずに最後まで突き進んだ方がよっぽど楽なのかもしれない。日常のストレスに対しての耐性はついているが、それこそ「自分らしく」「日本人らしく」などという生き方に今からシフトする体勢をとることの方がよっぽど不慣れで別のストレスを感じるかもしれない。だけど、多くの人達は宝くじに夢を託し、「三億円当たったら会社を辞めて・・・」みたいな自分にとっての夢のライフスタイルを思い浮かべてみたりするのだが、別に「会社を辞める」為に、三億円持っていないとやめられないなどという条件はついていない。

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~

 

 この章では、日本が純粋に日本として進んできた時代から、『西洋』にかぶれ、挙句の果てにアメリカ様にべっちょ染められてしまってもはや「日本」というよりも「Japan」と呼んだ方が適当だろうという時代からの日本についていろいろと考えたり、論じてみたりしたい。

 ではざっくりと良くなった部分と、悪くなった部分について考えてみたい。まずは「良い部分」からだが、やはり良くも悪くも「戦争しない国」になったのは良い事なのではないかと思う。それを日本は戦争に負けたことでそうなるのではなく、「我々はどことも戦争しない。」と自ら宣言していれば、その後アメリカに何かされたら、完全に悪者はアメリカだったと思うのだが、まあそれは出来なかったでしょうし、そうならなかったのがちょっと残念ですね・・・「平和」と「ヘタレ」は違うんですけど、これがなかなか難しい。何もしないと、ちょっかい出してくるめんどくさい奴とか学校に必ずいて、そういうのがちょっかい出してきても、相手にしないと、どっかのお笑い芸人コンビの総理大臣ごっことか好きな奴みたいのが、そのままやらせっぱなしにするとちょっかいが激しくなったりしそうな感じがして、それでも黙っておくのか、ある一線越えたら倍返しするのか。みたいな事を考えるとやっぱ難しいんだけど、基本スタンスとしては「日本は戦争をしません。」とカッコよく言ってもらいたかった気持ちもありますが、もしも、本当に日本がアジアのいくつかの国を助けに行ったのであれば実際の歴史でも、当時の日本って英雄なのかもしれませんが、それはちょっと美化しすぎなんじゃないかなって節があります。そもそも中国人とか朝鮮人を殺していたのは事実ですし。東南アジアの中での「日本は英雄話」ってのは、敵の敵は味方みたいな状態にどっかしらの国ではなってただけなんじゃないのかなと。

 そう考えると、決して日本が特別野蛮な国だったんじゃなくて、どちらかというアジアの国々を植民地化しようとしていたアメリカだったり西洋の国々の方がよっぽど野蛮だと個人的には思いますが、まあ勝てば官軍って事で、彼ら西洋式のやり方が正しい流れになってしまいましたが、それこそアジア人達は、アメリカにも西洋にも攻め込んではいませんよね。どちらかというと、日本人達は西洋から何かを学びたかっただけだったのに、なんだかおかしな方向に進んでしまいました。もちろん、男がハニートラップに引っかかるのと同じで、日本のにそういう領土広げたいというよな下心はあったのだと思いますが、やっぱり歴史の教科書で書かれてそうな勢いで、日本の事を悪者視するのはやりすぎなんじゃないかなと。

 ただし、「相撲に買って勝負に負けた。」という言葉のように、日本は「戦争に負けて平和を得ることが出来た。」と言えなくもないのかなと。たしかに、戦争で亡くなった多くの方達、特に軍人でもない民間人の方にはいたたまれない気持ちにはなりますが、もはやどうしようもないことですから、その人たちの分生きている日本人が、頑張っていくしかもうやれる事は無いのですが、だけど、どんな形であれ日本は「戦争をしない国」になれた訳です。これは戦争には負けたけど、ある意味の勝利だと私個人は考えています。もちろんこの考えに対して「何を言っているんだ、お前は。それでも日本男児か。」とDisられる事を覚悟で述べていますが、もしも、1945年以降も日本に軍隊が存続していたら、それによって何人の日本人がこの70年間で命を落とすことになったのでしょうか。という事を考えれば、やはり「平和っていいな」って気持ちはどうしても強くなってしまいます。

 確実に、この70年間の歴史で何度か戦争に参加することになっただろうし、それこそ、アメリカと日本の関係は同盟国といえども、織田信長徳川家康の関係のような同盟関係でしょうから、汚れ仕事は全部日本側に「お前やっとけ」的に任された可能性が高かっただろうとも言えます。それを「お前ら危険だから二度と戦争すんじゃねーぞ。」って方向になったのは素晴らしいと考えます。

 もちろん、日本のお隣の国々が、危険な感じになっていて、イエローカードもんのラフプレーを仕掛けてきたとしても日本は手を出せない軟弱な国になってしまった。どうするんだ?と言われてしまえば、「だったら軍隊あった方が良かったのかな?」とも思いますが、それこそ、何故人はそんなに殺し合って領土を取り合いたいのかを世界各国でもっと話し合えば良いのであって、「何かされたときに、自分たちも手を出せるように。」などという事を議論するのは果たして建設的なのでしょうか。

 それこそ、本当に「何かあった時」は、「日本は、一切手を出しません。」って言ったてそんな約束は反故にしちまって、レッドカード覚悟でもやっちまえばそれでいいんじゃねーの?って事でもあるでしょうし。サッカーその他を見てたって「有事の際は退場覚悟でも反則をおかす」というのはひとつの戦略ですから、もちろんルール破って日本からどっかに攻撃するなんてのは言語道断ですが、「あっちから何かされたとき」ってのはルール破ってもかますかかまさないかは、別問題として考えればよいだけで、別に世界から「勝手に日本がやり返していいよ」なんていうお墨付きをもらおうがもらわなかろうが、そんなの関係ねぇ。って事なんじゃないかなと。ただ、基本的に「戦争をしない国日本」っていうのは本当に素晴らしい事だと思います。なんか、基本的な日本人らしさを醸し出せている気がして。というか、「戦争しない国日本」は、日本という生命体が、戦争にかぶれた日本人達に対して起こしたホメオスタシスなのではないかなと。そこに「過剰な日本人性」が滲み出ている気がしてならないのです。

 もちろん、そこに引っ張られて日本人はお人好し過ぎる。という欠点もあるのかもしれませんが、その「お人好し」という部分は、戦争に負けて過剰になっている部分もあるけど、そこは「日本人の本来性」なのではなかろうか。と私は考える。

 なので、日本人はお人好しで良いのだと思うし、その人の好さを存分に活かせばよいのだ。もちろん、サッカーと同じでお人好しになんてやっていれば、自国の領土をいつのまにかさらに削られて、それこそいいように利用されてしまうかもしれないが、やはり他国が汚い手を使ってきたからといって、「だったら自分たちも」というやり方に引っ張られてしまう事の方が、日本が日本らしさを捨て、魂を売ってまでしてなんとかしてしまう日本らしくない浅ましい低ステージの生命体に成り下がるような気がしてならない。

 別に他国をバカにしている訳ではないが、私自身は「日本最高」の精神で生きているので、「シャツを引っ張っても審判が見てなけりゃそれでいい」だとか「手を使ってゴールして『神の手』」みたいな戦略を日本人が使う必要はない。日本はそんなカラーでもなければ柄でもない。白地に赤丸のあの国旗からそんな汚い精神が滲み出ているとは思えない。それこそ審判が見ていなかったとしても、日の丸はずっと我々日本人を見守り続けているのだろうから、そういう日本人らしくない事をしてまでして、価値にこだわる必要もないと私は考える。

 そんな事をして勝てば、他国から「おお、日本も我々の一員になったようだな。」と思わせるような一因を自ら作っているようなものだ。もっと分かりやすく言えば、伊勢神宮や皇居を洋風なつくりにして「近代美術」とか言っちゃうようなものと同じだ。

 我々のやり方で、世界を驚かせてこそ「本当のmadeinJapan」であって、西洋の真似事をして世界を驚かせたところで、「あのイエローモンキーは猿真似が上手いね。」と評価されるだけで、別にそれ以上もそれ以下もない。そこに「日本らしさ」「日本人らしさ」がなければ、どう評価されたとしても意味はあまりないと考える。

 ただし、もしかしたら日本人は良くも悪くも「猿真似」のスキルはヤバすぎるぐらい溢れているとも言えるので、それを活かさない手もないだろう。というのも事実としてはあるだろう。「いろんな神さまと仲良くなれる民族」が日本人なのだから、「これは日本」「あれは西洋」と受け入れない文化ではなく、受け入れて融合する事にかけては天才的なセンスというかDNAを我々日本人は持っている気がしてならない。

 それこそ、日本人のように西洋人たちが、上手に「和風」を取り入れる事ができているように見えず、せいぜい「カルフォルニアロール」がせいいっぱいのセンス。それこそ、フッチボーラージャポネーゼ以上に、日本の文化を他国が上手に真似する事などほぼ皆無に近いレベルでできているとは言えない。

 その「独自の日本性」と「猿真似スキルの異様な高さ」をかけ合わせてつくられたものが、madeinJapanのものの中で、世界を驚かせているようなものであり、者なのではないだろうか。なので、この両者のどちらも欠くことは出来ないし、欠いてしまうと、日本国内ではまだ良いにしても、日本の外側に出て評価を受ける事は難しいだろう。それこそ日本人はお人好しだから、「猿真似の上手な猿だねー」と笑われてていても「嗚呼、スゴイ喜んでくれてるなこの人たち」ぐらいの誤解をしする可能性は低くもないが。

 やっぱり日本の外側の文化、国民性の持ち主の人間達には日本はまわりくどいように見えたり、何が言いたいのか分からないと言われがちなのだろうけど、そこにサッカーの試合中のユニフォーム同様、そこの部分に引っ張られる必要はない。そもそも、我々日本人同士ではそのまわりくどさは受け入れられているし、会話も普通に通じているではないか。「互換性」というのは大事かもしれないが、媚びへつらって胡麻を擦って近づいたところで、そのやり方は日本人としての純度を下げて、それこそ西洋の付録程度にしか成り下がっていない。

 日本の独自性というのは「迎合しているようで実は融合している」というスタイルなのではないだろうか。日本国内の西洋料理であれ、中華料理であれ、本場のそれらとは違うものになっているだろうけど、それが決して「カルフォルニアロール」のようにはならない。あれを日本っぽく置き換えれば「肉じゃがバーガー」みたいなとてつもなくダサい感じの食べ物をつくり出すことになるが、日本的なセンスの高い者はそういう「なんかとなんかをくっつけりゃそれで融合」みたいな事を決してやらない。ラーメンが一番わかりやすい例なんじゃないかと思うが、もはや中国の食べ物だったラーメンはどちらかというと日本の食べ物になってしまった。そしてとんでもない進化を遂げている。あれが「日本式迎合的融合」なのではないかなと。

 この「融合」と「迎合」のバランスが絶妙であるかどうかで、日本人であれ日本の価値が高くなったり低くなったりするのだ。それは相手の力を利用する合気道的な要素がかなり含まれている気がする。日本的なスタイルというのは「相手の力を利用して三倍返し」的なスタイルであって、筋肉量の勝負をすれば西洋人に勝てるDNAも伝統も持ち合わせていないが、「相手の力を利用してそこに自分の力も載せて返す」というスタイルであれば、日本は世界のどこにも負ける気がしないように見える。つまり、そのスタイルで生きている民族が日本の外側にいるように見えない。

 それは、日本は世界から見れば小さな島国で、資源を自分の国では賄うことが出来ない事もその要因になっているだろうし、日本人そのものが「工夫して加工する」という職人気質的な気質を持っているのではないだろうか。こんなにさまざまな地方に、さまざまな種類の伝統工芸品がある国が、日本の外側の国に存在するのだろうか。あまり聞いたことがない。乱暴な言い方かもしれないが、「職人の国ニッポン」で良いのだと思う。「サラリーマンの国ニッポン」になったのは、明らかに戦争に負けて復興させるための戦略をとりはじめてからであって、そもそも士農工商の中に「サラリーマン」が含まれているように見えない。

 この「職人」というのは、別に工芸品という物質的なものをつくるということだけではない。物質的であろうが、情報的であろうが、「職人気質の発揮される仕事」を日本人が行えば、それこそ「大和魂」が発動されて、世界を驚かせる発明であれ、開発ができるのではないだろうか。「指示待ち人間ニッポン」というのは、それは戦争に負けた時は逆らったらもっと危険な目に逢うかもしれないから逆らえないだろうし、日本の復興をという時も誰かの指示に従って進んだ方が効率が良いのも当たり前の事なのだが、それらが、戦争をしていた代の孫、ひ孫の代まで引き続く必要はないと考える。そして、何度も言ってしまうが日本はもはや復興するために頑張っている国ではない。

 それこそ、「有事の時は緊急事態なのだからいつもとは違うモードで」というのと同じで「復興モード」というものは、有事の後に応急処置的にとられた対応であって、その応急処置モードの時の日本を「これが日本だ。」と思い込むのは、日本人の悪い部分である「迎合力」の高さがとんでもなく偏って出てしまった典型的な例なのではないだろうか。

 緊張しすぎたり、思い通りの展開にならなかったりすると、人はテンパって我を失う事があるが、まさにそれと同じで、戦争に負け、なりふり構わず日本をどうにか復興させようと突き進んだ日本は、「日本の本来性」という自分を見失いかけたか、もしくは見失ってしまった可能性がある。私の主張は日本人はそんなに指示待ち人間型の民族ではないという事。その他「自然の神」と「バランスのとれた迎合的融合」をしながら職人気質に面白い文化を生み出して、独自に楽しんできたそれこそ「オタク民族」なのだと考えている。だから、「オタクイズビューティフル」的な事を世界からは言われたりするのだ。「オタク」である部分を良い方向に出すか、悪い方向に出すか。資源のない日本が、世界にこれでもかというぐらい輸出できる資源はこの「オタク力」であり、その「オタク力」を日本の歴史と伝統に照らし合わせて、他の追随を許さないレベルでひたすら「オタク力」全開で、「ディスイズジャパン」的な日本テイストを世界にブチかませば、それで良いのだ。もうこんな平和な時代に、いちいち『西洋』にべったり迎合しすぎて、ムヒを塗ってもかゆみがおさまらないレベルでかぶれる必要はまったく無く、思いっきり、「大和魂」を発動させて日本人の独自の世界観を出していくことが、世界の中においても無比な存在になれるのであって、もういちいち70年前の傷を気にしていちいち慈悲を請うような生き方を我々孫、ひ孫の世代がする必要がない。

10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

 

 それでは、この章の最後にこれまで考察しなかった部分の中で、『西洋』と日本ってこのあたりに大きな違いがあるんじゃないだろうかという部分について考えてみたり論じてみたい。

 まずは、私自身が気になるのは「なぜ、日本人はあんなに謝るのか?」という部分についてだ、逆から言えば「なぜ、西洋人はあんなに謝らないのか?」とも言える訳だが、我々日本人は、少なくとも今の時代の日本人達は、いきなり「すみません」から始まり、終始謝り続ける。海外に行ってそんなに「すみません」「すみません」言っていると普通に「なんなんだこの頭のおかしい連中は。」と思われる事だろうし、「すみませんって謝ってりゃなんでもやってくれると思ってるんじゃねーぞ、この野郎。」ぐらいに思われている事だろう。そして、反対に西洋人たちが日本にやって来ればその腰の低い態度であれ対応に、いろいろな意味で驚く事だろう。それこそ、「嗚呼、負け犬たちよ、70年経った今もよく躾が行き届いているな。せいぜい励めよ犬どもめ。」ぐらいに口では言わなくても、心の中では思っている人間達もいるかもしれない。やり過ぎたサービスをしてしまえば、こちらがその気ではなくても、相手にはそう受け取られる危険が大いにあるという事だ。

 まず、この日本人の「謝罪文化」がいつからはじまったのかを考えてみたい。そもそも戦争に負ける前、しかも日露戦争に勝利してイケイケだった当時の日本人達も今の時代の日本人のように「すみません」「すみません」を連呼していたのだろうか。そして、お侍さん達も「すみません」「すみません」と連呼していたのだろうか。そんなにこの「謝罪文化」のようなものは、日本のお家芸というか伝統的な文化ではないような気がする。かといって、昔の日本人達が西洋人たちのように何があっても謝らないような態度で生きているようにも思えない。

 これはあくまでも仮説だが、日本の歴史の中で日本語を使わない他言語を使う者たちとの関わりがなかったため、日本語を使う者たち同士の中ではそれら日本語的なやり取りが別に謝罪だとか謝罪じゃないとかそういう関係になかったのだが、日本の外側の文化の人間達とやり取りをすると、どうしても日本人というか日本語使いの者たちは、「すみません」「すみません」というような感じになってしまって、逆に西洋人達は謝らない訳だから、常に謝っているのは日本人みたいになってしまったのではないだろうか。そもそも「謝罪文化」が日本の伝統として蔓延っているのであれば、それこそ日本は敗戦国になる事は無いというか、戦う前から「すみません」で済んだような気がするので、少なくとも大勢の人達は死ぬことはなかったはずなのではないだろうか。これは殺した側にしても殺された側にしても同じ事が言える。何人殺したかは分からないけど、日本も自分の領土の外側に出て人を殺し、戦争に勝ってきた事実があるのだから、どうしても「元から日本人は謝るのがお好き」のようには思えないのだ。早まるのはお好きなような気もしないでもないが。

 やはり、そういう事実から考えても、戦争に負けて日本が焼け野原になってそこから復興していく何かの戦略的な要素というか立場的な部分が大きく加味して、日本人の「謝罪文化」が生み出されたような気がする。それこそ、あの戦争に負けて書いたであろう謝罪文から「謝罪文化」は生み出されたと言っても過言ではないだろう。

 たしかに、日本は歴史上、1945年あたりに戦争に負けて、敗戦国として生きてきた。だけど、我々今の時代の日本人は別に敗戦国で生まれた負け犬たちではない。たとえばじゃんけんで1回負けた位で、そこから死ぬまで「負け犬」というレッテルを貼られて生き続けているのと同じで、もっと言えば自分の祖父さんがじゃんけんで負けたという事実で、孫達が「負け犬」というレッテルを貼られて、その役を演じ続けているというような滑稽な文化を継承してしまっているということなのだ。祖父さん達は当事者だからしょうがないとしても、孫やひ孫である我々が、何故そんなレッテル貼られ続けて生きなければいけないのかが分からない。戦争をすることはよろしくない。だけど、戦争で負けた時のルールを70年経った今も引きずりつづけなければいけないというのも、おかしい話だ。戦争するかしないかの話に持っていかれそうなので嫌なのだが、「もうお前ら「今の時代の日本人」として自由に決めてくれ」と何故そうしないのかが分からない。もちろんそれをすれば損する国が出るからだ。「そんな事をすれば危険だろ。」みたいな事をそれこそでっちあげている連中がいるのだろうけど、それはこそがでっちあげなのであり、日本人がそんな世界征服的な事を考える訳がない。しかも、普通に今の日本は物質的にも裕福で、徴兵制度など望む人間も、一部の過激な連中だけで基本的には平和を誰よりも好む生き物であることは、震災時の日本人達の態度を見れば分かるはずだ。「調和の精神」を持っている民族が日本人であり、それを西洋と比較したり、戦争というハプニングによってその「調和の精神」が「謝罪文化」へと歪んでしまっただけなのだ。それこそ、日本人に自由に決めさせて、おかしなことをしたらそれこそ、一発で叩き潰してもはや、我々日本人から日本語を奪えば、もうこの島国に住んでいる西洋的なアジア人としか生きられないだろうから、そうすればよいだろう。しかし、何度も言うが、日本人はそんなに戦闘を望むような民族ではない。日本という生命体そのものが望んでいないのだから。そもそも、日本人の中でそういった物質的な領土を奪い合いたい人間がいるのであれば、今の時代は戦闘を好む国にでも移住して、国籍を変えて生きれば良いのだ。歴史の一部分を切り取れば、日本人は残酷に見えるだろう。だけど、それはどの国の歴史でももっと残酷な歴史などいくらでも存在している。日本人は、基本的には「優しい民族」なのだ。それによく分からない火を焚きつけたのは誰なのだろうか。それこそ北斗の拳の世界で言えばシンがまさしく「日本」であり、それに何かを焚きつけて豹変させるようなちょっかいをだしたジャギのような存在が『西洋』なのではないだろうか。その部分について、我々日本人は、もう一度「本来の「日本性」」というものを考える必要がある。その上では、やはり「謝罪文化」というこれについては、孫の代ひ孫の代まで続けてる必要はないし、それこそ「謝罪文化」という鉄仮面が我々日本人にもはや皮膚化しつつある。この鉄仮面をなんとかひっぺがすには、早いうちにひっぺがしておかないと、「謝罪文化」自体が日本の伝統になってしまう。もう「すみません」「すみません」言いながらペコペコやる必要もないし、西洋人たちのように一切謝らず、正面でぶつかり合うスタイルをとる必要もない。やはり日本人は合気道的な、和合的な精神が日本人らしい気がしてならない。敵と友達になってしまうスタイルが「大和魂」のスタイルなのではないだろうか。日本の伝統を辿る限り、私にはそう見えてしょうがない。

 この「和合的なスタイル」をとれるのが日本人であり、西洋人達はそれを苦手とする、もしくは出来ないのである要因を考えてみると、「足し算スタイル」「引き算スタイル」というものが考えられる。アメリカ人の作るそれらはとくに食べ物で考えれば分かりやすいが、「でかけりゃいい」みたいな考え方がある。日本人にはあまりそういう発想は本来なかったはずだ。いつのまにかそれは『西洋』にかぶれてしまった結果であって、「大和魂」の発動という意味合いにおいては、「大和魂」を錆びつかせてしまう発想と言えるだろう。日本的な発想とはやはり「和合的なスタイル」であるといって良いし、日本っぽいそれこそ海外の者達にファンタスティック、ワンダフルと驚かせるようなものは「デカけりゃそれでいい」の世界観ではなく、「和合的なスタイル」なのだと私は考える。

 ある意味、今の時代においても、それが西洋のものであったとしても、日本人らしいスタイルで臨む事が日本人として一番輝けるやり方なのではないだろうか。それはどんなものであっても、日本人の「和合スタイル」で臨む職人気質のようなそれらで、和合していく事で、「あの日本人イカしてる。」と西洋人たちが驚くようなモノづくりであれ、パフォーマンスであれを見せる事が出来るのではないだろうか。そして我々日本人には、和合できる職人気質が、日本人のDNAとして皆に刻み込まれているのは間違いない事実なのだから、邪魔なのは途中で入り込んできた「謝罪文化」という異物であって、この今の時代においては無用なかさぶたを1枚ひっぺがしちまえば、『西洋』を驚かすことが出来るだけの「日本」という独自の「和合スタイル」を生かした世界造りは、我々日本人であればだれでも出来るという事だ。「大和魂の復活」を私が提唱する理由は、まさにここにある。

 もう、世界からどんな催眠術をかけられようが、戦争をしていた何千年前からの日本をもう一度学びなおし、古きを温めて、新しきを知る事に冷静に立ち向かうことが必要だ。政治やニュースを見ていても、どうも今の日本は、敗戦当時の傷を気にして舐めてばかりいるように見える。それこそ、国際的な戦略上、「おーい、Japan。もう自由に自分たちで決めて自由にやっちゃっていいよー。」なんて言ってくる訳がないのだから、もうそういうのは適当にあしらって、自国の中においては「日本らしい日本」という国づくりをみんなでしていけばよいだけなのではないだろうか。それこそ、アメリカをはじめとする「日本の外側の連中」が言っているような日本を我々は全員で演じすぎている感がある。それこそ、我々日本人に「日本人の本来性」について考える隙を与えようとしないのかもしれないが、敗戦という特殊な一部分ではなく、日本の歴史であり、伝統の全体像を鑑みる必要がある。そこに「大和魂」が滲み出ているのであって、「日本=戦争好き」みたいな「お前は汚れ芸人だ。」的催眠術プロデュースからは、そろそろ卒業して本当の素の自分を出して、日本という国は生きていくべきなのではないだろうか。という「このまま汚れ芸人やって生きるか」「それとも本来の姿に戻って生きるか」という分岐点に、今の時代の日本であれ、日本人は立たされているように見える。もちろん私個人としては、残りの日本人が汚れ芸人の方を選択したとしても、その汚れ芸人に付着した汚れを洗濯して、キレイなころの日本としてこれからは歩みを進めていきたい。もうくだらない過去に、いちいち囚われたり、他国の催眠術に付き合う必要などどこにもないのだから。

9:お侍の精神・武士道について考えてみる

9:お侍の精神・武士道について考えてみる

 

 よく、「大和魂」的な言葉を使えば、「はいはい、それは帝国主義か何かですか?」と安っぽい議論に引っ張られそうになりがちなのだが、少なくとも私はそういう議論がしたくて「大和魂の研究」をしている訳ではない。日本というこの島国の伝統から滲み出る「日本人性」の部分を研究したいのであり、そこにしか「大和魂」は存在しないと考えているし、その「帝国主義」的な日本などというものは、それこそ乱暴に切り捨ててしまえば『西洋』という欲に駆り立てられて、『西洋』ごっこに陶酔している日本らしくない日本だとしか思えない。それこそそこに武士道であり、お侍の精神が本当にあったのかどうかは疑わしい。都合の良いところにのみ「日本の武士道がどうのこうの」みたいな事を押し付け、「お国の為」的な事を言って焚きつけたのだろうが、そもそもその「お国」自体が戦争を望んでいないのに、何故「お国の為」になるのかも分からない。戦争を望んでいたのは決して「お国」というこの日本という生命体ではない。望んでいたのは『西洋』にかぶれ、物質的に「もっともっと」とそれこそ危ない薬物に中毒症状を起こしている人達と変わらず、欲にやられた「日本人らしくない者達」が、それこそ物が増えたスピード同様に異常増殖しただけに過ぎない。

 これまでこの本では、「日本らしさとは何なのか」について、いくつかのコンテクストに載せて考えてみた。実際、もう少し「日本らしさ」であり、「日本的誇り」みたいなものは、やられたらやり返す的何かがあるのかと思っていたが、そもそも「日本的」というものは、じっくりとみんなお友達、目に見えるものも見えないものも。過程を楽しむ民族だという平和的な姿が窺えたのだ。実際、日本的な民族はそれこそ戦闘して勝っただの負けただのをする事が得意ではない根っこを持っている気がしてならない。素朴な民族なのだ。そんな事を言えば「お前たちは戦争の時に」だの「悪魔の子孫がどうのこうの」と言われてしまうだろうが、それこそ日本国民の多くが何か「物質主義」的な催眠術を誰かにかけられていたような気がしてならない。見当違いかもしれないが、やはり日本人というものは、基本的には素朴を愛する生き方をする民族なのだと考える。そうでなければ、世界から見たら特異な「日本的な文化」というものは生まれていない気がするからだ。

 とは言え、日本には「お侍文化」があったことも事実で、歴史もあった。それが日本全体の歴史の中のどのくらいにあたるかは長いと見る人もいれば、それこそ一部のブーム的なものと見る人もいるだろう。実際のところはお侍さん達に直接聞いてみなければ分からないし、お侍さん全員が同じ考えではなかっただろうけど、「侍」「武士」という一本筋の通った何かは皆が共通して持っているものだろうからそれを考えてみたいのだが、個人的な予想としては「自分の内側の世界」を鍛えるのが、侍の精神であり、武士道なのではないだろうか。

 「自分の内側の世界」を鍛えることが、「自分の外側の世界」においても強き者となる。というこの発想が基本的には武士道のような気がしてならない。だけど、その発想は映画ラストサムライで描写されたような感じで、「自分の内側の世界」で強くなったとしても、「自分の外側の世界」では機関銃の弾一発であなたたち何て死んでしまうのですよ、ねぇ?ザーボンさんドドリアさん。とばかりに、無情にも打ち砕かれるようにも見えるのだが、ここに『西洋』のどこを受け入れるけど、「日本」の何を大切にしなければいけないのか。その問いとその問いに対する答えをあの映画ラストサムライは描写していたのだろう。科学が発達すれば、この世界のパラダイムは変わる。そこを受け入れなければ時代錯誤の頑固者になってしまうことは事実なのだが、かと言って、「自分の内側の世界」を鍛えずに、「自分の外側の世界」でどれだけ武装できるかなどという発想で生きれば、それこそ人は武装したまま風呂に入る訳でもなければ、寝る訳でもないので、無防備なところで襲われてしまえばどんなに凄い武器を持っていたとしても一発でやられてしまうというこれもまた事実なのだ。そして、いくら強靭な「自分の内側の世界」を持っていたとしても、鉄砲弾一発で死んでしまうというのも事実。ではどうする?という問題に直面しているのが我々の生きている時代なのだろう。

 その両者の世界で強き者となる事が今の時代における「文武両道」の世界なのかもしれない。武器に長けるだけの頭と、何事にも恐れず立ち向かえるだけの心の強さこの両者をもってして今の時代における強き者と言えるのかもしれない。そう考えると、『西洋』のそれらにしても、「日本」のソレにしてもどちらかだけでは片手落ちなのだろう。だからこそ、我々は「日本」であり、「侍の精神」のようなものを簡単に手放してはいけないのだと考える。科学的というか近代的な武器をいくら扱ったところで、効率的に結果を出すことが出来たとしても、「自分の内側の世界」を鍛えることは難しいだろう。その反対に、今の時代で弓矢などでいくら達人になったとしても、弓の届かない距離からライフルで狙撃でもされてしまえば弓の達人はそれこそ無防備で、弓の技術など何の役にも立たないかもしれない。だけど、弓を射るその精神の高め方などは、物理的な命の取り合いではない状況においては、非常に強さを発揮する事だろう。今の時代における日本的な武道とはある種の「精神鍛錬」において効果を発揮するのだ。それで良いのだと私は考える。

 ある意味『西洋』と「日本」の二刀流で良いのだ。だけど、メインの刀は「日本」であるべきなんじゃないのかなとも思ってしまう。もちろんその理由は、我々が日本人として生まれて生きているからだ。そして、今の時代世界で活躍している日本人達は少なからずともこの「日本」という刀をしっかりどちらかの手に握りしめているように見える。その反対に100%『西洋』にかぶれようとしている日本人達は、それこそ魂の色がくすんでいるというか、結果的にも洋の東西に関係なくあまり相手にされているように見えない。そして、世界から見れば時代錯誤に見えても「日本」の一刀流に関しては彼ら彼女らから見れば、とても不思議な世界に見えるのだろうから、それはそれでアリと言えるのかもしれない。一番やってはいけないのは、我々日本人が、ただ単に『西洋』にかぶれる事だ。そんな付け焼刃の一刀流に、誰も見向きをすることはないだろう。

 日本の中には武道以外にも、茶道や華道もそうだし、その他の伝統芸能などでも、精神を鍛錬することが出来るだろうし、「日本的な」それこそ「大和魂」的なる何かを揺さぶりながら身も心も鍛錬する事が出来る。それらを活用しない手はない。そして、その中で鍛錬された強靭な心身によって、今の時代に求められているものと関わる。それが『西洋」と「日本」的なるものの弁証法的進化を作り出すとも言えるし、この時代を止揚してその先に進むひとつのやり方であり、それが日本人としての独特なこの世界の進化のさせ方なのではないだろうか。

 そういう見方でこの世界を見た時、形は変えたとはいえある種の「戦場」は今の時代にも広がっている。そこに挑み、必死に突き進むとすれば、我々は日本の先人の教えを頂くとともに、「大和魂」という土台の上で、『西洋』を吸収して新しい「新時代」というパラダイムをいかに創り上げていくかという事が課題であって、『西洋』ごっこというものまねトーナメントで優勝を目指すような事をしていては、それこそフッチボーラージャポネーズ的な世界の笑い者にされて、ものまね大会という牢獄に閉じ込められてしまうだけになってしまう。乗り越えてさらに先に進むか、媚びてそこに留まってペコペコし続けるかに関しては、誰が決める事でもなく、自分自身で決めるしかない。

 侍の精神、武士道を大事にするというのであれば、それこそ日本という生命体という意味合いにおいての「お国の為」を考えるのであれば、この日本という生命体が長年培ってきてくれた精神力を備えて、世界を築いていく事が今の時代の日本人としての本懐なのではないだろうか。それこそ、『西洋』に必要以上に尻尾を振ってかぶれようとしてしまったあの時代に戻って、もう一度本来の日本人性を大事にした生き方とは何なのかを各自で対話して、新時代の日本らしい日本とはどういう国なのか?新時代の日本人らしい日本人とはどういう国民であるのかを、日々バージョンアップさせていく必要がある。そして、しっかりと進んでいくためには、無思考で「当たり前」と受け入れずに、それらの1つ1つを疑って、自分なりに考え、真実が何なのかを見ていく必要がある。

8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる

8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる

 

 「魂」というぐらいなのだから、目に見えないものである代表である「神さま」についての価値観であり、世界観にも大きなヒントは隠されている事だろう。基本的に宗教は「一神教」か「多神教」かという分類をされているが、『西洋』の宗教は、「一神教」であり、日本の宗教は「多神教」だ。今の時代の科学的な発展は一神教的な宗教観の者たちが発展させたような気がする。日本の多神教的な宗教観が、このような「自分の外側の世界」へと発展させたとしたら、とんでもなく違和感というか矛盾を生じる気がしてならない。それこそ、日本的な宗教観で時代が進んでいたとしたら、もっと自然と調和したような世界になっていると予想できる。もしも、今の時代の近代的なものたちが『西洋』的であるとするのであれば、本人が『西洋』の宗教の信者ではなかったとしても、もはやそれは一神教の信徒であることとそれほど変わらないのかもしれない。

 その部分に関しては、この章で伊藤博文であれ、その当時『西洋』に憧れ、陶酔しきってしまった者達は、すでに建物であれ国のルールを改修しただけでなく、『西洋』を培ったその一神教に改宗してしまったかのようにも見える。それこそ、日本が『西洋』に買収されてしまったようにも見える。「大和魂」の復活を望む者にとって、そこに漂うのは哀愁しかないだろうし、それこそよろしくなどとは思わないだろう。そこに対して決して「Here we Go!」などとテンション高めに掛け声をかけたり、スーツの両脇を掴んで、ヒラッヒラさせてみたり、自分自身をクルックル回転させることも出来ない。だけど、その当時の大衆達は、毎週のように当時日本が『西洋』化して、それこそエキゾチックな「Japan」へと進化していくことを大歓迎したのだろうけど、それが本当に正解だったのかどうかは、分からない。ただし、歴史的に言えば『西洋』化した数年後には、もっととんでもない強制的な『西洋』化を受け入れざるを得ない状態になったので、もうその明治時代の『西洋』化についてどうこう考察してみたり、論じてみる必要すらなくなっているのかもしれない。

 乱暴な主張であることは承知の上、ブッ込み気味に持っていってしまうと『西洋』という一神教は「科学崇拝主義」のようなものだ。人間は神(創造主、私の言うところの『設計者』)と似せて作られた存在と定義し、神が我々の前に姿を現さないのだから、我々人間が、神に代わってこの世界を統治して良い。というようなまあ人間にとってとんでもなく都合の良い世界観であれ、宗教観を創り上げたのが、『西洋』という名の一神教なのだと私は考える。そして、明治時代の日本人達も、子どもたちが新しいおもちゃを持っている友達のソレを羨ましがるのとまったく同じ関係で、「いいなー」とばかりに『西洋』君が、たくさん持ってる『新しいおもちゃ』たちを自分たちも欲しいとばかりに、「日本」という古臭いおもちゃを捨てて、その『西洋』という『新しいおもちゃ」欲しさに、いろいろな大事なものを捨ててしまったのだろうと推測する。

 もちろん、とんでもない破壊力を持つ大砲だったり、戦艦だったり、それこそ空を飛ぶ乗り物なんて持ち出されたら、そりゃあ身も心も魂も奪われてしまう同胞たちの気持ちも理解できる。しかし、当時伊藤博文が発言したような「東洋の宗教であり学問は虚学に過ぎない。」というような発言はやりすぎであり、ベルツがそれこそDisったように、「そんなにお前ら、簡単に魂まで売ってるんじゃねーYo」という意見と私は同意見だ。それら『西洋』の『新しいおもちゃ』を羨ましがったり、手に入れたがるのは構わない。だけど、それらを手に入れるために「大和魂」まで売っちまっては元も子もない。それこそ、豊臣や徳川が頑張ってキリスト教を排除した理由はなんだったの・・・というお話になってしまう。それこそ、石崎君や浦部以上に豊臣秀吉徳川家康伊藤博文に対して「それにつけても俺たちゃなんなのー」と歌わずにはいられない状況なっているように見える。やはり「魂まで売っちゃいけないんじゃないの?」って疑わずに、『西洋』にブッ込み過ぎたことに関しては、明治時代のお偉いさんやっぱアンタ達ちょっとヨダレ垂らしすぎちゃったんじゃないの?と言わずにはいられない。

 これは東京でもなく、娘でもないけど、タラレバ話に過ぎないが、もう少し明治時代が、「日本を大事にしつつ、『西洋』と迎合する」という石橋の上を叩いて歩くスタイルで、『西洋』をゆっくりそれこそ低周波的に噛みしめながら日本の改革を進めていったのであれば、その後起こったあの戦争も起こらなかった可能性もあるし、そもそも領土を日本が広げていこうという『西洋』的発想を持たなかったのではないだろうか。とまで思ってしまう。日本という島国が本当に1つの生命体であるとしたら、日本という生命体自身は決してそんな『新しいおもちゃ』を欲しがっているようには思えない。

 もちろん、『西洋』というその一神教は、私の言うところの『設計者』がこの世界を設計したタネと仕掛けのいくつかに関しては、解明したからこそその魅力的な『新しいおもちゃ』を作り出すことに成功したのだから、それはそれでこの世界というスーパーマリオの裏ステージ、隠しアイテムを発見したので、とんでもないお手柄であることは間違いないだろう。だけど、その『西洋』という発想で発見できる裏ステージや隠しアイテムもあるけど、反対に「日本」という発想ではないと見つけられない裏ステージや隠しアイテムだってあるのだということを何故、明治時代の日本人達は疑わなかったのだろうか。そんなに「大和魂」的なものが時代錯誤の恥ずかしい代物のように見えてしまったのだろうか。事実からしてそういう事になるが、この催眠術的なインパクトが、日本を世界を物質主義、拝金主義的な世の中へ加速させていったように見えるのだ。

 もはや今の時代において、それらが「当たり前」となってしまっているので、もはや日本的な多神教的考えであったり、「神と共に生きる」的な発想こそが人間レベルにおいても知的レベルにおいても幼稚だの未熟だのと言われてしまうが、果たしてそうなのだろうか。その発想は、学力のみにおいて人間の優秀さを決めるようなやり方と同じで、ある一方向からしか評価基準を固めて、世界であれ、人であれを一方的に評価するやり方に過ぎない。まさに、まわりくどいのがお好きではない『西洋』的なやり方だということだ。その結果どうなったのか。今の時代にその一方的な人間評価システムが正解だったのか不正解だったのか。その評価システムが大人的で、成熟したものだったのかの確認ができる。結局、それらによって人間的に育っていないな大人とも言いづらい未熟で幼稚な大人たちが、今の社会に蔓延り蔓延している事実からすれば、『西洋』が大人で、以前の「日本」が未熟で幼稚だという発想自体が、何かのコンテクストに欠ける浅はかな見解だったのだと私は主張する。

 『西洋』で言うところの「神」と「日本」で言うところの「神」は違う。『西洋』の「神は人間を自分(神)と似せて創った」という仮説からそれらの世界観が創られているのだろうが、それこそ「日本」の多神教の世界観以上に、この世界を人間が都合よく解釈してつくられた「中二病」的世界観でしかない。まず、神はそんな事を我々人間に言っていない。

 それに対して、少なくとも「日本」的多神教の発想というものは、『西洋』で言うところの神、この世界の創造者が、人間も、星も、太陽も、火や水や土も創った。それは創造者が創ったものなので、そこに「神」が宿っている。もちろん人も創造者が創ったものなので「神」が宿っている。だから我々もそういう意味合いにおいてはそれらと兄弟であり、仲間であるのだから共に仲良く生きよう的な発想で創られている世界観なのだ。それこそ創造者ご本人が登場して、「そうだよ、お前たち人間は私に似せて創ったのだよ。」とでも言ったのであれば話は別だが、それこそここに論理的なものを感じることが出来ず、「日本」的な発想の方がよっぽど論理的だと考える。「日本」的な発想の方が、実際は事実に基づいてそう言えるのは間違いないだろうし、『西洋』のそれは、ヒトラーが掲げていた発想とただ、危険の度合いが違うだけで根本的にはそれほど変わりがない。もしも、「日本」の中にも「私が神だ」だの「私が神の使いだの」と言って何かをしでかそうとした者がいるのであれば、それは残念ながら『西洋』にかぶれてしまっただけなのだ。「日本」的に考えれば、「我々は日本という生命体を皆で創っている。それ以上もそれ以下もない。」という発想において、この日本をどう進めていくかを決めるはずだからだ。「日本」という伝統を土台として考えれば、そうなるはずで、少なくとも、明治維新前後からの日本は、『西洋』に憧れを持ちすぎて自分を見失っている感じがする。戦争に負けたのも日本が未熟、幼稚だったからではなく、「らしくなかった」からであり、それは戦争に勝つ負けるではなく、『西洋』ごっこ的な事に参加して「らしくない」ことをしたから大目玉を食らったというただそれだけの事だと私はこれまでの日本という特徴を見て考えて導き出した見解だ。

 それこそ、オカルト的な話だが、日本は歴史上、戦争に負けるまでは他所の国によって一度も統治されてない。それは日本という生命体が、我々日本人を愛しているからであり、外の民族の支配を受け入れない免疫の強さを持っているからだという事も言えるし、反対に領土を広げようとしても、日本という生命体はそれを受け入れず、やはり「日本は日本」という何か強烈な意識を持っている気がしてならない。もちろん彼は仮説にすぎないが、そうでなければもうとっくに日本は中国大陸であれ『西洋』に1度や2度侵略され、何度か支配された中での、ミックスジュース的な国になっていてもおかしくないのに、ずっと「純日本」を貫き通してきた。ここに意味がない訳がない。世界のほとんどの国が、なんらかのミックスがされているのに、日本だけがそのミックスをことごとく拒み続け、「純日本」を貫き通してきた。そこに「大和魂」が強烈なポテンシャルを秘めている秘密があるのではないかと推測する。そして、「日本」の考える神さまのように、土地は何か神さま的な力を持っている可能性がある。それを純粋に感じることができるのは、「日本」的なOSの持ち主達であって、『西洋』のOSではそういった多神教的な意味合いにおける「神の声」を聴くことも出来ない。聴くことが出来なければもちろん話すことも出来ない。そして、仲良くなることも出来ない。

 『西洋』はそれらの「日本」的な多神教世界観の中で定義する神々たちに首輪をつけ、それこそ彼ら彼女らを奴隷のように扱っている。それら多神教的発想の神々と西洋人は従属関係を築き『西洋』は発展してきた。しかし、『西洋』が発展させてきたのは「自分の外側の世界」であり、「自分の内側の世界」を発展させたとは言いづらく、「自分の外側の世界」に者や金が溢れた結果、「自分の内側の世界」では何が溢れたのかと言えばただ、さまざまな『欲』が溢れ出ただけなのではないだろうか。それは「日本」的発想で考えれば、決して幸せになったわけではなく、ただただ人が自分を創造主だと勝手に思い込んで、この世界をひたすら汚し続けただけに過ぎず、「自分の外側の世界」に一見魅力的なもの達、つまり「光」を増やしているように見えるが、それは同時に病みという「闇」も同じだけ生み出しているに過ぎず、それらは「自分の内側の世界」の中ではどういう事になったのかと言えばそれは「落書きだらけの世界」「ゴミをやたら排出する世界」を作り出しただけに過ぎない。お祭りは楽しいけど、お祭りをした後ってなんだかゴミだらけで街が臭い。まさにあんな感じだ。

 『西洋』的発想は「自分の外側の世界」に現れる現象を「結果」とし、その「結果」にコミットしてつくられた世界観であり、文明なのだ。それによって、我々人間達の「自分の内側の世界」はどうなってしまったのかを考えれば、今の時代だからこそ「大和魂」を発現、発動させた生き方というものが、外の人間達にとっての何かの提言であり、提案であり、新しい時代の生き方への手本となる可能性が高いのだ。それは決して『西洋』を全否定する事ではない。だけど、『西洋』のそれまでの全行程を全肯定する訳でもない。それらを「日本的」に考えれば、従属ではなく、同属として考えるだけ。天は人の上にも下にも人をつくらないだろう。それは神という部分においても同じで、神の上にも下にも神は作っていない。言葉が喋れるから、ものが作れるからと言って思い上がってはいけない。それこそ、ホントに我々人間が創造主に似せられてつくられていたとしても、別にこの世界のリーダーであるなどというのはただの思い上がりに過ぎないし、仮にリーダーだったとしても他の神々に首輪をつけて散歩するような世界を創り上げているようでは、それこそ他の星に宇宙人がいた時に、「ナンナンダ、アノ未熟ナ地球トイウ星ノ生物ハ。」と笑い者にされる事だろう。

 もしも地球という星が、1つ上の生命体レベルに上がる為には、人間達が「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」についての理解を、もっとじっくり観察して、この世界がどうなっているかを考えるべきだろう。もはや、ここまで物質主義的な方向に偏ってしまえば、それこそこれ以上物を増やすことは無意味でしかない。そこに偏りすぎてしまった約50年100年の間に、反対におろそかにしすぎてしまった「何か」があるはずだ。世界が今後も物質主義に偏り続けていたとしても、少なくとも「日本」だけはその「何か」について考え、そこと向き合う姿勢と行動をとっていくべきだと私は考える。

7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話

7:日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話

 

 前項では「日本人的なる食事」について考えてみたが、時代の流れに逆らうことまでして、無理やり日本人的な食事を追いかけることは幾ばくかのズレを感じてしまうので、それ以上の考察をすることはそれほど意味がないと考えたのだが、この項では日本人は普通に精霊使い・こびと使いであるというお話といういかにも妄想スピリチュアリスト達が好みそうなタイトルで、日本の独自性について考えてみたい。

 ここまでの項の内容の中で、日本人は「目に見えない過程のようなもの」を大事にする生き方をしている民族ではないかという予想に辿り着いたわけだが、「目に見えないファンタジーの世界の生き物」というのは日本にでも西洋にでも形を変えて描かれている訳だが、日本人は実際にファンタジーという「自分の内側の世界」にだけ存在する概念的な精霊でありこびとを使うという空想大好き人間ではなく、実際にこの「自分の外側の世界」の中で、物質的にある種の精霊であり、こびとを使ってものをつくる技術を持っているのだ。もちろんそれらを精霊と呼ぶかこびとを呼ぶかは別の問題ではあるが。

 実際にそれらの文化は西洋でも見ることは出来るが、おそらく同じような事をしていても「結果」にコミットする西洋人はそれらの事を精霊とも思わなければ、こびとだとも思わない事だろう。ただそれがそうなったという結果であり、ある種の化学反応的な形でしか認識できないのではないだろうか。

 しかし、「過程」の中にエネルギーを込めることができる日本人は、それらを「結果」として受け止めることは決してないし、「過程」の中に生命活動的な何らかの意味合いを見つけることが出来る日本人だからこそ、それらの精霊であれ、こびとであれを使いこなすことが出来たとも言える。

 その精霊、こびとの正体とは『菌』のことだ。日本に独特のものづくりの文化の中に味噌を造ったり、酒を造ったりする技術があるが、あれらはまさに『菌』という精霊、こびと的な目には見えないが、存在するものの力を借りて作っているものだろう。納豆にしても同じだ。そして、納豆においては顕著だが、西洋の人間達はそれらを受け入れることが難しい。また寿司にしても以前は酢飯ではなく発酵させていたものが本来の寿司だとも言われている。

 発酵したものを創る文化は日本に限られたことではないが、大豆や米を発酵させて食品や酒を造る文化は日本独特のものと考えてよいだろう。おそらくだが、西洋人は何故かビジュアル的なものにこだわる傾向がある気がして、いかにもキラキラ・フワフワしたものでなければ精霊・こびととして認知をしないような気がするが、日本人はそういう感覚があまりなく、そういった『菌』も自分たちの仲間であり、家族の一員として受け入れていたような気がしてならない。それこそ、我々の体内にはさまざまな『菌』が住んでいて、それらと共に生きている。悪い菌もあるが、それこそ良い菌が我々の体内に住んでいなければ、それこそ病気になったりすぐに死んでしまうこともあるだろう。 

 「結果」にコミットする西洋人達に「自分たちは『菌』と共に生きている」という発想を持つことは出来るのだろうか。それこそ人間という個体を、機能的に考えてどこかに故障が出れば、その故障個所にフォーカスして対処方法を考えるというような、目に見える世界の中の世界観に帰結している気がしてならない。

 そして、やはりそれは日本語という言語構造からしても「目に見えない何かしらの力」を動かすような構造になっていて、そういった言語構造の言葉を日常使っている我々日本人は、やはり「目に見えないけどあるであろうなんらかの力」と共に生きている民族のように思えるのだ。そもそも西洋の言葉は、必ず「主語」から始まる。「I」だの「You」だのというそれなのだが、日本語は主語があってもなくても何故か言葉が通じてしまうのだ。それこそここに「見えない何らかの力」を動かしてしまう秘密があると言って過言ではないだろう。

 それこそ『菌』よりも目に見えない精霊でありこびとを使うことが出来るのが日本語なのかもしれない。もちろんそれらは西洋の言葉も原理さえ分かれば使うことができるのだが、日本語はその今ここで言うところの精霊だのこびとだのを読んでくる原理、仕組みが分からなくても勝手にそれらを呼び寄せてしまう言語になっているのだ。もうすでにお分かりとは思うが、言葉によるそれらを召喚する原理は『曖昧さ』にある。あきらかに日本語と英語の言語構造を比較すれば、日本語の方が英語に比べて『曖昧さ』を持っている言語であることは疑う余地がない。おそらく西洋人達には、日本人達の『曖昧』でまわりくどいものの言い方にストレスを感じる者達もいるかもしれない。その反対に英語話者のあの直接的な言い方は、私にとっては少なくともストレスを感じずにはいられない。海外に行くと、あまりにも西洋人達が人と物を同じように扱っているようにも見えてしまうし、常に命令されているような気がしてしまうのも、別に彼らの性格がどうこうというよりも、その言語構造がそれらを創り上げてしまっているのだからしょうがない。ということは、言語が人の性格 の輪郭をつくっているとも言えなくもない。

 この『曖昧さ』であれ、まわりくどさの中に日本人性が潜んでいるような気がしてならないので、『菌』であれ発酵技術のようなものは時間がかかる。そして、日本人は『菌』そのものをただの現象としてではなく、生き物として寵愛しているようにも感じる。「共に生きている」という感覚だ。ワインやビール、チーズやヨーグルトなど西洋にもそれらのものは確認できるが、日本人のように「菌と共に生きている」という感覚でそれらを果たして作っているのかというと怪しいところだ。もちろん彼らに聞いてみなければわからないし、西洋人という領域においても、その中でも周波数の高低差はあるのだろうから、日本人的な西洋人も存在するだろうから、日本人的な世界観に近い世界で生きている人達が、そういった発酵文化を見つけた可能性もあるだろうし、そうではない可能性もあるが、少なくとも、日本人の発酵文化は、やはり低周波的であり、結果にコミットしている世界観ではなく、過程を大事にして、さらに『菌』というお友達との共同作業の中でそれらのモノたちを共に創り上げている感じがするのだ。

 そう考えると、日本的というか「和風」というか、日本を感じさせるものというのは、自然と共に創り上げている感じがするものが多いと感じるのは私だけだろうか。無機質な感じの鉄筋コンクリート的なものであったり、金属的なものに「日本っぽさ」を感じる事は無く、やはり木製であれ、自然物で創られたそれらのもの達に我々は「日本っぽさ」を感じる。そもそも植物一つとっても、育つのに時間がかかる。これは言ってみれば低周波的なゆっくりとしたスピードで育ったものを使って、何かを作るという営みであって、それが鉄筋コンクリート的な人工的な材料で創られたものは材料をつくるにも一瞬とまではいかなくても、ここで言うところの高周波的な材料を用いて作っていると見ても良いのではないだろうか。

 その両者を比較すると、やはり「馴染ませるまでに時間がかかる」というような「馴染む」というコンテクストが存在しているのではないだろうか。そして、「大和魂」というものは、その培ってきた伝統によってすでに我々日本人は、本来意識しなくても自然のそれらに自然と馴染んでしまっていて、一種の同化のような現象が起こっていると考えても良いのかもしれない。そういった意味合いにおいても、日本人は精霊、こびと使いだという仮説に対しても、それほど間違った方向には進まないような気がする。

 日本人は自然を愛し、調和し、そこに存在する目には見えないさまざまなものたちと、共に世界を創り上げる。そういった生き方の中に「大和魂」を発言するスイッチのようなものが存在しているような気がする。少なくとも、今の時代は昔の日本に比べれば相当『西洋』が入り込んでしまって、さきほどとき正反対に我々今の時代の日本人には『西洋』が当たり前のように馴染んでしまっているとも言える訳で、敢えて、「日本に馴染んでみよう」と意識的に、純日本っぽい自然と人々の生活が混ざり合っているような日本っぽい文化に触れてみたり、生活を数ヶ月に1度してみて「大和魂」を感じてみることは、我々日本人にとっては大事な事だろうし、それは今から百年経っても二百年経っても同じことが言えるだろうし、もし同じことが言えなくなってしまったときは、もうそこに「日本っぽさ」だとか「大和魂」は消滅してしまったことを意味するので、個人的には、「日本っぽさ」が長くこれからも残り続けて、独自の世界観を醸し出し続けてほしいと願わずにはいられない。