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原澤出版の執筆用ブログ

3:歴史を学ぶ上で組み込みたいコンテクストについて

3:歴史を学ぶ上で組み込みたいコンテクストについて

 

 世界を学ぶという上では必ず「歴史」という科目がある。それはもはや過去の出来事であるから歴史自体は寡黙に何もこちらに語り掛ける事は無い。そこに書かれていることが真実であろうがそうでなかろうが、歴史はこちらに語り掛けてこない。それは現時点で絵が描かれている歴史に賛成する者と反対する者が反目したところで、歴史自体が我々に語り掛けてくることはない。

 だからこそ、歴史を学ぶ上でも大事な事は誰が何を言っているかではなく、己自身でその歴史そのものに単独で切りかかるぐらいの気持ちを持って歴史を旅する必要がある。そうでなければ、またこの「歴史のお勉強」とやらも、誰かに「自分の人生のコントローラー」を握られたまま、自分自身ではコントロール不能のコックピットの中でひたすら「修行するぞ修行するぞ」と超絶どこからともなくスピーカーからひたすら洗脳されて、よく分からない地に着陸、もしくは不時着してひたすら漂流し続けるしかない。

 そもそも、残されている歴史は本当なのか噓なのか?すべてが嘘ではないが、ほとんどが嘘のようなもの。これまた「その歴史残すことによって一体誰が得をするのか」という事を考えてみれば、何かしらが見えてくる。歴史は勝者にとって都合よく書かれている。ということを忘れてはならない。そこに某陰謀論が浮き沈みする訳だが、あながち間違っていない部分もある。だけど、彼らはやりすぎてそれこそ自分たちの都合の良い陰謀論を作り上げて、自分の脳内のお花畑でタリラリラーンノコニャニャチワ状態だったりもする。ここが非常に難しい。「本当の陰謀論」と「偽物の陰謀論」が混在しているのが現在の世の中なのだから。

 例えば、江戸時代に徳川幕府にとって都合の悪い事を幕府が書き残すわけがない。これは今の時代でも健在で、社会の上の連中たちにとって都合の悪い事をいちいち公にさらすことなどない。その仕組みはごもっともで、それこそが「ピラミッドシステム」を強固にする要因でもある。

 そして、また「モノノ観カタ」は基本的には同じだ。もちろんそれは「自分の人生のコントローラーの支配権」に他ならない。それこそ、江戸時代に士農工商という階級システムが存在したが、これはまさに「自分の人生のコントローラー」を自分以外の何者かによって奪われている仕組みそのものだ。そもそも「どこで生まれるか」によって自分が何をして生きて何をして死ぬかがある程度決まってしまっている。のだから。

 では、明治維新によってこの「士農工商」という洗脳を要さずに自分の人生の方向性を決定づけられる烙印システムが消滅したことによって、人々は自由になれたのかというとそうではない。時代が進むにつれてその仕組みは潜在的に影をひそめながら知らず知らずの内に潜入してくる。次は「お国のために」的な教育という名の洗脳が始まる。そしてもはやその「お国」は、それこそジャイアン的存在にカツアゲされつづけるお気の毒な存在に成り下がっているのかもしれないし、そののび太的存在の「お国」という下で、「自分の人生のコントローラー」をどこかのタイミングで没収され、レールの上を走らされ続け手下の手下の手下的な、いわば振り込め詐欺出し子役のようなパシリ的扱いを受けて生きながらえているのが「市民」という存在なのかもしれない。

 つまり、何が言いたいのかというと、人間は西暦の前後を問わず自由になんて1度もなっていない。って事だ。常に、何かに支配され、その支配に従うためにまた人間達の中でもその支配システムを作り上げ、またその支配されたものたちがその下に支配システムを作り上げるという構造。これこそが死後の世界にあるのかどうかは分からないが、この世に確実に存在する地獄。まさに生き地獄の1つだ。

 社会問題としていつの間にやら日常茶飯事となっている「いじめ問題」だが、人々はそのいじめのニュースを見ては「まあなんて酷い事を。。。」と嘆くかもしれないが、そもそもこの社会の仕組み自体が、システム全体が「上が下を支配する連鎖」を作り上げている以上、必ず誰かしら末端の人間は、ニュースに取り上げられるような凄惨ないじめを受ける事になる。

 もし、本当に「いじめ問題」を撲滅したいのであれば、この上が下を支配する連鎖システムを清算しない限り、その問題がなくなって生産的な世の中が誕生することは無い。多かれ少なかれ、形を変えてその「いじめシステム」は何千年、何万年と継承され続けているのだから。

 非常におかしな話なのは、こういう仕組みだからだ。

  1. 「自分の人生のコントローラー」を誰かに奪われる。
  2. 自分よりも弱いものから、「人生のコントローラー」を奪う。

 正直なところ意味が分からない。「自分の人生のコントローラー」は何者かに奪われ、自分が持っているのは自分の「人生のコントローラー」ではなく、他の誰かの「人生のコントローラー」なのだから。だが、これを人々はおかしいとすら思わず受け入れて生きている。「それがこの世界なのだ。」と、それこそ教えられる必要もなく、叩き込まれているからだ。そういうNAZOのイス取りゲームに人々は強制参加させられている。そういう観点で「歴史」というものを見てみると、面白さが増すことだろう。個人的には、この観点で「歴史」というものを見た時、とてもおもしろく私自身は感じた。どの時代においてもそのイス取りゲームに躍起になる人々の滑稽さがたまらない。だってどう頑張ったってそれは滑稽なイス取りゲームであることに変わりはないのだから。そんなイス取りゲームのために人は命まで奪い合ったりする。

 「ピラミッドシステム」というのは「どのくらい上にあるイスに座ることが出来るか」というルールのイス取りゲームだ。その観点で見ると、大体世界史にしようが、日本史にしようが、その時に何が起こっているのかが分かる。そこで「イス取りゲームにおける何が起こっているのか」を考えれば、歴史を学ぶという事が何なのか見えてくるだろう。何年に誰が何をしたのかをただ覚えていても何の役にも立たない。だけど、この世界が長きにわたる「イス取りゲームの歴史」という延長に我々も生きているのであれば、歴史を学ぶことは大いに役立つはずだ。その観点で言えば「イス取りゲームの歴史」というのはだいたいこんな感じにっているだろう。

 

イス取りゲームの歴史におけるパターン

  1. ピラミッドシステムの上の人間を引きずり下ろす[失脚パターン]
  2. ピラミッドシステムのリフォームっていうか全とっかえ           [フルーツバスケットパターン]
  3. ちょっとしたルール提案による変更
  4. インチキ・いかさまによる類
  5. 別グループからのちょっかい
  6. 人間以外の存在からのちょっかい

 こんな感じ。全部バラバラで考えるから「歴史」ってのはただの記憶力大会のように思われがちだが、昨日にしても今日にしてもそれは歴史の1ページになっているのだから、「同じ括りで考えてみる」ことをすれば「歴史」の勉強は非常に役に立つ。特に人生戦略を自分で作っていく上では非常に参考になる資料になる。

 旧石器時代だとか平安時代だとか江戸時代だとか、「〇〇時代」とは何なのか?これはこの「イス取りゲーム」の仕様が大幅に変わった事を意味する。「イス取りゲームⅠ」が「イス取りゲームⅡ」「イス取りゲームⅢ」へとバージョンが上がったことを意味している。例えば有名なロールプレイングゲームドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」に置き換えて考えてもまったく同じ事が言える。バージョンが上がることによって何らかの仕様が変わる。この世の中もまったくもって同じ事が言える。

 そう考えれば、「歴史」そのものが、だいぶ他人事からは遠ざかり、自分事へと近づいてくるのではないだろうか。あるコンテクストを加味すれば、「歴史」の勉強は、ゲーム研究と変わらないという事だ。「勉強がつまらない、ゲームだったらいくらでも出来るのにー。」という子ども、若者、もっと言っちゃえば大人たちも。そういう人たちは多いと思う。だけど、「歴史」を学ぶ事はゲーム研究そのものなのだ。そして人生そのものがゲームなのだ。誰かが作ったゲームよりも、自分を主人公にしたゲームで、どれだけ先のステージに進めるかを楽しんだ方が、個人的には面白い気がする。もちろん、この世界がつまらなさすぎて、やってられないからコンピューターゲームに人生を浪費したくなる気持ちは分からないでもないが、そこまで今の時代自分の人生を強制的に支配されたりはしない。勇気と覚悟さえあれば、奪われた「自分の人生のコントローラー」は一瞬で取り戻すことはできる。

 後は、自分自身がどういう生き方を選択するか。まさに赤いカプセルを飲むか、青いカプセルを飲むかという問いに対して向き合うか向き合わないかというそれだけなのだ。

 この世界をどう生きるべきかという正解を自分以外の何者かに決めさせてはいけない。たとえ常識を守らなかったがために"大人"達から暴力的に制裁を受けたとしても、まわりに自分の味方が見当たらず、たとえ精彩を欠きそうになったとしても、この世界をどう生きるかという正解については、自分自身で決めなくては意味がない。ここだけは決して譲れない己の美学以上に、気丈に振舞うことを要求される。もしも、「自分の人生のコントローラー」を誰かに握られてしまっているのであれば、早急に取り返す必要がある。

 もちろん何者かが、執拗以上にあなたの「自分の人生のコントローラー」を握りたがって、あの手この手を使ってくるかもしれない。そうだったとしても、この世界は「自分のコントローラー」を握り続けて自分を自分でコントロールしないかぎり、それは「生きている」とは言えない。

 それはもはやMy lifeではなく、ただの傀儡として操作されているだけの媒体に過ぎない。奪った何者かと相対する必要がある。もしも、奪われた「自分の人生のコントローラー」がどこにあるのか分からなければ、その犯人を見つけるべく捜査するべきだ。だが、その犯人は意外に近くにいる父さんだったり母さんだったりする。もちろん家族以外の可能性もある。