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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

5:実際にこの世界は残酷な天使のテーゼ以上に残酷だったりする事実について。

5:実際にこの世界は残酷な天使のテーゼ以上に残酷だったりする事実について。

 

 さて、これまでこの世界はゲームであるとかどうかは別として、ゲームだらけのシステムになっていることは説明しました。言ってみれば、スマートフォンのようになっていて、そこにどういうアプリが入っているか。そしてそのアプリのゲームで優秀な成績を上げるかによって、それこそUFOキャッチャーのように景品がもらえるというような仕組みみたいなものだ。ただし、大事な事は何度でも述べるが、「自分というスマホ(ハード)」にどのような「具体的に対峙する人生アプリ(ソフト)」を自分で選択しインストールするか。というこの一点に尽きることは説明し続けてきた通りだ。

 パソコンを使っている者であれば、イメージしやすいかもしれないが、誰かの遠隔操作やウィルスなどによって自分の意図していないプログラムがパソコンに組み込まれたらたまったものではない。容易にそのパソコン(ハード)は不具合を起こしたり、パフォーマンスが悪化することは想像できるだろう。それと同じで、自分というハードにどんなソフトを入れて使うか。これ自体が"自分"を最大限生かすための人生戦略と結びついている。

 この宇宙も地球も創った存在は人間ではない。人間というDNAを設計したのも人間ではない。人間以外の「なにものか」なのだ。それが宇宙人のような存在なのか、宇宙原理なのかなんなのかはよく分からないし、そこに関しては、人智を遥かに超えているので、どんなにいかにも科学的な事を説明しようとしたところで、さほど神話のお話とかわりはない。ただし、どのような理屈をそこにつけたところで、「それらを創ったのは人間ではない」という事実だけは、神話だろうが、科学だろうが、その他どんな学問であったとしても覆すことが出来ない。

 つまり、我々人間とは「任天堂に作られたスーパーマリオ」と同じ構造なのだ。よく「創造主」などという呼び方をして、この世界を創った者(存在)について宗教などはこの世界の教えを説くが、それが神さまなのか何なのかは別として、この世界と我々人間の関係は、「任天堂(≒創造主)」が創った「スーパーマリオというゲーム(世界)」の中の「マリオ(キャラクター)」に過ぎないという事。残念ながら、マリオが「スーパーマリオブラザーズ」というカセットの中から飛び出すことが出来ず、自由に動き回れるのはそのカセットの中だけであるのと同じで、我々人間もこの世界の中から飛び出すことが出来ない。残念な話に聞こえるかもしれないが、構造上、この事実を受け入れて生きた方がよっぽど楽だったりする。

 「あなたの人生はスーパーマリオのマリオと同じで、それほど特別な意味はありません。」と言われたら、やはり多少動揺するかもしれないし、中には「何を言っているんだそんなバカな・・・」と失笑してそれこそ笑い話として受け流す者もいるかもしれない。では、この話に耳を傾けない者に聞きたい。「人間とは何なのか?」「この世界は何なのか?」と。ここを流暢にさも何か特別で、それっぽい意味を持たせたかのような内容を語る人間達に私は聞きたい。「その話の根拠は何なのだ?」と。それらの類の話は必ずといって良い程、どこかで誰かが作ったの創作話に過ぎない。しつこくなるが、この世界を創った者が人間自身でない以上、この世界に人間が本当の存在意義を説明することがどうやってできるのだろうか。できる訳がないのだ。どうしてもそれは仮説の域を越えられず、ただただこの虚しい世界で自分たちがなんとか生きていくために都合よくつくられた幻想に他ならない。そういった意味合いも込めて映画MATRIXを見てみると、何かに気付く人もいるのではないだろうか。まさにあの映画MATRIXの世界観が、現実に起こっているという事に。

 これまで「社会というシステムの傀儡として操り人形にされる」という話をしてきたが、これらも結局はこの世界というシステムの中で、人間というキャラクターたちが作り上げた人工的なシステムの1つに過ぎない。この「社会」というシステムは神さまでもなければ宇宙でもなくメイドイン人間だ。人工的なシステムであれば、コントロールすることは可能だ。友達を集めて何かゲームをしようとした時にスタートする前に決めるルールみたいなものと同じではあるが、「歴史」によってその「社会というシステム」は強固なものになっているので、一人の人間がどうこうしようとしたところで、子どもがイタズラに蟻を潰してしまうアレと同じで、簡単に潰されてなきものにされるだけというオチだろう。

 では、この世界が「どうしようもできない世界」である事を受け入れた上で、「今この時代に生きる我々はどう生きていくべきか」という事を考えてみたい。本来は、元も子もなくなってしまうがなんだって良いのだ。それこそ、自分の人生のコントローラーを自分以外の何者かに握られたまま傀儡として寿命が尽きるまで社会の養分となりつづけようが、自分の人生のコントローラーを自分で握り続け、この世界の仕組みを理解し、"自分"というポテンシャルを最大限発揮して、思いっきりこの世界Gameを楽しむ生き方でもなんでも。正直なところ、この世界という存在自体がとてつもなく無意味でくだらないものなので、何をどうしたところでそれほど差は無かったりする。世界を自由に飛び回る冒険家も、人生のほとんどの時間を刑務所の中で過ごす罪びとも、実際はそんなに差はない。もしも「勝ち組」「負け組」だの「成功者」だのと定義しているのは、それは人間達がこの世界になんとか頑張って意味を持たせようとしている努力に過ぎず、実際はそこに意味は無かったりする。もしもあったとしても、人間達には分からないのだ。だってこの世界も人間も、設計したのが人間ではないのだから。

 そして、残念なことに我々はその設計者に出会う事も出来ない。もちろん「常に設計者は我々の前というかまわりに存在している」のかもしれない。もちろん人間であり、動植物、星にいたるまで、これらはその「設計者」が創ったものなので、そこにこの世界が一体何なのか?何のために創られたのかのヒントぐらいは見つけることが出来るだろう。DNAの形が二重らせんの形をしてねじれているあの構造からしても、そして「歴史」というものを観察してみても、この世界という「スーパーマリオ」が何をコンセプトとして創られているのかはある程度は予想する事は出来る。

 その「設計者」のコンセプトを察して考えるのであれば、そのテーマは"進化"といって良いのかもしれない。ここでいう"進化"とは人々にとって都合の良いものではない。我々が何かによって絶滅したとしてもそれは"進化"の過程であり、「設計者」からしてみれば「ああ、こういう展開になったか」とそれこそ、我々がドラマや映画を見ているあの光景と同じものだという事だ。我々は「設計者」に観察されている実験台のモルモットと何も変わらない。

 それこそ、実際の実験台のモルモットたちの方がまだ幸せかもしれない。なぜかというと彼らを我々人間達は放置などせず、しっかり観察しているが、我々人間はその「設計者」がいつどこで観察しているかも認識することが出来ない。その観察者の気配を感じることができない。もちろん、ありがちな「神はいつでもどこでもあなた方を見ていますよ」的な事は言えるだろうが、そんなことは綺麗ごとで、モルモット達は見上げれば巨人の姿が目に浮かぶが、我々には空を見上げたところでそのような巨人的存在はどこにも見当たらない。それこそ、往生際の悪い連中達が、雲の形を見て「あれは天使だ」「あれは竜神だ」と創作して騒ぐぐらいが関の山だ。

 つまり、よく分からないけど、我々は完全に放置されているようなもので、それこそ"設計者"に観察すらされていない可能性の方が高いのだ。この世界はある意味、究極の放置プレー状態なのかもしれない。「この世界は地獄そのもの」などと表現する者もいるが、構造的にあながち間違っていないようにも見える。リアルに「スーパーマリオ」の世界におけるマリオを想像してみてもらいたい。マリオは、我らプレーする人間達の要求に応え続けなければならない。何度でも死ぬ。Gameoverと画面に表示されても、またスタートボタンを押されて、Bボタンを押されたらいかなる時でも全力で走らなければならない。そして何度でも死ぬ。無限増殖とかされて、何度でも死ぬ。

 というこの無間地獄から、マリオ本人は嫌気を差したとしても、そのスーパーマリオワールドから抜け出すことが出来ない。まだ、およげたいやきくんに登場するたいやきくんの方が、鉄板の上から逃げることが出来ただけ幸せなのかもしれない。

 これを読んでいるあなたがまだ年齢が若いのであれば、「自分探し」という心のムーブメントというか衝動について理解できないかもしれないが、三十年、四十年それこそ、「自分の人生のコントローラー」を自分以外の何者かに握られて傀儡と化した人生を送ってきた者にありがちの症状なのだが、「自分はいったい何者なのだ?」という疑問がふとわいてきて、それこそたいやきくんのように、急に傀儡人生から抜け出そうとする人間達が現れる。残酷な事を言ってしまうが、三十年、四十年も傀儡として生き続けた人間が、その括られた操り紐をほどいて、さらに誰かに没収された「自分の人生のコントローラー」を再び自分の手で握ることは非常に難しい。いきなり司法試験受けて合格しようと思うぐらいか、もしかしたら、それよりももっと難しいかもしれない。その理由についてはこれからさまざまな角度からその「三十歳、四十歳になってからの自分探しの成功率がいかに低いか。」ということについては説明するが、(そのため、できるかぎり若い段階でそのあやつり紐はほどいておくことをおススメする。という内容をこれまで書き続けてきたのだが。)やはり、ここも「人間」という設計上の何かなのか、いやらしいことにたまに「このままでいいの?」的な自動アラート機能がはたらいたりするので、これはこれでやっかいだったりするのだ。

 もちろん人間の生命活動のパターンというか現象を観察することによって、「"設計者"は我々人間をこういう意図で創られたのではなかろうか?」と予想することはできる。残念ながら学校のテストと違って、その予想が正しいかどうかを採点してくれる"先生"はもちろん我々の目の前には現れない。もし、"先生"を見つけられるとしたらそれは自分の中にある何かぐらいだろう。例えば"健康状態"であるとか。もはやその程度でしか、意地悪な"設計者"は、生命の本質であり、生命の正解不正解を示してくれない。そして「健康であれば正解」であるかも、それは人間の尺度に過ぎないので、正解とも言えない。むしろ不健康で死ぬことの方が正解である可能性もある。そしてどちらも正解でもない場合もある。オチのないコントに出演させられているような苦痛をずっと味合わせられている刑に処されているのかもしれない。

 もちろん妄想、幻想によって、この正解のない自分の人生であり生命に対する不安な気持ちを払しょくさせて落ち着かせることも可能かもしれない。だけど、それは麻薬的というかその場しのぎの痛み止め程度の効果しか期待できず、効き目が切れた時は三倍、五倍返しで忘れてた痛みを思い出させてくれたりする。なんとなく分かるのは、この"設計者"はどうも、「イタズラが好きなのではなかろうか」という事ぐらいは分かってきたような気がする。ある種の天邪鬼のような仕組みをこの世界にも、人間達にも仕込んだのではないだろうか。それこそあの二重らせんのはしご構造は、それを匂わせている節がある。もちろん、そう人間が感じるだけであってそこに"設計者"の意図は何もない場合もある。ただ、ねじれている以上はそこに「ねじれているなり」の何か作用は生じている。それはあみだくじの構造に似ていて、コンセプトもあみだくじのそれと何ら変わらない可能性もあるし、もっと精巧なそれこそ「神さま」という存在を感じずにはいられない緻密な何かしらの機能が組み込まれているのかもしれない。どっちにしても、「この世界の束縛」からは逃れられないという事実だけは捻じ曲げることが出来ないので、そんな緻密な事を研究する前に、もっと基本的な事を理解しておいた方が人生のコスパは高い。あまり使わない裏コマンドを覚えるよりも、普段使う基本的な操作方法をマスターした方がゲーム巧者になる可能性が高いのと同じだ。

 この項で述べたことは安直に考える必要もなく、納得がいかなければ各人で徹底的に考えてみることをおススメする。そして、もしも"設計者"を見つけてくることができたら、私に是非、紹介してもらいたい。