harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

4:日本の自然に触れてみる日本の自然を感じてみる

4:日本の自然に触れてみる日本の自然を感じてみる

 

 基本的に、もしも日本人達に「大和魂」なる魂が備わっているのであれば、日本人としての自然体を貫けば、何を意識する事もなく「大和魂」は、車に搭載されているターボーチャージャーの如く勝手に我々日本人にもなんらかのターボ機能的な馬力が加味されるのだろうけど、もはや今の時代の我々日本人にはそのような「大和魂」的なボーナス機能が発動する機会はほとんどお目にかかれないので、我々は日本人として不自然な状態にあると考えることも出来なくはない。

 この項では日本の自然に触れてみることで、その「自然」が我々日本人側に良い意味での感染をしないだろうかという仮説を提案したいなと考えている。もちろん、人工的な建造物に囲まれれば、そこは近未来的で何かカッコよさを感じるかもしれないが、そこに土もなければ水もなければ木もない風もないという事になれば、食べ物と同じように人間が不健康になる事は考えるまでもない。人間は食べ物だけを摂取して生きている訳ではない。それこそ、近代的な場所であれば車の排気ガスは多いだろうし、木も生えてなければ酸素の量も薄いかもしれない。よく喘息で悩んでいる人達は、田舎の空気の綺麗なところで療養する話がよくあるが、それらを考えても都会よりも田舎の方が健康的であることは間違いないだろう。

 もちろん、健康であるという事は人間として考えてみれば「より自然な状態」であり、病気の状態というのは「不自然な状態」と考えても良いだろう。しかし、この本では人間として健康であるかどうかというよりも、より日本人らしいかどうか(=「大和魂」を発動させることが出来るかどうか)という観点で、この「日本の自然に触れてみる感じてみる」という事が、どれだけ我々日本人の中に眠っている「大和魂」に対してなんらかの働きかけをするのかしないのかという事を考えてみたいのだ。

 ちなみに、これはかなりブッ飛んだ仮説であり、それこそ妄想レベルの話になってしまうが、私自身、ある事をきっかけに全都道府県をまわってみるという自分の中の企画を立ててまわってみたので、行ったことの無い都道府県は現在無いのだが、ある年は西の方へ行き、ある年は北の方に行く機会が多くなったりしたのだが、怪しいお話になってしまうが、何か「その土地に呼ばれているような気というか錯覚というか」そのような何かよく分からないのだけど、「俺との所にあいさつに来い」だの「いやいや私の所にまずは来い」というような、あくまでも感覚的なものに過ぎないのだが、日本をまわっている内に、土地に呼ばれているようなそんな感覚が自分を襲うというかなんとなくそういう印象を受信するようになってしまった。この感覚を強く提唱する気もないし、科学的なる根拠もこれが正しいと言えるような説得力も私は持ち合わせてはいないが、そういう気がしてならないし、日本各地を回っている人にこの事を話せば、もしかしたら賛同してくれる者も少なくない可能性もある。そういったところから、「日本の自然に触れてみる感じてみる」という事で、我々日本人に本来備わっている「大和魂」は起動し、機能し始めるのではないだろうかというトンデモ仮説を打ち立ててみたのだ。

 自然に振れれば感じれば、心身共に健康になる可能性が高い事はこれは科学的にも説明がつく部分なのでここでいちいち私のような素人がそのことについて解説したところで何も面白くないだろうし、それこそ自然と人体の関係について詳しく知りたい人は、そのジャンルの本など沢山出ているだろうから、そこから学べばよいのだが、「土地が人間を呼んでいる」などという事を主張している人物であれ、本はどこぞの多少なりとも胡散臭さを感じさせるスピリチュアル本の類だけで、真面目なジャンルでこのような事を述べている者もいなければ、研究している者ももしかしたら皆無かもしれない。

 では、もしも本当に「土地が人間を呼ぶ」などという事が本当にあるのであれば、それはどういう原理からそういう事が起こるのだろうか。「呼ばれる」ということは、呼ぶ側がいて、呼ばれる側がいる。例えばこれは人間同士の話でも同じことは言える。例えば街中の人込みで誰かが「おーい!」と大声で呼んだとしよう。その「おーい!」に対して振り向く者もいれば、まったく反応せずにそのまま歩いていたり、スマホを眺めていたりする者もいる。この「おーい!」と呼んでいる側と、振り向いてしまう側の関係。これが「土地が呼んでいる」というはたらきかけに対して、「土地に呼ばれているかもしれない」というなんらかのメッセージを受信した者の関係であるという仮説が立つのだが、もちろん「ただの自意識過剰な奴」という可能性も否めない事も申しあげておきたいところでもある。

 例えば、玉置神社や天河神社といった俗に言う「神さまに呼ばれないと行くことが出来ない神社」みたいな神社がある。もちろん真偽は確かではないし、誰でも行けるかもしれない。逆に言えば、これらの神社ではない別の神社だって「呼ばれないといけない神社」と説明することも出来る。ただ、この「呼ばれた気がする」というこの感覚は、どう説明してよいか分からないが、何かそう伝わって来るものがあるのだが、上手くは説明できない。だけど、「偶然」とか「たまたま」ではない何かがそこにある事を多少でも良いから説明してみたいので食い下がってみたいのだが、例えば「虫の知らせ」ということわざがあるが、これは自分の中にいる「虫」が何かを知らせてくれているのだが、これは「虫」ではなく、「大和魂」なのではないだろうか。とも考えてしまう。

 ただ、この「虫の知らせ」の「虫」は何か科学的にも説明できる何かのような気がしてならない。そして、それらはすべてではなくても、結構な高確率で的中している気がしてならない。スポーツにおける「ゾーン」の状態も、現実としてのプレーが起こる前にそれらがすべて頭のどこかに浮かび、本当にその通りになるような事がある。これは、スポーツをしていた人間達であれば、そんなに多い回数を経験していなかったとしても、この経験を味わったものは多いはずだ。「土地に呼ばれる」という感覚はゾーンほど何かが完璧に見えている訳ではなく、「根拠の無い自信」のような感覚として「なんかここから自分は呼ばれている気がする。」というようなうっすらとした感覚が自分の中に「予感」的な感じで過ってくる。そんな感じなのだが、私以外の人間が、この「土地に呼ばれる」という感覚に見舞われたことがあるかは確認していないため、「何を言っているんだコイツは・・・」と思いっきり誰からも賛同を受けられないような事を口走ってしまった可能性も否めない。

 自分で調べていった土地もあるし、それこそナビが暴走したかのように訳の分からない道を示して、着いてみたらそこは戸隠神社の奥宮のあたりだったなんて事もあった。別にこういう出来事が神社だとは限らない。なぜか、よく分からないけど、やたら関西方面に仕事が入ることがやたらあったり、東北地方に行く機会がなぜか増えたりと、何故かそういう機会は、大阪、東北、北陸、四国のようにまばらになることがなく、ある時期に同じ場所にばかり呼ばれていく事が私自身には多い。これは何か人に呼ばれているのではなく、その土地に呼ばれているような気がしてならないのだ。

 日本と言ってもやはり東北と九州では同じ日本でも違う部分がある。それはその土地に言ってみない限り分からない。日本各地に行って、それぞれの土地に触れて、自然を感じてみることで「日本人としての幅」が出来上がる気がする。これは、妄想話ではなく、日本各地をまわってみて私自身が、日本をまわる前とまわった後では同じものを見ても感じ取れるものが違うのは間違いない。これは、言ってみれば同じモーツァルトの曲を聴いても、誰かひとりの演奏を聴いてもそれが良いか悪いかは分からない。いろいろな人の演奏を聴いてみれば、それらの曲の良し悪しを感じ取ることが出来る。百円均一の回転寿司しか食べたことがない人間にとっては、通称「ウニチューブ」「ネギトロチューブ」から練って出されたあのNAZOの実際は何なのか分からない「ウニっぽく見える」「ネギトロっぽく見える」軍艦巻きが、ウニでありネギトロなのだが、回らないお寿司屋さんに行ってウニやネギトロを頼んで食べてみれば、回転寿司屋で出てくるひれらが、「ウニチューブ」「ネギトロチューブ」であったことに気付けるはずだ。そういった意味において、日本にある土地であれ、自然を様々なところに行って触れてみたり感じたりすることで、我々の中に眠っている「大和魂」は起動するはずだ。

 そして、私自身は「土地が我々に何かを訴えかけている」という事を信じているが、まったくといって良い程根拠も論拠もないので、今後の課題として「土地が呼んでいる説」については引き続き研究し続けることにする。

3:食べ物について研究する

3:食べ物について研究する

 

 1章の中でも食べ物については触れたが、物質的に考えれば、「人間は食ったものでできている。」と考えてもそれほど間違いはないし、少なからずともそう言えるのは否定も反論の余地もない。であれば、やはり「何を食うかでその人間の能力であったり人生は左右されて当然だろう。」と考えた上で、もう少し食べ物と「大和魂」の関係について考えてみたい。

 まず、「ここ一週間の自分の食事メニューを思い出してください。」と言われてメモでも付けてない人は一週間の間に自分がいつどこで何を食べたかなどという事はほとんど覚えていない事だろう。まず、この事実からして「いい加減なものを適当に食べている」という事が窺える。もしも「人間は食っているもので出来上がる」という部分が色濃いのであれば、この一週間の間に何を食ったか忘れてしまうなどという食生活は、話にならない。そう言っている私自身も三日前に何を食ったかなどという事はほとんど覚えていない。などと書いているうちにひとつ気づいたことがある。それはプロ野球界のレジェンドイチローの食生活の誰でも知っていそうなあの逸話「毎朝カレー伝説」なのだが、いつも同じものを食べているのであれば、忘れたくても忘れるはずがない。そのルーティンたるやなかなかの恐ろしさを今多少感じてしまったのだが、そういう意味合いにおいてイチローが毎朝カレーを食べているのかどうかは分からないが、もしそうであるのであれば、イチローは意識的に何を体内に入れて、自分が何でつくられているかを我々よりも明確に理解して、生活していることになる。

 イチローだけではなく、アスリートは特にそうだと思うが「何を食べるか」というよりも「どんな栄養を摂り入れるか」という事を考えて、食事をしている人間も少なくない気がするし、一流であればある程そういう考えで食事をとっているようにも見える。そう考えると、「いい加減に食べている」というこの態度であり、所作自体にやはり「魂が輝くような行い」を見ることが出来ず、何食ってんのか分からずに、脳の要求にだけ任せて食いたいものを体内に適当に入れ続けるというその食生活は、魂の色を燻ぶらせているようにしか思えず、おそらくこの予想はそれほど的外れな予想にはならないだろう。

 私自身、食生活についてはまったく自慢できるような食生活ではなく、むしろ「こうならないように気を付けてください。」という典型例のような人間なのだが、もちろん、この「大和魂の研究」という本を書こうと決めてからは、いろいろと意識的に食生活の改善などを実際に自分の体を実験台に行っているが、やはり結論としては「何を食べているかとその人の能力や人生の質は大きく関係している」としか思えないような結論を自分の中では導き出せたと思っている。

 若い時はそれこそ結構運動もしていたし、新陳代謝も若者なので問題なかったので健康ではあったし体重も少なかったのだが、これが歳をとり、運動をしなくなり、食生活も適当にしていると、まず見た目からしておかしくなるし、太ってくればそれこそ体のあちこちがおかしくなったりする可能性が高い事はいちいち私が説明するまでもないだろう。しかし、脳はストレスを感じると何かを食べてごまかしたくなる。内臓は「もうやめてくれ。」と訴えかけていても、自分の首から上側は「もっともっと」と要求してくる。まずこの首の上側と首の下側の対立で、やはり首の上側の要求を飲んでしまう心の弱さを何とかしない限り、食事の改善を行うことは出来ない。

 ちなみに、今現在私自身基本的には一日一食か二食程度で、夜の六時前には最後の食事を済ませるように心がけている。極力、晩御飯は米を食べないようにしている。それほど絶対のルールではないが、自分の体調などを観察する限り、夜に米を食べることがそれほど、自分に良い影響を与えている気がしないからだ。そもそもずっとデスクワークのような生活のため、米を食う程エネルギーを消費しないからだとは考えているが、以前は、極端な例で言えば、寝る前にかつ丼やラーメンを食って食後三十分後には寝ている。というような生活をしていたのだから、今の食生活とは大違いなのだが、夜の二十三時ごろラーメンの大盛り麺固めを食べて即寝ているような食生活と、夜十八時にはその日の食事を済ませる食生活とではもちろん何かが変わってくるのは当然だと言われてしまえば当然なのかもしれないが、デブにとっては、その日の最後の食事が質素な食事で、しかも米も食えないというのは、いじめに近いようなものなのだ。もちろん、いじめられているのは自分の首の上側だけで、質素な食事であれば首の下側は大喜びなのであって、どちらも「自分」なのだから、いじめているのか喜ばせているのかはよく分からない関係にある。ただただ自分の自我が「もっと食わせろ、もっと食わせろ」と要求してくるだけなのだから。

 しかも、これは大分言われてきた事だが、食べ物を消化する為に費やすエネルギーと人生の関係の話なのだが、とにかく、食べ物の消化には一日我々に与えられるエネルギーの大半を費やす。なので、消化するためのエネルギーをもっていかれると、生活の中で他の事に使えるエネルギーが極めて少なくなってしまう。その為、一日の中で自分が精力的に出来ることが限られてしまうし、それほど特別な事はできなくなってしまうのだ。「いやいや、食べなきゃエネルギー出ないでしょ。」と思う人もいるかもしれないが、もちろん栄養は必要な事は間違いない。だけど、揚げもん食ったり、ラーメン食ったりして栄養を摂り入れたところで、自分の体内ではそれらの消化に多大なエネルギーを浪費するため、もう残りの限られたエネルギーでは何か特別な事を行うことはできない。それらを運動などで補うことはできたとしても、それはただ相殺しているだけで、何か建設的なエネルギーマネジメントを行っているとは言えない。

 と、ここまで食事とエネルギーマネジメント的な事を述べてきたが、ここから「大和魂」というコンテクストを意識した食べ物であれ、食事についての研究をしてみたい。まず、これは日本だとか西洋だとかに関係なく、いきなりポイントになってしまうのだが、「何を食べ」「何を食べないか」という問いに対してのある一つの消去法とも言えるのだが、

江戸時代にはなかった食べ物は食べない。

 というここについては、このルールで考えてしまえば、大体の食べ物はなるほどtheワールドのキンキンの往年の名ゼリフ「はい、消えたー」状態で、次々と「食べないものリスト」の中にそれらが入って行くので、自ずと「何を食べ」の方が大体は決まってくることだろう。

 基本的に、明治時代に入ってから『西洋』的なものがドドッと入り込んできたのだろうし、スナック菓子や生クリーム的なお菓子、カップラーメンだったりレトルト食品のようものは、江戸時代には存在していなかったものが多いだろうから、それらは「何を食べ」リストからは除外し、「何を食べないか」リストの中に書き入れてしまった方が無難だろう。もちろん、「絶対にそれらを食べるな」という事を言いたいのではない。せっかくこの時代に生まれてきたのだから、さまざまな食事を楽しめばよいと思うのだが、その「何を食べないか」リストに入るようなものを毎日食べている食生活というのは、非常に危険な食生活であると言えるし、「大和魂」に輝きを持たせることは無理だと言えるのではなかろうか。基本的には江戸時代以前の日本の食生活を手本にして、基本的な食生活をしていくことが自分の日本人性であり、「大和魂」の力を発動させるためには必要な事なのではないかと私自身は考えている。

 また、江戸時代にあった食事においても、もしかしたら「もっと昔はあったけど、江戸時代にはすでになくなっていた食文化」というものもあったかもしれない。原始的になればなるほど良いものであるかどうかは分からないが、例えば縄文時代に我々の祖先が食べていたようなものと同じものを食せば、やはりこれまでスイッチがOFFになっていた原始的な大和魂的要素は、スイッチONになる可能性も多分にあると考えられるので、今の時代ではなかなか一般的には食さないドングリやクリ、クルミ、トチの実などといった木の実を食してみることも大事かもしれない。何事もどれが正しいのかという前に、自分で『独自』の研究をしていく事が自分の『魂』そのものに磨きをかけることになるので、そう思ったらやってみれば良いのだから、縄文人の食事をしたら自分の中の「大和魂」がイキイキするという仮説が立てばそれをやってみれば良いのだ。もしかしたら、とんでもない力がどこからともなく漲って来るかもしれなければ、ただただ腹を下してお腹ピーピーピー状態で、ろくなもんじゃねぇと叫ばずにはいられない状態になるかもしれない。それはやって見なけりゃ分からないし、お腹ピーピーになったところで、それが悪かったという事を証明する訳ではない。もしかしたら、縄文時代の伊調の強さと比べたら、我々現代人の胃腸は比べ物にならないほど、弱っている可能性だってある。それこそ、日本人は特にそういう人が増えてきていると思うが、ウォシュレットがなければトイレで用を足せないというような人が増えている事だろう。それと同じで、食べ物に関してももはや現代人の弱い胃腸では処理できないようなエネルギーの高い食物たちを我々側が処理する能力を失っている可能性も考えられる。

 また、同じ野菜にしたところで、昔の土や水のパワーと今の時代の土や水のパワーも異なるだろうし、明らかに今の時代の土や水にはパワーがそんなに宿っているとは考えられず、また、野菜などは特に農薬などがふりかけられていたり、動物にしても化学肥料的なもので育てられいたりもするのだろうから、同じ名前のものだからと言って、江戸時代以前やそれこそもっと古い日本人が摂取してきた食べ物のパワーを我々が手に入れることが出来るかという問題は別問題として存在しているので、本当に我々が食べ物によって、「大和魂」を鍛え上げたり、磨き上げたりしたいと思うのであれば、この問題は個人で解決する問題ではないのだから、皆で問題視して、出来る限りの事をやって、日本の土であれ水にパワーが備わるような改善活動をしていく必要がある。もちろん、そんな事は綺麗ごとに過ぎないので、やはり個人、もしくは少数のグループで、意識のある人間達が出来る限りの事をして、食生活にしても出来る限りの事をやって、自分の中の「大和魂」を磨いていくしかない。

 良くも悪くも今の時代はそれこそ、捨てるほど腐るほど食べ物がありふれているのだから、その中で人間にパワーであれエネルギーを与える食べ物、その反対に人間からパワーであれエネルギーを奪っていく食べ物を皆で研究して、それらデータを共有していく事は非常に重要な事だと私は考える。

2:実際に体験すること・研究することの大切さを知る

2:実際に体験することの大切さを知る

 

 前項では少なくともこの本の中では、『魂』とは「生きる意志」であるという定義をした上で、「大和魂」を手に入れるためには、『独自』に日本を研究する事を提唱したのだが、この項では、『独自』に日本を研究する事で、自分のくすぶっている埃まみれの『魂』をなんとか見つけて手にすることは出来たとしても、その長い間燻ぶっていた魂が再び輝きを取り戻すためには、磨きをかけなければならないのは、石にしても意志にしても同じだということだ。意志(=『魂』)は、磨いてナンボなのだ。

 では、その『魂』を磨くにはどうしたら良いのか。これは何事においても重要なのは基礎練習であり、基礎の力をしっかり磨く事だ。では、『独自』に日本を研究する上で重要な基礎的な取り組みとは何なのか?それは、実際に体験することというこの部分にこだわる事だ。これは何も「大和魂」の研究に限ったことではない。

 人は理解をするという事において、二つの段階の理解がある。それが「分かる」と「出来る」であり、知識=分かる、知恵=できるという関係で考えれば良いだろう。何故、時代が進むにつれ学歴が高くても、社会で使える人材となるかどうかが分からず、むしろ学歴など関係なく、社会で活躍する力が高い人間がいるというのは何が重要なのかというと、知恵であり、「できるかできないか」というこの領域までその分野を学んでいるか、研究しているかという部分が大事なのだが、学校における学力競争の仕方というのは、特に「出来るか出来ないか」は評価されない。理屈として分かっているかどうかだけしか評価しないため、「できる力」が強い人間でも学力的にレベルが低い人間はいるし、何もできないのに、学力的にはエリートと評価される環境だったりするため、学歴と社会における実力が比例していない事は多々ある。

 例えば筆記テストで「バク転の仕方を説明しなさい。」という問題が出題されたとしよう。実際にバク転そのものを何回させても失敗することなくオリンピックレベルでバク転が出来るバク転の達人がこの問題の回答を「筆記」では間違える可能性があり、小学生のマット運動の後転すらきれいにできない運動音痴が、「筆記」のテストであれば正解を記入し、マルをもらってしまう現実がある。

 しかし、結局実生活レベルにおいては、筆記テストで何点取れるかなどまったく意味がなく、実際に「出来るか出来ないか」において「出来る」レベルのものをいくつ自分が持っているかが重要になってくる。そういった意味で、あなたが『独自』に日本を研究する上で、ただただ何かの本を読んだり、インターネットでそれらを調べて研究したところで、それらは「知識」レベルに留まってしまう事が多く、やはり「知恵」のレベルにまで昇華するためには、子どもにでも出来て、基礎的な方法としては、実際に体験することというこの方法をとる事だろう。百聞は一見に如かずの精神を疎かにすることは、自分の中に知ったかぶりのという埃であれ、カビを生やしてしまうことになる。

 実際、私自身の体験としてはやはり、日本人であるというだけで日本に関しては大方知っているような錯覚に陥っているし、その錯覚に陥っていることにすら気づかないため、日本各地を自分自身で行ってみて自分の目で見たり、肌で感じたりすることをしなかった。ある時、歴史の教科書の中で名前しかしらなかった場所へ行ってみた時、「やはり、自分自身がその場に行って、自分の目で見て、肌で感じないとやはり理解の度合いが大きく違うという事に気付かない。よくある刑事ドラマにありがちな会議室から一歩も出ずに、知識だけで事件を解決するようなものと同じで、やはり行ける限り現場に出向いて自分の目で見て肌で感じる事で、一見ノーヒントのように見える難解な事件の中にも、綻びをどこかに見つけることが出来る可能性は高いのだ。

 時代が進んで、そこに建っている建物がたとえ、過去の歴史とはまったく異なる近代的な建物ばかりでその当時の歴史を感じることが出来なかったとしても、ただ情報だけで分かった気になるのと、現場に足を運ぶのでは得られるものは大分違ってくるだろう。

 もちろん、現場に足を運べばそれで良いのかといえば、それで良いというわけではなく、自分なりに『独自』に日本を研究するという事は、その教科書に書かれている日本とは違う、自分なりの見解であれ、仮説を立てている訳で、その検証を自分なりに現場に行ってするつもりで足を運ばなければ、ただただ意味も分からず、奈良や京都で大仏や金ぴかの寺を見に行った中学生とそれ程変わりはない。

 仮説の検証と言っても、当時の原型をまったく留めていない土地に行って一体何をするのだ?と思うかもしれない。もちろんビジュアル的に当時の原形をとどめているような歴史的建造物であったり、土地そのものもあるかもしれないが、実際は残っていようが残っていなかろうがそれほど関係ない。何故かと言えば、五百年前、千年前、もちろんそれ以上前の時代でも良いのだが、今の時代には消えてなくなってしまったようなそれらのものも当時あったのは間違いないのだから、そのあたりは、自分の想像力と妄想力を駆使して、補完しつつ現場において自分の『独自』に研究した中で導き出した仮説を検証してみれば良いのだ。それだけでも「知識」は「知恵」と昇華する可能性は高いのだ。もちろん完璧に仮説検証できないものもあるかもしれないが、出来る限りの事は尽くした上で、仮説検証をする事と、自宅の部屋の中でインターネットの情報だけを駆使して仮説検証をする事では、同じ仮説検証の結果になったとしても得られるものが大きく違ってくるのだ。これはやった者ではないと分からない。

 「大和魂」を復活させる事よりも、「知恵」を得られるレベルでの研究の仕方を身に着けていなければ、研究そのものをすることが出来ない。まずは、「研究する力」を我々は身に着ける必要がある。日本の外側の教育はどうなっているか分からないが、少なくとも日本の教育については「研究の仕方」を教えようという空気を感じない。とにかく、教科書に書かれている内容をしっかり覚えているかどうかが重要な教育しか我々には施されなかったため、「何かを自分で『独自』に研究する」という事ができるかどうかは、それこそ、親であれ教師であれ大人たちの教えを右の耳から左の耳から流して気叶った人間達の方が「何かを研究する事」については自分なりに生きていく中で身に着けて、その力を養っているものも多く、その反対に「良い子」と言われて育ってきた大人達の言う事をよく聞いて生きてきた人間は、そもそも大人たちの言っている事を鵜呑みにして、疑わずに教科書であれ常識であれを一言一句間違えないように覚えて、先輩たちのやっている事をコピペするかのような人生をすることが優秀とされてそのような生き方をしてきているので、そもそも「何かを研究する」という選択肢自体が、そういった「良い子」の諸君達には存在していないのだ。

 「大和魂」に限らず、自分そのものの『魂』(生きる意志)を強化していくためには「何かを研究する」事が出来る「研究する力」を身に着け、養う必要がある。そうでなければ、そもそも自分なりの人生を生きることも出来ないし、自分の人生を、自分自身でプロデュースする事も出来ない。自分以外の何者かの傀儡のようなイエスマン的人生を送っている限り、自分の中の『魂』の電源はずっとOFF状態のままだ。とにかく、なんでも良いので自分なりに考え、仮説を立て、検証していくという事を繰り返し、「研究する力」を養い、『魂』の電源をONにし、さらに『独自』に自分なりの日本観を研究する事で、あなたの中にある「大和魂」にもスイッチが入るはずだ。

1:まず、『独自』に日本を研究してみる

1:まず、『独自』に日本を研究してみる

 

 1章では過去の日本、2章では現在の日本を考察し、最後のこの3章では、どうすれば大和魂を入手して、さらにその力を発現させ、強化していくメンテナンス・カスタマイズの方法について考えていきたい。

 まず、『魂』という存在は、物理的には存在していないし、もっと言ってしまえばそのものがあるのかどうかも分からない。だけど、あると考えている者は多く、なぜ、見えもしないものをあると考える者が多いのかは、やはり生きていると目に見えるものだけの世界であれ法則では考えられないことが起こったりする事から、『魂』と呼べるような何かがなければおかしいと感じる者が多いからだろう。

 「『魂』という言葉を使わずに『魂』を説明せよ。」という問いについて考えれば、もう少し言語的にも『魂』とは何なのかを理解できるかもしれないので少し考えてみると、たとえば、ことわざに「仏作って魂入れず」ということわざがある。これは、意味的には骨折って成し遂げながら肝心な点を欠いていることのたとえ。なのだが、『魂』とはこのことわざで考えてみれば、「肝心な点」ということになるのだが、人間の人生に置き換えても「仏作っても魂入れず」的な生き方はなんとなくイメージできる。

 たとえば、家族のためにマイホームを購入したものの、そのローン返済のために働き続け平日も帰りは日付が更新されてから、土日も休むことなく馬車馬のように働き、家族団らんした生活もない。みたいな事になれば、これは「仏作って魂入れず」的な生き方なのかもしれない。これに類似した生き方はたくさんある気がする。迷路であと一歩でゴールは見えてるけど、残念ながらそこに1枚壁があって残念でした的な。この、「最後ゴールするのに、一手足りないその「一手」」これを『魂』と人は呼んでいるのかもしれない。また「悪魔に魂を売る」という言葉があるが、ここで人間は『魂』という何を売っているのかを考えてみれば、『魂』の輪郭のようなものが見えるかもしれないが、それは「人として大事なもの」というか人間の良心から想像される何かなのかもしれない。おそらく、その人間に「良心」のようなものがなければ、悪魔に魂を売る事さえできないように見えるし、すでにその者は悪魔に魂を売ってしまっているような気がする。

 『魂』とは大事なものをたとえる時に使われるという事は間違いなさそうなのだが、では『魂』とは何なのかと問われれば、私個人手しての見解は「生きる意志」のようなものではないだろうかと考える。つまり大事な事は「意志を持って生きる事」であり、「意志」を持たずに生きる生き方は、仏作って魂入れず的な生き方であり、悪魔に魂を売って生きている生き方であるとも言えそうなので、『魂』というものは「生きる意志」と考えても良いだろう。

 では、本題の「大和魂」とはなんぞやという事になるが、『魂』を「生きる意志」と考えれば、「大和」つまり「純日本的な生きる意志」という事になる。ここで敢えて「純日本的なる」と述べたが、今の時代の日本人に何か「大和魂」的なものを感じることが出来ないのは、この「純日本的なる」という意味合いにおいて何か別のよく分からない日本といって良いのか分からないような意志で生きているため、そこに「大和魂」を感じないのではないだろうか。そういう意味で敢えて「純」という言葉をつけた。

 我々は、それでも幼少のころから「日本はこういうものだ。」と教えられてきて、それを学んで大人になった。そうしたらどうやら、「大和魂」とは別のよく分からない魂をエンジンにして生きてしまっているような気がする。私個人の話になるが、ここに気づくのがちょっと遅かったような気がする。「あ、、、騙されちゃったのかな」的な、ある種の「魂」の改ざんというか、『魂』=「生きる意志」と考えれば、その意志そのものを誰かにコントロールされてしまったというか、デザインされてしまったというか何か「自分で自分の手綱を握っていなかったのかもしれないな」と思わされる節があり、それでもそれなりのしっかりした『魂』が込められていればそれはそれで良かったのかもしれないが、やっぱり何か弱弱しくてブレブレの『魂』が自分の中に搭載されてしまったことに後になって気づくものが後を絶えない。そこに自分の中に搭載された本来の『魂』、つまり「自分が本来どう生きるかという自分固有の意志」のようなものが、何か自分にシグナルであり、サインを送っているような気がしてならないのだ。「このままで良いのか?」「大和魂を奮わせよ」と。

 それらの今の時代の人間達のなんとなくのパターンからすれば、何故、我々の『魂』が脆弱な『魂』になってしまっているのかは、間違った歴史を信じ込んで生きているからのような気がしてならない。つまり、「生きる意志」をそこに強く載せることが出来ないため、何かふにゃふにゃしたような『魂』にしかならないのではないだろうか。

 実は、私自身がどの程度「大和魂」を発現させ、発動させることが出来たのかについては比べるものがないので曖昧になってはしまうものの、あきらかにそれまでとは『魂』の強さが変化したきっかけになる事があった。そのきっかけになったのが、歴史を疑うということだったのだ。

 正直なところ、もはや過去の歴史などタイムマシンがないのだから、資料やその土地から出土されるなんらかのものから研究して「おそらく過去はこうだっだろう」という推測をするしかない。そして、時代が変われば、歴史の解釈が変わったりすることもある。何が言いたいのかというと、「どういう歴史が正しい歴史と言えるのかは今の時代の人間に分かるはずがない」という前提がある事を知ることが大事で、例えば我々日本人が日本であれ、世界の歴史であれをどうやって知るのかと言えば、学校の教科書の内容を信じて「これが日本だ」「これが世界だ」と思い込む。ひたすら記憶させられる。これが非常に危険だという事を私は言いたいのだ。

 それはもはや「歴史の教科書」に我々の『魂』は手綱を握られてしまっていることを意味する。もちろん歴史の教科書だけではなく、親であれ祖父母であれまわりの大人たちが「日本はこんな国だった」というような事を言って教え込んだ可能性もあるし、日々のテレビのニュースによって「日本はこうだ」「世界はああだ」とひたすら教え込まれてしまっている可能性が高い。しかし、それらが本当の情報なのかという事をなかなか疑いもしないのだが、そもそも「正しい事を言っている」という保証がないのだ。

 何が言いたいのかというと、「外に出てくる情報というものは、誰かにとって都合の良い形にデザインされて出てくる」という事なのだ。「おいおい、貴方は陰謀論者だったのですね・・・」とツッコまれるかもしれないが、どこからどこまでを陰謀論と定義するかは分からないが、いつぞやの大地震は自然的なものではなく人工的なものである。というような主張をしたくて私はこの、「外に出てくる情報というものは、誰かにとって都合の良い形にデザインされて出てくる」という事を言いたい訳ではなくて、例えば、その日本に起きた大きな大地震ひとつとっても、日本の内側にいた人間と、日本の外側にいた人間ではあの大地震の印象は違ったりする。何が言いたいのかというと、我々日本の内側にいた人間には、大震災の特に津波の映像だと思うが、生々しい映像はほとんど見ていないのだが、海外の人間達は生々しい映像がニュースとして映されたようで、実際日本の中側にした当事者たちの方が、実際の悲惨さを知らなかったりする。もちろんそれは「被害者の方達への考慮」も含まれているのかもしれないが、「実際そのもの」とは違うものを私たちは見させられていたという事になる。

 こういう事は、この時ばかりだけではなく、あらゆるところで行われているということだ。何か難しい事を言っている訳ではなく、「実際のものと違うものを信じてしまっている可能性が非常に高い」という事を言いたいのだ。なんでもかんでも、他人の言っている事を鵜呑みにすると、とんでもない事が起こるし、そこに自分の「意志」の強さをそれほど感じられない生き方をする事は間違いないので、『魂』=「生きる意志」と考えれば、やはり「なんでもかんでも、他人の言っている事を鵜呑みにする生き方」というのは売ったつもりがなかったとしても、少しずつ少しずつ毎日の食事に毒を盛られて弱っていくのと同じような感じで、自分の『魂』が毎日毎日ちょっとずつすり減っていくような生き方をしているという事と同じなのだ。

 では、どうすれば自分の『魂』は脆弱なベクトルではなく、強化される側のベクトルに意識を向けることができるのか。それは、各自で『独自』に日本を研究してみる。という事が一番大事であって、唯一の「大和魂」の強め方なのではないだろうかと考える。もしかしたら、外にも方法はあるのかもしれないが、少なくとも、私自身はこの方法で、自分の中にある「大和魂」を発見することは出来たし、自分の『魂』としても弱っていた状態から回復させ、強い『魂』へと強化することが出来た。それまでは、誰が得をするための正しいのか正しくないのか分からない情報を鵜呑みにして生きてきた。やはり、そういう時は、自分の人生自身にそれほど強い「生きる意志」はなく、何者かに自分の人生そのものをいいようにコントロールされていたような気がしてならなかったのだが、自分自身で『独自」に日本を研究し始めたことにより、自分の中の「大和魂」を発見し、自分自身の「生きる意志」がその「大和魂」を意識して生きることによって、強化された為、人生の質が劇的に向上したのだ。これは、実際に体験した者ではないと分からないと思うが、誰でもやってみればすぐに分かる。自分の『魂』がどれだけ弱り切っているかにも気づくことが出来るし、自分の中に本来の「大和魂」が備わっていた事にも気づける。

 ここも、誤解されやすそうなのでもう一度述べておくが、私は別に右寄りな過激な日本人になるべきだという主張をしている訳ではない。「自分の意志で日本とは何かを知らなければあなたの『魂』は瘦せ細った脆弱な魂になってしまう。」という事を言いたいのだ。映画MATRIXを観れば、それがどういう状態なのかイメージしやすい。カプセルから出たばかりの主人公は弱り切っていた。まさにあのような状態そのものなのだ。

 大事な事は、正しい日本を知る事以上に、『独自』に日本を研究してみる。という事。それ以上もそれ以下もない。そもそも「何が正しいのか」なんて事は、タイムマシンに乗れない以上誰も白黒つけられない。そもそも歴史のテストでマルやバツをつけられること自体が非常にナンセンスなのだ。それは「この教科書に書かれている事をどれだけ覚えているかテスト」であって、決して「あなたがどれだけ正しい歴史を理解しているか」というテストにはなっていないことに気付くべきなのだ。

 そして、我々が正しい歴史を知るためにはそれこそ、一生を費やしてももはや調べる事だったり、改ざんされている歴史の罠だったりNAZOだったりを解くために時間と労力を割かなくてはいけないので、本当にそれが好きな人は一生を捧げても良いかもしれないが、そこまでする必要もない。だけど、『独自』に日本を研究してみる。ということをしないかぎり、あなたの『魂』はこれからも日々少しずつやせ細っていくだろうし、あなたの中に実は存在する「大和魂」とも出会うことは一生ないだろう。

 そして、この『独自』に日本を研究してみる。は、やってみると結構楽しかったりして、それこそ一生捧げちゃうぐらいのめり込めるほど面白かったり楽しかったりする事実もある。「え?こんなに違うの?」という事にも気づくし、自分なりに研究していく過程で、あなたの『魂』は徐々に健康を取り戻すので、この『独自』に日本を研究してみる。という営みは、やらなければ分からないだろうけど、やってその恩恵を知ってしまった者にとってはある種中毒性のある営みになる可能性もあるのだが、それこそいき過ぎた陰謀論者の道にさえ、道を誤りさえしなければ、とても有意義な営みになる。運動と同じで、「適度な運動」レベルで、適度な『独自』の日本研究を日課にすることをおススメしたい。

10:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

10:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

 

 では、この章の最後に今の時代の日本の宗教観について考えてみたい。日本のメイン宗教は仏教だというイメージがあるが、もはや日本人達に「仏教徒」と呼べるような人間はかなり少数で、それこそ葬式の時に形だけ仏教的な事を行っているだけで、日常仏教的に生きている人間等ほとんどいない。それこそ、クリスマスイブ・クリスマスにはお祭り騒ぎ、最近で言えばハロウィンではもっとお祭り騒ぎ。そして、西洋の音楽やら踊りに興じ、服装にしても和風な格好をしている人間等ほとんどいない。

 西洋人達は週末に教会に行くなどという風習があるかもしれないが、日本人にはそういう風習が昔はもしかしたらあったかもしれないけれど、基本的にはない。それこそ、「日曜日」などいう文化自体が日本のものではないだろう。もう日本の良くも悪くも「迎合的融合力」がこれまた独特のなんなんだかよく分からない無宗教的全体的な宗教の様で宗教ではない空気を皆で創り上げた。神さまはいるようでいないような世界観。仏教の方が都合の良い時は仏教キリスト教の方が都合の良い時はキリスト教、というような言ってみれば「いい加減教」が「Japan教」なのかもしれない。

 宗教的には「これ」というものは縛られない今の時代の日本人。だけど「戦後の祟り」にはガッチリ縛られてしまう日本人。もはや、ここまでカオスなフリースタイルをかます日本人は、騙す騙さないなどいうことも一向に気にせず、来るもの拒まず状態で、どんどん良くも悪くも取り入れて融合してしまう、奇妙奇天烈な民族にいつの時代からなってしまった。

 だけど、元からちょんまげだのハラキリだのと日本人の考えることは、世界から見れば奇妙奇天烈だったのだから、そんな日本人が『西洋』を取り入れ、伝統的「オタク力」を発揮して新しい世界を作った結果、こんなんなっちゃいました。って事なのだろう。

 やはり、島国という大陸の人間から見たら、日本という領土は牢獄的な部分は少なからずともあるのではないだろうか。大陸に住んでいれば、中国もヨーロッパも陸続きで、それこそ他国との交わりも盛んだけど、海外の人達から見れば日本というのは、日本人から見た沖縄のようなものなのかもしれない。その「狭く限られた空間」の中では、「いかに工夫して内に籠って楽しむか?」という問いに対する対話を多くの日本人達は常にし続けていたのかもしれない。日本人は意識を外に向けることは、これまでの考察からしても得意の様には思えない。だから、各地方毎に得意なものがあるのだろうし、こんなに狭いのに県民性のようなものが見られるのは日本人の「オタク力」からくるものなのではないだろうか。戦国時代はとっくの昔に終わったけれど、それは今の時代においては、形を変えてB級グルメだのゆるキャラだのに形を変えて未だに戦国時代ごっこをしているのかもしれない。

 たしかに、日本人が今の時代において、日本人だけが持つ「大和魂」を発揮させて、そのポテンシャルを如何なく発揮させるためには、「どうやってオタク力が発揮できる場を作るか」というコンテクストは非常に重要な要素になり得ると考えて良いだろう。そして、同時にそれはある罠と表裏一体の関係になっている事も忘れてはいけない。「融合力」は油断すれば「迎合力」になり、利用するためにかぶった鉄仮面は油断すればそれが鉄仮面であったことを忘れて、仮面が自分の皮膚に馴染んできて本来の目的を忘れてしあさっての方向で、ひたすらオナニーを覚えた猿以上に、ひとりよがりをしてしまう弱点も日本人のこの「オタク力」には備わっている事を忘れてはいけない。もちろんひとりよがりがその人間だけで終わるのであれば、好きなだけオナってれば良いと思うが、日本の歴史を見る限りそれが義務教育に結びついてみたり、社会の義務的な価値観と結びついて国民全体を縛り上げる亀甲縛り以上に、結構どころじゃないぐらいキツイ縛り上げをしてくれる「縛られ気質」に日本人はあるようにも見えるので、このバランス感覚であったり、手綱コントロール力は各自で注意しながら持ち続けるべきだ。

 例えば、クリスマスとハロウィンぐらいならまあ良いのかもしれないが、いつの間にか毎日が『西洋』的なイベントみたいになってしまったら、もはやそれは融合ではなく迎合だろう。悪い例で言えば、頭の悪い日本人サッカー指導者が『西洋』にかぶれて「日本人もスペイン人の真似して世界のトップクラスになれ」みたいなああいう考えだろう。あれはまさに融合ではなく迎合だろう。政治家でも「融合」と「迎合」の違いが分からず、必要以上に『西洋』に無駄に尻尾を振ってる売国奴のような人間がいる。それこそ国民は、自分が一票投じる対象の人間が、「融合力」のある日本人として今の時代を引っ張る力を持っているリーダーであるのか、「迎合力」の高いみっともない売国奴のようなハゲタカ共の手下のような輩なのかだけはしっかり見極める力を持つべきだろう。大体「迎合」してしまうような頭の弱さと心の弱さを兼ね備えた人物というのは、教育の考察の時に外国人が日本人をDisったあの言葉、自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」が象徴するような人間力の低さ、そして愛国心の欠如から来る頭の悪さがその発言であり、行動に滲み出てしまっている。それは加齢集のキツイオッサンが満員電車でとなりにいた時のあの強烈な悪臭と比べても比べ物にならないぐらいの悪臭を放っている。もう日本人はその悪習だけは絶たなくてはならない。そうしないかぎり、世界が我々にしている拍手は、賞賛の意味合いでの拍手ではなく、嘲笑の意味合いでの拍手になってしまうことだろう。

 それこそ、今の時代にとっての日本人に対して行うべき義務教育とは、「融合」と「迎合」の違いをしっかり理解して、融合できる力を兼ね備えたおもしろ民族日本人として育っていく事だろうというのが、ここまで日本と対話し、考察してきた私個人の見解であり結論だ。何かに謀殺されることなく、磨くべきは洞察力であり、迎合して吞み込まれることなく、包括するだけの包容力を持てるか、それとも呑み込まれるか言ってみれば囲碁の世界観のようなものなのかもしれない。「どっちが大きく包み込めるか」的な。大和魂を発現させるための世界観であり、意識する事はこのあたりだろうと私は総括する。

9:最後の3S「SEX」についての考察

9:最後の3S「SEX」についての考察

 

 ここで、みんなが大好きな「SEX」についての考察をする前に、戦後の3S政策なるものについて共通理解を深めておきたい。3S政策とは大体はこのようなものだ。

 

[3S政策]

3S政策とは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策

 

 みたいなものだが、「本当にこんな政策あったのか?」と問われれば正直分からないし、実は個人的にはなかったんじゃないだろうかと思っている。だけど、「政策」があったかどうかが重要なのではなく、個人的にはこれら「スポーツ・SEX・スクリーン」によって日本国民が愚民化した事実があるかどうかの方が大事な論点だと考えている。

 皮肉な事に、少なくとも今の時代においてこのような「スポーツ・SEX・スクリーン」によって日本国民は愚民化させられているようにしか見えず、もっと言ってしまえば、「スポーツ・SEX・スクリーン・酒・スマホ」の5Sのように見えてしまうのは私だけだろうか。

 そしてこの項ではこれらによって我ら日本人達が愚民化しているのかどうかを考察したり論述したりするのではなくすでに「スクリーン」関係と「スポーツ」関係においては考察したので、最後に「SEX」についても日本が戦後どのようになったのかを考察して、そこに「大和魂」の何かしらの要素を見つけ出せるかにチャレンジしたいとので取り上げているだけで、「日本を3S政策によって愚民化されたのだ!」という主張をしたくて書いている訳ではない。考えやすいから利用しているだけに過ぎない事は了承していただきたい。そもそも、ここまでの流れで、私個人としては、明治あたりの伊藤博文の時代の『西洋』かぶれが、日本国民としての国民レベルが著しく下がったように見えているので、愚民化計画が戦後にあろうがなかろうが、すでにその当時には日本人は愚民に化しているという見解だったりするので。

 さて、「SEX」性的なものに関してだが、やはりここに関しては、漫画・アニメ・コンピューターゲームの中に見られた日本人のおたく性が発揮されたジャンルのような気がしてならない。

 まず、日本のAVの文化だが、あれは外国人から言わせたらやっぱり漫画・アニメ同様日本独特の進化をしているように見えているのではないだろうか。さらには、最近で言えばAV女優はアイドルのような扱われ方をしている風潮まであったりする。

 そして、風俗産業だが、海外にもさまざまな形で存在はしているだろうけど、日本的な感じで風俗産業がバリエーション豊かになっている国など果たしてあるのだろうか。おそらくないのではないだろうか。やはり、この「SEX」産業においても、日本は愚民化したかと思えば、またそれを楽しんで「迎合的融合」を果たして、Japanオリジナルへと昇華させてしまっているような気がしてならない。

 しかし、この「SEX」産業が、漫画・アニメ・コンピューターゲームと異なる点は、その対象となる商品が生身の人間であり、それは女性であるという点だろう。その為、エロい男性たちは外国人であっても「日本の「SEX」産業は素晴らしい」と称賛する者たちもいるかもしれないが、女性たちからは賞賛などされることはないだろうし、男性からもあまり賞賛されていない可能性もあるかもしれない。

 これは日本人と西洋人の大きな文化の違いだが、西洋人達には「レディファースト」的な風習があるが、日本人にはその風習はない。どちらかというと日本は男尊女卑的な差別史観が歴史的にもあった。以前は、女性には選挙権が与えられなかった時代すらある。その流れからやはり「女性を性的商品に」という男尊女卑的発想があるような気がしてならないが、今度はその商品にされている女性たちもれっきとした日本人であり、それらを上手に利用してたくましく生きている女性がいるようにも見える。

 そのあたりについては、宗教の自由と同じで、何が正しくて何が間違っているのかは定義することは難しいだろう。本人が望んでやっているのであれば、他人が止める事もないのかもしれない。

 しかし、海外と比べて特異な風俗サービスがある。それは何かというと「キャバクラ」だ。この「キャバクラ」文化というものは日本独特の文化なのだ。そもそも、「女性とお話するだけでお金を払う」という事自体、西洋人達から見れば日本人達の価値観について理解を示すことができないのではないだろうか。

 そう言えば、私が以前NPO活動をしている外国人の方達を日本に読んで、お世話をする的な活動をした時に、とあるニュージーランドの方と早朝明治神宮に散歩をしたのだが、その時に彼女は私にこんな事を言っていたのを思い出す。

「なぜ、日本人はすれ違う人にあいさつをしないのだ?」

 外国では、見知らぬ人とでも会話を交わすのが当たり前なのだろう。しかし、我々少なくとも今の時代の日本人は見知らぬ人になど話しかければ、不審者と間違えられそうな暗黙のルールに縛りあげられて、見知らぬ人たちに積極的に話しかけようなどという事はしない。男性から女性に話しかけるなど、何もないのにすれば「なんだこいつ?」と思われそうな空気が日本には漂っていて、気安く話しかけることが出来ない。そんなだから、「キャバクラ」文化というこれまた奇妙奇天烈な文化が誕生してしまう。海外では、飲み屋に行けばもうその空間の中にいるというだけで「もはや仲間」という感じなのだろう。しかし、日本にはそういう空気が流れていない。

 ここに関しては、日本に古くから男尊女卑的な空気が流れていたからという部分から、「男女平等」のようなあるパワーバランスが崩れたことによる歪みなのではないだろうか。そして、日本人はこれまでの考察通り「オタク的」つまり「内に籠るタイプ」なのだ。となると、あまりむやみに見知らぬ人たちと仲良くなって何かをしていこうという気質に乏しい感じがするのだ。そうでなければ、「オタク」文化がここまで発展すること自体がおかしい。

 そして日本の「SEX」産業というのは、悲しい事に「日本人らしさ」をものすごく集結しやすい王手飛車角獲り的強さを発揮できる程、日本人の得意とするポテンシャルを集結できる産業になっているように見えてしまう。

 というのも、日本人の2D的妄想力、世界観であれキャラクター設定、つまり「ごっこ遊び」の天才である日本人の日本人特有のポテンシャルを如何なく発揮できる産業が、この「SEX」産業だったのではないだろうか。それこそ3S政策が我々日本人をどれだけ愚民化させたかは分からないが、「SEX」産業に関しては、日本人達をそれこそかなりこの世界に没頭させた事実は拭うことが出来ない事実だろう。

 宗教観という観点からも、西洋人達が「SEX」を日本のようにこんなに「商品」化させているとは思えない。それこそ、神への冒涜というような見方を彼らはするのではないだろうか。日本人は「オタク」気質なので、ハマってしまうととことん掘りまくってしまうので、もう歯止めが効かない位独特の文化を築き上げてしまうが、私自身も日本人なのでその気持ちは痛い程よく分かるが、やっぱり掘り下げるのは、「SEX」産業ではなく、もっと重要な事が沢山あるのではないだろうか。という点において、やはり、日本人は「SEX」産業によって愚民化した事は紛れもない時事なのだろうと私は考える。

 こういった性的な問題は、人権的な問題と密接に関わっているので、法律のようなルールで縛るというよりも、一人一人が考えて道徳的にそれらについて損得よりも人間としての人間レベルというコンテクストに載せてどう説くのかをしっかり考えていかないと、次の世代にもまた教育の問題と同じで、負の相続をさせてしまうことになってしまう。

 たしかに、「愚民化」という観点で言えばそれは「骨抜き」という事だろうから、麻薬関係に関しては言語道断だろうが、中毒性であったり、条件反射で反応してしまうようなものは、すべて愚民化の方向へ進む恐れのある危険な対象なのかもしれない。人間の欲を掻き立て、歯止めを効かぬ状態にしてしまう対象には細心の注意を払わない限り、「大和魂」云々の前に、人として愚民と化してしまう。

 特に男にとって「性的なもの」はとてつもなく甘美な芳香を醸し出して油断すれば一発で天国から地獄へと堕ちる恐ろしい罠である事は歴史をなぞっても、言わずもがなの内容だろうから、寝ている時も曲者に警戒する殿様のように、警戒し続けるぐらいでちょうど良いのかもしれない。

 しかし、その日本人の類稀なる「オタク力」によって発展させた「SEX」産業で培ったそれらの妄想力であれ、世界観の構築力を是非、多ジャンルの産業で活かして、胸を張って自慢できるジャンルの中で、その「オタク力」をフル勃起ではなく、フル発揮しするためにすぐ発起するべきだろう。

8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察

8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察

 

 日本好きの私が、一番嫌いな日本の文化は間違いなくこの「学習塾・お受験文化」だろう。そう考えると、私は実は日本人らしくないのだろうかと思ってしまう節もある。正直、どんな刑罰に処せられることよりも、私は「お受験の刑」に処せられるのが一番苦痛かもしれない。もうとにかく、この文化が嫌いだ。

 では、この悪しき文化は明治維新であれ、戦後であれ『西洋』の持ち込んだ異物なのかといえばそうではないようだ。むしろ西洋であれアメリカの教育は、日本の教育と比べて「のびのび育てるスタイル」だったりする。それこそ、西洋人達は日本のこの「学習塾・お受験文化」を蔑視している。それこそ、「子どもを厳しいルールにがんじがらめにするな」「日本の学生はどうしたら試験に合格できるかを教えられ、どう考えるべきかは教えられない。」「日本の教育は、単なる公式に100%当てはめてるだけ。」「学生たちは誰ひとり自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」と、言いたい放題Disの嵐だが、私自身もこれらの意見に対してme tooとしか返せないし、反論する気持ちもない。まったくの同意見だからだ。

 それなのに、なぜ日本人はこの腐りきったもはや教育と呼ぶこと自体に嫌悪感を抱いてしまうこのクソシステムをずっと採用し続け、さらにもはや「家に帰るまでが遠足」という校長先生がよく言うことあるあるとフラクタルの関係のように見える「学習塾に通わせるところまでが義務教育」みたいな事をしているのだろうか。個人的には、トランプ大統領に「日本よ、お前の国から「学習塾・お受験文化」を撤廃しないとミサイル落すぞ。」ぐらいに警告してもらいたいというのが私の本音だ。とにかく馬鹿げているとしか思えない。タバコ以上に百害あって一利もないのが、この日本の「学習塾・お受験文化」だ。

 では、なぜこのような世界から蔑視されても続けるそれこそ、こんなクソ文化にしがみついているという事が理由でイエローモンキーとバカにされるのであれば、甘んじて受け入れるしかないような頭の悪い文化に日本人は固執しているのかを考えてみたい。ちなみに海外に不登校児のような存在がどのくらいいるのか知らないが、確実にこの

「学習塾・お受験文化」というクソ文化のせいで、学校に行きたくない子どもたちが増加しいるのは間違いない。もっと楽しくやれば、学校生活だってそれなりに楽しかったりするはずなのに、人間をロボットのように扱おう的な事をしていけば、そんなの病んでいくに決まっているし、感覚の鋭い人間達にすればそんな「人間をロボット化」するような場所に行きたくないと思うのは当然だし、そもそも子どもと大人という関係において、逆らう事さえできず、それは言ってみれば犯罪を犯して入れられる刑務所のような事になっているのだから、そこにお行儀よく通えること自体がもはや病的なのだ。

 それこそ1章で「人間をモノのように扱う民族」と私は西洋人達の事を称したその西洋人達に「日本人の教育は人間をロボットのように扱っている低能なもの」と蔑視されているのだから、もうここについては何も言い返すことが出来ないし、なんでそんなことをするのだろうかと本当に残念でならない。

 私はこの「学習塾・お受験文化」についても、これは戦後の「復興モード」が創り出してしまった一つの応急処置的教育システムなのではないかと推測する。とにかく、復興している時には「優秀な労働力を効率よく量産していく」という戦略は、まあ想像しやすい。そこに「競争システム」を大人になって社会に出る前から、学生時代に植え付けてしまおう的な発想も出そうな気もする。もしも、当時「学習・お受験文化」によって復興のスピードを劇的に加速させた可能性もある。子どもも大人も「追いつけ・追い越せ」的な空気で日本全体が「復興して、世界を追い抜くぞ!」という追い風というか神風を利用したようなものなのではないだろうか。

 そして見事日本は復興し、復興しただけではなく世界トップクラスの経済大国になれた。そして、もちろんお決まりの日本の悪い癖というか、副作用の「応急処置モードをひたすら進化させてしまう日本人性」がここにも発揮されてしまう。もうそんな「追いつけ・追い越せ」なんて事をしなくてよいのに、さらにその「学習塾・お受験文化」を日本人の優れた加工・進化能力によって、ポケモンのキャラクター以上に進化させていくという事をし始めて、今の時代の「学習塾・お受験文化」がここにある。

 例えば、お隣の国が未だに日本に「戦争の時の損害賠償をしろ」と言い続けているが、「もういいんじゃないの?」というのが私の本音だ。何代まで祟れば気が済むのだろうかと思ってしまう。それは「戦争でやったことを正当化」したい訳ではない。例えば犯罪を犯した祖父の罪を孫が背負う必要などどこにあるのだろうか。という事を言いたいだけだ。

 それは実際にこの「学習塾・お受験文化」もそうなのだと私は強く訴えたいのだ。もう裕福になった国日本にこんな「追いつけ・追い越せ」文化は無用の長物であるし、もっと言ってしまえば「戦後の祟り」みたいなものだ。これによって、どれだけ日本の若者のポテンシャルがボロボロにされ、さらに言えば裕福になったというのに「過労死」などという情けない社会現象を作り出してしまう始末に負えない不始末を起こす国に成り下がってしまっているのは、本当に悲しい事だ。もちろん、このような事を文部科学省に意見したところで、馬の耳に念仏状態であるだろう。

 本来、日本の上に立って国であれ国民をコントロールする者達は、誰よりもこの「戦後の祟り」を取り除く事に心血を注ぐべきだったのだが、今の時代の日本を見る限り、国民の所得を倍増させることに関しては躍起になったが、そのミッションを達成した後の計画までは考えていなかったという事が良く分かる。日本の教育は後手後手で、それこそ以前「ゆとり教育」などというテコを入れてみたりもしたが、まったくビクともせず、それこそ未だにコテコテの「学習塾・お受験文化」が蔓延ってしまっているのが現状だ。

 外国人達が日本をDisっている中に、「自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」というようなDisがあったが、もう日本の教育における「戦後の祟り」を除霊する事に対してはもう国になど頼ったところではどうしようもならないし、それこそ、日本は子どもを金稼ぎのターゲットにしてしまった。もはや「教育」であり「子ども」というのは、銭ゲバ達から言わせれば金を稼ぐための対象でしかない。

 本気で、日本の教育をどうにしかしようという気持ちのある人間達でなんとかするしかない。それが小さなことでも良いから、ネットワークをつくって自分の言葉で自分の意見を述べることができる人づくり」の環境をつくっていくしか、日本のあ式教育システムを破壊して、変えていく事は出来ない。時間がかかろうが、いくら邪魔されようがこれだけは本気で日本の教育における「戦後の祟り」を成仏させてあげない限り、日本はさらに上のステージにはたどり着けず、それこそ何かしらの傀儡として日本という形をいろいろと保てなくなる危険にすでに晒されていて、それはもうだいぶレッドゾーンに近いレベルのイエローゾーンにいる事に気付かないとまずい。

 もちろん、このような心配をよそに、子どもたちであれ若者たちは、その「戦後の祟り」にやられずに逞しく生きている若者たちも少なからずいるので、彼らに期待するというのも一つの手だろう。前著『自分』を最大限生かす人生戦略の中でも書いたが、今の時代は「学習塾・お受験文化」という「社会のレールゲーム」など流行らないし、コスパも悪い。早急に領土ゲームの経験値を積んで、自分の領土統治をして自分の作り上げたい世界を創って幸せ生きていってもらいたいと私は願う。

 それこそ、日本人は「妄想の天才」なのだから、「自分の内側の世界」で、世界を驚かせるトンデモワールドを創り上げて、「自分の外側の世界」にそれらを上手に投影して、それこそ「学習塾・お受験文化」→「就活文化」→「過労労働文化」というレールに乗って消耗しまくる人生を送る者たちを脇目に、常夏以上の楽園ベイベー人生を謳歌してくれる日本人タチだらけになる事を期待するのと共に、私自身もそういう日本の教育システムが広がる何かを作って提供できるように出来る限り尽力していく事にする。もちろん仲間は多いに越したことはない。

 戦後日本の良い部分は徹底的に伸ばし、戦後の祟りであったり、悪しき部分は徹底的に見直して改善する。先人たちが蓋をしたままの「臭いもの」の蓋を開けて向き合うのはたしかに大変かもしれないが、誰かがどこかの代でやらなければ、それはさらに腐敗臭を増して、次の代へとキャリーオーバーしていくだけだ。

 戦後の祟りは、孫・ひ孫の代でなんとかそのツケはきっちり清算してやりませんか?という提案が私の提案だ。誰も乗っかってこなかったとしても、孫悟空の親父のバーダックのように一人果敢に挑むまで。フリーザよりは難攻不落ではないでしょう。せめて文部科学省ジャイアントスイングかますぐらいまではしたい。そのフラフラになったところを誰かが一発シャイニングウィザードでもかましてくれれば、日本の悪しき教育スタイルもK.Oされるのではないだろうかという訳の分からない事を述べてしまったので、それこそ意味不過ぎてWhat say?だろうけど、西洋人達にDisられないように、私自身の自分の言葉で自分の意見を述べる」っていうここに関してはちゃんと明示することは出来ただろう。