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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

10:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

10:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

 

 では、この章の最後に今の時代の日本の宗教観について考えてみたい。日本のメイン宗教は仏教だというイメージがあるが、もはや日本人達に「仏教徒」と呼べるような人間はかなり少数で、それこそ葬式の時に形だけ仏教的な事を行っているだけで、日常仏教的に生きている人間等ほとんどいない。それこそ、クリスマスイブ・クリスマスにはお祭り騒ぎ、最近で言えばハロウィンではもっとお祭り騒ぎ。そして、西洋の音楽やら踊りに興じ、服装にしても和風な格好をしている人間等ほとんどいない。

 西洋人達は週末に教会に行くなどという風習があるかもしれないが、日本人にはそういう風習が昔はもしかしたらあったかもしれないけれど、基本的にはない。それこそ、「日曜日」などいう文化自体が日本のものではないだろう。もう日本の良くも悪くも「迎合的融合力」がこれまた独特のなんなんだかよく分からない無宗教的全体的な宗教の様で宗教ではない空気を皆で創り上げた。神さまはいるようでいないような世界観。仏教の方が都合の良い時は仏教キリスト教の方が都合の良い時はキリスト教、というような言ってみれば「いい加減教」が「Japan教」なのかもしれない。

 宗教的には「これ」というものは縛られない今の時代の日本人。だけど「戦後の祟り」にはガッチリ縛られてしまう日本人。もはや、ここまでカオスなフリースタイルをかます日本人は、騙す騙さないなどいうことも一向に気にせず、来るもの拒まず状態で、どんどん良くも悪くも取り入れて融合してしまう、奇妙奇天烈な民族にいつの時代からなってしまった。

 だけど、元からちょんまげだのハラキリだのと日本人の考えることは、世界から見れば奇妙奇天烈だったのだから、そんな日本人が『西洋』を取り入れ、伝統的「オタク力」を発揮して新しい世界を作った結果、こんなんなっちゃいました。って事なのだろう。

 やはり、島国という大陸の人間から見たら、日本という領土は牢獄的な部分は少なからずともあるのではないだろうか。大陸に住んでいれば、中国もヨーロッパも陸続きで、それこそ他国との交わりも盛んだけど、海外の人達から見れば日本というのは、日本人から見た沖縄のようなものなのかもしれない。その「狭く限られた空間」の中では、「いかに工夫して内に籠って楽しむか?」という問いに対する対話を多くの日本人達は常にし続けていたのかもしれない。日本人は意識を外に向けることは、これまでの考察からしても得意の様には思えない。だから、各地方毎に得意なものがあるのだろうし、こんなに狭いのに県民性のようなものが見られるのは日本人の「オタク力」からくるものなのではないだろうか。戦国時代はとっくの昔に終わったけれど、それは今の時代においては、形を変えてB級グルメだのゆるキャラだのに形を変えて未だに戦国時代ごっこをしているのかもしれない。

 たしかに、日本人が今の時代において、日本人だけが持つ「大和魂」を発揮させて、そのポテンシャルを如何なく発揮させるためには、「どうやってオタク力が発揮できる場を作るか」というコンテクストは非常に重要な要素になり得ると考えて良いだろう。そして、同時にそれはある罠と表裏一体の関係になっている事も忘れてはいけない。「融合力」は油断すれば「迎合力」になり、利用するためにかぶった鉄仮面は油断すればそれが鉄仮面であったことを忘れて、仮面が自分の皮膚に馴染んできて本来の目的を忘れてしあさっての方向で、ひたすらオナニーを覚えた猿以上に、ひとりよがりをしてしまう弱点も日本人のこの「オタク力」には備わっている事を忘れてはいけない。もちろんひとりよがりがその人間だけで終わるのであれば、好きなだけオナってれば良いと思うが、日本の歴史を見る限りそれが義務教育に結びついてみたり、社会の義務的な価値観と結びついて国民全体を縛り上げる亀甲縛り以上に、結構どころじゃないぐらいキツイ縛り上げをしてくれる「縛られ気質」に日本人はあるようにも見えるので、このバランス感覚であったり、手綱コントロール力は各自で注意しながら持ち続けるべきだ。

 例えば、クリスマスとハロウィンぐらいならまあ良いのかもしれないが、いつの間にか毎日が『西洋』的なイベントみたいになってしまったら、もはやそれは融合ではなく迎合だろう。悪い例で言えば、頭の悪い日本人サッカー指導者が『西洋』にかぶれて「日本人もスペイン人の真似して世界のトップクラスになれ」みたいなああいう考えだろう。あれはまさに融合ではなく迎合だろう。政治家でも「融合」と「迎合」の違いが分からず、必要以上に『西洋』に無駄に尻尾を振ってる売国奴のような人間がいる。それこそ国民は、自分が一票投じる対象の人間が、「融合力」のある日本人として今の時代を引っ張る力を持っているリーダーであるのか、「迎合力」の高いみっともない売国奴のようなハゲタカ共の手下のような輩なのかだけはしっかり見極める力を持つべきだろう。大体「迎合」してしまうような頭の弱さと心の弱さを兼ね備えた人物というのは、教育の考察の時に外国人が日本人をDisったあの言葉、自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」が象徴するような人間力の低さ、そして愛国心の欠如から来る頭の悪さがその発言であり、行動に滲み出てしまっている。それは加齢集のキツイオッサンが満員電車でとなりにいた時のあの強烈な悪臭と比べても比べ物にならないぐらいの悪臭を放っている。もう日本人はその悪習だけは絶たなくてはならない。そうしないかぎり、世界が我々にしている拍手は、賞賛の意味合いでの拍手ではなく、嘲笑の意味合いでの拍手になってしまうことだろう。

 それこそ、今の時代にとっての日本人に対して行うべき義務教育とは、「融合」と「迎合」の違いをしっかり理解して、融合できる力を兼ね備えたおもしろ民族日本人として育っていく事だろうというのが、ここまで日本と対話し、考察してきた私個人の見解であり結論だ。何かに謀殺されることなく、磨くべきは洞察力であり、迎合して吞み込まれることなく、包括するだけの包容力を持てるか、それとも呑み込まれるか言ってみれば囲碁の世界観のようなものなのかもしれない。「どっちが大きく包み込めるか」的な。大和魂を発現させるための世界観であり、意識する事はこのあたりだろうと私は総括する。

9:最後の3S「SEX」についての考察

9:最後の3S「SEX」についての考察

 

 ここで、みんなが大好きな「SEX」についての考察をする前に、戦後の3S政策なるものについて共通理解を深めておきたい。3S政策とは大体はこのようなものだ。

 

[3S政策]

3S政策とは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策

 

 みたいなものだが、「本当にこんな政策あったのか?」と問われれば正直分からないし、実は個人的にはなかったんじゃないだろうかと思っている。だけど、「政策」があったかどうかが重要なのではなく、個人的にはこれら「スポーツ・SEX・スクリーン」によって日本国民が愚民化した事実があるかどうかの方が大事な論点だと考えている。

 皮肉な事に、少なくとも今の時代においてこのような「スポーツ・SEX・スクリーン」によって日本国民は愚民化させられているようにしか見えず、もっと言ってしまえば、「スポーツ・SEX・スクリーン・酒・スマホ」の5Sのように見えてしまうのは私だけだろうか。

 そしてこの項ではこれらによって我ら日本人達が愚民化しているのかどうかを考察したり論述したりするのではなくすでに「スクリーン」関係と「スポーツ」関係においては考察したので、最後に「SEX」についても日本が戦後どのようになったのかを考察して、そこに「大和魂」の何かしらの要素を見つけ出せるかにチャレンジしたいとので取り上げているだけで、「日本を3S政策によって愚民化されたのだ!」という主張をしたくて書いている訳ではない。考えやすいから利用しているだけに過ぎない事は了承していただきたい。そもそも、ここまでの流れで、私個人としては、明治あたりの伊藤博文の時代の『西洋』かぶれが、日本国民としての国民レベルが著しく下がったように見えているので、愚民化計画が戦後にあろうがなかろうが、すでにその当時には日本人は愚民に化しているという見解だったりするので。

 さて、「SEX」性的なものに関してだが、やはりここに関しては、漫画・アニメ・コンピューターゲームの中に見られた日本人のおたく性が発揮されたジャンルのような気がしてならない。

 まず、日本のAVの文化だが、あれは外国人から言わせたらやっぱり漫画・アニメ同様日本独特の進化をしているように見えているのではないだろうか。さらには、最近で言えばAV女優はアイドルのような扱われ方をしている風潮まであったりする。

 そして、風俗産業だが、海外にもさまざまな形で存在はしているだろうけど、日本的な感じで風俗産業がバリエーション豊かになっている国など果たしてあるのだろうか。おそらくないのではないだろうか。やはり、この「SEX」産業においても、日本は愚民化したかと思えば、またそれを楽しんで「迎合的融合」を果たして、Japanオリジナルへと昇華させてしまっているような気がしてならない。

 しかし、この「SEX」産業が、漫画・アニメ・コンピューターゲームと異なる点は、その対象となる商品が生身の人間であり、それは女性であるという点だろう。その為、エロい男性たちは外国人であっても「日本の「SEX」産業は素晴らしい」と称賛する者たちもいるかもしれないが、女性たちからは賞賛などされることはないだろうし、男性からもあまり賞賛されていない可能性もあるかもしれない。

 これは日本人と西洋人の大きな文化の違いだが、西洋人達には「レディファースト」的な風習があるが、日本人にはその風習はない。どちらかというと日本は男尊女卑的な差別史観が歴史的にもあった。以前は、女性には選挙権が与えられなかった時代すらある。その流れからやはり「女性を性的商品に」という男尊女卑的発想があるような気がしてならないが、今度はその商品にされている女性たちもれっきとした日本人であり、それらを上手に利用してたくましく生きている女性がいるようにも見える。

 そのあたりについては、宗教の自由と同じで、何が正しくて何が間違っているのかは定義することは難しいだろう。本人が望んでやっているのであれば、他人が止める事もないのかもしれない。

 しかし、海外と比べて特異な風俗サービスがある。それは何かというと「キャバクラ」だ。この「キャバクラ」文化というものは日本独特の文化なのだ。そもそも、「女性とお話するだけでお金を払う」という事自体、西洋人達から見れば日本人達の価値観について理解を示すことができないのではないだろうか。

 そう言えば、私が以前NPO活動をしている外国人の方達を日本に読んで、お世話をする的な活動をした時に、とあるニュージーランドの方と早朝明治神宮に散歩をしたのだが、その時に彼女は私にこんな事を言っていたのを思い出す。

「なぜ、日本人はすれ違う人にあいさつをしないのだ?」

 外国では、見知らぬ人とでも会話を交わすのが当たり前なのだろう。しかし、我々少なくとも今の時代の日本人は見知らぬ人になど話しかければ、不審者と間違えられそうな暗黙のルールに縛りあげられて、見知らぬ人たちに積極的に話しかけようなどという事はしない。男性から女性に話しかけるなど、何もないのにすれば「なんだこいつ?」と思われそうな空気が日本には漂っていて、気安く話しかけることが出来ない。そんなだから、「キャバクラ」文化というこれまた奇妙奇天烈な文化が誕生してしまう。海外では、飲み屋に行けばもうその空間の中にいるというだけで「もはや仲間」という感じなのだろう。しかし、日本にはそういう空気が流れていない。

 ここに関しては、日本に古くから男尊女卑的な空気が流れていたからという部分から、「男女平等」のようなあるパワーバランスが崩れたことによる歪みなのではないだろうか。そして、日本人はこれまでの考察通り「オタク的」つまり「内に籠るタイプ」なのだ。となると、あまりむやみに見知らぬ人たちと仲良くなって何かをしていこうという気質に乏しい感じがするのだ。そうでなければ、「オタク」文化がここまで発展すること自体がおかしい。

 そして日本の「SEX」産業というのは、悲しい事に「日本人らしさ」をものすごく集結しやすい王手飛車角獲り的強さを発揮できる程、日本人の得意とするポテンシャルを集結できる産業になっているように見えてしまう。

 というのも、日本人の2D的妄想力、世界観であれキャラクター設定、つまり「ごっこ遊び」の天才である日本人の日本人特有のポテンシャルを如何なく発揮できる産業が、この「SEX」産業だったのではないだろうか。それこそ3S政策が我々日本人をどれだけ愚民化させたかは分からないが、「SEX」産業に関しては、日本人達をそれこそかなりこの世界に没頭させた事実は拭うことが出来ない事実だろう。

 宗教観という観点からも、西洋人達が「SEX」を日本のようにこんなに「商品」化させているとは思えない。それこそ、神への冒涜というような見方を彼らはするのではないだろうか。日本人は「オタク」気質なので、ハマってしまうととことん掘りまくってしまうので、もう歯止めが効かない位独特の文化を築き上げてしまうが、私自身も日本人なのでその気持ちは痛い程よく分かるが、やっぱり掘り下げるのは、「SEX」産業ではなく、もっと重要な事が沢山あるのではないだろうか。という点において、やはり、日本人は「SEX」産業によって愚民化した事は紛れもない時事なのだろうと私は考える。

 こういった性的な問題は、人権的な問題と密接に関わっているので、法律のようなルールで縛るというよりも、一人一人が考えて道徳的にそれらについて損得よりも人間としての人間レベルというコンテクストに載せてどう説くのかをしっかり考えていかないと、次の世代にもまた教育の問題と同じで、負の相続をさせてしまうことになってしまう。

 たしかに、「愚民化」という観点で言えばそれは「骨抜き」という事だろうから、麻薬関係に関しては言語道断だろうが、中毒性であったり、条件反射で反応してしまうようなものは、すべて愚民化の方向へ進む恐れのある危険な対象なのかもしれない。人間の欲を掻き立て、歯止めを効かぬ状態にしてしまう対象には細心の注意を払わない限り、「大和魂」云々の前に、人として愚民と化してしまう。

 特に男にとって「性的なもの」はとてつもなく甘美な芳香を醸し出して油断すれば一発で天国から地獄へと堕ちる恐ろしい罠である事は歴史をなぞっても、言わずもがなの内容だろうから、寝ている時も曲者に警戒する殿様のように、警戒し続けるぐらいでちょうど良いのかもしれない。

 しかし、その日本人の類稀なる「オタク力」によって発展させた「SEX」産業で培ったそれらの妄想力であれ、世界観の構築力を是非、多ジャンルの産業で活かして、胸を張って自慢できるジャンルの中で、その「オタク力」をフル勃起ではなく、フル発揮しするためにすぐ発起するべきだろう。

8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察

8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察

 

 日本好きの私が、一番嫌いな日本の文化は間違いなくこの「学習塾・お受験文化」だろう。そう考えると、私は実は日本人らしくないのだろうかと思ってしまう節もある。正直、どんな刑罰に処せられることよりも、私は「お受験の刑」に処せられるのが一番苦痛かもしれない。もうとにかく、この文化が嫌いだ。

 では、この悪しき文化は明治維新であれ、戦後であれ『西洋』の持ち込んだ異物なのかといえばそうではないようだ。むしろ西洋であれアメリカの教育は、日本の教育と比べて「のびのび育てるスタイル」だったりする。それこそ、西洋人達は日本のこの「学習塾・お受験文化」を蔑視している。それこそ、「子どもを厳しいルールにがんじがらめにするな」「日本の学生はどうしたら試験に合格できるかを教えられ、どう考えるべきかは教えられない。」「日本の教育は、単なる公式に100%当てはめてるだけ。」「学生たちは誰ひとり自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」と、言いたい放題Disの嵐だが、私自身もこれらの意見に対してme tooとしか返せないし、反論する気持ちもない。まったくの同意見だからだ。

 それなのに、なぜ日本人はこの腐りきったもはや教育と呼ぶこと自体に嫌悪感を抱いてしまうこのクソシステムをずっと採用し続け、さらにもはや「家に帰るまでが遠足」という校長先生がよく言うことあるあるとフラクタルの関係のように見える「学習塾に通わせるところまでが義務教育」みたいな事をしているのだろうか。個人的には、トランプ大統領に「日本よ、お前の国から「学習塾・お受験文化」を撤廃しないとミサイル落すぞ。」ぐらいに警告してもらいたいというのが私の本音だ。とにかく馬鹿げているとしか思えない。タバコ以上に百害あって一利もないのが、この日本の「学習塾・お受験文化」だ。

 では、なぜこのような世界から蔑視されても続けるそれこそ、こんなクソ文化にしがみついているという事が理由でイエローモンキーとバカにされるのであれば、甘んじて受け入れるしかないような頭の悪い文化に日本人は固執しているのかを考えてみたい。ちなみに海外に不登校児のような存在がどのくらいいるのか知らないが、確実にこの

「学習塾・お受験文化」というクソ文化のせいで、学校に行きたくない子どもたちが増加しいるのは間違いない。もっと楽しくやれば、学校生活だってそれなりに楽しかったりするはずなのに、人間をロボットのように扱おう的な事をしていけば、そんなの病んでいくに決まっているし、感覚の鋭い人間達にすればそんな「人間をロボット化」するような場所に行きたくないと思うのは当然だし、そもそも子どもと大人という関係において、逆らう事さえできず、それは言ってみれば犯罪を犯して入れられる刑務所のような事になっているのだから、そこにお行儀よく通えること自体がもはや病的なのだ。

 それこそ1章で「人間をモノのように扱う民族」と私は西洋人達の事を称したその西洋人達に「日本人の教育は人間をロボットのように扱っている低能なもの」と蔑視されているのだから、もうここについては何も言い返すことが出来ないし、なんでそんなことをするのだろうかと本当に残念でならない。

 私はこの「学習塾・お受験文化」についても、これは戦後の「復興モード」が創り出してしまった一つの応急処置的教育システムなのではないかと推測する。とにかく、復興している時には「優秀な労働力を効率よく量産していく」という戦略は、まあ想像しやすい。そこに「競争システム」を大人になって社会に出る前から、学生時代に植え付けてしまおう的な発想も出そうな気もする。もしも、当時「学習・お受験文化」によって復興のスピードを劇的に加速させた可能性もある。子どもも大人も「追いつけ・追い越せ」的な空気で日本全体が「復興して、世界を追い抜くぞ!」という追い風というか神風を利用したようなものなのではないだろうか。

 そして見事日本は復興し、復興しただけではなく世界トップクラスの経済大国になれた。そして、もちろんお決まりの日本の悪い癖というか、副作用の「応急処置モードをひたすら進化させてしまう日本人性」がここにも発揮されてしまう。もうそんな「追いつけ・追い越せ」なんて事をしなくてよいのに、さらにその「学習塾・お受験文化」を日本人の優れた加工・進化能力によって、ポケモンのキャラクター以上に進化させていくという事をし始めて、今の時代の「学習塾・お受験文化」がここにある。

 例えば、お隣の国が未だに日本に「戦争の時の損害賠償をしろ」と言い続けているが、「もういいんじゃないの?」というのが私の本音だ。何代まで祟れば気が済むのだろうかと思ってしまう。それは「戦争でやったことを正当化」したい訳ではない。例えば犯罪を犯した祖父の罪を孫が背負う必要などどこにあるのだろうか。という事を言いたいだけだ。

 それは実際にこの「学習塾・お受験文化」もそうなのだと私は強く訴えたいのだ。もう裕福になった国日本にこんな「追いつけ・追い越せ」文化は無用の長物であるし、もっと言ってしまえば「戦後の祟り」みたいなものだ。これによって、どれだけ日本の若者のポテンシャルがボロボロにされ、さらに言えば裕福になったというのに「過労死」などという情けない社会現象を作り出してしまう始末に負えない不始末を起こす国に成り下がってしまっているのは、本当に悲しい事だ。もちろん、このような事を文部科学省に意見したところで、馬の耳に念仏状態であるだろう。

 本来、日本の上に立って国であれ国民をコントロールする者達は、誰よりもこの「戦後の祟り」を取り除く事に心血を注ぐべきだったのだが、今の時代の日本を見る限り、国民の所得を倍増させることに関しては躍起になったが、そのミッションを達成した後の計画までは考えていなかったという事が良く分かる。日本の教育は後手後手で、それこそ以前「ゆとり教育」などというテコを入れてみたりもしたが、まったくビクともせず、それこそ未だにコテコテの「学習塾・お受験文化」が蔓延ってしまっているのが現状だ。

 外国人達が日本をDisっている中に、「自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」というようなDisがあったが、もう日本の教育における「戦後の祟り」を除霊する事に対してはもう国になど頼ったところではどうしようもならないし、それこそ、日本は子どもを金稼ぎのターゲットにしてしまった。もはや「教育」であり「子ども」というのは、銭ゲバ達から言わせれば金を稼ぐための対象でしかない。

 本気で、日本の教育をどうにしかしようという気持ちのある人間達でなんとかするしかない。それが小さなことでも良いから、ネットワークをつくって自分の言葉で自分の意見を述べることができる人づくり」の環境をつくっていくしか、日本のあ式教育システムを破壊して、変えていく事は出来ない。時間がかかろうが、いくら邪魔されようがこれだけは本気で日本の教育における「戦後の祟り」を成仏させてあげない限り、日本はさらに上のステージにはたどり着けず、それこそ何かしらの傀儡として日本という形をいろいろと保てなくなる危険にすでに晒されていて、それはもうだいぶレッドゾーンに近いレベルのイエローゾーンにいる事に気付かないとまずい。

 もちろん、このような心配をよそに、子どもたちであれ若者たちは、その「戦後の祟り」にやられずに逞しく生きている若者たちも少なからずいるので、彼らに期待するというのも一つの手だろう。前著『自分』を最大限生かす人生戦略の中でも書いたが、今の時代は「学習塾・お受験文化」という「社会のレールゲーム」など流行らないし、コスパも悪い。早急に領土ゲームの経験値を積んで、自分の領土統治をして自分の作り上げたい世界を創って幸せ生きていってもらいたいと私は願う。

 それこそ、日本人は「妄想の天才」なのだから、「自分の内側の世界」で、世界を驚かせるトンデモワールドを創り上げて、「自分の外側の世界」にそれらを上手に投影して、それこそ「学習塾・お受験文化」→「就活文化」→「過労労働文化」というレールに乗って消耗しまくる人生を送る者たちを脇目に、常夏以上の楽園ベイベー人生を謳歌してくれる日本人タチだらけになる事を期待するのと共に、私自身もそういう日本の教育システムが広がる何かを作って提供できるように出来る限り尽力していく事にする。もちろん仲間は多いに越したことはない。

 戦後日本の良い部分は徹底的に伸ばし、戦後の祟りであったり、悪しき部分は徹底的に見直して改善する。先人たちが蓋をしたままの「臭いもの」の蓋を開けて向き合うのはたしかに大変かもしれないが、誰かがどこかの代でやらなければ、それはさらに腐敗臭を増して、次の代へとキャリーオーバーしていくだけだ。

 戦後の祟りは、孫・ひ孫の代でなんとかそのツケはきっちり清算してやりませんか?という提案が私の提案だ。誰も乗っかってこなかったとしても、孫悟空の親父のバーダックのように一人果敢に挑むまで。フリーザよりは難攻不落ではないでしょう。せめて文部科学省ジャイアントスイングかますぐらいまではしたい。そのフラフラになったところを誰かが一発シャイニングウィザードでもかましてくれれば、日本の悪しき教育スタイルもK.Oされるのではないだろうかという訳の分からない事を述べてしまったので、それこそ意味不過ぎてWhat say?だろうけど、西洋人達にDisられないように、私自身の自分の言葉で自分の意見を述べる」っていうここに関してはちゃんと明示することは出来ただろう。

7:日本とスポーツについての考察

7:日本とスポーツについての考察

 

 ここまでは、漫画・アニメ・コンピューターゲームという3S政策的コンテクストでいうところの「スクリーン」的な要素が強かったジャンルについての考察をしてきたが、今回は「スポーツ」について考察してみたい。実際のところ、スポーツは日本にどのように入り込んできたのだろうか。やはり、明治時代に『西洋』がドッと入ってきた時にスポーツも入ってきて、それからいろいろと入ってはきたり盛り上がったりして、今の時代に至るのだろう。そういうことで、おそらく力比べ、速さ比べだったり武道的なもので競い合ったりすることはあっても、あまり日本発の球技のようなものはなさそうだ。そう考えると、スポーツというものは『西洋』的な文化が強いと言えるだろう。

 そして、イメージ的にも事実としても日本人は野球を好む。ではこの野球は戦後、アメリカに首輪をつけられてから広まったものなのかと思えば、その前には野球は日本人に好まれていた風潮がある。しかも、野球は野球と日本では当たり前のように呼ばれている。「ベースボール」といちいち英語で呼ぶ日本人はほとんどいないだろう。それに比べ、サッカーを「蹴球」などと呼ぶ日本人はほとんどいない。サッカーはサッカーだが、日本人にとってベースボールは「野球」と呼ぶ。何が言いたいのかというと、そのくらい「野球」というスポーツは、「ベースボール」をこれまた日本人のセンスで「野球」という日本人的スポーツにしてしまった一つの例のような気がしてならない。

 バレーボールはバレーボールだし、ラグビーにしてもバスケットボールにしてもテニスにしても日本語的なよく分からない「庭球」だの「籠球」だのあるし、ごくたまに見かけるけど、そんな呼び方でそれらのスポーツの事を呼ぶ日本人など皆無に近い。「明日、籠球やろうぜ。」なんて言っている日本人を私は見たことがない。日本語で呼んでも馴染みがある球技は、「野球」と「卓球」ぐらいではないだろうか。まあ卓球は中国からやってきたスポーツだから漢字読みで当たり前なのかもしれないが、と言おうとして調べてみたら、どうやら卓球ももとは西洋のスポーツで中国が後に目をつけて国技にした歴史があるらしいのには驚きだ。とにかく、我々昭和生まれの人間にとっては日本人のスポーツと言えば野球というイメージが強い人間は多い事だろう。

 なぜ、日本人は野球を愛したのだろうか。おそらく野球というゲームの性質が日本人のDNAというか気質と相性が良いからだろうと推測する。野球の中にある「何か」と日本人の中にある「何か」がフラクタルな関係にあるのだろうけど、その部分はどこにあるのだろうか。

 今はちょっと違うが、21世紀に入る前までは、それこそ日本人は世界から見たらサッカーという協議においては「ヘタクソ」の部類にいた。ワールドカップに出場できたのは1998年が初めてで、予選を通過して決勝トーナメントにまで進めたのは2002年の自国開催時と、2010年の南アフリカ大会しかない。それに比べ野球に力を入れている国の数は、サッカーに比べて圧倒的に少ないとは言え、日本は野球の世界大会WBCでは世界一にもなっているし、常にトップクラスの成績を収めている。この違いは一体何なのだろうか。そして、アメリカ人もサッカーは最近結構強いけど、どちらかというとアメリカ人と言えばサッカーよりもベースボールだろう。

 そう考えると、日本とアメリカは野球・ベースボールであって、西洋の国々はサッカーを好む。この性質はなんだったのだろう。日本のサッカーのレベルは世界に追いついたようにも見えるが、イチローのような世界の頂点に立てるようなレベルのスーパースターは日本のサッカー選手にはいない。やっぱり日本人は野球のような性質のものに向いている気がしてならない。

 それこそ「フラクタル」という事を考えれば、野球のバットと、侍が手にしていた日本刀。あそこにフラクタルな関係を見つけられるが、こじつけている感がしないでもない。だったら、ボールを投げるというこれは、過去の日本の歴史の中の何とフラクタルな関係にあるのだろうか。

 しかし、日本人にはサッカーボールをリフティングする曲芸的な「フリースタイル」になるとレベルの高い選手が多かったりする。これは日本の蹴鞠とフリースタイルがフラクタルな関係にあるからなのだろうか。そうすると、「球を投げる」という何かと、日本の過去の歴史においてフラクタルな関係にある何かがあると考えた方が妥当な気がする。合戦の時に石でも投げていたのか、それとも何か投げて鳥にでも当てて捕まえていたのか、モリを投げて魚を捕まえていたそれなのか、はたまた別の何かなのか。

 いきなり唐突に「過去の歴史・伝統的な何かとのフラクタル要素のある者は日本人は強い説」を掲げてみたが、なんかそういうのってあるんじゃないかって気がしてきた。これはちょっと気持ち悪い話なのだが、胡散臭い「こいつ大丈夫か」と思わせるような自称スピリチュアリスト・霊能力者が「なぜイチローはあんなに凄いのか?」みたいな事に対して大体こんなことを言ってくるのだ。それはどういう屁理屈かというと、「イチローの過去世はそういうものを投げたり走ったりする仕事をしていて、それが引き継がれているから今の時代野球選手になって偉業を成し遂げているのだ。」というような根も葉も根拠も論拠も何もない理屈なのだが、「過去世」がどうとかは眉唾以下のトンデモ話だとしても、「日本人のDNAとしてのフラクタル現象」としては、西洋の歴史・伝統的な要素の強いスポーツよりも、日本の歴史・伝統的な要素とフラクタル要素を感じるような所作を要求されるスポーツの方が、日本人は強さを発揮しているのではないだろうかというこの推測は、それほど的外れの予想ではない気がするのは私の思い込みなのだろうか。

 だが、これだけでは説得力に欠けるのは承知の上で論述してしまったので、何かしらもう少し「あ、もしかしたらそういうのってあるかも。」というような何かを見つけたいなと思うのだが、逆に今立てた仮説に対して反論をしようと思えば、いくらでも反論出来る気がしないでもない。例えばスキーのジャンプが異常に日本が強い時があったが、あれは過去の日本の歴史の何とフラクタルな関係にあったというのだろうか。それこそ特攻隊とフラクタルな関係にあったとでもいうのだろうか。

 日本は体操競技も強い。これは一体何とフラクタルな関係にあったのだろうか。明らかに日本が歴史上どの年代でも大した成績を残せていないスポーツと言えばバスケットボールだが、日本人の遺伝上の「そんなに背の高い人いない」という部分以外にも、あのようなスポーツとフラクタルな関係にある所作がなかったのだろうか。

 フィギアスケートに関しては、いつの間にか日本は男女共に強豪国になっているが、どちらかというとあのスポーツはもっと昔から日本が強豪国になっていても良い気がする。あの競技は以前から日本の伝統芸能的な要素とフラクタルな関係があるように見えたからだ。

 と、少しこじつけ気味に、日本人性とスポーツの何か面白い関係が見つけられればと思い考えてみたが、今の時代で考えれば、テニス選手にも日本人ですごい選手はいるし、サッカー選手にしてもそれなりに世界で活躍している選手はいるし、大体の競技で何人かは世界のトップで戦っている日本人はいるので、「日本だからと言ってこのスポーツに特化している」というよりも、「人間」としてのアスリート的なポテンシャルをどう発揮できるかを知っている者が日本人だとか西洋人だとかに関係なくスポーツの世界では、「人間」という部分での優劣の方が強く関係しているのだろう。

 スポーツの中で、漫画・アニメ・コンピューターゲームのように「圧倒的に日本人とんでもなくセンス高すぎ」というような競技もないし、選手もいない。いるとしたらイチローなのだが、それこそイチローが「大和魂」を日本のアスリートの中でひとり発動させているかどうかの研究をしないといけなくなるが、「イチローだけ」というのはちょっと不思議な話になるし、そこまでイチローが一般人離れしていた生活をしていたとも思えないので、大和魂とスポーツに関係しているところを見つけることはなかなか難しい。前項の漫画・アニメ・コンピューターゲームで考えれば、日本人は「妄想力」がとんでもないという仮説が立つので、「スポーツと妄想力はそれほど関係ない」と言えるのかもしれない。それこそ、誰かがイチローに「イチローさん、あなたとんでもない妄想大好き人間ですか?」とインタビューして、「はい、僕は子どもの頃から三度の飯よりもぶっちゃけてしまうと、野球よりも妄想する事が好きでして・・・」とかい出してくるのであれば、もう大和魂の正体は「妄想力」って事でも良い気がするのだが、おそらくイチローはそんなに妄想大好き人間ではない気がする。

 ただし、スポーツというものは「自分のイメージした通りに体を動かすことが出来るか」という問題に対して、それを身体的なパフォーマンスで実際にその通りに応えることができるかどうかという「想像」と「運動」の連動であり対話であると見ても良いので、イチローの逸話で良く掲載されているような情報から考えてみると、「ルーティン」であり「反復練習」というものは、「想像」という自分の内なる世界と「運動」という自分の外なる世界をつなぐ架け橋のような何かを架ける所作なのかもしれないという仮説は出てくると言えば出てくる。しかし、そこに「大和魂」という言葉を彷彿させてくれるような何かは匂いすら感じ取れない。

 これまでは、スポーツという競技であったり、スポーツを行う選手にフォーカスして考察してみたが、観客というかファンというかサポーターというか「スポーツを観る者」「スポーツを応援する者」側に、日本人特有の何かがないかを考えてみたい。

6:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察

6:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察

 

 漫画・アニメに負けず劣らず、madeinJapanのコンピューターゲームも世界から賞賛され、2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式で、マリオが登場したら世界中の観客達が大興奮するという具合なのだから、コンピューターゲームの領域においても日本の圧倒的な強さは揺るがない。やっぱり、「キャラクターの創作能力」においては、日本人は、世界と比較して圧倒的にセンスが高いのは間違いない。

 何故、漫画・アニメ・コンピューターゲームの創作能力が高いのかについては、やはり日本人は、頭の中でぐるぐるいろいろと想像して楽しむ事を伝統的にやり続けている事が原因だと考えた方が無難だろう。そして、西洋人達はそういう遊び方というか、楽しみ方を伝統的に持っていないため、そもそもそういう遊びをすることに不慣れなのだろう。

 極端な話をしてしまえば、西洋的な宗教間の中では、それこそ日本の漫画・アニメ・コンピューターゲームの類は「禁止している内容」なのではないだろうか。麻薬の類に似ている。しかし、世界はそれらの甘い蜜を吸ってしまい、教師達が隠し続けてきた、禁じ続けてきたそれらの味を知ってしまったのではないだろうか。それこそ、戦後我々日本人がいろいろと禁じられ、その反対に3S政策的に与えられた「日本人を骨抜きにするためのおもちゃ」を日本人達は与えられて骨抜きにされたかと思えば、日本人的な「迎合的融合力」を駆使して、今度は日本発の漫画・アニメ・コンピューターゲームを世の中に出して、世界を骨抜きにしようとしたかどうかは分からないが、それらを知ってしまった外国人達の中に、漫画・アニメ・コンピューターゲームの虜になって骨抜きにされてしまった人間達も相当数いるのだから、日本のお家芸合気道」的な「相手の力を利用して、さらに自分の力を加えてお返しする」という伝統的なやり口で、それこそ、核が危険だとかどうだかいうダイレクトな反撃方法ではなく、相手が仕掛けてきた事を加工し進化してお返しして悪気がないのに、浸蝕するという見方によっては、とんでもなく悪い集団が我々日本人なのかもしれない。そういう意味合いにおいては世界から見て、日本であり日本人という民族は危険極まりない連中ということも出来る。西洋の常識がまったく通じない非常識集団なのだから。

 実際、「日本の常識は世界の非常識」「世界の常識は日本の非常識」というような事を言われることがあるが、これは良くも悪くもであって、決して日本の常識を世界の非常識に迎合させていく必要もない。もちろん、今の時代日本が他の国と交流せずにやっていくことなど無理なのだから、世界の常識をしっかり学んだうえで、日本の強みを出して行く必要がある。常に「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」の意識は持ち続けるべきだろう。

 とはいえ、なんというか日本の合気道的センスは、西洋人達は真似したくても真似できないもののように見える。日本人が英会話を勉強する以上に難易度が高そうに見える。領土の狭い島国であるという性質から、海外から資源を輸入して、加工して新しものをつくって輸出するというここについては、良くも悪くもどうしようもない部分なので、やはり日本人は合気道的な民族なのだろう。海外のものを輸入して、日本人的合気道的加工力によって、日本人のセンスでしかなかなかつくれないものを創り、それらを海外に輸出して世界を驚かせれば日本はまだまだ沈む危険性はないように見える。「労働力」として日本人よりも東南アジアの人達を雇った方がコストは削減できるだろうけど、この日本人特有の「合気道的加工力」を日本人以外の国の人達は持ち合わせていないのだから、そこについてはコストを下げてよその国の人達を雇ったところで、問題を解決させることは出来ない。そう考えれば、日本人に対してどういう教育をして、日本人達はどういう大人として生きていけば時代がどう進もうとも生き残っていけるのか、有利なポジションに立てるのかは自ずと見えてくるのではないだろうか。

 とにかく、日本人は妄想力を鍛え上げ、それを「自分の内側の世界」から「自分の外側の世界」へとひねり出すことが出来れば、日本人らしくたのしい遊びだか仕事高分からないライフスタイルを堪能することができる民族なのだと推測する。それを「遊びは遊び」「仕事は仕事」と西洋医学のような発想で区切ってしまうことによって、日本人の本来の生命力は削られて、どんどん弱まっていく事だろう。

 それこそ、私が小学生時代、結構子どもにとっては大金を払って購入していたコンピューターゲームのクオリティなど、今の時代であれば、小学生自身がその程度のクオリティのゲームだったら自分で作りだすことが出来る時代になっているのだから、子ども達にゲームを作る授業などをしても良いかもしれない。「ゲームを作る」「遊びをつくる」という創作活動をもっと日本は教育として取り入れた方が良い。もちろん昔はそんな事を学校がしなかったところで、我々は勝手に遊びやゲームを作ってはみんなで楽しんだ。ここについては時代が進んでしまい、要領が当時とは違ってきたのだから、少し時代に合わせたデザインをすべきだろう。「外遊びしない日本人の子ども」の解決策として、「ポケモンGo」を提案するという事は、結果はどうあれひとつのチャレンジだったようにも見える。あのゲームを「コンピューターゲームと外遊びの融合」と考えて創ったゲームであるかは分からないが、ひとつの新しいチャレンジとしては良かったようにも見える。何事もやってみない限りは、それがどれだけ世の中にインパクトを与えられるかも分からないのだから。

 また、漫画・アニメ・コンピューターゲームにおける共通点としては、「自分ではないけど、キャラクターに自分を投影できる」という部分がある。もちろん、これは映画やドラマにも共通して言える事ではあるが、映画やドラマは何か生々しすぎて、ちょっと遊びの要素としては物足りないというか、リアルな世界の中で陶酔したところでやはりあまり面白みを感じないのだろう。非現実的であり、この世とは違うもう一つの世界で、自分に代わってキャラクターたちが大冒険をしてくれるのは、ある一つの乗り物に乗ってそういった非現実的な世界を冒険できるという、現実世界では体験することが出来ない体験をする場としてそれらが提供されているのだろう。それだからそのゲームだけをやった者たちだけにしか分かち合えない何かがあるのだろう。これはゲームの内側の世界においても外側の世界においても同じ原理がはたらいている。

 そういう「新しい体験を分かち合う場」づくりが日本人は上手い。西洋人達はそういう世界を創り上げる能力が非常に乏しい。無駄にリアルな世界でゲームをつくる事はもしかしたら日本人よりも上手い場合があるが、マリオだったり、ピカチューのようなキャラクター、そしてそれらが生きるための非現実的な世界観を創り出す能力に欠けている。しつこくなるが、この理由は1章で考察・論述してきた言語構造や宗教間の違いからきているものだと考えている。

 ここについては賛否両論が激しい部分かもしれないが、「日本人は論理的ではない」と言われる事がある。もしもこの説が正しいのであれば、「論理的過ぎると、リアルとは違う非現実的な世界観であれ、キャラクターを創り出す能力に欠ける」という見方も出来なくはない。

 論理力を養う事は必要だし、重要だ。特に日本の中に引きこもらず世界を相手に生きる上では論力がない事は、戦場に出て秒速で殺されることを意味しているかもしれない。だとしても、もしも日本人の漫画・アニメ・コンピューターゲームで他国を圧倒するだけの「非現実世界の創作能力」を捨てることになるのであれば、私自身は少なくとも、世界レベルの論理力よりも、日本人のイカレた妄想力と心中したい。もちろん、日本人の妄想力と世界レベルで要求される論理力。この両者をしっかり備えて生きていけるかどうか。この問題を乗り越えた日本人が、世界をリードして行けるだけのリーダーシップ能力を持った日本人として、世界レベルでリーダーになる資格を持つのではなかろうかと考える。

5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察

5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察

 

 戦後の日本において、世界で賞賛を受けるのが漫画文化アニメ文化であり、その中でも頂点に君臨しているのが「ドラゴンボール」なのではないだろうか。もちろんその他の日本の漫画やアニメも世界からの評価は高い。他の国の追随を許さないのは、この漫画・アニメのレベルなのではないだろうか。かと言って、日本の映画が、日本の漫画・アニメのように賞賛されているかというと、洋画のレベルと邦画のレベルでは、やはり洋画の方がズバ抜けてクオリティの高い作品が多い気がする。

 「漫画・アニメ」にしても「映画」にしても言ってみれば創作のお話であり世界観のものが多い。何が違うのかと言えば、「2D」か「3D」かという違いぐらいだろう。映画に関してはお話を誰かが作り、その作ったお話のキャラをまた別の人間が演じる。人間が演じる訳だから物理的な舞台やセットも必要になる。

 それに比べて「漫画・アニメ」はお話をつくる人間も、キャラクターをつくる人間も大体は同一人物で、ストーリーと世界観をすべて一人で創り上げることが出来る。キャスティングに誰を使おうと悩む必要もなければ、どの舞台で撮影しようかなど悩む必要もない。すべて自分の創造の世界で作ることが出来る。

 私は漫画・アニメ・映画のすべてにおいてプロでも専門家でも評論家ですらないので細かい事についてはよく分からないが、とにかく日本人は「2D世界の創作物」のレベルが抜群に高い。そしてすでに考察した「オタク」「マニア」に関しても、漫画・アニメに関しては「オタク」っぽいイメージがあり、映画に関しては「マニア」っぽいイメージがある。

 そこから導き出せるものは何かというと、「やはり、日本人は閉じている」ということだろうか。「1人遊びの天才」のような要素を持っているのかもしれない。その理由が島国であるとか、長年の鎖国体質だからとかそういう要素からきているのかどうかは知らない。ただ、非現実的な仮想世界を、仮想キャラクターを作り出す能力が何故か極めて高いのだ。その反対に、西洋人達はその能力に極めて乏しい気がする。

 個人的にはやはりその要因は「宗教の差」にあるような気がする。「神は人間を、自分に似せて創った」的な発想の一神教的思想の人間達には、日本人が創り出すような世界観であり、キャラクターというのは創り出すことが非常に困難であり、あれらの信じる宗教の世界観からすると、ほぼ無理なのではないだろうか。

 そして、日本人達が何故、世界が驚くような「2D創作物」をつくる事が異常なまでに長けているのかは、日本の宗教観が多神教で、その八百万的な神さま達が一人一人というか一神一神というかは分からないが、個性的でストーリーがあるからではないだろうか。

 これは、個人的趣向にもよるのかもしれないが、初期のキャプテン翼は非常に私にとっても魅力的であったし、それこそサッカーのレベルの高い西洋人達からも愛された。そしてその作者は「サッカーをあまり知らなかった」ような気がする。何が言いたいのかというと、申し上げにくいのだが今の時代の大人になった翼君たちのキャプテン翼は面白くないのだ。個人的には「作者が本当のサッカーにかぶれてしまった。」つまり西洋人っぽい作りになってしまったからなのかもしれない。キャプテン翼は「現実的にそんなことできないだろ」っていうのと「だけどもしかしたらできるかもしれない」的な融合的要素が強くて面白かったのだが、キャプテン翼ジャイアントキリング的要素を少なくとも私は一切望んでいない。翼君は生きているし、生き物として成長しているけど、「キャプテン翼」という作品そのものは死んでいるか、もしくは瀕死寸前の危機に瀕している気がしてならない。

 それに比べて、個人的には絶好調のように見えるのがキン肉マンなのだが、キャラクターが本当に生きているんじゃなかろうかというぐらいに、ストーリーが進む。そしてゆでたまごワールドは、独自の宇宙原理であったり物理法則を披露し続ける為、昔からのファンも新しいキン肉マンのストーリーにそれほど違和感を持たずに楽しんでいる者が多いような気がする。そこにはもうブッ飛んだ人間離れした世界観が引き続き継続されているからだと推測する。

 さて、漫画・アニメの王様と言っても過言も異論も無さそうな「ドラゴンボール」についてだが、商況的な匂いは感じつつも、やはり「続編がどうしても見たい」と熱望が強いのは我々読者・視聴者側の方なのだろう。世界中で続編を熱望している感がハンパない。そして、元からあの世界観なので、「神さまの世界」だとか「十二個ある宇宙」とかとんでもないことになってきている。極めて、パターンもそれほどいろいろある訳ではなく、どちらかというとワンパターンなのだが、それこそ「2D版水戸黄門」のような感じで、皆が孫悟空達を応援してしまうという不思議な漫画・アニメだったりする。

 この日本の漫画・アニメを世界に普及するというこの流れは、そんな狙いがなかったとしても少し、戦国時代当時のフランシスコザビエルやルイスフロイス達宣教師たちの布教活動に形が多少フラクタルな要素を感じてしまうのは私だけだろうか。日本の漫画・アニメの影響によって「日本に一度行ってみたい」と外国人達に思わせ、実際に足を運んだ外国人達は今となっては相当数いるのではないだろうか。

 もちろん漫画・アニメは宗教ではないが、madeinJapanのものがここまで外国人達の心に入り込んだものは漫画・アニメがその他の日本の魅力的なモノであれ者の中で、ズバ抜けて強烈なインパクトを与えているのではないだろうか。そしてドラゴンボールは、「神さま」の世界観が出てきているので、変な言い方になってしまうがある種の新興宗教のようにも見えてしまう。この形は非常に新しいとしか言いようがない。私自身も無宗教をうたっているが、ある意味「ドラゴンボール教」の信者と言ってもそれほど間違っていない部分があったりする。

 そして、ドラゴンボールの世界観はブッ飛んでいるようで、何気に世界の真理的なものを捉えていたりする可能性が高かったりする。もしも、お釈迦さまが「自分の内側の世界」の事を、鳥山明先生ばりのセンスで弟子たちに伝えられていたら、もっとこの世界も人間達も変わっていた可能性は高いだろう。やはり、「何にもない。だけどこんなにある。」って事を淡々と淡白に語られたところで、時代が経てば経つほど人々はそれほど興味を持たなくなるし、少なくとも子ども達にはまったく響かない。だけど、「ドラゴンボール」は我々四十のオッサンにも、今の時代の子ども達にもビシビシ響かせているし、それは日本人だとか西洋人だとかの線もとっぱらってしまっている。

 実際、日本復興モードという応急処置的鉄仮面を被り続けてしまうという間違った融合を見せてしまったのが「日本のサラリーマン文化」であり、日本の復興モードを終え、復興後にしっかりと「日本人らしさ」と近代的要素を融合させて「今の時代の日本」を上手に表現することが出来たのが、日本の漫画・アニメ文化であり、その代表作がドラゴンボールなのではないだろうか。

 もし、この仮説が正しいのであれば、日本の教育方針は大きく転換する必要がある。もちろん「鉄仮面」を狂信している者達が今現在国をコントロールし、国民をコントロールしているのだろうから、過剰な期待をしても変わる事は無いだろうが、この仮説からして、少なくとも日本の過程の中での教育においては「2D教育」というか「想像力の養成」「妄想力の養成」というものに熱を入れるべきであって、学校が終わったらさらに学習塾に通わせて優秀なサラリーマンを養成するためにいろいろと人的な資源を費やしていくのは、それこそ「消耗」の一途を辿ることになるだろう。気づいた人間から、その「死の行進」的、非日本人的な教育を手放し、断捨離し、日本人の本来性を伸ばす事ができる「2D教育」をとにかく幼少期であればあれほど熱心に力を注ぐことをおススメしたい。そうすれば、結果的に日本であり、日本人は、世界からもっと賞賛を受ける事になるし、日本人達自身がもっと幸せそうな顔をして生きてる人間達をそれこそ量産する結果へと繋がると私は確信している。

 常識にとらわれずに「日本の何が世界から賞賛を受けているのか」を観察すれば、日本の教育をどうデザインし直せば、良いのかぐらいは別に頭の良し悪しとは関係なしに分かるのではないだろうか。もしも、国のお上が分かっていてそれをしないのであれば、もはや我々日本人は、日本人から毒の水に漬けられていることになる。正直、早いうちから「国に頼らず、極力自分たちでできることは自分たちでやる」という気持ちで生きていないと、取り返しのつかないことになる危険性は時代が進めば進むほど高くなっていく事だろう。情報に踊らされることなく、情報を冷静に観察して、自分が最大限に発揮されるような戦略をとることが要求されていて、その中に「大和魂の発現」という部分は切っても切れない重要な要素だと私は考える。

4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか

4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか

 

 今、日本の若者たちは日本の演歌を聴くだろうか。今、日本の盆踊りをするだろうか。しない訳ではないだろうが、やはりそれらは若者たちがすき好む音楽であれ、ダンスではない事はたしかだ。では、若者達は何に興じるのか。そのひとつが「ジャパニーズヒップホップ」なのだが、何故これが「ヒップホップ」ではないのかと言えば、やはり日本人が輸入して加工すると、良くも悪くも「日本らしく」なってしまう。そこに、何かしらの「大和魂」を見つめることが出来ないだろうかと考えてみたい。

 まず「ヒップホップ」ときいて、ダンスであれ、ラップであれ、音楽であれを想像すると思うのだが、「ヒップホップ」とは文化だ。「室町文化」みたいなものと同義と考えてよいだろう。文化とは人が作り出す世界観だ。日本の若者たちが創り上げた文化としてはこの「ジャパニーズヒップホップ」と「オタク文化」などがあるだろう。

 しかし、「オタク文化」には少々世の中に対してのメッセージというか主張を感じることが出来ない。そういえば、政治家の麻生太郎氏はやたらと、オタク達から人気と支持を得ていたようだが、かと言ってもオタク達は何か世界にメッセージを発信しているとは思えない。ここで言うメッセージというのは、「こういう世界って最高だぜ」というような発信の事だ。もちろんなくはないのだが、日本人が一般的にイメージする「オタク文化」が日本のスタンダード的な表舞台に持ち上がってくることは、現時点ではちょっと想像できない。

 それに比べて「ジャパニーズヒップホップ」は世の中の表舞台に出つつある。私は、その理由は「ジャパニーズヒップホップにはあるメッセージであれ主張がある」からだと推測する。「俺たちの世界観はこれだっ!」「俺たちの世界の色に世の中も染めてやるぜ!」という主張を個人的には感じるし、世の中もそれを積極的に受け入れようとしている流れがある。やはり、テレビのCMにヒップホップ音楽であれ、ラッパー達が登場する事が多くなったことを考えれば、日本の文化に「ジャパニーズヒップホップ」が浸透しつつあるという事実が窺える。

 また1つの例として日本には、「甲子園文化」というものが存在するようにも見える。あるジャンルについて、高校生たちが日本一を競い合う大会が人々を魅了するという文化なのだが、ダンスにおいても、ラップにおいてもある種の「甲子園文化」によって人気に火が付いた節がある。

 そして、ヒップホップは文化ではあるが、やはりダンスは踊りであり世の中に対して何かを主張するというよりも、どちらかというと芸術活動のようなものなので、「自分たちはこういう世界観を創り上げている」という事についてはそれほど強烈な主張を感じない。それに比べて世の中に強烈な主張を提示したのが「ラップ」なのだろう。

 ラップそのものがやはり「強烈なメッセージ」をどう言葉としてリズムに乗せて韻を踏みながら吐き出すかという非常に知的かつ芸術的な創作活動になっていて、それだけでなく哲学的な要素も要求される。アメリカでも、モハメドアリのインタビューなどがラップ人気に火をつけた理由は、ただ単にそのメッセージがリズミカルで、韻が踏まれるユニークさがあっただけでなく、「そのメッセージ性の強さ」であり哲学的要素が含まれていた事が大きいような気がしてならない。

 これをヒップホップが流行る前に、似たようなものを見つけることが出来るかというと、芸術的な要素を考慮しなければ、ヒットラーの演説はラップっぽい要素を感じる。何かをDisり同時に自分の思想を主張するというある種のヒットエンドラン的所作。本来は、こういった世の中に対するDisりであり、主張は少なくとも日本においては、政治家位しか行わず、そして過激すぎればひっ捕らえられたりもするので、やはり公でそのような思想を主張する者は少なく、政治家以外で考えてみれば、〇〇評論家、一般人であればお決まりの「サラリーマンが居酒屋で酒飲みながら政治批判」という何かあまり世の中を変えてくれなさそうな、それこそ日本人のこれまた悪臭である「井戸端会議文化」の線上にあるような情けない感じの内にこもった主張文化があるように見えるが、ラップという存在は、その引きこもり的主張から、公の中での主張に進化したように見えるのだ。

 これは見方を変えれば、携帯電話は昔限られたビジネスマンしか持っていなかったアイテムが一般人に普及されたのと同じで、一部の政治家しかしていなかったなんらかの思想の主張を、中高生でも出来るようになったというある種の「ツールの普及」と見ることも出来る。

 以前、伊藤博文たちが「日本は幼稚で巨額」と自分たちをDisった理由はどこにあったのか?それは科学的レベルが『西洋』と比べて著しく低かったことを指示しているように見える。しかし、私個人の主張としては科学的レベルの差なのではなく、「思想を主張するレベル」が、日本人は西洋と比べて差があるのではないだろうかと思うのだ。そのコンテクストで考えれば、明治時代であれ、戦後であれ、日本人が世界から見て大人になれたのかどうかと言えば、残念ながら幼稚園児のままだったのかもしれない。もちろん科学的なレベルは明治時代のソレと比べたら物凄い飛躍を遂げたことだろう。しかし、「思想を主張する力」においては、さらに戦争に負けて牙を抜かれ、酒でも飲まないと自分の思っている事を主張することも出来ない。そして、せいぜい主張の場は居酒屋で会社の仲間達とダンゴムシのようにくるまってあーだこーだと大した議論レベルにも達していない話をしては虚しく盛り上がるだけだったのだから。

 その負け犬日本の自虐史観的呪い、そして思想を主張する事においての幼児的レベルを払拭する特効薬がジャパニーズヒップホップであり、ラップであるように見えるのだ。日本は選挙権が十八歳へ年齢が下がったが、その前から選挙の模擬授業など若者たちに政治に関心を持たせるような何かしらのチャレンジは実践されてきたとは思うが、投票率を見る限り、それほどの成果は出ていない気がする。私はここに「ジャパニーズヒップホップ」の文化を取り入れるべきだと主張したい。

 「ヒップホップ」というとやはりあまりよろしくない印象も我々に提供してくれるのだが、やはり拳銃社会のアメリカと、そもそも拳銃なんて持ってたら即逮捕される国日本とは同じ「ヒップホップ」という種を蒔いても咲く花が違うし、成る実も違う。それは「みかんとオレンジの違い」のようなもので、アメリカのサンキストオレンジ的な果物を「みかん」と訳してもおかしくはないだろうし、愛媛みかん的なあの果物を「オレンジ」と訳してもバツをつけられることはないかもしれないが、その両者がまったく同じ物と言われたらやっぱり違和感を感じずにはいられない。アメリカのヒップホップはやはり「オレンジ」であって、ジャパニーズヒップホップは「みかん」なのだ。そう考えると、ヒップホップに多少の「悪さ」的要素が含まれていたとしても、アメリカの「悪さ」とは質そのものが違う。そもそも日本のヒップホップの世界で拳銃で撃たれて死んだ人間などまずいない。「ギャング文化」と「ヒップホップ」は重なる部分は多少なりともあったとしても、それがぴったり重なっている訳ではない。そしてジャパニーズヒップホップが健全な方向へ進んでいる一つの表れとして「甲子園文化」がラップと融合して、中高生が別に不良でなくとも健全にラップをしているまた日本独自の新しい何かを作り出しているようにも見えるのだ。

 アメリカのヒップホップ事情にそれ程詳しくないので、それほどの比較をすることは出来ないが、日本人のラッパー達の中には「不良」というよりも「オタク」に見えるような風貌の者も普通に登場しているし、特に「ラップは不良の特権」というような縛りはそれほど見えない。やはり「年齢関係なく自分の腹の中にあるものをいつでもどこでも主張できるツール」としてラップは、携帯電話以上の画期的な発明のように見えるのだ。

 実際に、名言であったり、メッセージ性の強い発現にはラップの要素は普通に含まれている。小泉純一郎がなぜ、国民の心をつかんだのかは彼がある種のラッパーだったからだろう。「郵政民営化、賛成か、反対か。」狙ったのか天然なのかは分からないが、あきらかにリズミカルで韻も踏まれている。貴乃花が優勝して日本人ならば誰でも知っているあの名場面「痛みに耐えて、よく頑張った。感動した!」というこの小泉純一郎の言葉も、ラップにおける強烈なパンチラインの込められた言葉であって、優勝した貴乃花以上に小泉純一郎の方が目立ってしまっている。そして小泉純一郎と言えば「自民党をブッ壊す!」だが、まさにラップそのものである事は説明不要だろう。ただし、自民党よりもあの約10年間の間に、日本がぶっ壊れた気もしないでもないが、それこそ、痛みに耐えながら日本は今、改革されたのかどうかは意見が大きく分かれるとは思うが、言ってる事とやってる事があべこべにだけはならない事を、個人的な心証を受けてしまう訳で、不満があれば溜め込めずに、それこそ韻でもはめ込めてラップで主張してみたら良いのかもしれないが。

 『民主化』という意味合いにおいては、ようやくこのラップというツールが国民にいきわたる事によって完成形へと大きく近づく気がしてならない。選挙という制度によって「国民が政治に参加している」などというのは、大間違いというかそれこそ何かをすり替えて見せているような子供だましの手品みたいなようなもので、もっと国民ひとりひとりが自分の腹の中にある「日本をこういう国にしたい」という想いをもっと主張すれば良い。

 その為には、ひとりひとりがラップする力を鍛え上げていけば、自ずと日本の国民レベルは上がり、もちろん国としてのレベルも上がる。そこんところ有能な政治家先生諸君you know? というラップに対して、「I got it」とアンサーしてくれれば、それこそ国際的なすごろくゲームに対しても一気にサイコロで6のゾロ目でも出て、アガリに近づき、諸処の問題も解決することだろう。