harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

大和魂の研究~さいごに~

大和魂の研究~さいごに~

 

 この「大和魂の研究」という本は私の著書としては二冊目の本だが、一冊目の本である『自分」を最大限生かすための人生戦略とは違い、書きながら足りない部分を調べ、書きながら日本の各コンテクストについて論じている人達とコンタクトをとり、時には論じ合ってみたりしながら、私なりの考察であり、論述をしてきた。

 実際のところ、歴史などというものはどこでどう改ざんされているかも分からなければ、正しく記載されていたとしてもそれが「正しい」と判断するかどうかについては分からない。これは笑い話になってしまうが、某戦国時代をモチーフにしたゲームに登場するキャラクターたちは美男美女だらけであるし、中には男性が女性として描かれてしまっているようなゲームまである。歴史を知らずにゲームの内容を信じてしまい、それらの内容が伝言ゲーム的に伝えられていけば、いずれ織田信長徳川家康たちはヒゲではなく胸の谷間が描かれている可能性が高く、挙句の果てには二百年後の歴史の教科書には美男美女が描かれているなどという可能性もゼロではない。すでに、ゲーム上であればそういう世界観になってしまっているのだから。

 そう考えると、「大和魂」の正体を歴史を資料にして探っていく事自体に信憑性をどこまで見いだせるか、精度をどこまで高められるかという事に関しては執筆している中でもたびたび疑問を感じることがあった。

 しかし、紙に書かれている、ネット上に書かれている内容が真実を物語っていなかったとしても、日本人が存在し、この日本という島国で長年生活して、文化を築いてきた事、そして歴史の中で今のような日本人へと変化していった事実だけは、正しい、間違いではなく事実そのものなのだ。「大和魂」を研究するにあたって一番大事なこと、そして一番頼りになる資料とは、自分以外に他ならない。

 自分の中には日本人のDNAが刻まれている。歴史の教科書にどう記されていようが、我々日本人が実際にその時代時代にどういう生き方をしていて、その時代の日本がどういう時代であったのかは我々の体内に実際に刻まれていて、自分の外側のそれらを調べる事よりも、自分の体に聞いてみることで、それこそ「正しき答え」を知ることが出来るのが本来の「大和魂の研究」であることは間違いないし、ここを履き違えればただの日本史物知りオジサンににしかなることが出来ない。

 そういった意味では、「自分との対話」「自分のDNAとの対話」といったこちらの技術を磨いていかない限り、本当の意味での「大和魂」と出会うことは出来ないだろう。その上で、自分の外側の世界にある歴史的な建造物と触れ合ってみたり、各地の伝統・文化と触れ合ってみたり、その場に行って日本の歴史を感じてみるという事にそれほどの意味と意義を持たせることは出来ないだろう。

 今回は、どちらかというと自分の外側の世界の日本を参考に、「大和魂」を研究してみたが、次回はもっと自分の内側にある日本を意識して、「大和魂」とは何なのかを研究してみたいという気持ちが強くなった。特に、執筆していて最後の方にテーマにした「日本人の入浴文化」について考察していて出した仮説については、非常に興味深い仮説を立てられることが出来たし、自分の知らない日本であったり、自分の知らない日本人に出会えた気が多少なりともした。そういう意味では、私自身まだまだ見逃している日本、日本人がどこかにいるのだろうなという事にも気づけた。

 そして、このテーマは非常に大きなテーマであり、私一人で抱えて挑んだところで大したことにはならないだろうし、面白みもない。今回のようにさまざまなジャンルで日本を研究している人達と絡み、あーだこーだと議論してみたり、実際に集まって日本を感じ、またそこから何かヒントを探し、仮説を立て合って、検証してみたりするいわば「大和魂研究コミュニティ」のようなものを発足させて、もっと我々日本人の中に眠る「大和魂」を研究し、研鑽し、その力を如何なく発揮できるようにしたいと個人的には期待しているし、最後の章で述べた「この時代の日本人が一番日本人的だった。」と、後世に残る日本人らしいライフスタイルを実践するとともに、その背中を後世の人達に残せるような生き方にチャレンジすることに、私自身は日本人として生まれ育った幸せを感じている。

 誰かに植え付けられた思い込みでなんちゃって日本人を演じるのではなく、本当の「大和魂」にスイッチが入った純粋な日本人を味わって、今の時代における純日本人として誇り高く日本人として生きて、世界に『日本教』を普及していけたら最高だろう。それこそ、三年後には世界が日本を、注目する機会は設定されている。この三年間で我々はもっと「大和魂」を研究して、より自分の中にある大和魂を磨いていってそれこそ、「すみませんすみませんの国ジャパン」ではなく、「和と融合の国ニッポン」であることを過去に落とされた爆弾以上のインパクトで、世界の連中にブチかましたいと思うのは私だけだろうか。もうこれを機に日本は「JAPAN」ではなく「NIPPON」に世界的にも改名するぐらい、「日本」を主張すれば良いのだ。もちろん、その為には本気で変なメッキのかぶった日本ではなくて、純粋な日本を我々日本人自体がしっかりしる必要がある。「大和魂の研究」とは、そういうチャレンジなのだ。

10:サバイバルの時代に、リバイバルすべき時代とは

10:サバイバルの時代に、リバイバルすべき時代とは

 

 それではこの3章の最後に、考えてみたい事論じてみたい事としてサバイバルの時代に、リバイバルすべき時代とはとしてみたが、日本の過去の歴史において特異な時代を挙げるとすれば、それは縄文時代と江戸時代のような気がしてならない。

 もちろん、どの時代にも特徴はあるとは思うのだが、やはり縄文時代と江戸時代は何か特別なものを感じずにはいられない。ただ、縄文時代に関しては一部のスピリチュアル好き、陰謀論好きの不思議大好きキャンベーン的なものにひっぱられている可能性もなくはないが、やはり縄文時代は日本人の日本人性を象徴している気がしてならない。

 というのも、やはり「和風」というものはどこか縄文時代的なものを感じられないだろうか。そんなこと言ったら弥生時代平安時代だろうがそれらはすべて「和風」だろう。と言われてしまえば返す言葉はない。だけど、やっぱり縄文時代的なあの素朴さに「日本人らしさ」を感じずにはいられないのだ。縄文土器のあの無駄に手の込んだデザインを見てドキドキしてしまうのは私だけだろうか。そもそも弥生時代のあの土器のなんというか簡素さはなんなのだろうかとときどき思う事は無いだろうか。勝手な思い込みかもしれないが、縄文土器が代表するように、あそこに大和魂のルーツがあるような気がしてならない。むしろ弥生時代には何か他のものが入り込んできてしまったのではないだろうかというような事をやはりどうしても考えたくなってしまう。

 それはおそらく気のせいではないのかもしれないが、縄文時代弥生時代を雑に比較しても、

 と、大体歴史の教科書にはこんな感じで書かれているが、注目したいのは縄文時代の長さだ。なぜ、ここまで長くこの時代が続いたのだろうか。それはもちろん人と人との争いがなかったからだろう。まさに「和」であり「調和」の時代だったとも言える。そして、弥生時代からは有名なのは卑弥呼だが、そういった王様とその他、つまり階級のようなシステムが導入され、人と人が戦って領土を奪い合う時代がはじまった。基本的に、弥生時代から戦国時代と呼ばれている徳川家康が天下を統一する時代までは、国内で戦争がずっと続いていたようなもので、大きくくくってしまえば弥生時代から日本はずっと戦国時代だったと見ても良いのかもしれない。つまり縄文時代は非戦国時代、そこから日本はなにかと戦う戦国時代へ突入し、一旦江戸時代で非戦国時代にとりあえず戻り、また明治維新に向けて戦国時代っぽい風が流れて今度は日本の外側に目を向けて調子に乗って戦国時代してみたものの、出る杭を打たれて強制的に非戦国時代になったのが、今の日本と強引ではあるが、考えることも出来なくはないだろう。

 そういった意味で、日本というこの島国というか生命体は、戦いを好まない。和を好む生き物のような気がしてならない。私自身も昭和の時代の競争社会に洗脳されて育ったため、物心つく前から無駄に競争心を育まれてしまったが、こうやって日本というものを見つめなおしてみると、いかに日本は戦いを好まない風土であるかが見えてくる。

 おそらく、日本の外側の国というか土地というか風土的には、戦う事でイキイキしてくる土地もあるのかもしれない。しかし、縄文時代まで遡ってしまえば日本は人と人とが争っていなかった可能性が非常に高いのだ。そして、その後江戸時代において久々に戦わない日本がやってきた時にやはり江戸時代の文化というものは、日本人に馴染んだおもしろい時代を創り上げてきた気がするのだが、もちろん江戸時代の日本人達は縄文時代の日本人のような素朴さはないだろうし、『西洋』のちょっかいもはげしかった訳だから、またそのオセロの白を黒にひっくり返されてはしまったのだろうけど、江戸時代というのは日本の歴史の中では特異な時間だったような気がしてならないのだ。

 私自身どちらかというと「戦う」ということに魅力を感じてしまうタイプの人間なのだが、かといってもそれは先天的なものでなく、やはり後天的に植え付けられた一種の催眠のようなものの気がしてならない。やはり、日本人は縄文人のような戦わずに「和」する事を大事にしている人間のような気がしてならない。そうでなければ、二〇一一年のあの大震災の時にも、自分も大変なのに他を思いやるような行動が自然と出てくる事は無いのではないだろうか。それらの行動を世界の人々は見て驚いた。それこそ、ある国の人達はそんな震災が起これば、火事場泥棒のチャンスタイムとばかりに考える者も多いというのに、日本人は本性が出ると、あのような行動が自然に取れてしまうのだ。やはり、人間の本性というものは緊急時に思わず自然と出てしまうものであることは間違いない。あれらの行動は、戦争に負けた負け犬根性的なDNAがそうさせたものではないと私は考えている。たしかに敗戦時に、アメリカの軍隊のジープが道を通る時に、はじによって背を向けたあの光景に似ていると言えば似ているが、そことフラクタルな関係にあるのではなく、日本人は異常に「譲り合う精神」が元から優れていて、それが、戦後の復興モードで悪い方向にそれが出てしまい、「譲り合いの精神」「和を大事にする精神」が、日本の外側の国々の文化と交わった結果としてそれが「謝罪文化」という情けない方向にひん曲がってしまっただけなのだろうと推測する。

 そういった失敗例にも目を背けず、もう一度我々日本人は一度、江戸時代、そして縄文時代の日本人の精神性を取り戻して、「日本人」という存在は一体どういった存在なのかを考えてみるべきではないだろうか。

 ちなみに私が「大和魂」を研究しようと思った動機は、日本人の日本人たる強さを取り戻したいという気持ちからで、まさか研究してみて「日本人は和を大事にして戦いを好まない人種」であるなどという結論に進むとは思わなかった。しかし、調べれば調べるほど、日本と対話すればしていくほど、日本であれ、日本人という存在は、「和を大事にする」「融合力がハンパない」というこの事実にばかり出会ってしまい、戦いを好むようなそういう部分を見つけることが出来なかったのだ。もちろん、「あんなこと」や「こんなこと」など戦いに関する事をつなぎ合わせれば、「いやいや、日本人ってこんなに戦いが好きなんだぜ」という論調にもっていくこともできるかもしれないが、私が調べている中ではそういった「戦い」の要素は、日本の外側から入り込んできたような気がしてならないのだ。縄文時代は古すぎてちょっと分からないが、江戸時代に関しては外国が日本にちょっかいさえ出さなければ、日本は別に日本の外側の国に攻めようなどはまず思わなかっただろう。そして、この世界から見れば小さな島国の中で、それこそ「オタク力」を発揮させて、自分たちで自分たちなりに楽しんでいたのが江戸時代の文化なのだと私は考える。

 今の時代はグローバルであって、それこそ鎖国的なひきこもり的な生き方は時代にあっていないことはたしかだ。だけど、日本が世界に迎合して、競争ごっこに混ざる事が本当にグローバルな時代の中で日本がすべきことなのかどうかは、もう一度各自考えるべきだということは主張したい。

 それこそ、かつてフランシスコザビエル達、『西洋』の宣教師たちが日本人にキリスト教を布教しにきたかのように、我々日本人は『日本教』を世界に布教しに行けばよいのではないだろうか。「競争」ではなく「共生」という和の精神、融合精神を布教するのだ。もちろん強制的にやってもそんなことはしょうがないのだが、競争社会に迎合して世界から「日本人も上手になったね。」などと上から目線で見られていては、それこそ「大和魂」が再起動するなどという事は考えられず、ずんぐりむっくりした体系の『西洋』人かぶれとして、世界からバカにされながらそれこそ子ども相手のようにからかわれるのがオチだろう。日本人が『西洋』人ごっこをすれば、そうなるのがオチなのだ。それこそここについては、歴史が証明してくれている。

 我々日本人には、日本人のDNAが刻まれている。日本は『西洋』ではない。オタクイズビューティフルという内に籠って、何かを極め、そして迎合することなく融合する。もはや世界から見てみれば、日本そのものがUFOのような存在なのに、大事なものを捨ててそこから無防備に出て、烏合の衆のようになってしまっては、「大和魂」は腐り果てて腐臭しか発生しないだろう。そして、未来永劫、「この時代の日本人は日本人らしかったよね。」と語り継がれるような時代を築きたいと私は思う。同じ気持ちのある人たちで集合して、この時代を「一番日本人らしい「大和魂」が一番輝いた重要な時代」にしていこうゼ!って事で、ひとまず「大和魂の研究Ⅰ」は終了。

9:入浴と睡眠について疑ってみる

9:入浴と睡眠について疑ってみる

 

 ニューヨークで入浴する。これはもっぱらオヤジギャグとしても低能な分類に入るダジャレだが、しようと思えば出来るだろうけど、ニューヨークで入浴したところで気持ちよくもなんともないだろう。そもそもニューヨークに温泉などあるのだろうか。というよりも、アメリカに「入浴文化」などない気がする。もちろんただこれが言いたいだけで文字数を稼いだことは言うまでもない。

 入浴文化はかなり日本独特のもののような気がしてならない。ということはそこに「大和魂」の扉を開く鍵があると考えても良いだろう。やはり、入浴文化は独特で日本固有のものと考えてよさそうだ。

 まず、入浴文化から連想されるものとしては「体を洗う」というコンテクストがあるが、たしかにイメージ的にも日本の外側の人達は、そんなに毎日お風呂に入るようなイメージがないし、香水文化がそれこそ発達している事を考えれば日本人のようにあまり体を洗う事は無いのかもしれない。たしかに体臭がキツイ印象を少なからず感じる。日本人の男性などそれこそ毎日風呂に入って清潔にしていたところで、加齢という逃れられない現実から醸し出される加齢臭なるものに、まわりから忌み嫌われる存在になるのだが、日本の外側のお国の人達は、そもそもそれほど体臭というもの気にしていない風習を感じる。ここには何か「体を洗う」という文化であり、習慣を感じ取ることが出来ない。むしろ「洗ってはいけない」というような何か宗教的な何かすら感じずにはいられない。そこまで強烈な教えはなかったとしても、少なくとも今の時代の日本人の考えるような「風呂に入らない奴は不潔」というような発想自体、彼ら彼女らは持っていない気がするのだ。

 とは言え、「入浴=洗体」と考えるのは少し間違っているような気がしてならない。私はどちらかというと、入浴文化に「大和魂」のなんらかの要素が隠されているのであるとすれば、『湯に浸かる』というこっち側に内在されている気がしてならないのだ。もしも日本人が、この世界で暮らす人々の中でやたらと体を洗う人種だったとしても、外国人達が体を生まれてから一切洗わないという訳でもない。もちろんそういう人たちもいるかもしれないが、多かれ少なかれ体を洗うというこの所作はするはずだ。

 しかし、『湯に浸かる』というこっちに関してはどうかといえば、世界的にも『湯に浸かる』というこの文化を持っている国は皆無に等しい。我々日本人にとっては、入浴という行為は、ただ単に「体を洗う為」というような「トイレに行って用を足す」というその機能面だけを見て行っているものではない気がしてならないのだ。もしも体を洗うという機能面を追求するのであれば、『湯に浸かる』という行為は、水の量的にも、お湯にする熱のエネルギー的にも非効率的であるとしか言いようがない。それなのに我々日本人は、『湯に浸かる』というこの行為を好む。もっと言ってしまえば温泉のような特別な成分の混じったお湯に浸かった時など、それこそ「幸せ」まで感じてしまう。こんなことが出来るのは日本人だけで、それこそ世界から見れば滑稽にしか見えないかもしれない。もちろん、彼らは『湯に浸かる』というこれの気持ちよさを知らないとも言える。

 もしもこの『湯に浸かる』というここに日本人にしかない独特の何かが内在しているのであれば、『湯に浸かる』というこれをしたときに、我々の人体にどういう事が起こるのかを考えてみれば良いだろう。

 入浴による効果はさまざまあるようだが、どれもどのくらいの効果があるかは分からない。というのも、『湯に浸かる』というこの行為をした時としなかった時でちょっとでも効果があるのであれば、それは「効果がある」ということになってしまい、その「ちょっとした効果」を持ち上げて「だから湯に浸かることで大和魂は起動するのだ!」と鼻息を荒くして主張したところで、ただただ恥ずかしい事を偉そうに豪語してしまうことになるので、その点には気を付けたい。なので、ここでは世間一般で言われている効果効能をどうのこうのと並べて述べるというよりも、それこそ『湯に浸かる』というこの行為をほぼ毎日、約四十年間続けてきた私自身の身体に聞いてみたい。自分の身体に聞かずして、他所の文献やら実験室の結果を鵜呑みにするよりも、よっぽど信憑性がある気がしてならないからだ。

 その上で、私がこの『湯に浸かる』というこの行為に特別備わっている要素というか効果としては『気持ちよさ』のような気がしてならない。ここでいう『湯に浸かる』ことで得られる『気持ちよさ』とは、ホッとする気持ちよさだ。人体で何が起こっているかを別の言葉で述べれば、それは「リラックス」という言葉であったり、交感神経優位の状態から副交感神経優位の状態にする。というこの効果なのだと予想する。

 では、たとえば西洋人達は、交感神経が優位な生活をしているのか、それとも副交感神経が優位な生活をしているのかと考えれば、日本人のライフスタイルと比較しても、おそらく彼らは福交感神経優位の生活をしているように思える。そのため我々が好む『湯に浸かる』などという行為を求めなくても、そもそも必要がないのかもしれない。この仮説に関しては、以前私自身がサッカーについての研究をしていた時に、日本人と西洋人の違いについて考えて立てた仮説とも一致する。そもそもの基本の状態が、交感神経優位の状態の人間と、副交感神経優位の状態の人間では、人間的な機能であり性質に特徴が出てもおかしくない。

 2章の中でもスポーツについて触れた項があったが、個人的にサッカーについて研究した私なりの結論は、サッカーというスポーツは、性質上、副交感神経と交感神経をスイッチさせる技術が何よりも重要であるという結論に至った。実は、この事を巷のサッカー指導者もサッカーに携わる某協会の幹部のような人間達も、まだ気づいていない節があるので、このようなことを声高々に主張するとサッカーのサの字も分かっていないド素人とDisられるだろう。しかし、残念ながら私が主張している「サッカーは交感神経と副交感神経を切り替える技術が肝」というここについては、いずれはっきりとすることだろう。というよりも、すでにそれは実証されているようにしか私にはそういう風にしか見えないのだが、未だにサッカー業界は技術論とフィジカル論と戦術論にしか着目できない悲しさがある。では、なぜ野球においては日本人は優秀なのかと言えばおそらく、それほど「交感神経と副交感神経の切り替え」を要求されないスポーツだからだと推測する。

 歴史上、どこでそうなったのかは分からないが、日本人はこの交感神経と副交感神経を切り替えることが出来ないか、もしくはヘタクソなのだろう。その為、どうしても日本人は『湯に浸かる』というこの行為を行うことで、交感神経優位の状態から副交感神経優位の状態へ切り替える必要があったのではないだろうか。

 現時点でこの項で述べられている事は、私の個人的な思い込み仮説を並べ立てているだけだが、以前この交感神経と副交感神経の切り替えについては、自分の人体を実験台にしてひたすら行ったので、非常に自信がある部分なのだ。そこで、トンデモ仮説といくらDisられても、この項では私の暴論を撒き散らす事を選択した。どこぞの大学の博士のエビデンスなど持ち出したところで役に立たない時は役に立たないからだ。昨今の水素水の問題一つとってみてもそういう部分は伺える。いくら理屈で良いだの悪いだの言っても、自分が水素水を飲んでみればなんとなく分かる。たしかに良さそうな気はするが、博士たちがお墨付きをつけるほどそんなに凄い効果は一向に感じられない。

 もちろんエビデンス的な裏を取る事も大事ではあるが、やはり事件は会議室ではなく現場で起きているので、現場レベルの体験談をもとに、この「なぜ日本人は『湯に浸かる』のか?」ということと、交感神経と副交感神経の関係の話を論じていきたい。裏を取りたければ、各自していただければというのと、やはり自分の体を使って試していただきたいというのが私の本音だったりする。

 日本の特異性でよく言われるのは、電車などに顕著に表れる時刻表通りにきっちり電車やバスがやってくるというあの神経質さ。あんなに時間をきっちり守り、守れないととんでもなく謝罪させられる国は日本だけではないだろうか。欧米人はもっとゆったり生きている事を考えれば、中には国のルールでお昼寝したりする国があるぐらいなので、日本人と欧米人のどちらが全体的に神経が張り詰めたような生活をしているかは比較するまでもないだろう。

 そして日本人のお家芸である「謝罪文化」だが、これもストレスがたまりそうな文化だと言える。外国人はあまり謝らないという印象があるが、そもそもそんなに細かい事を気にしないのかもしれない。風呂に入って体をキレイにするというのも、日本以外の外の洗体事情からすれば、日本人は臭いに関してやたらと神経質だし、外国人男性はハゲの方がむしろモテたりするぐらいだが、日本人はやたらとハゲを気にする。とにかく日本人は無駄に神経質なのだ。見ず知らずの人とも平気で話せるのも外国人だし、日本人は特に昨今、知らない人になど話せば犯罪者と間違われ、電車の中で男性陣は痴漢と間違われないように両手を上に挙げて乗る。ウォシュレット文化も神経質な日本人だからこそ作られたようなものかもしれない。もう日本人の神経質な気質、交感神経優位そうな気質から生まれる生活文化を挙げだしたら、それこそ枚挙に暇がない。そんな日本人だから、湯船に浸かることでホッと一息、一日に一度ぐらいは思いっきりリラックスする必要があったのではないだろうか。

 なぜ、そんなに日本人という人種がそこまで世界の中でも神経質で、常に交感神経優位な生活をしているのかはよく分からない。たしかに、何か問題を起こした時に自ら腹を切って詫びるなどという文化は世界でも例がなさそうに思えるし、自分のボスから腹を切る事を命じられることにビクビクしながら生きていたとしたら、これは戦後の復興からアメリカ様から流入してきた文化ではなく、元から日本人という人種は、非常に神経質に生きることを植え付けられて生きていたことになる。

 欧米人のイメージというか特にアメリカ人のイメージは「でかけりゃそれでいい」みたいな大雑把な世界観を持っている印象を受けるが、やはり日本人が作るモノであったりサービスは良い部分で言えば精密で、細部にもこだわっているようなものが多い。そういったメイドインジャパン的なものを、副交感神経優位でいいじゃんいいじゃん楽しけりゃ何でもいいじゃん的なラテン系の血の流れている人間がそれらをつくることは難しい。再び、サッカーの話になってしまうが、やはりサッカーの強豪国はブラジルだったりスペインだったりといったラテン系の血の流れている人々が強かったりするのは偶然ではないと思うのは私だけだろうか。そしてさらに付け足してしまうが、日本人のサッカー指導者は、子ども達に「楽しめ」といちいち命令するのだ。どれだけ日本人が交感神経優位の呪いにかかってしまっているのかは、このあたりを見ても拭えない事実だろう。いちいち他人に「楽しめ」などと命じられたら楽しめるものも楽しめない。

 また、もしかしたら言語の周波数においても日本語は周波数が低い音の言語である事が分かったが、この周波数の低い音というのは交感神経を優位にさせる効果がもしかしたらあるのかもしれない。そして周波数の高い音には副交感神経を優位にする効果がもしかしたらあるのかもしれない。もちろん都会の人口密度の高いゴミゴミした場所では、交感神経が優位になるであろうことは実験しなくても容易に想像できるし、大陸の人達は日本に比べれば基本的に土地も豊富だからゴミゴミする事も少ないだろうし、そんなに人口密度的な事でストレスを感じるような機会も、日本で生活する我々と比べたら、極端に少ないかもしれない。

 と、この項ではゴリゴリ仮説で攻め続けてみたが、私の実体験から立てた仮説なので個人的にはかなり自信がある。そして、私はここ数年間この「交感神経と副交感神経の切り替え」をものすごい意識的に切り替えて生活してみた。その結果としては、思い込みもあるかもしれないが「交感神経と副交感神経の関係」を意識していなかった時よりも生活も人生も好調であるし、「大和魂」的にも健全な状態で生活できているように思える。それまではやはり無駄にピリピリと神経を張り巡らせて常に集中を切らさないように心がけて生きていたような気がする。教育について触れた時にもこの部分は指摘したが、小学生の時代からお受験を意識させられ、ひたすら比較され、合格不合格という評価にさらされて生きている日本人。いつの間にか「交感神経優位人間」として形成されていくのはしょうがないことで、これを"日本病"と呼んでしまっても良いのかもしれない。

 そういう視点で考えると、日本人というコンテクスト上、エネルギーマネジメントという問題は非常に重要になってくる。「日本の常識は世界の非常識」といえる事は多々あるし、今回私が立てた仮説のように「もはや欧米人と日本人は真逆に近い性質を持っている。」などという説が事実であるとすれば、日本人式のエネルギーマネジメント術を確立する必要がある。

 そのエネルギーマネジメントを間違えて、最悪の結果になってしまうのが「過労死」というようなストレス過多によるなんらかの現象、症状だと言えるだろう。私個人としては、一日二十四時間の中で、自分がどのくらい交感神経優位の状態で生活しているか、副交感神経優位の状態で生活しているかをある程度把握しておくことをおススメする。人間という一本の形状記憶合金も、ある程度のストレスであれば元の状態に戻れるだろうが、負荷をかけ過ぎてポキッと折れてしまえばもう元に戻る事は相当難しい。

 そういう意味では、入浴以上に気を付けたいのは睡眠だろう。それこそ睡眠は人間であれば誰でもしている行為であり、睡眠によっていろいろと回復させている事は間違いないだろう。寝ないで生活すれば健康状態が悪くなる事も疑う余地はない。

 ただし、この本は「大和魂の研究」なので、日本の独自性から睡眠というものを語らなければ面白くないので、そのあたりを探ってみるとどうやら「居眠り文化」というものは日本人の独特の文化だというのだ。欧米人達は「人前で自分の寝る姿を見せない」というのだ。だとすれば、電車の中で立ったまま居眠りをしている日本人を見た時はなんとも不思議な気持ちになった事だろう。

 また『西洋』が日本に入り込んだ後と入り込む前の違いから探るとすれば、時間の数え方というか「太陽暦」と「太陰暦」の違いがあるだろう。太陽暦太陰暦のメリットデメリットもいくつかあるようだが、私が着目したのは「太陽歴=工業的ライフスタイル」「太陰暦=農業的ライフスタイル」という点だ。そこには「自然を無視して生きる」「自然と共に生きる」という大きな違いを感じてしまう。もちろん、日本人の多神教的な性質としては「自然と共に生きる」というスタイルの方が、日本人らしく生きられるような気がしてならない。

  そして一日が二十四時間であるという二十四時制に関しても、何か人間をロボットのようにルーティン的に管理する意図を感じずにはいられない。太陽暦であり、二十四時制というものは、人間を均一的に管理する目的で考えれば非常に効率の良いものなのかもしれない。しかし、自分たち人間が、地球という星の一員であるという事を忘れさせ、あたかも神の使いにでもなったかのような錯覚をさせようとしているようにも見えてしまう。戦争するしないという価値観以上に、我々日本人は、世界の国々がどういう価値観、態度をとったとしても、「我々日本人は、国際人である以上に地球という星の一員として生きていく。」と力強く主張しても良いのではないだろうか。なぜならば、そこに日本人性が強く含まれている気がしてならないからだ。

 なぜ、ここの部分を強調するのかというと、「工業的なルーティンワークのライフスタイル」の上で「どう寝るか」などという事を考えても、朝六時に起きなければ会社に間に合わないのであれば、帰宅時間が深夜二十三時になるのであれば、成長ホルモンがどうとか、ゴールデンタイムがどうとか論じ合ったところで、現実味がないそんな話をすることは、ニューヨークで入浴するというオヤジギャグを披露する以上に、無駄に疲労するだけの論議になると考えているからだ。

 そもそも日本人の日本人らしい生き方であり、睡眠を考えるのであれば、我々日本人は、「工業的な利得の傘下」として生きるのではなく、「地球という星の一員として自然と共に生きる」という選択をしない限り、いつ寝るか、どう寝るかなどという事を論じ合ったところで何かが変わるなどという事はまずないだろう。

 実際は、それこそ日本の外側で十五分程度の仮眠を取ると体に良い。などやりはじめているところがあるようだが、人間が根本的に健康に生活したいのであれば、労働ロボット、生産ロボットのようなライフスタイルと決別する事だと私は考えている。すでに日本人は、過去の歴史において「どう生活して」「どう寝れば」自分たちのポテンシャルであり、パフォーマンスが発揮されるかについては我々現代人があーだこーだと論じ合う必要もなく、ほとんどの答えは歴史を調べれば正解についてはほぼ記されている。その事実から、「日本人らしい睡眠」を獲得したいのであれば、工業的なロボットごっこを捨てて、農業的な地球の一員ごっこを選択すればただそれで良いのだという結論を述べておきたい。そして、欧米人の効率主義に迎合することなく、自然と融合して生きる独自の日本式の日本人の基本的なライフスタイルを確立すれば良いのだ。今からチャレンジしても遅くはないし、そこにチャレンジせずにひたすら迎合し続けていたとしても、いずれ自然と融合する本来の日本式ライフスタイルの確立に迫られる時は必ずやってくる。だったら、今からやり始めた方がそれこそ一番効率良い選択になると個人的には考えている。

8:陰謀論的なものからヒントを得る

8:陰謀論的なものからヒントを得る

 

 あらかじめ述べておきたい点は、私はそれほど陰謀論者ではないということで、しつこくなってしまうがどちらかというと韻暴論者ではある。そんなことどうでも良い事は分かっているのだが、ここまではしっかり伝えておきたい部分なのでしょうがない。今回の項のタイトルが、陰謀論的なものからヒントを得るである限りここについてはあらかじめ申し上げておかないと、誤解を招いてもしょうがないので申し上げた上でこの項の内容について論じていきたい。

 まず、陰謀論とは何かという事について共通理解をした上で、なぜ陰謀論的なものから「大和魂」に関する何らかのヒントを得ることができるのかについて論じてみたい。では「陰謀論」というコレについては辞書で調べてみるとこの様に記されている。

陰謀論


ある事件や出来事について、事実や一般に認められている説とは別に、策謀や謀略によるものであると解釈する考え方。強大な権力を持つ人物あるいは組織が、一般市民に知られないように不正な行為や操作を行っている、といった推論・主張が多い。

 

 ということなのだが、ここで注意していただきたいのは、この項のタイトルに注目していただきたいのは、陰謀論『的なもの』というこの的なものというここが実は重要だったりする。別にそれらが陰謀論かどうかは関係なく、ここでヒントをもらうためには、「常識的にはAと言われているものは、実はBの方が事実なのだ。」みたいなロジックで語られるような類のものをここでは、「陰謀論的なもの」と呼んでいる。そのためそれらの話が、先ほどの辞書に記されているような陰謀論であるかどうかは関係ない。たとえば、「実は牛乳を人間が飲むと健康を害する事実がある。」というような事実が「もしも」あった場合、別に「牛乳を飲むことは体に良い。」という考えに対する陰謀論であるとは限らない。

 ここでヒントにしたいものは、21世紀における常識は、実は過去の時代においては非常識であったものなどもあるというような事が実際にあるという事を考えたい。政治的な陰謀論であったり陰謀論的なものを考えてもあまり我々一般人にとっては身近な問題ではないし、もしそこに何か隠された真実があったとしても、それを今すぐどうこうできるかというと、首脳会談その他に同行できる訳もなく、瞳孔でも見開いてテレビ報道でその動向を見守るぐらいしか出来ないので、ここではなるべく、一般的な日常生活に関わる陰謀論であり陰謀論的なものからヒントを見出してみたい。

 そのコンテクストであればやはり日常生活に密接していて陰謀的な匂いが立ち込める王道は「食事」だろう。基本的にはほとんどの人間が1日2、3回は食事をしている。毎それこそ老若男女問わず、しているこの食事。その食事にはいろいろときな臭い事実が隠蔽されていることが多いし、またその事実がどのくらい危険であるかもはっきり分からないため、陰謀論チックになる事が非常に多く、時には執拗以上にそれらを誹謗中傷してしまう衝動に駆られてしまうケースも少なくなかったりする。

 まず、日本人がよく食べそうな食べ物で考えれば、米だろう。他の食べ物は結構外国のものを日本人は食べているが、米だけは質の良し悪しはともかく国産の米を食べ続けている。その日本の米だが、それこそ江戸時代の米と今の時代の米。本当に同じ米なのだろうか?やはり、食べ物の問題は難しい、調べてみても賛否両論が激しく、農薬推進派は「基準に満たしているから安全だ!」と主張し、とにかく安全な食品を推進する者達にとってはちょっとしたものでも「危険だ!毒を食ってるのと同じだ!」と主張しているのだが、私が知りたいのは「実際の本当のところはどーなん?」という鎮座DOPENESSばりにフローをきかせて、質問する必要はないかもしれないけれどやっぱり知りたいのはそこの部分が大事になってくるのだが、もうこれは個人差もあるしよく分からない。残留農薬によって、添加物の摂取によって、本当にアルツハイマーだったり、すぐキレる子どもになっているのかと言えば、それらって現実的には神社にお参りに行ったり、お守り買ったりするのと大差ない気もする。たとえば、私の祖父はかなりタバコを吸っていた。医者に止められてもタバコを隠れて吸っていた。だけど、肺がんになどならなかった。逆にタバコを吸ってないのに肺がんになった人も知っているが、これは「喫煙すると肺がんのリスクがあります。」と言ってはいるものの、「だったら全員そのデータ通りの結果になるんですね。」とツッコミを入れと「リスクが高い」って言ってるだけで、「タバコを吸う人は肺がんになる」「タバコを吸わない人は肺がんにならない」という事を言っている訳ではないのだ。世の中こういう一見解明されていそうで解明されていないことが実はこんなに科学が発達したように見える今の時代にだって沢山あったりする。そもそもチェルノブイリのまわりには人が住めないのに、福島のまわりに人が住めるのはなぜなのかも分からない。同じメルトダウンでも、何かの数値が違うのだろうか。

 そんな事をそれこそ妄想的にあーじゃねーこーじゃねーと思考を巡らせていると、陰謀論的なものから「現代日本人に大和魂が欠如した原因」を探るヒントなど見つけることは出来ないのではなかろうか。という事になってしまうが、ぶっちゃけてしまうと、我々が学校でお勉強している歴史自体が陰謀論の要素たっぷりっぽいので、やっぱりどこかで何かをすり替えられたり、危険な事実を隠蔽されているケースは0なのかと考えればこれは絶対に0ではない。都合の良い事を隠したり、目を背ける自動機能が人間そのものに備わっているのだから、どこかに何かの都合を取って、本来は変えてはいけなかった何かが隠されているはずだ。

 米については調べたもののなんなのかよく分からなかったので、今度は小麦について考えてみたい。そうすると、ひとつは「日本人はいつから小麦食ってたのか?」という問いがあるが、これについては特に特別な情報はなくそれこそ簡単に想像してもうどんや素麺などは昔から日本人は食べていたような気がするので、戦後に日本の外側から急激に入り込んできたような歴史はなさそうだ。しかしそれ以外の小麦粉食品に、「戦後から急激に日本に入り込んだもの」を発見することが出来た。それはパンであり、パン食文化なのだ。どうやら、今現在ではもはや当たり前のようにすら見えるパン食文化だが、どうやらこのパン食文化が日本に入り込み、一気にその文化を日本に侵食させていったのは戦後からだというのだ。我々から「大和魂」を奪ったのは、果たして「パン食文化」なのだろうか?そこまで言い切れるかどうかは別として、日本に急激にパン食文化を浸透させた背景には、アメリカ様の利得に絡む何らかの陰謀的な要素は含まれていると言って過言ではなさそうだ。

 しかし、仮に米食文化よりもパン食文化の方が食文化的に、例えば栄養が豊富で健康になれるという事実があるのであれば、これは陰謀であろうがなかろうがそれこそ感謝はされても、恨まれたり憎まれたりする筋合いはない。米食とパン食、少なくとも我々日本人にとってパン食文化がどういう影響を及ぼしているのかを考えてみたい。

 とは、言ってみたものの結論から言うと、いろいろな意味合いにおいてアメリカ様の小麦粉は、我々日本人から金と健康を奪っていると言ってよさそうだ。まず、日本国土ではなく遠いアメリカの地から輸入されてくる小麦粉には、作る過程の農薬も然ることながら、輸送時における防腐剤的なもののふりかけられ方もアメリカンサイズ的な量をふりかけられている事は想像に難くない。そもそも自国の人間が食べないのだから「分からなけりゃいいだろ」ぐらいにとんでもない量ふりかけられていそうな気がしてならない。そういえば、私自身年のせいというよりも、一気に老化した原因がやはり小麦粉の食べ物をやたら食べるようになってからだという予想は今考えてみればそうだという事が分かる。ハンバーガーにラーメンにパスタなど、小麦粉の食品、しかもそれらはアメリカ様から送られてくる決して質の良い小麦粉とは言えないような、むしろ毒物と表現した方が適切なのではないだろうかと思わせてくれるような粗悪な小麦粉で作られた食べ物たちを、それこそあまり収入のない20代30代前半の時はガッツリ食していたわけで、それこそ劇的に私自身の人体を劣化させたのは、ラーメンにハマってしまったことがその元凶だと考えていて、個人的にはあの油的なものがそうさせたのかと思っていたが、どうやら調べてみると小麦粉側に大きな問題があったのだという事に気付かされたのだ。実際、調べてみて私自身の好物であった麺類だったりお好み焼き的な通称「粉モン」を食べる気持ちが一気に失せてしまった。あの私自身の脳を喜ばせてくれる彼ら小麦粉食品軍団が、まさか私から「大和魂」を根こそぎ削ってくれていたとは・・・悲劇中の悲劇と申し上げるしかない。しかし、「大和魂」の再起動の為には、涙を飲んで、スープを飲む事とお別れするしかない。お別れすべきはスープよりも粉の方なのだが・・・

 しかし、アメリカ様の日本にパン食文化であり小麦粉食文化をぶち込んできたことについては、それこそザ・陰謀論の代表格とも言える3S政策以上に悪名の高そうな計画だったといえるだろう。現に、アメリカの小麦粉輸入アタックの危険性についてそれほど知っている人間は多くなく、今現在でもそれこそ「おいしいおいしい」と、違法ではない粉ものを、また別の人体が処理しきれない別の食べる目的ではない粉ものと一緒に体内に入れ続けている訳だから、今後も我々日本人から「大和魂」はどんどん削られて、肉体も精神もそれこそ中身スカスカの、パンのような魂であり精神であり、肉体的な人間として中身スカスカの人生を生きていく事になっていくのだろう。もうそれはスカスカでもあり、カスカスでもあるとも言えるだろうけど、こうやってその危険な小麦粉う食文化に少人数であったとはいえ気づきつつあって、食に対して意識的に改善していく者が増えていくのであれば、日本人が元の「大和魂」を取り戻すことに関して微かかもしれないが、まだ望みがあるとも言える。子は鎹以上に、もしかしたら夫婦仲を悪くさせているのは粉が凄い悪影響を及ぼしている可能性は高いとも言える。これからは合法と言えども、粉扱いには注意が必要だ。それこそ、粉患いにならぬように気を付けたい。たとえ自分の首から上の欲望が勝つ場合においても、己の「大和」がwas lyingしているのをそれこそ、この期に及んでは、皆tough guyになって欲望を成敗しないと、アメリカ様の「よお、兄弟」的な商売の術中にハマって思わずall rightしてしまったらまたまた己の中の「大和魂」との交信を往来させることも難しくなってしまうので、日本人の従来の食生活に戻していかなければ、「大和魂」再起動における及第に達する事はできず、それこそ醜いなんちゃって日本人として醜態を晒すことになってしまうだろう。そして、もしも「日本人だからいいや、売っちまえ」とばかりに、小麦粉漬けにして我々から本来の日本人性を根こそぎ奪って行ってまでして自分の利得だけを追求したのであれば、それは重罪だとも言えるだろう。

7:敵を知り己を知れば百戦しても危うからず式で日本を知る

7:敵を知り己を知れば百戦しても危うからず式で日本を知る

 

 人間には必ず「立ち位置」というものがあることは知った方が良いし、それ以上に受け入れた方が良い。私は日本で生まれて日本で育って日本で生活してきた日本人だ。そのため、出来ることとできないことがある。私はネイティブの日本人として日本を見ることが出来るが、日本以外の国のネイティブの人間として日本を見ることが出来ない。ひとつ例を挙げれば、私はネイティブの日本人としてアメリカを見ることは出来るが、ネイティブのアメリカ人としてアメリカを見ることは出来ない。何が言いたいのかというと、もはや生まれた時から人間とはいくつかの色眼鏡をかけた状態で生まれて来ていて、日本人として生まれて育てば、日本人という色眼鏡はそれこそ顔の一部レベルでくっついているし、アメリカ人として生まれて育てば、アメリカ人という色眼鏡が顔の一部レベルでくっついてしまっている。もちろん「色眼鏡」はどの国で生まれて育ったかというその眼鏡だけでなく、他にもいくつか与えられている。

 その為同じ世界を見ても、各人には違うように見えているというパラダイムの仕組みがある事を忘れてしまえば、それらのすべての色眼鏡を外した「現実そのもの」を見ることも出来ず、実物の虎を見たことの無い人間達が、見たことのある猫から想像してその人間の頭の中の創造で創られたその者たちの色眼鏡で創られた虎について真顔で議論することになる。それこそ、宗教論争を代表する「目に見えない世界」についての議論などはこのような各自の色眼鏡の度合いに依存した、現実を現実としては捉えていない落書きを見せ合っては、「これが本質だ」「いやいやこっちの方が本質だ」などというお互いがお互いにバシャバシャとそれこそ無尽蔵にかける水のある大海で、掛け合いまくっているそれこそ、論拠にも説得力に欠ける言葉の大水掛け論大会を方々で見かけるが、それを繰り返せば繰り返すほど大体はさらに不要の新しい色眼鏡を新調する結果に終わるだけなので、そういう議論や主張をする時は慎重に進めていく必要がある。

 実際すでにこの「大和魂の研究」そのものが、猫を見て虎を想像して論じているような状態になってしまっている事実がある事を忘れてはならない。どう頑張っても私自身戦国時代の日本人そのものになることも出来ないし、平安時代の貴族そのものの人生を実際に体験する事は絶対にできない。DNAの中に刻まれていると主張することは出来ても、実際にそれらの時代の日本人という立ち位置では、日本を語る事も、日本人を語ることも出来ない。どこかの歴史の教科書であったり、その他これまた私と立ち位置の似ている現代人が書いたり、論じたりしているそれこそ猫を見て虎を創造して描いているような「そのものではないもの」的に日本をヒントに、過去の日本という想像上の日本について考えたり論じたりすることが精いっぱいなのだという事を忘れてはいけない。

 もちろん、人間の寿命の限界からすべての時代を実際に体験するなどという事は不可能なのだから「歴史という猫」を見てそれらの時代がどうであったかを想像して知ろうとするその営みについては無意味だとは思わないし、それなりの説得力のある過去の日本であり、過去の世界を知ることは可能だろう。しかし、本能寺の変ひとつとっても真相がどうだったのかも分からなくなっているというのに、外の日本の出来事を正しく自分は知ることが出来るのかと問われれば、それも一人の人間が五百年年生きるのと同じぐらい難しい事なのだ。

 それでも、何かを研究するとき、自分の色眼鏡が外せなかったとしても、似たようなものをモデルに、別のものを想像して描かなくてはいけない状況しか得られなかったとしても出来る限り、その現実と、現実っぽいけど決して現実ではない自分の脳内で創り上げてしまう別世界の溝をなんとかして埋める努力をして、「現実の世界」が実際にどうなっているかを見ようとする聞こうとする知ろうとする努力は、決して無駄な事にはならない。しかし、しつこくなるが人間は「現実そのもの」を見ていないし聴いていない事についてを自覚した上でなければ、何を研究したところでそれは「オタク力」を発揮したとしても青木ヶ原よりも恐ろしく戻ってくることのできない妄想の樹海の奥深くへとただただ潜って彷徨うことになってしまうだろう。

 この項のタイトルは私が愛して止まない孫子の兵法の中の有名な一説である敵を知り己を知れば百戦しても危うからずというこの教えを意識して、ここまでの考察では届かなかった細部に「大和魂の研究」の手を届かせようという作戦を提唱している。もちろんこれは「大和魂の研究」なので戦ではない。だけど、この項でここまで論じてきたように「色眼鏡による現実そのものではないパラダイム」と「猫を見て想像して虎を描かなくてはいけない事実」というこの二つの罠に負けず、現実の世界をしっかり自分で追いかけることが出来るか否かという部分においては、それこそお釈迦様の掌の上で転がされずに、自分がどこまで現実そのものを捉えようとするチャレンジができるかどうかというこれは一種の戦いのようなものだと言っても過言ではないだろう。

 今回のコンテクストであれば、「敵」という部分は自分の立ち位置の限界と解釈しても良いだろう。これはまさに「大和魂の研究」に限らず、人がこの世界を生きる上での最大の『敵』になるので、人生の純度を上げていくための標的にしてよい『敵』そのものとも言えるし、それこそこの罠に嵌らないよう油断大敵である強敵だ。ここにやられずに世界を見続けることが出来れば、それこそお釈迦さまから「上出来だ」という高評価を頂戴できるかもしれない。

 その自分の立ち位置そのものを『己』と考えれば、それ以外の立ち位置はすべて『敵』であり、そう考えれば、我々が現実そのものの世界を捉える戦を戦っている状況はそれこそ四面楚歌の状態あり、五里霧中をさ迷っているような状況なのかもしれない。『己』の立ち位置など物凄く限定的で、それこそそれ以外の立ち位置はすべて『敵』なのだから、『己』という視点で世界を見たところで限界はすぐにやってくる。『己』という立ち位置で日本であれ、世界を見ること以外に、現実を捉え、「大和魂」のポテンシャルを如何なく発揮するためには、やはり『己』以外の立ち位置から多くの情報を拾い、それこそ己の色眼鏡の罠に恐れずに、しかし慎重かつ丁寧に、時には命綱を留めずに上杉謙信の如く大胆に単騎駆けして攻めいる事も大切だったりするかもしれないが、その上杉謙信の単騎駆け伝説ですら実際はどうだったのか非常に怪しいお話なのだが。

 今回の「大和魂の研究」というコンテクストにおいて『敵』を知るなどという事をたった一人で行ったところでそれらのすべてを知ることは無理だ。ではどうしたら良いのかと言えば、仲間を作ることでしかその広大な『敵』のすべてを知ることは出来ないだろう。『敵』の『敵』は味方なのだ。自分とは違う立ち位置の者たちと交流することで、この世界を知る上でのさまざまな『敵』を知ることが出来る。同じ日本人でも北と南の地域のものでは見ている日本が違うだろうし、似たような場所で生活していたとしても職業が異なれば、見えている世界は大きく違って見えいてる可能性もあり得る。それは性別や世代の違いによっても同じことが言える。

 もちろん、日本ではない国で生活していた者達からは、我々の見ている日本とは違う日本の事を話してくれることだろうし、それこそ日本人からすれば、「そんなことしてないから!」とツッコミたくなるような「猫すら見ないで描いた虎」のような日本を彼ら彼女らは我々純日本人に話してくれるかもしれない。

 『敵』という自分以外のパラダイムというサンプルを多面的に集め、そこから自分の見えていない日本であり、世界をか弱い糸を優しく手繰り寄せるようにして探る。もちろんググる事も大切な『敵』を知る為の活動にはなるが、インターネット上の情報ばかりに頼ることに依存すれば、依然として以前の状態から色眼鏡を新調し続けている袋小路をグルグルと徘徊し続けている二十日鼠以上に妄想という名の大海の中に漂流してしまう危険もあるので、インターネットの情報だけでなく、実際にリアルに人と会ってみたり、その場に行ってみたりしながら『敵』を知る努力を怠れば、それこそすぐにバカたれになってしまうだろうし、お釈迦さまは「このハナタレが。」と失笑すらされずからかわれもしない。

 しかし、反対に言えば昔と違ってインターネットで世界は繋がっているのだ。『敵』を知る上ではインターネットは我々現代人にとっては、強力な武器になる事も間違いないのだから侮れない強力な武器になる事も間違いない。いつだって大事な事はバランス感覚を保つことであり、たとえリアルに『敵』を知る活動をする事がめんどうで、あまり捗らなかったとしてもリアルで『敵』を知ることと情報という大海の中で『敵』を知ることに関しては、しっかり右と左の手で両方の手綱をコントロールしつつバランスをとって、ものごとを研究する事が難航せずに着実に「大和魂の研究」という航路を進めていくセオリーでもあり、難攻不落の壁や要塞が目の前に立ちはだかったとしても、それこそ我々日本人にとっては馴染みの深い恐ろしい妖怪が行く手を阻もうとしてきたとしても、恐れることなく突き進めば良いのだ。リアルの世界と情報の世界の両者のバランス感覚さえ失わなければ、それこそ我々現代人にとっては、進み続けるだけの仲間であり、武器はそれこそ大海の水以上に無尽蔵に用意されている。それこそ、歴史を味方につけ、生きている人間だけでなく過去の歴史の先人たちをも召喚して突き進む事だって可能なのだ。もちろん「色眼鏡」と「猫を見て虎を描く」のトラップには終始自覚しつつそれらの召喚術を活用しなければ、すぐになんらかの刺客に刺されて妄想という牢獄に収監されてしまうので、そのトラップにだけは常に牽制球を投げつけるだけの習慣は持っておくべきだろう。

 『己』というパラダイムをよく理解し、「色眼鏡」と「猫を見て虎を描く」のトラップに嵌らないだけの用心と強靭な精神を養い、リアルで『敵』を知る事を大事にしつつも、現代人の最大の武器である「インターネット」を駆使しつつ、これまでの時代では知り得る事の出来ない膨大な『敵』というパラダイムのサンプルを集め、日本であれ日本人であれ、世界を知る。この営みを同心達と切磋琢磨して繰り返し、対話し、議論し、共振し、弁証法的に純度を上げていく事で、未だ誰も辿り着いていない「大和魂」のパーソナルベストを更新する事が可能になるのだと、ここに関しては妄信している。「大和魂」を迷信だと言わせないように、私は日本人である以上、「大和魂の研究」に邁進してきたい。

6:日本について大和魂について論じあってみることの大切さ

6:日本について大和魂について論じあってみることの大切さ

 

 これまでは『独自』に日本を研究することの大切さを述べてきたが、その次の段階としては『独自」に日本を研究してきた者たちが集まて、各自の意見を述べ、またそこから一人では見つけることが出来なかった「日本」であれ「大和魂」についてを皆で研究していく事で、さらにひとりでは出す事の出来ない強大なパワーによって、「日本」「大和魂」について深く知り、新たな仮説を立て、それを検証してみることでよりパワフルな「大和魂」へとチューンナップする事が可能になる。

 それこそ、一人の人間での研究では限界がある。まず、人間生きていれば思考の癖というものはどうしても出来上がってしまうだろうし、その思考の癖にやられないように細心の注意を払って臨んだとしても、やはり、自分の思考の癖にはどうやったって引っ張られてしまう。これはしょうがないことだ。では、どうすれば自分の思考の癖に引っ張られずにより多角的、より多面的にものごとを見て、いろいろな角度から研究するにはどうしたら良いか。それは自分以外の人間の力を借りることに他ならない。もちろん自分以外の人間においてもその人の思考の癖はもちろん存在する。だけど、この世に同じ人間は存在しないのだから、似ていたとしても自分とは違う切り口で、自分の気づかなかった「日本」「大和魂」について彼ら彼女らは論じてくれることだろう。さまざまな意見が出てくることは交錯し、収拾がつかなくなるリスクもあるが、その反対に自分ひとりの考えに固執することは、それ以上の発展を見せないリスクもある。

 しかし、こういった本を執筆する上でも、一人で調べて一人で論じていても埒が明かず、多くの他の者達の資料なども参考にしながら自分で仮説を立てたり、論述していくのが基本的な執筆作業になるし、どうしても一人で研究したり、物事を考えるには限界がある。とは言え、私自身何故この章で「まずは自分で『独自』に研究するべし」という意見を述べた部分については理由がある。それこそ、自分自身で『独自』に研究することなくみんなで集まって論じ合ったとしてもそれはその人間にとってはそれほど良い効果も成果も上がらず、むしろ逆効果になる危険の方が高い。

 これは、この本の中で再三にわたり述べてきた、「融合」と「迎合」の大きな違いがあるからであって、自分自身が何も研究せず、そのような場に出向いて他の者達からの話を聞いたところで、ほとんどは自分以外の何者かのそれらの論述にただただ迎合してしまうだけであり、迎合などしてしまえば「大和魂」どころか、自分自身の『魂』そのものに腐敗の粉をただただ撒き散らしたようなもので、大体は逆効果にしかならない。しかも、今の時代の日本人は、「迎合教育」と言ってもいいような迎合力をそれこそ養成されている。「みんながやるなら自分もやる」「〇〇さんと私も同じで」実際、私が数年前まで子ども達に指導していた時に子ども達に意見を述べさせると、ほとんどの者がこのようにとにかく条件反射的に、自分の考えを持つことなく何かに迎合するというベクトルに意識がはたらいてしまうという悲しい現実を何度となく見てきた。そして、そのような子どもたちが大人になるのだから、何故、子ども達がそのような迎合人間になっていくのかは、まわりの大人達もそうなのだろうから、日本はこのような迎合社会になってしまったのだろうと推測するまでもなく、現実そのものがどこもかしこもそれらを象徴してくれるような事ばかりで、我々日本人が「大和魂」を見失ったのは、私は戦後に、日本人は「大和魂」という牙を抜かれ、ひたすら迎合しながらなんとか国を保とうとした例の「応急処置モード」の名残があまりにも強すぎて残り、むしろ「迎合する民族が日本人」というようなとんでもない誤解が真実として根付いているように見えてしまう。まずは、この「迎合癖」を我々日本人は除去していく必要がある。そういう部分もあって、「まずは自分で『独自』に研究するべし」という主張を強めに私はしているのだ。

 「融合」というものは、自分の持っている何かと、自分以外の持っている何かが溶け合ってまた新しい一つの何かに生まれ変わるそういうイメージを持っている。つまり、「融合」を起こすためには自分がはじめから「何か」を持っていない限り何かと「融合」を起こすことが出来ない。そのため何も持っていなければ、誰かの「何か」に染まってしまう可能性は極めて高いという事が言える。本来、教育においてまずすべきことは「どんなことでも良いから自分の考えを持つこと」そして「その自分の考えを誰の前であっても臆せず話す事」だと私は考えている。少なくとも、今の日本の教育にはここが非常に欠けていて、それこそ迎合人間一号二号と迎合ロボットをコピペの如く量産しているのだから、その負の連鎖を断ち切るためにはとにかく「自分の考えをしっかり持ち、その自分の考えを誰の前であろうとも臆せず話す事」この力を養い、鍛えなければいつまで経っても何かと迎合しているだけの、迎合ロボットとして生涯を終えてしまうだけになってしまう。それは日本人らしくもなければ、大和魂を感じる要素などどこにもない。

 かと言って、決して自分の考えに固執しろという事を主張している訳ではなく、とにかく融合するためには、自分の確たるものであり、核たる部分をしっかり持って生きる勇気であれ覚悟を持てなければ、ひたすらまわりや社会に飲み込まれて迎合されていくだけの人生になってしまう。

 間違っているかどうかなどというものは実際にこの世の中に存在しない。それこそ多数決で意見が多かった方が「正解」ととりあえず暫定的に決めているだけで、それこそそれらをこの世界を創った創造主的な存在が「これは正しい」「これは間違っている」とでも言ってこない限りは、本質的な正解も間違いもこの世界にはいつの時代だって実際には存在していないことを念頭に置かないと、どこの誰がつくったか分からない「これが正しい」「これが間違っている」にいつの間にか迎合し、よく分からない価値観を搭載されて自分の生命であれ人生を自分以外の何ものかにコントロールされてしまうことになるだけだ。

 まず、大事な事は「自分の『独自』の考え」を持つこと。その為には「自分で『独自』に研究する事」。その上で、自分以外の何ものかと交わり、迎合することなく、融合していけるような付き合いをする事。それこそ、「融合」するためには一気に融合しようなどとは考えず、三歩進んで二歩下がる、二歩進んで三歩下がるぐらいのスピードでも構わない。今までは「迎合するな」と主張してきたが、自分の考えを強く出しすぎて相手を自分に迎合させることもそんな事をやっては、元も子もないのだから、自分自身も大事に、相手の事も自分と同じように大事に、それぞれの考えを尊重し合って新しい「何か」を生み出す共同作業的「融合」を心がけて、新しいバージョンの日本、新しいバージョンの「大和魂」へと、チューンナップできるようにそれぞれの立ち位置から発見できるユニークな日本とは、日本人とは、「大和魂」とは、それらの事を思い思いに語り合うことが出来れば、それは極めて有益な場となるし、そういった有益な場を本気で、日本や日本人を日本らしいベクトル日本人らしいベクトルに向いて進めて行くためにはもっとそういった場を作って活発に語り合える論じ合える場をつくらないと、日本という生命体そのものの「大和魂」が元気はつらつになることはないだろう。

 もちろんその為には語り合う場どうこうの前に、我々日本人一人一人が語り合えるだけの、論じ合えるだけの「自分の確たる思い核たる部分」をしっかり持ち、『独自』に育てていく必要があるし、大人達であれ、社会が、「まずは一人一人で自分なりの信念を持ち、その信念を大事にするとともに、しっかり主張していけるだけの勇気と覚悟の持てる人間になること」というこの部分を教育していく事であったり、推奨していく空気を日本中に創らない限り、まだまだ当分の間は、この島国に迎合ロボットは量産されていく事だろう。

 誤解のないようにここはしつこく述べておきたいが、私は過激な発想を抱けと言っている訳ではなく、「自分なりの信念を持て」と主張しているだけであり、例えばある人間の信念が「いかにまわりに迎合できるかどうかが私の信念なんです!」と心の底からそう思うのであれば、それはそれで否定しようとは思わない。もちろう、どういう経緯でそのような信念を持つようになったのかは、その信念の持ち主から話は聞いてみたいという興味はあるが、「こういう考えを持たなければならない。」という事を主張したい訳ではない。ただし、私個人としては、今の迎合社会そのものを「ディスイズジャパン」とそれこそ日本の外側の国に紹介もしたくないし、そう思われるのも嫌いだ。日本の外側の人達のどれだけがこの日本の迎合社会を「ディスイズジャパン」と思っているかは知らないが、結構な数の人間達がそう日本であれ日本人を見ていることは間違いない。そもそも、日本人である私がそう見ているのだから。

 もちろん、これは私自身の信念であり確たる思いなので、ここに正しいも間違いもない。それらをしっかり主張する事ができればそれで良いのだ。それこそまったく私とは信念も考えも違う人間が「日本人よ、もっと迎合すべし」というような主張をしたい人間はすればよいのだ。そして、その両者の信念であり思いをそれこそ「迎合」ではなく、「融合」したと気に、新しい「何か」が生み出されるのだと私は考えている。しかし、「日本人よ、もっと迎合すべし」という価値観の人間に私の主張をぶつけた時に、その人間は私の「日本人よ迎合するな」という訴えに、迎合して迎合しなくなるのかどうかは多少なりとも興味を抱いてしまう部分ではあったりする。そして、「迎合すべし」という人間が「迎合するな」に迎合させてしまった時、それはそれで私が述べている「自分だけではなく相手も迎合させてはならない」に反してしまっているので、それはそれでダメなのではないだろうか。というNAZOの対話がここで行われてしまうが、まあ、そのあたりにいては、まずはそれぞれが「自分の信念を築き上げる」こと、そしてその後に誰かと信念をぶつけ合って「融合」を試みるという2ステップを試みることで、各自がどのような「融合」であり「迎合」を体験するか、そのあたりから進めていきましょう。という事で、レッツトライ。

5:日本固有のものと対話する機会・習慣をつくる

5:日本固有のものと対話する機会・習慣をつくる

 

 日本人って凄い沢山文字を知っている。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットとかなりの文字を知っていて書くことが出来る。これは日本人だからだ。それらを覚えることが当たり前になって、幼少のころから幾度となくテストをさせられて書けるようになってきた。日本の外側のほとんどの国は、記号の組み合わせだけで文章を書いている。たとえばこのようにひらがなだけでかくとにほんごとしてはひじょうによみにくくなるのだけど、例えば英語であれば、全部ひらがなで書いているのと同じでアルファベットという記号が羅列されているだけだ。そして、彼らは漢字やひらがな、カタカナを覚える必要もないが、我々日本人は、日本語の外側のそれこそ広い世界に出てコミュニケーションをとるためには英語を覚えなければお話にならないので、頑張って覚える必要があるのだが、これは逆から見てみれば日本人は、もはや日本人であるというだけで、世界から見たら「他には稀有な存在」なのだ。その稀有な部分を捨てて、日本の外に出たところでただのダサい『西洋』かぶれのイエローモンキー的な扱いを受けるのは目に見えている。であれば、やはり日本人ならではの『西洋』にはない刀を帯刀し、それこそ対等以上に渡り合うのであれば、「日本固有のもの」と対話し、せめて「分かる」レベル、できれば「できる」レベルにおいてその数々の日本的なものを習得しておくことで、ダサい『西洋』かぶれのイエローモンキーではなく、「我々は確固たる日本人なのだ。」という事を身をもって証明することが出来る。それこそ、「お前らには日本人の真似は出来ないだろ。箸すらまともに持てぬくせに。だからこっちがお前たちに付き合ってやってんだよ。」ぐらいの強気で向き合うことができるというものだろう。そもそもあいつらは体以上に態度がデカい。ひるまず向き合うには、やはり自分の日本人としての得意領域は伸ばせるだけ伸ばしておいて損をすることはない。

 そして、2章の中で日本人の「オタク力」の高さや「融合力」の高さについて考察・論述をしてきたが、「融合」するためにはしっかりした土台が必要なのだ。もし、「日本人らしさ」という土台がなければ、ただ『西洋』にかぶれてそれは迎合しているだけに過ぎない。そして、日本人は戦争に負けた後の暗黙の了解的負け犬縛りのような卑屈さを『西洋』人達に持ってしまっている者が未だに多いため、油断すればすぐに『西洋』に尻尾を振って思わず迎合したがるという悪い癖がなかなか抜けない。私は、戦って勝てだとか、『西洋』に負けるなだとか、喧嘩を売れだとかそういう事を主張している訳ではなく、『西洋』であれ、その他であれ、「融合」をするためには、日本人は日本人たる基礎・土台を築かなければ、日本人の強みである「オタク力」であり、「融合力」を発揮して、世界を驚かせることは出来ず、ただの『西洋』に首輪と手綱をつけられた猿回しをさせられるだけに終わってしまうという事を主張したいのだ。

 その為にも、そして自分の中に眠る「大和魂」を活かすためにも、日本固有のものと対話する機会・習慣をつくるという事は大いに役立つだろうし、高い効果も見込める事だろう。今の時代において、それら日本固有の伝統的なものは、「やってもやらなくてもどうでもいい」ものばかりになってしまったが、それは時代が進むにつれて、必要性が薄くなっているだけであって、「日本人らしさ」を学んだり、磨いたりする上では、時代がこれから進んで行っても、少なくとも我々日本人にとっては非常に重要な先人から受け継いだ貴重なものたちであることは間違いない。

 まずは、上手い下手など気にせずとにかくそれらに触れあってみる。例えば書道であれば好き勝手に文字を書いてみれば良い。もちろん、出来る限り書道をすべき場所であったり、姿勢で行った方が良いが、それも難しい場合は出来る限りのことをやってみればそれだけでも違ってくる。茶道にしても華道にしても、武道全般にしてもそれらは同じだ。他の日本古来のものにしても同じで、とにかくまずはやってみることが大事であって、何事も一回やってみない事にはなんとも言えない。本格的にやるのであれば、それは体験した後に自分で決めればよい事であって、はじめからそれを続けてみようとかそういう気持ちを持つ必要もない。むしろ続けられるかどうかも分からない内から、続けることを前提にやろうと考えてしまうため、「はじめの一歩」を踏み出せないことが多いのだ。これは日本古来のものに対するチャレンジだけに言える事ではないが、後先など考えずとにかく一回やってみれば、結構世界って開けてきたりするものなのだ。

 そして前項で土地に呼ばれるだの、自然と触れ合ってみたり感じてみたりしろだのと述べてきたが、やはり日本の中でも土地によって個性があって、その土地に根付いた文化や芸能などがあるので、またその土地に行ってその土地に根付いた日本固有のそれらを体験してみる。そうするとまた新たな出会いであれ、発見を得ることになったりする。正直なところ「自分探しに行くならインド」というちょっとしたあるあるネタが存在するが、もし日本人が自分探しをするのであれば、日本の各地をまわった方がよっぽどいろいろな意味でのコスパは高い気がするのは私だけだろうか。別にインドに行ったところで、日本人としてのDNAであり、「大和魂」的な何かが震えたり、奮わされる事はあまりないのではないだろうか。もちろん日本にないモノに触れあったり、いつもとは違う環境に自分の身を晒すことで別の何かが喚起される可能性もあるかもしれないが。個人的には、まずは日本の各地をまわって、いろいろと体験して土地であり伝統でありそれらと触れ合うことで、自分の日本人特有の感覚を遺伝子レベルで起動した方が、日本の外側の世界を感じる上でもとても重要な事だと考えている。

 まずは、日本の伝統的な所作を体験してみる。それをしていくうちに自分が「これだ」とハマれるものがあるのであればどハマってしまって、その道を極めにいくことも良いだろうし、「これだ」というものと出会わなければ、とりあえず手あたり次第体験しまくってみることをおススメする。正直なところ、大体人間十個何かやってみれば「これだ」という感覚に近いものには出会えるはずなのだ。そして、今回の「大和魂の研究」というコンテクスト上においては、別に「これだ」というものを探す方法を考察したり、紹介をしている訳ではなく、自分の中に眠る「大和魂」が奮い立てばそれで成功といえるので、その方法としてはとにかく、日本固有のものを沢山体験してみるという事でそれなりの成果を得ることが出来る。一つの事を長く対話して深く掘り下げていく事でも「大和魂」の本質を見つけることは可能ではあるが、そうでなければいけないということでもない。多くのものを体験していく中で発見する「何か」もあるのだから、いちいち一つの何かの道を究めなければいけないというような誰かさまの偏った価値観に従う必要もない。とにかく大事な事は、それらを行うことで自分なりの見解、仮説などを立てられないかそれらと対話する事であり、やはり大事な部分というのは『独自』の何かであり、「自分なりに」というあまりまわりの事は気にせず、それこそ体裁など気にせずにひたすら内に籠ってそれらの対象と向き合ってみればそれだけで、「生きる意志」は磨かれてより強靭なものへと進化していくのだから。その道程において、必ず我々は日本人なのだから、「大和魂」の起動スイッチに勝手に気づき、OFFになっていたものがONになるはずだ。だから、物事に対しては決して童貞のような状態をかたくなに守るという事は、自分の『魂』を奮い立たせて、この世界を日本人性を発揮してより謳歌するためには、ただただ未完の大器を寿命を終えるまで、未完のままで宝の持ち腐れとして腐らせて自分の生命を燻ぶらせて終わらせてしまうだけなのだ。それこそ神さまが本当にこの世界に存在するならば、そのような者を見ては遺憾の意を表すしかなないだろうから、そのまではいかんなという危機感を多少なりとも持ち、志願者の気持ちで、何事にもチャレンジする精神を持ち続けることで、自分の『魂』であれ「大和魂」はイキイキし続けることになるのだから、歳など考えず、いつまで経っても我々はきかん坊のようにわんぱくにいろいろ体験して行けばよいのだ。わんぱくでもいい逞しく日本であれ、世界であれを遊びつくせばよいのだ。

 その「遊びつくすため」には、まずは自分の中に眠る「大和魂」を起動させるべきだと私は考えている。それは「日本人」というマシンのポテンシャルをすべて起動させた上で世界を味わえないと、そういう日本人が世界に打って出ると何か『西洋』の猿真似になって、失敗してしょっぱい感じで帰国してくるよくありがちのパターンになる事が非常に多いからだ。

 もちろん、いきなり海外に出てしまった方が自分の『魂』がイキイキするタイプの人間もいる事だろう。そこに関しては日本人かどうかというよりも、人間の気質として日本という島国が向いているか、大陸向きの気質であるかという問題もあるし、そもそも今の時代の日本は、2章の中においてギューギューに詰め込み式、自分の言葉で意見することが出来ないロボット養成型の教育に雁字搦めになってしまう現在の日本の悪しき制度に殺されてしまう者もいるだろうから、「日本人なんだから日本で活躍すべし」という考えを私は押し付けたくてこの項のこれらの内容を述べた訳ではない。基本的には自分の持っているものであれ、ポテンシャルが思いっきり発揮される生き方を自分で選択肢、カスタマイズしていけばよいということについては間違いない。

 とはいえ、我々は日本という島国で生まれ、そして育った日本人なのだ。もう日本で生まれ育った以上、日本人固有のポテンシャルである「大和魂」を起動しない手はない。しかも、今現在も日本で生活しているのであれば、日本固有のものと向き合い、対話し、「日本人」という日本刀に磨きをかけないのはあまりにも勿体ない話なのではないだろうか。