harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

4:お受験大国日本という悪しき風習について

4:お受験大国日本という悪しき風習について

 

 日本の常識は世界の非常識。その最たるものが「お受験システム」だ。学校教育の中身もさることながら進学システムも日本の教育は、世界から軽蔑されるとても自信をもって世に出せるシステムにはなっていない。ちなみに、世界の学生たちは日本の学生たちのように学校に入るために訳の分からない暗記大会のようなものに参加させられることはない。とにかく日本人は無駄な事を我慢してやらせ、それに耐えてゴールに到達したものを勇者とする風習があるのだが、まったくもって意味が分からない。日本の神話の何かで、この日本のお受験システムを象徴するようなお話があるのだろうか。私はそのような話を存じてはいない。

 それとも日本には「職人システム」のようなものがある。それこそ昨今では「寿司屋の修業期間は無駄」というような主張をしている者もいるようだが、個人的には職人の「意志の上にも三年」というようなシステムと、何かを学ぶための資格を得る為の訳の分からない内容の修業期間は関係ないと私は考えている。こり「職人システム」が歪んでお受験システムにも移行されている可能性は否めないが、とにかく意味が分からない。「国の嫌がらせに文句を言わずに従順に従えるものが優秀」という一種のイニシエーションを六三三の十二年、そして最後の大学受験に課し、学校教育が終わればまたそれは社会へと引き継がれ、就職活動、出世争いへと続いていく。もうそれは洗脳に次ぐ洗脳、ひたすら洗脳されて優秀な国家ロボットとして洗練されていっているだけで、自分の人生の純度は、某ファーストフード店に使われる粗悪な質の肉の如く、劣化して行っている事は否めない。もちろん、そういう人間達の事を国や社会は「優秀」「エリート」と称賛してきた。まだ、その事実があるのであればその「優秀」「エリート」というバッヂ欲しさに己の人生を犠牲にして、そのバッヂ獲得レースに躍起になる事も意義はあるのかもしれない。しかし、残念ながら時代が進むにつれて、そのピカピカだったバッヂの色はどうも錆びついてきて、価値が大分下がってきているような悲劇的な現実が今の時代にはあるのだ。

 悲しい事に、それでも世の親たちは自分の子ども達を受験戦争の地へと送り出すのだ。フィジカル的な命を奪い合う場ではなかったとしても、物理的な命以外の「大事な何か」を奪い合い殺し合っているのがまさに受験戦争という名の線上なのではないだろうか。そもそも「受験戦争」など表現されている環境において、人が人間らしく成長する事などはない。それこそ、戦争をしない国、戦争をする事を力強く批判する国で、受験によって戦争する事を称賛しているというとてつもなく矛盾してナンセンスな事をこの日本という国は何十年にもわたって行い続けているのだ。何故、学問に対してもこの国は憲法九条のような条文をつけなかったのだろうか。

 まさに、この国は「教育」によって自国民たちを殺し続けているのだ。もちろんそれは人間が「死」という状態を認定される条件の中にあるような「死」ではない。日本の教育が殺戮を続けているのは何か?それは人間達の『可能性』であり、子ども達の『可能性』に他ならない。テロリズムを禁止し批判している国家そのものが、「目に見えないテロ活動」を長年我々国民に対して行い続けているのだから、たまったものではない。

 しかし、残酷ながらそれが現実なのだ。やみくもに信じて盲目に言われたことを鵜呑みにして進めば、そこには断崖絶壁の崖があり、皆その崖から命綱のついていないバンジージャンプをさせられるはめになる。それは自分の個性であり、可能性がすべて海の藻屑に消えるようなもので、飛び込めば綺麗さっぱり平均人、もはや夢など国の藻屑に消え、それこそいい歳こいて夢など追いかければ、なにやってんだあのバカはとばかりに自分の夢や可能性を追いかけている者達を見ては嘲笑し、嘲笑はするけど舞台には上がらない万年聴衆のようなただのヘタレとして、上司の命令に調子よく尻尾を振ってただただ動物としての寿命を全うしながら国に首輪をつけられて飼いならされた飼い犬のような人生を送ることになる。もちろん、どこかで自分の夢も才能もセンスも、自分自身でそれを分かった上で捨てることを選択したのであればそれはそれなのだが、良い話を鵜呑みにして信じて、いつの間にか崖から飛び込んでしまって、どうしようもない事になってしまっている者達のいかに多い事か。その最たる例が日本の「受験システム」「学歴社会」なのだと私主張している。

 そもそも、お受験競争で大半の労力を費やされる「記憶力大会」だが、子どもという貴重な年代で、記憶力など養ったところで何の得があるのかが理解できない。子どもの内こそひたすら体験させて、肌で学ぶことをひたすら味合わせれば人間力が自然と増す。それこそ大人になって社会に出れば、学校の筆記テストのような決まった問題に対し、決まった答えを出せば、正解がもらえるようなそんな子ども騙しレベルの問題は出てこない。それこそ、人間力が問われるような問題ばかりが出題されるのに、決まった問題に対し、決まった答えを返すその訓練の何が重要なのかがまったくもって理解できない。メリットがあるとすれば、それは採点する側のセンスが問われずに採点できることぐらいしかメリットを見つけることが出来ない。それこそ誰でも答えを見ながらマルをつけられるからだ。

 そして、日本は時間が経てば経つほど少子化に進み、進学の競争をさせる必要がどこにあるのかが分からない。入学段階で合格不合格をつけて何が楽しいのかが理解できない。就職の面接であれば理解はできる。何故「勉強したい」という人間、しかも勉強をする側がしっかりお金を支払い学ぶというのに、そこまできびしい試験を課さなければ良いのかが分からない。最低限の面接だけして、入学後やる気がなかったり、態度が悪ければ退学させればよいだけなのに、まず勉強できるかどうかを試験するというその上から目線がお前ら一体何様のつもりだ。という気持ちにしかこちらをさせてこない。まず、「受験させてください。」とお願いさせるその偉そうな態度、上下関係を作る時点で人の上にも人の下にも人を作っている。だから、「先生」と呼ばれている連中は、たいした人間性でもないというか、大したもんも持っちゃいないくせにふんぞり返っている連中が多いのだ。「全員じゃないだろ。」というツッコミは受ける事は承知で述べているが、「先生」というこの呼ばれ方と釣り合う人物が、現在学校教師の中にどれだけいるのだろうか。もちろんゼロではないとして、ゼロに近いぐらいしか存在しない事だろう。そもそも学校教師のほとんどは、それこそ大学を卒業した後社会経験がないのにすぐに「先生」になるのだ。人間的にレベルが高い者が存在する方がおかしい。

 そのため、学校教師と会話をすると大体視点が固まっていて、社会的に通用する会話になる事が非常に少ない。彼ら彼女らが通用するのは、「先生」と呼ばれるのはその学校という小さなコミュニティ内であって、その外に出ればそれこそ他のジャンルでは通用しないような人間ばかりだったりする。

 敢えて、強烈に書いてみたが、何が言いたいのかというと、「学校という独裁コミュニティ」にいちいち頭を下げてドン臭い感じで入り、そして洗脳され自分しか持っていない才能やら、可能性やらをいつの間にか捨てさせられる。というのが現在の日本の学校教育であり、「お受験システム」なのだ。そこに関わる人間達は例外なくもはや頭のやられている国から焼き印を押された公務員ロボットに他ならない。そして、そこにチンピラのように利権を振りかざすようなハイエナ共が学習塾だの予備校だのという存在で、一丸となってこのもはや使い古されて腐りきっている「お受験システム」にまだ昔と変わらず価値があるように、親たちを騙しているのだ。あれこそ「お受験教」という名の一大カルト宗教のようにしか見えない。

 実際、今の時代に学歴など大してアドバンテージにならない。サバイバルの度合いが高くなった今の時代に学歴というバッヂがどれだけの価値を持っているのか?それこそ自分で起業してしまえばそんなバッヂはあってもなくても同じになってしまう。何かの飼い主として生きていくのであれば、犬の血統書同様のある程度の効果はあるのかもしれないが、もはや昔と違って年功序列だとか終身雇用などあってないようなお話で、いつクビを切られリストラされるかも分からないし、各企業が正社員をなるべく減らそうという動きの中、そんな熾烈な飼い犬になろう大会になど出る必要がない。

 幼少のころからサバイバルの力を磨き、時代がどっちに進もうが自分の力で生き抜く力を身につけていけばそれで良いのだ。もちろん向き不向きはある事も確かなのだが、サバイバル力の高い者に、いちいち訳の分からない「お受験レース」などに参加させ、飼い犬の首輪をつけさせるような教育をする必要がないと私は主張しているのだ。好きな方を選べばよい。そして、好きな方を選ばせるような社会にしてほしい。それが「自由」で「平等」であるはずなのに、現在の一択しかない教育システムは、日本の憲法の中にある「人権」だとか「自由」「平等」という最重要のコンテクストを無視してつくられているようにしか思えないのだ。
 ここは何度もしつこくなってしまうが、受験を心からしたい人間はすればよい。私が批判しているのは「それしかない」ように見せる事、そして「それが優秀で、外は劣等」という演出を国を挙げて行っている事。その中枢にあるシステムが「お受験システム」なのだと主張しているだけで、各自の得意分野が生かされ、各自の才能や可能性が最大限生かせる、開花させる事ができる教育システムが作られるべきだと主張しているだけなのだ。今の日本の教育システムでは、あまりにも犠牲者が多すぎるし、しかも必要な犠牲者ではなく、過去の戦争における若い命を無駄に失った特攻隊作戦以上に、若者たちの才能や可能性が毎年のようにそれこそ四六時中削がれ、奪われ、消え去っているという悲劇が今も続いている事を日本の国民達は自覚すべきなのだ。

3:子ども達にとって良い教育者とはどういう存在なのかを考えてみる

3:子ども達にとって良い教育者とはどういう存在なのかを考えてみる

 

 基本的に、「良い教育」について考えてみれば、その人にとって最大のパフォーマンスであり、ポテンシャルが引き出されるような教育が成されるのであれば、それはどのような方法であったとしてもそれなりには良い教育と言えると定義してよいだろう。たしかに、過剰に強制したり、暴力や暴言を奮うようなやり方でそれを達成しても良くはないとは思うが、そもそもそのやり方によって人のパフォーマンスがものすごく引き出される事は無いので、ここに関して考察する事はそれほど建設的ではない。大人の言う事を無理やり聞かせるという手段においては有効かもしれない。それはまさに容疑者や捕虜に対して拷問を行い、無理やり何かを言わせたり、やらせたりする事と変わらない。

 しかし恐ろしいのは、「学校に通わせる」というその営み自体がもはや「見えない拷問」のようになっているという事実で、そこに選択肢がないなどというのは、一番恐ろしい。「この崖から飛べ」と命じられることもなく、「みんなが飛んでいるから飛んでいる。」と無思考で飛んでいるのと同じだ。もしもそのような光景を見れば、誰もがゾッとするはずなのだが、まさに義務教育然り、その後の日本の教育というレールを無思考無批判に歩いている人々の様は、まさにゾンビのような人間的思考をもって自分の人生の選択を放棄しているある種の「魂」をどこに置き去りにしてしまったのか、無理やり奪われてしまったのか、そのようなフラフラとただ、どこかに向かって無表情無感情に進んでいる不気味な存在にしかなれていないような気がしてならないのだ。

 ここで、考えたいのは「教育」もある意味戦略的な要素がある事を、親は理解をすべきなのだが、よく教育熱心と言われそうな類の親たちはたしかに教育は戦略的なものであると理解しているものの、もはやゴールが決められていて、その決められているゴール設定自体が教育者としてのセンスの欠乏を感じざるを得ないのだ。

 まず、教育におけるゴールの設定がいまいちで、具体的に何が正解になるかはその人その人の「持って生まれたもの」によって違うのに、すべての人間が同じ競技に参加させられているような錯覚に陥り、思わずそのレースに参加してしまう事自体が多くの人間に悲劇を招くことになる。まあ、多くの人間達はその悲劇にすら気づかずろくに成果の出ない競技に参加してはパフォーマンスも上がらない競技の訓練をひたすらさせられている訳だが。

 それは、イチローが将棋を頑張っても名人になれず中途半端なレベルで終わってみたり、羽生善治が野球を頑張っても草野球のピッチャーの投球に対して一球もヒットにできない事と同じようなものだ。しかし、イチローがバットを握れば、世界的にも驚異の成績を残せるし、羽生善治も将棋の駒を手に取らせれば名人という称号を得られる。

 多くの人達が間違えている事はこれらの「天才」と呼ばれる人物たちは特別紙に選ばれし者のように考え、「決して自分には彼らのような才能はない。」と思い込んでしまっているそれ自体が、「悲劇」そのものなのだ。そうではないのだ。人間はひとりひとり「イチロー」「羽生善治」といったような「天才性」を持ち合わせていることを私は主張している。それはその人間と「何か」をかけ合わせた時の一種の化学反応の結果だと考えればわかりやすい。

 

イチロー×野球=天才

羽生善治×将棋=天才

 

というように

 

あなた×「何か」=天才

 

というような、この公式のようなものに代入する「何か」というXの部分に、多くの人間は、イチロー羽生善治のようにこの公式の解が「天才」になるような値というか対象を代入していないため、

 

あなた×「何か」=凡人

 

という解になってしまっているだけで、別にイチロー羽生善治が特別な人間であるとは私は思ってもいないし、考えてもいない。彼等に対してリスペクトをしても、羨む必要は大してどころか全くない。なぜならば、私にもあなたにも「何か」をかけ合わせれば解が「天才」になるその「何か」があるからだ。もちろん、多くの人々は自分のその人生の公式における解が「天才」になる「何か」というこのXの中身が何なのか分からず苦しむし、もっと悲劇的なのはこの公式の存在も仕組みにも気づくことなく、親やら学校やら社会にやら何ものかにこの「何か」の中身を勝手に決めつけられて「お前の人生の解はコレだ。」とばかりにもはや疑う余地もなく、そのしょっぱい人生を何も疑わずに生き続けてしまうことになっている。ただそれだけのことなのだ。

 そして、多くの人間達がこの「何か」の部分に訳の分からないものを代入されてしまった結果として、イチロー羽生善治その他の「天才」達のように、自分の人生の解が「天才」になっていない。人は誰もが「自分にしかない世界に一つだけの花」の種であり、芽であり、つぼみを持っている。そこを無視して訳の分からない割くこともない花を無理やり咲かせようとするのが、現在日本で行われている義務教育であり、学校教育であって、その副作用であれ後遺症に悩んでいる人間達はもう世の中を見渡せば溢れかえっていてそれこそ、自分の人生が突き抜けずに窒息死欠けている顔を真っ青にした大人たちが街中を徘徊している、まさにバイオハザードさながらのゾンビワールドを創り上げてしまっている現実が今の時代に投影されているのだ。私が日本の教育を激Disりしている理由はここにあって、いちいちゾンビだらけの世界を創って、国がなんとか生き延びていくなどというようなその頭の悪い人間達が考えた戦略自体が、もう腐敗しきっていて、もうすでに多くの人々は腐敗してしまっているし、このままいけば国自体も腐敗して、日本という国は滅亡する危険すらある。

 もちろん、ストレスをかければ進化するという弁証法的飛躍前夜がまさに今の時代なのかもしれないが、もしもこのまま進めば日本という船は沈没することだろう。少なくとも、自分自身に問わなければいけないのはその沈没寸前の船に乗り続ける事なのか、自分で小舟だろうが、筏だろうがを作って脱出し自分で前述した人生の公式の中の「何か」に何を代入すれば自分の人生の純度が劇的に上がる解になるのかを探す冒険に出るかの選択に迫られていて、すでにその船が完全に沈む前に、脱出するかどうかは現時点では選択の余地がないレベルなのだが、残念ながらその船が沈んでいる事すら気づかないものたちも未だに多かったりもする。

 株式の投資にも「塩漬け」という状態、つまり購入した株価が下がってどうしようもない状態であるのに、なんとか元に戻ってもらいたい、V字回復してもらいたい、願わくば高騰してもらいたいと期待してそれこそ紙くずになるまで持ち続けてしまう状態と同じで、そういうもの達の人生がV字回復する事も無ければ、高騰する事もない。それこそそのような者は、苦しい事は分かるが損切りして、自分自身の人生の公式の中に代入する「何か」を変えない限り、沈没船と運命を共にするだけの運命でしかない。

 何故、日本の教育を忌み嫌うのか。それはすでに沈没寸前の船に「この船は安全です。」とばかりに、人々を騙し続け未だに次々と乗船させていくそのやり口が卑劣で汚いやり口だと私は主張しているからだ。その沈没船に乗る事のメリットとリスクをしっかり説明し、一人一人に選択させたうえで、それでもその沈みゆく船に乗船する事を選択するのであれば、それはその人の人生なので、他人がとやかくいう事ではない。しかし、嘘をついてそれを信じ込ませて、沈没船と共にその人間の可能性を埋れさせ、溺死させる事に関しては、私は国は詐欺罪に問われるべきだと考えている。

 逆に厳しい事を自分たちに課せば、その国の詐欺行為を見破って自分自身で生きるか、それとも大きな力や体制に依存して国の傀儡として生きるかを問われていると考えても良いかもしれないが、さすがに五歳六歳の子ども達に問うのはさすがに酷ではないだろうか。だからこそ、親に対する教育者としての責任がそこに問われているのだ。

 もちろん、その「親」は、すでにその人生の公式についても、国民は同じ競技に参加させられているという「義務」という国の詐欺行為にも、NOを突きつける必要がある。どこかでその負のスパイラルのベクトルを断ち切る勇気を求められているのだ。

 とは言え、洗脳され自分の顔ではないその鉄仮面を自分の顔だと思い込んでしまっている大人達に期待すること自体が、沈みゆく船が浮上する事に対してこの国の教育の行く末を賭けてしまっているような、浅はかな博打行為とも言える。ではどうしたらよいか?

 それは、若者達が自分たちでその事実に気づく事だ。もう、この国の教育など完全に腐りきっていて、可能性の「か」の字も感じない。すでに何人かの大人達もこの国の教育が腐敗しきっている事を訴えている。現在の日本の教育を推してくる者達の声と、現在の日本の教育を激Disりしている者達の声を聴いて、両者の言っている事のどちらが現実的に正しい事を言っているのか。それを若者達ひとりひとりが自分で選択すれば良い。

 その人間が、良い教育とは具体的に何であるかについては各自で責任をもって考えて選択すればそれで良い。そこに口を割り込もうとは思わない。しかし、誰でもその人間にとって「天才」という解が出るような「何か」は確実に存在していて国の憲法が保障しているようなレベル以上に、それこそ宇宙レベルで何人でもどのような環境で生まれようとも、その「何か」をしっかり生まれる前から手土産として持たせてくれているというその「平等」については間違いのない事実だということだけは主張し続けたい。時間がかかっても、その「何か」というXにひたすら代入し続けて自分の人生の解がすばらしい解になる実験はひたすらチャレンジすべきだろう。それこそエジソンが千回チャレンジし続けたのであるならば、最低でも我々も千回はチャレンジし続けてみませんか。という提案は常にし続けたい。そもそも多くの人達は、二回すらチャレンジしないし、酷い人は一回もチャレンジせずに、自分の可能性を放棄するというのは悲しすぎる。

2:日本のヒューマンデザイン論に異論を唱える

2:日本のヒューマンデザイン論に異論を唱える

 

 「教育と洗脳の違いは何か?」この問いに対して、いろいろな表現で説明されているが、私個人としては、教育と洗脳の違いというのは、氷と水、水と水蒸気ぐらいの違いだとしか思っていない。つまり何が言いたいかというと「本質的なものは同じ」という事だ。水も温度が低ければ固体になり、温度が高ければ気体になる。こたつの温度調整の「弱・中・強」みたいなもので、やりすぎればそれが洗脳になり、適度な刺激になればそれは教育と言っても良いようなものになる可能性があり得るが、基本的にこの「教育」「洗脳」的な本質的な「何か」はそれほど、我々が「教育」という言葉を聞いて好印象を与えられるようなソレとは程遠く、現実的には「洗脳」に近いものにしかなっていないだろう。

 それはともかく、「教育」というものは何なのか?「義務教育」これは誰が貸しているのかと言えば国が課してのだから、国が考えた教育を我々は受ける事になる。そもそも「義務教育」とは教育を受ける側に義務が課せられている訳ではなく、教育する側、つまり親側に「子どもにはこれらの教育を受けさせなければいけない」という義務が生じている。実際大衆は「教育とは学校に行って何かを学ぶこと」という理解に落ち着いてしまっているが、別に学校に通わせることが教育ではない。分かりやすく言ってしまえば、「どの環境に生まれたとしても、せめて読み書きそろばんぐらいは誰でも出来て、生きていけるように」という平等にその能力を養える権利を与えるためのものであって、「学校に通わせることが義務」ではない。では、その義務教育によって苦しんで、自ら命を絶った子ども達は、それこそ生まれながらにして死刑宣告を受けているようなものではないか。何故、私がここまで義務教育なるものを忌み嫌っているかの理由はここにもある。ある者にとって義務教育とは一種の「死刑宣告」なのだ。

 肉体的な意味合いでの死刑宣告の場合もあるが、精神的であり、可能性という部分であればそれは大げさな話ではなく、多くの者に対してのある種の「死刑宣告」を国は生まれながらにして我々に課している。そんな事をしている国が掲げる民主主義というものは一体どのような主義なのだろうか。法律があるくなって今の時代にマッチせず機能していないのと同じで、義務教育であり、国の教育方針そのものが時代に全くマッチしていない。そして、教育者、つまり学校教師共に教育のセンスをまったく感じられない。それは時間が経てば経つほど教師共の教育センスは薄っぺらいものになっていっている事実がある。

 教師自体に問題があるのかと言えば、実はそうでない場合が多かったりする。これはまさにフラクタル。学校教育が生徒たちの個性を奪っていくのと同様に、実は教師たちも国から個性を奪われているのだ。個性を奪われた教師たちが、言われたことをロボットのように生徒たちに同じクオリティで対応していく。もちろん、そのクオリティが高ければ問題ない。少なくとも日本の教育とは「下位のレベルに合わせていく」やり方なので、それはまさにロークオリティで平均化させていく手法なのだ。

 これが何を意味しているのか。それは個性的な人間ほど、苦しむ環境を押し付けているという事を意味している。何かに尖って突出すればするほど、問題児とみなされ徹底的に出る杭を打っていく。これが大人対大人であればまだやりたきゃ勝手にやれという気にもなるし、望むところだバカヤローという気にもなってくる。しかし、残念ながら大人対子どもというこの状況、そして多数派対少数派のようなその状況の中で、子ども達の個性は、それこそ、質の悪い牛肉をアンモニアで消毒するファーストフード店のハンバーガー用の肉で使われているような管理をされて、均一化、つまり「変わらない味、変わらないクオリティ」を提供し続けているというその手法を国が採用しているという事だ。考えてみて欲しい、100グラム5000円の松坂牛をいちいちアンモニア消毒などして最悪の状態にするという事を。国の教育というのはまさにこういうことなのだ。天才の芽を根こそぎ摘んでいくのが、国のヒューマンデザイン論なのだ。国は天才など望んでいない。従順に死ぬまで生かさず殺さずで、税金を納税してくれる飼い犬を量産できればそれで良いのだ。まさに映画MATRIXのあのMATRIXシステムと同じで、従順なロークオリティの飼い犬以外のイレギュラーなマイノリティたちは扱いづらくてしょうがないのだ。だから、まだ気づかぬうちに「お前はこういう人間だ。」「人間とはこう生きることが正しい。」「立派な人間とはこういう人間の事を言う。」親も学校も大人全体でそうやって教え込む。まさにそれは洗脳と言ってしまって支障をきたさないだろう。

 もちろん、何も洗脳せずに「僕は平均化人間になりたいんです。」「私は平均化人間になりたいんです。」と本人が心から望むのであれば、それを止めようとは思えない。本当にそんな人間がいるのかどうかは非常に興味深い話ではあるが、まあ、皆さんご存知の通り生まれた時から、否、生まれる前から我々はなんらかの洗脳が施されているかもしれないし、年齢が一桁の時代からずっと我々は何かを「正しい」と叩き込まれている。それこそ、私自身「学校に行かなくても良い」などという事を疑ったことは一度もなかった。学校に行けない人間は人間として不良品だとすら思っていた。というよりもそれが当たり前だと思い込んでいたのだ。そこに自分自身の思想を入れ込む余地すらなかった。今思えば、「この事実が分かっていれば学校なんて絶対に行かなかった。」と本気で思っている。中卒ですら生ぬるく、自分の学歴は小卒で良かったと思っている。

 時代が今ほどではなかったし、バブル絶頂期に私自身中学生高校生だったこともあり、今ほど学歴に左右されない時代ではなかったとはいえ、もしも過去に遡ったら私は中学校にも高校にもいかない。いちいち毒に浸かって、自分の可能性を腐らせるなどというドMな行為を自ら選ぶことはしない。では何をするのか。それについては別の項で述べることにするが、国の「教育」とは、国の考えるヒューマンデザイン論なのだ。表向き「人々が幸せに生活できるために」などと言っていたとしてもそれこそがJAROもビックリな過大広告であって、別に国は我々国民ひとりひとりに「幸せに生きてもらいたい」などとは思ってはいない。例えば「健康に生きてもらいたい。」と国は思って入るとしてもそれは医療費をかけたくなかったり、健康を保って働いて税金払ってもらいたいだけなのだぐらいに理解しといた方がそれこそ健全に生活することが出来る。国だから結構色々な事が許されているだけで、国ほど詐欺を働いている存在はないだろう。「教育」というこの一種の水戸黄門の印籠的な言葉は、使い古されて異臭が出ているかもしれなくても、それでも「教育」と言えば、ほとんどの国民達はははーって感じで、恐れ入る感じになっている。まずはこの洗脳が解けない限りは、国家の奴隷として生きて一度しかない自分の人生を腐らせて終わらせていくしか選択肢がない。

 国が我々に施す教育というのはクッキーを作る時に使う一種の型どり用の型なのだ。もちろん、その型にあっている人間は、大事な部分を失わないかもしれない。しかし、その国の決めたヒューマンデザイン用の型と、あなたの形が著しく違った場合、どういう悲劇が起こるのか?あなたしか持っていない大事な可能性が、その型の外に外れ、それらの部分はゴミ箱にでも捨てられてしまうという事だ。そして、それらの本来あなたの持っていた才能であり、可能性ははじめからなかったものになり、本人ですらそんなものははじめからなかったのだ。というよりも思い出す事すらできない。(実は生きていると三十歳、四十歳あたりに思い出したりするある何かが起こって実は苦しかったりするのだが。これさえなければ一生忘れていられるというのに・・・)

 というように、実は洗脳をされてもやはりそれは自分が望んでいる生き方ではないため、何かのきっかけで「本当の自分は違うんじゃないか?」だとか「あれ?自分ってもっとこうだったんじゃないのか?」なんて疑問が首をもたげてきちゃったりするからあら大変!っていう話なのだ。もうこれは生きてみないと分からないが、自分らしくない型にはめられた人間は、何かによってその真実と向き合うような何かをしらのイベントがどこかで起こる。一番わかりやすいのは「病気」だろう。自分と向き合わずに生きていられる人間などいないのだ。だけど、国は「こういう人間が素晴らしい」という私個人から言わせていただけばそれはそれはとてつもないネガティブキャンペーンをひたすら打ち続けてくれるのだ。それはまさに朝のニュース番組のCMで流される生命保険のCM然り、朝のニュースでは流すべきではない悲惨な事件の類のように。

 本来、国が我々一人一人をもっと幸せな人生を送らせるように真剣に考えているのであれば、このような状態にはなっていない。なぜ、いちいちテストをし、マルとバツをひたすらつけて、自分の評価を他人にされるというこの繰り返しを行うのか。それは「自分の人生のコントローラー」を本人から奪って、本人以外の何者かが簡単に操作する魂胆があるからに他ならない。それこそ、国の教育は、人間一人一人から幸せを少しずつ奪っていっているのだ。気づかないように、少しずつ。ゆでガエルのお湯の温度を気づかぬうちに上げて、のぼせて何も考えられないような状態にしては、国の都合の良い思想を植え付け、それを自分自身の思想、価値観だと思い込ませているのだ。

 それはもう、一大国家プロジェクトでこの日本の学校教育システムが間違えているなどと思っている人間は、昔よりも多少増えたかもしれないが、反対に学校教育に子育てを完全に依存しているモンスターペアレント的な輩も同様に増えているのだから、むしろ国が困っているのはやりすぎて、親たちがそっちの方向に行きすぎたことには悩んでいる可能性はあるが、まあ国としては自分たちの言いなりになって従順に学校に通い「優秀な大人」「立派な社会人」になってくれればそれで御の字なのだ。

1:なぜ、そこまで日本の義務教育システムを嫌っているのか?

1:なぜ、そこまで日本の義務教育システムを嫌っているのか?

 

 学校嫌いが創る学校。まず、なぜ私はここまで「学校」を忌み嫌っているのか?もちろん嫌っているのは「学校」ではない。ここでいう「学校」とは「日本の義務教育」であり、日本で「教育」といっている「日本の教育システム」のことだ。そもそも日本の教育とは、洗脳が「教育」という皮を被っているだけで、日本の教育を別称すればそれは「国が認めている洗脳」と言っても過言ではない。

 実際のところこれは「教育」という言葉に限らず、何かキレイでイメージの良い言葉を使っては、人々はその言葉を額面通り受け取り、良い印象を持ってしまうが、昨今、そういったインチキのようなキャンペーンがどこもかしこもで見られる。宣伝している内容はいかにも素晴らしそうな内容であるかのような言葉を用い、実際にそれを購入してみると大したことはない。感情的には「なんなんだ、この詐欺商法は・・・」と思ってしまうレベルのものがほとんとだ。そして何よりも、一番の詐欺、国を挙げて国民を騙している一大詐欺がこの「教育」に関する事だと私は主張している。

 そもそも「教育」とは何か?「教育」というこの漢字二文字を分解すれば「教」と「育」の二文字なのだが、「教」とは「教える」、「育」とは「育てる」。言葉にすれば「教えて育てる」ということになる。これは教える側の視点だ。そして教わる側からすれば「教」とは「教わる」、「育」とは「育つ」。言葉にすれば「教わって育つ」ということになる。とはいえ、基本的には「教育」とは「教えて育てる」という意味なのだろう。

 いつの時代においても、政治家たちであり、もっと言えばそのトップである総理大臣たちも「何よりも力を注ぐべきは教育」というような事を口にする者達が多いが、実際に予算が何に使われているかという事実と比較すれば、彼らの言っている事とやっている事がどれだけズレているかは一目瞭然だ。では、なぜ彼等は「教育、教育、とにかく教育」と口では連呼するのか?それは国民達に与えるイメージが良いからだろう。では、自国の外側に出て「我々の国は教育に力を入れています。」などと言ったところで、とくに大したインパクトはない。それが予算の使い方にも出ている。何が言いたいのかというと、もうすでにここにも「二枚舌」のような事実が浮き彫りになっているということだ。

 表面ではニコニコしていて善人ぶって、心の中では舌を出す。政治家のイメージはまさにそんなようなものだが、この「教育」というのもまさにその二枚舌になっている。少なくとも日本の教育システムはただの「洗脳」システムに過ぎない。しかし、それを我々国民は「立派な教育」と勘違いする。相撲の世界では「かわいがる」という言葉がある。この「かわいがる」という言葉が与えているイメージだけから想像すれば、先輩が後輩に食事を奢ってあげたり、いろいろやさしく教えてあげているのかなという想像をしてしまうが、実はそうではない。相撲の世界の「かわいがる」という言葉の意味は、一般人のイメージからすれば、「しごきあげる」という言葉に近い。まさに「教育」という言葉はそんな感じで、一般人にとっては「やさしく教えて、人を正しい道に導く」というような想像を喚起させてくれる。もちろん、「教育」を受ける人間と、「教育」を受けない人間では、「教育」を受けた人間の方が人間的にも、社会的にもレベルが高くなるような印象を与える。だからこそ「教育=国民レベルの向上」のような印象を与え、「教育に力を入れる人間=素晴らしい人間」のように思わせているのだが、実はそうではない。あれらはただのリップサービスにすぎない。まず、我々はそこに騙されてはいけない。むしろ「教育に力を入れる」と言っている人間に対しては全力で疑ってかかる事をおススメする。もう教育に対する熱心さをアピールしている時点で怪しんだ方が良い。胡散臭い人間は、自分の心のあくどさを隠すために、なんとか「私は善人です。」アピールを過剰なまでにしてくる。教育以外にも、胡散臭い感じで憲法を変えたりするときは、大概その心の中のあくどさを隠すために、いろいろと「私は善人です。」「私程自らを省みず、みんなのために良い事をしている人間はいません。」的なアピールを過剰にしてくるのが大衆をたぶらかすためのセオリーになっている事をまず我々はしっかり理解しておく必要がある。それこそ、選挙の時だけやたら良い事だけ言って、ペコペコして、ニコニコしながら握手とかしちゃって、選挙が終わり、当選してしまえばもうそこからは「先生」ごっこがはじまっちゃって、デブがダイエットに失敗した時のリバウンド以上に、態度が激リバウンドするといういつものありきたりなあの状態になる事は説明するまでもないだろう。

 そんなこんなで、まず国を動かす側にいる人間達の意図を我々は知る努力をしないとすぐに呑み込まれてしまう。「国民の為」というこの言葉は「あなたの為」という意味ではない。「国民の為」という言葉を政治家たちは「自分の為」に吐き続けている。ただそれだけで、言っている言葉は、先ほどのすもうの世界の「かわいがり」同様に、我々がイメージするソレとは違うものであることを知らなくてはならない。それを知らずして、連中の使う言葉を鵜呑みにして信じれば、とんでもない痛手を食うことになる。気づいた時は時すでに遅し。もう元には戻れない位、我々は貴重な人体が成長する特別な時期に、しっかり洗脳されて大人として完成された時期には、すでに国の「教育」という名の「洗脳」は完了していて、どうにかしようとしてももうどうすることもできないぐらいのところまで来てしまっている。

 つまり、こういうことだ。既存の日本の教育は我々から可能性をそいで、自分たちの都合の良いようにヒューマンデザインをしているだけ。つまり、日本の教育を真面目に受ければ受けるほど自分たちの可能性も才能も削がれて、人生の自由度を下げられてしまうという主張を私はしている。もちろん全員がそうなのかと言われれば「そんなことはない」と思い込んでいる人間が多数なので、この考えにどれだけの人達から賛同を得られるかは分からないが、少なくとも私一人で考えてみれば、この事実は間違いない事実であるし、私と同様の考えであったり、体験をしている者がいないかといえば、結構な数の者達がこの考えに賛同してくれることは間違いない。なぜならば、日本の教育とはそういうものであり、もっと言ってしまえば「国がしている教育」などというものは、誰にとって利点のある内容にするのかと考えれば一目瞭然で「あなたの為に」などする訳がない。それこそ、金をかける価値は何なのかと問えばそれは国にとって利益があるからであって、「あなたのための」などという事を国が考えてくれるわけがないのだ。もちろん、表向きにはいかにも「あなたのための」みたいな事は猛烈にアピールしてきてくれるが、実際にそうなっていないのは、世の中を冷静に客観的に見ていれば、そのような事実はどこにもない。もしあるとしたら、それは一人一人の脳内の中で、主観的に勝手に思い込んでいるだけなのだ。映画MATRIXのあのMATRIXシステムとまったく同じなのだ。

学校嫌いが創る学校~目次~

学校嫌いが創る学校~目次~

 

学校嫌いが創る学校~はじめに~

 

第一章 <教育と対話する>

義務教育を履き違えた大人達

 

1:なぜ、そこまで日本の義務教育システムを嫌っているのか?
2:日本のヒューマンデザイン論に異論を唱える
3:子ども達にとって良い教育者とはどういう存在なのかを考えてみる
4:お受験大国日本という悪しき風習について
5:減点大好き日本人、基本的に人の上に人をつくるの大好き日本人
6:「先生」という設定に溺れ、「生徒」という設定に溺れている日本教育の罠
7:子どもが育たないのは、先生が育っていないから。という皮肉
8:常識という名のローカルルール、礼儀という名の洗脳儀礼について
9:なぜ、モンスターペアレントは誕生したのか
10:知識と知恵、「分かる」と「出来る」の二枚舌構造について

 

 第二章 <今を生きるために必要な教育とは>

何を学び、何を表現すべきか?

1:自分の持っている「天才」を見つけ出す方法について
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 第三章 <学校嫌いが創る学校>

本当の意味での「フリースクール」の開校

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学校嫌いが創る学校~さいごに~

 

 

学校嫌いが創る学校~はじめに~

学校嫌いが創る学校~はじめに~

 

 齢四十になって思うことがある。それは「なぜ、学校にあんなに通ってしまったのだろうか?」ということだ。今思えば、通うべきではなかった、あんなクソつまらないところ。この本のタイトルは学校嫌いが創る学校なのだが、別に学校というシステムを全否定している訳ではない。日本の学校の教育システムが腐りきっていて、あんな楽しくも面白くもないものは即潰すべきだと思っているだけだ。だからDisっているだけじゃただ、観客席でヤジ飛ばしているオヤジそのものなので、「学校嫌いの創る学校」ってのがどういう学校になるのかを示し、それこそ格好の餌食になるか、日本の腐りきった教育を革新するかどうかチャレンジしたくて書く1冊がこの学校嫌いが創る学校だ。

 学ぶとは何か?教育とは何か?勉強とは何か?学問とは何なのか?もはや、その年齢になったら学校に通い、勉強するというここにもちろん年齢的にも疑問も抱けないのは当然だが、親が何も考えずにただただ義務教育だとばかりに、世間体をはばかり、もはや名ばかりの存在である「学校」に愛するわが子を送り込むというその無思考・無神経な態度に、この本によって一石を投じたい。

 もちろん、十年前二十年前に比べて日本の学校教育に疑問を抱いている者達も増えてきた。とは言え、その反対になんでもかんでも学校まかせという親も増えてきた。まさに二極化している日本の教育環境は、インターネットの時代にはそぐわない憲法を意固地になって抱きしめる我が国日本そのものを、また同様に教育というコンテクストにおいても、古臭いシステムを踏襲を「ふしゅう」と呼んだ某総理大臣のように、まさに腐臭が立ち込めている、まあ学校というコンテクストでたとえれば、それはこぼした牛乳を拭いた後の雑巾を、さらに放置し続けたかのようなその場にいることが耐え難いような事実となってしまっている。

 それこそ、今は二十一世紀、グローバルよりも、さら宇宙に目を向け、くだらない枠になどとらわれずに、大きな世界に夢中になるような子ども達を日本から輩出していく事が二十一世紀の教育における課題なのだろうに、未だに日本というお国が提供する教育は、排気ガスよりも有毒ガスを小さな箱の中に排出し続けているだけだ。そういえば、八時だよ全員集合において、ドリフがそんなような罰ゲームを行っていたが、まさに、あの罰ゲームを子ども達にこの日本という国は、義務で毎日のように浴びせ続けているだけだ。それでは、いじめがハードになってもしょうがない。

 このままみじめに終わるか、それともどこかの世代でけじめをつけるか。正直なところ私は日本の腐った教育システムに対して、この本によってけじめをつけにきた。本気で日本のこのクソ教育システムを潰しにやって来ました。文部科学省の皆さん、そして日本中にいる「教師」という皮を被った包茎公務員共。お前ら、全員この俺が相手してやるから。(笑)

 という、それこそここ二冊、ネコを被っていた私が、牙むき出しになって悪しき日本の教育システムをぶっ壊しに行くそんなリアルラストサムライ本で御座います。もちろん、ラストになるつもりはありません。ここから始まります。威信をかけて教育を維新します。一心不乱に教育環境を一新します。義務教育にFack you!!

 「教育とは誰のためにあるものなのか」真剣に考えていきましょう。

大和魂の研究、とりあえず、書き終わりましたが。。。

大和魂の研究、とりあえず、書き終わりましたが。。。

 

月2冊ペースを目指していましたが、

なかなか「大和魂の研究」はテーマがごっつく、

頑張って資料読んだりしながら、

書き進めましたが、

 

やはりちょっと粗挽き感が強く、

これから校正および、2周目に入ろうと思います。

 

書いていて、日本をいろいろな角度で研究している方と出会い、

意見なども頂きつつ、興味深い議論などもさせていただきつつ、
とりあえずは書ききりましたので、

2周目はそれこそ1冊目に書いた、

 

"自分"を最大限生かす人生戦略

 

にも登場した、

 

"将軍"と"軍師"を活躍させて、

この「大和魂の研究」のクオリティを
上げていきたいと思います。

と、共に、現在ゴールデンウィーク中に、

 

"自分"を最大限生かす人生戦略

 

の特別講座を先日4/29に開催したり、

 

5月の連休も、

 

"生命力の研究"というイベントなど、

さらにNAZOの研究に余念なく活動させていただいておりますが、

 

5月1日より、

 

3冊目の本の執筆活動も開始する予定です。

 

ということで、

 

再びコツコツ執筆していきますので、

応援とご協力よろしくお願いします。

 

P.S. 流れ的に

 

大和魂の研究コミュ」を開設する予定です。

準備できたら、こちらのブログでお知らせします。