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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

6:本来何よりも一番先に知っておく義務教育「領土ゲーム」について。

6:本来何よりも一番先に知っておく義務教育「領土ゲーム」について。

 

 さて、前項ではこの世界がある意味耐え難いレベルでどうしようもできない世界であることは説明しましたが、前項でも多少述べたように「社会」というシステムに関してはこれは、見えない存在ではなく人間が創っているものなので、まだこの世界であったり人間であったりという設計よりも、自由に立ち振る舞う事が可能になっている部分だ。マリオが走ろうがかがもうが、ダッシュしようがといったように自由に操作できるのと同じで、「社会」というステージの中であれば、自由に動き回る事も可能だ。ただし、あなた自身が「自分の人生のコントローラー」を自分で握っていればの話に限られるが。

 もしも、あなたが「自分の人生のコントローラー」を自分で握っていないのであれば、それはクリボーやノコノコ、ブロックを叩いて規則的な動きしかできないキノコやスターのような役割しかできない。つまりそれは「主人公としての自由」を与えられず、「わき役としての役割(制限された動き)」しか与えられないという事だ。この世界の残酷さから言えば、マリオのような主人公レベルの自由さを与えられていることと、クリボーのように前しか進めない不自由さを与えられていることにそれほど差はないのかもしれない。そのどちらの役を選ぶかはあなた本人が決めれば良い事なのだから。終始私が述べているのは「せめてマリオかクリボーのどちらの役を演じるかぐらいは本人に決めさせてあげたらどうですか?」と訴え続けているだけであって、もしかしたら、その「選択の自由」自体にもあまり意味はないのかもしれない。ただ、話を置き換えて「はい、あなたは罪びと役ね。」と勝手に決められて、一生牢獄というステージで今回の人生を終わらせるのは個人的にはきついので、「せめて何の役やるのかぐらいは自分で決められる自由さを。」と述べているだけだ。そして、残念ながらこの世界の"設計者"ではなく、社会というシステムが、「親」であり「先生」達が、「はい、君は〇〇の役ね。」と役を押し付けてくる。それこそ世界を創った"設計者"以上の振る舞いで。そこが非常に恐ろしい。我々はなんとしてでも「残酷で変えようもない世界の設定」と「人工的に作られた某ルール(≒常識)の押しつけ」の見分けができるようにならないと、傀儡の操り紐が自分自身に何重にも括りつけられて、もはやあやつり人形としてもろくに動くことが出来ない、言ってみれば「アクセルとブレーキを同時に踏んだような状態」で、それこそ身動きが取れずに、何のために生まれてきたのか分からない一生を終える危険に身を晒すことになる。それこそ、マニアックな「一生罪びと役」を演じることになる。だって、どっちにも身動きが取れないという事は、四方に鉄格子がないのに、動くことが出来ないのだからその面積の鉄格子のない牢獄に入れられているのと実質的には変わりがない。それだったらまだ本当の罪びとの方が自由度が高いかもしれない。

 そういう「この世界ゲームの最大注意事項」についてはすでに理解したということで、ようやくこの世界というゲームを遊ぶための重要な仕組みについて理解を進めていこう。この章の中で「歴史を学ぶことで、この世界の仕組みが見えてくる」という話をしたが、今回は歴史から見つけられる「ある1つの社会ゲームの上にあるゲーム」についての説明をしていくことにしよう。

 それは領土ゲームだ。実は社会というシステムはこの領土ゲームの中にあるようなものなのだ。某ピラミッドシステムに関しても、某「イス取りゲーム」 に関しても、それらはこの領土ゲームの理解をした上で、何を選ぶ事が"自分"を最大限生かすための人生戦略となるのかが見えてくる。むしろこの世界のどこにでも存在している領土ゲームについて理解できない者は、そもそも人生を生きる上で戦略など要さない。それは先ほど述べた「クリボー側」を選択しているのだから、戦略など必要ないのだ。だって、前方に向かってただただ進み、マリオに踏まれるのを待って、踏まれたときにあのお得意のリアクションと音を出せばよいのだから。もし、あなたが「マリオ側(主人公側)」を選択した場合にのみ、この領土ゲームの理解は非常に重要なゲームシステムになる。

 「歴史」を見れば分かる通り、人々は領土を奪い合ってきた。人間達が殺し合ってまでして領土を奪い合ってきた。人類の歴史とは領土の奪い合いの歴史の要素が強い。昨今では昔ほど戦争までして領土を奪い合ってはいないが、それでもこの世界から戦争がなくなってはいない。

 そして、その領土ゲームは今も形を変えて存在している。それはどこぞの国とどこぞの国の冷戦がどうこうといった話ではない。我々人間個人間にこの領土ゲームの招待状が届いているということを意味している。もちろんクリボーちゃん達には届いていない可能性もあるが。もちろん、今現在あなたがクリボーちゃんであったとしても、マリオ側にやってくることも可能で、その際はやはりいかにこの領土ゲームを攻略することができるかという事が常に要求されるのだ。

 大衆は領土ゲームではなく、別のゲーム「社会の敷いたレールにどれだけ乗れるかゲーム」の勝者になることに躍起になる、そしてその教えこそが日本国内では義務教育の内容になっている訳だが、実はグローバルに考えれば、"世界規模"で考えれば、世界的義務教育の内容は紛れもなくこの領土ゲームだと言える。それこそ、「社会の敷いたレールにどれだけ乗れるかゲーム」を頑張ったところで、時代が進んでどうなったかというと、リストラなどという新システムによって当時保証されていた約束は反故にされ、どれだけのオッサン達が自ら命を絶ったことか。。。昨今では一流企業に入ったものの辛すぎてこれまた自ら命を絶つという事がニュースになったりする。「社会の敷いたレールにどれだけ乗れるゲーム」のバカバカしさであれば、いくらでも話すことが出来るが、とにかくハイリスクローリターンの馬鹿げたシステムだとしか言えないが、その古臭くて戦後、数十年間程度流行った遊びに"大人"たちは、まだ我々を付き合わせようとする。その遊びが本当に魅力的で普遍的で得るものも大きい遊びであれば、それに興じる事も悪くないかもしれない。だが、それは掘りつくした金山において、ひたすら劣悪な環境の中、金を探させるようなもので、もちろんそういったストイックな遊びをしたい者は、ダチョウ倶楽部以上の勢いで「どうぞ、どうぞ」と言いたいぐらいだが、やっぱりその遊びに興じるのは馬鹿らしいとしか言えない。だけど、"大人"たちはひたすらその遊びを勧めてくる。それは、トランプのババ抜きにおいて、それがJokerであるとばかりに「これを抜きなさい」と1枚飛び出させて半ば強制的にババをひかせるようなものと同じだ。まったくもってこの世界というよりも、この社会、教育それらの人工的なシステムの脅威は歯止めが効かない状態になっている。普通だったら「社会のレール遊びはもはや古臭いので、領土ゲームをみんなでやろう。」と提案すべきなのに、未だに「社会のレール遊び」を推進してくる。その理由は非常に分かりやすい理由になっている。「大衆をコントロールしやすいから」という一点に尽きる。この世界の"設計者"以上に社会の設計者も我々ひとりの市民の人生がどうなろうと知ったことではないのだ。大事な事は、「どれだけ効率よくコントロールして、社会の養分になってもらうか。」というここにフォーカスしているのだから。

 では、領土ゲームとは一体何なのか?そんなに魅力的な遊びなのか?大げさな話ではなくこの領土ゲームは非常に魅力的だ。今現在、あなたがどのピラミッドシステムの中に組み込まれていようが、参加している(もしくは、させられている)イス取りゲームの中のどのイスに座っていようが、それらにおいても大逆転を起こすことが可能だからだ。それこそ、「社会のレールゲーム」では重要となる学歴だのなんだのもそれほど重要な要素ではなくなるのだ。もちろんそれらを使ってゲームを進めることも可能だが、別にそんなもの持っていなくてもどうにでもなるのが、この領土ゲームだ。

 実際、この世界、この社会、すべて「領土ゲームの観点」で見てもらいたい。そうすればあなたは自分自身の人生の勝者になるどころか、この世界、この社会における勝者に成り得る可能性すらある。「社会のレールゲーム」ではそんな夢のような話に巡り合える可能性は0ではないが極めて0に近い。むしろそのような夢のような話に巡り合う人間は、「社会のレールゲーム」の中で、領土ゲームを制している可能性が高い。兎にも角にもこの世界を領土ゲームとして遊ぶこと。安月給を切り詰めてコツコツ貯金などするよりも、領土ゲームに参加して、パラメータを上げていく方がよっぽど資産を構築することが出来る。人間として今の時代に生まれてきたのであれば、この領土ゲームに参加しない手はない。むしろ参加しないのであれば、この時代に生まれてきた事自体がとっても不幸な事なのかもしれない。それこそ、五十年、六十年前に生まれてくるべきだった。そのくらいだったらまだ「社会のレール遊び」がブームだったし、途中で泡だらけ祭りも開催されたことだし。今の時代は個人で領土ゲームが楽しめる時代であり、個人で領土ゲームに参加して、領土ゲームの勝者になる事がマリオ的主人公人生を楽しむ秘訣でもある。

 では、次の項で領土ゲームとは一体何なのか?どうすれば領土ゲームに参加することができるのかを説明する事にしよう。