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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

4:そこに社会がある以上、人は知らぬ間にその仕組みに組み込まれている。

4:そこに社会がある以上、人は知らぬ間にその仕組みに組み込まれている。

 

 前項ではこの世界は「ある種のイス取りゲーム・フルーツバスケット的ゲームである。」という事を説明した。また、歴史を学ぶことはこの世界(社会というゲーム)のバージョンアップのパターンが学べるという事も説明した。そして、人間である以上、少なくとも日本という国の住民であれば、勝手にそのイス取りゲームに参加させられている。それは総理大臣から住民票を持たぬホームレスに至るまで、そのゲームに参加するかしないかの選択を拒否する事どころか検討する事すら許されない。

 それこそそのゲームに参加しませんなどと返答すれば、はい、そうですかとばかりに、下の方のイスを用意される。それこそ「あなたはもうここに座る事しかできません。」と機械的にそこに送り込まれるだけだ。まさに、現代の島流し的対応。代用するイスはどこにもない。どんな戦略を取ったところで、このイス取りゲームには参加せざるを得ないのだ。それは人間である以上呼吸し続けない限り、心臓を鼓動させ続けない限り、人間を辞めないといけないのと同じだ。もちろんその現実を逃避する方法もある。だが、それはあくまでも「逃避」でしかない。太陽や月からどんなに逃げても無理であると同じように、どんなに頑張ってその仕組みから逃げたとしても逃げ切ることはできない。それこそこの地球という星から抜け出して、太陽系の外側にでも脱出することが出来るのであれば話は別だが。そのレベルでこの「イス取りゲームから抜け出す事は不可能に近い」という事だ。

 今、この本を読んでいる今この瞬間も、我々はなんらかの「イス取りゲーム」に参加している。「家族」「学校」「会社」「サークル」・・・至る所にこの「イス取りゲーム」は用意されている。「では、人間自由なんかないじゃないか。」とあなたは思うかもしれない。「イス取りゲームに一切参加しない。」という選択は出来ない。だけど、「どのイス取りゲームに参加するか」については、選択の余地が与えられている。もちろん大人たちはそこについても「あなたたちにどのイス取りゲームを選択するかは限定されています。」と嘘を教えてくる可能性は高い。しかし、ここにおいては「どのイス取りゲームを選択するかにおいては、その人間の自由である。」というこの罠については、嵌らないことを注意喚起しておく。

 ~はじめに~において、「この本は少年時代の自分自身に向けて書いた。」と述べたが、これが何を意味しているのか?それは、少年時代の自分自身はこの世界の構造を理解できず、まわりの大人たちは「お前はこのイス取りゲームにしか参加できない」と思春期の前後を問わず、ずっと言い続けてきた。悪気がないだけ、さらにタチが悪い。少年期であれば、なおさら「大人達」のただの言いなりになるしか選択肢が見当たらず、この罠を回避しようとしてもどうしようもできない。八方塞がりで埒が明かない。

 特に発達障害アスペルガーなどといった「特殊な感じの人間」にとっては、それはそれは地獄でしかない。それは第二次世界大戦あたりでアウシュビッツなどといった強制収容所に強制送還されるユダヤ人達と状況はほとんど変わらない。彼ら彼女らにとって「こういうイス取りゲームであれば活躍できる」のに、まわりと同じイス取りゲームに参加させられるがために、ある種強制的に「劣等者」というイスに座らさせられることになる。まず、これが非常に危険なのだ。それこそ「自分の人生のコントローラー」を自分以外の何者かに奪われ、非常に粗末にコントロールされる最悪のケースの1つだ。

 だからこそ、ここに関しては、声を大にして言いたい。

 

どのイス取りゲームを選択するかは、自由だ。

 

 という事を。本来は、この事実は親である存在が知っていなくては、世の中の負の連鎖を断ち切ることはできない。だが、さらに不幸を招くのは、わが子を守るべき存在である親が、子ども達の「人生のコントローラー」を奪い、勝手に操作した挙句、最悪のイスに座れないわが子をDisるという暴挙に出る。

 正直な事を言わせてもらうと、ここに書いたことを親たちに見てもらって、負の連鎖を断ち切ってもらいたいなどと願うつもりはない。もちろんそうなるにこしたことはない。だが、期待しない。期待しないというよりも「期待できない」と言った方が適切な表現。そこには期待してはいけない理由があり、もしも期待できるのであれば、この世界はこんなものを書く以前にもっと平和で豊かで幸せな世界になっている。残念ながら、もはや成人して結婚して家庭を築いた人間達にこのようなメッセージはほとんど届く可能性はない。途中まで進んでしかも、それが三十年、四十年、五十年と年数が伸びれば伸びるほど「あっ、間違った方向に進んじゃってた。。。」という事に気付いてきた道を戻る事ほど苦痛なことはない。そして「自分が間違っていた。」という事を認めること程苦痛なことはない。そして、間違えてたとしても無痛の道を進み続けることを選択するしかない。それこそとんでもない頭痛でも起きて、進みすぎて一線越えて頭が爆発でもしてしまう漫画「GANTZ」のような仕組みにでもなっていれば話は別だが、この世界にはそんなアラームシステムは存在しない。もちろん、三十年、四十年生きてきた道を戻って、進みなおすという選択がどれだけ面倒くさく、どれだけ残酷なものであるかは想像できる。だからこそ、早々にこの罠に気付いて、自分のパーソナルベストを叩き出せる「イス取りゲーム」を自分で選択して攻略することが、自分自身にとって健康を保てる秘訣なのだという事を出来る限り若者たちに伝えたい。なぜ、若者たちになのか?という理由は今述べた理由からだ。

 そして、十代までの人生は非常に辛い。自分で稼ぐことが出来ない訳ではないが、制限をされ、自分ひとりで生きていく事が困難であるからだ。もちろん、その構造を作っているのは生物としての肉体の成長システムのせいでもあるが、その間に従順な傀儡に育てていくために要する時間でもある。

 そのため、洗脳されて傀儡というMATRIXカプセルにブチ込まれる前に、なんとかそのMATRIXカプセルから抜け出して、自分の人生というゲームを楽しむための、イス取りゲームを選択して、"自分"を最大限生かせる舞台を見つけて、そのイス取りゲームを楽しんでもらいたい。と願うばかりである。 

 実際には、子ども達は「なんかおかしいんじゃないか?」と結構早い時期にうっすらと気づくことがある。それはそうだ。子どもであればまだ染められてない。肉体的にも精神的にも何かを感じ取る力は強い。だけど、感じ取れたところでどうしようもできない。もしも子ども達にできる人生戦略としては、「聞いてるフリ」ぐらいだろう。

 だが、その「聞いているフリ」は何気に効果があったりする。それは酒を飲み続けなければいけないような職業の人間が、「飲んでいるフリ」をしているのに似ている。それは自分を守る術でもある。それでいい。なんとか「自分の人生のコントローラー」を正気で握って操作できるだけの自意識を保てるかどうかが、本来の人生の「勝ち組」に残るための条件なのだから。もう自分が何なのか、人生のコントローラーなどという存在も知る事もなく、それこそ映画MATRIXで描写されるあのMATRIXシステムによって見せ続けられる幻想を現実だと信じ込んでしまうようになってしまったらもはやそれは生きながらにして「負け組」へと転落してしまっているのだから。そうなってしまったら、社会にとっての養分として生かさず殺さずの傀儡として生きながらえるために生きるという、面白みのないイスに座り続けることになる。

 大事な事は、ピラミッドシステムの上側の方のイスに座るか、下に側の方のイスに座るかではない。それは二の次であり、別にどこに座ろうが構わない。大切なのは「どのイス取りゲーム」を自分自身で選び、自分の意志でこの社会を生きる事。そうでなければ、見えようが見えなかろうが肩口や腕、背中、足に傀儡としての操り紐が残念ながら括りつけられてしまっている。

 この絶対的なシステム、そして妄信者達の洗脳的教育にたかを括ってはいけない。油断すれば、気づかぬうちに操り紐を括りつけられる。もしもあなたの両親や祖父母、親戚などが、「この社会で生きていくために、この紐を体に結びなさい。」と言ってきたとしても、「結んでいるフリ」をして、傀儡の罠から抜け出すトリックを作っておく必要がある。まさにトムソーヤの冒険そのものとも言える。大人たちは、常に子ども達に操り紐を括りつけて、一人前の社会の傀儡として世に送り出したいのだ。それが社会から「よく育てました。」と褒められるからだ。そんな親たちのエゴの糧として人生を果てさせる必要はない。

 この世界がもし地獄のような構造であるとしたら、生まれた時点でこの「選ぶことのできないイス取りゲーム」「無理やり括られる操り紐」という手かせ足かせを付けられ、「先生」と言われる傀儡づくりの公務員たちに毎日のように「教育」という名の洗脳を家でも学校でも、さらに塾にまで送り込まれ完全に「ある色」に染められていく。

 生まれてから思春期に辿り着くまで、まずその罠にかからずその牢屋のような環境からプリズンブレイクする必要がある。人生は常に「ドロケイ」のような世界観が広がっている。むしろ子ども達が大好きなゲームは「ドロケイ」であり「逃走中」なのだから、よく考えてみれば、気づくことができるのであれば、四六時中「ドロケイ」「逃走中」を楽しむことができるとも言える。そして、難易度は非常に高い。芸能人がしているあの「逃走中」がお遊びであると思えるほど、実際の「人生の逃走中ゲーム」は非常に難易度が高く、非情なまでにハンターの投入数が膨大であり、そのくせボーダーもなく地の果てまで追いかけてくる。

 子ども時代、そして成人するまでの間に「人生の勝ち組」に居る為の処世術。それは、

 

成人して生きるまでになんとか「自分の人生のコントローラー」を手放さずにいるための処世術

  1. 聞いているふりをして、傀儡にしようとしている大人たちの言っている事を右から左へ流す。
  2. 括られている操り紐をほどけるぐらいにいい加減に結んでおく。
  3. 他人(親も含む)から与えられたイス取りゲームが自分に合わなければ、変更できるだけの身動きが取れるだけの自由度を保つ。
  4. とにかく「この世界はゲーム」という冷めた見方で、客観的に生きる。
  5. いちいちうるさそうな大人がいないような環境を選択する。
  6. とにかく、無理やり型にハメてきそうな大人たちが現れたらなんとしてでも逃げる。
  7. 力関係が弱いうちは、自分に無駄なダメージが蓄積されない人生戦略を考える。

 童話「北風と太陽」ではないが、自由ではない時に「大人達」に喧嘩を売るような事はおススメしない。それこそ、大人同士でもあまり攻撃すると、死ぬ気でかかってくる輩が現れると面倒くさいし、それこそ"自分"を最大限生かすための人生戦略を考える上ではいろいろとコスパがよろしくない。特に義務教育を受けている時期、高校や大学など「先生と生徒」「指導者と生徒」という関係においては、うまく受け流す事をおススメする。これは私自身の体験談になるが、大人に指摘するととんでもない仕打ちを受ける事になる。実際発達障害気味の私は、大人たちのやる事が常々バカバカしく見えた。だが、「大人と子ども」という上下関係をつくらない聖人君子のような「大人」など宝くじで3億円当たるぐらいの確率だと思った方が無難だ。それは少し言い過ぎかもしれないが、そういう大人に私自身成人するまでに会った人数は二人か三人しかいない。その反対に、トラウマになるような大やけど級の洗脳を施してくれた「大人」であったとしても相当数いるし、軽いやけどレベルであれば、ゾンビ映画を彷彿とさせるぐらい沸いて出てくる。これが「逃走中にしては難易度が高すぎる」という要因だ。

 もしも、これを読んでいるあなたが親であるのであれば、子ども達を先ほどの成人して生きるまでになんとか「自分の人生のコントローラー」を手放さずにいるための処世術に照らし合わせて、愛するわが子が伸び伸びと、それこそ「社会の傀儡のために括りつける操り紐」に括らずに、その子が自分で、どのイス取りゲームを選んでこの世界を楽しむか、人生を楽しむかを"自分で選べる"環境を提供してあげて欲しい。もちろん親に理解があったとしても、子ども達が触れ合う大人たちは親だけではない事にも注意しなければならない。子ども達に「操り紐」を括りつけようと狙っているハンター達はどこもかしこにも存在する。そして「義務教育」というほぼ命綱の無い危険地帯に、あなたの愛するわが子を送り込んでいる事実と、本来親であれば向き合わなければならない。「義務教育」という名の罠に、本来は親が気づくべきなのだ。社会と一緒になって「どれだけ優秀な操り人形を作ることが出来るかゲーム」などという狂ったイス取りゲームに参加する事を拒否しない限り、いつまで経ってもあの「MATRIXシステム」によって生かさず殺さずで操られ続ける社会の養分役として、その一生を全うする事しかできないこの負の連鎖システムから抜け出すことはできないのだ。