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原澤出版の執筆用ブログ

7:なぜ、今の時代「社会のレールゲーム」よりも「領土ゲーム」なのか。

7:なぜ、今の時代「社会のレールゲーム」よりも「領土ゲーム」なのか。

 

 その魅力的なゲーム、領土ゲームだが、たしかに人間の歴史を大きく見た時にたしかに人々は領土を奪い合って、その領土を統治する者達になんらかの恩恵が与えられている事については想像する事が容易だと思うが、これが「なぜ、我々一般市民にとっても領土ゲームなのだ?いったい誰からどの領土を奪うというのか?」と想像し難くなってくる。そして、社会の教育の内容は「いかに領土を統治するか」などという事は一切教えない。むしろ今の時代、領土が動向などという問題は考えもしない。それこそ彼ら"大人"達からすれば、領土がどうこうについて学んだり、考えたりする方が何かを得たいとしても得難い内容だと反論してくるかもしれない。

 それこそ、領土の上に乗っかっている社会の上に敷かれたレールに上手に乗る事。これが彼らの提示するコスパの高い人生を生きる戦略なのだ。そして、これらを日本国民全員に平等に提供するシステムが、「義務教育」なのだ。もちろん領土ゲームに参加しない人間にとっては、この領土ゲームに参加したくてもできない人間にとっては、この「義務教育」が誰にでも平等に提供されることは素晴らしい事なのかもしれない。だけど、それは非情にまで残酷な事でもある事を忘れてはいけない。

 たしかに「社会に敷かれたレールに上手に乗ろうゲーム」は、楽と言えば楽だ。何も考えずに、乗っていれば進むし、途中で決まった駅は出てくるし、終点も用意されている。だけど、ただそれだけだ。それ以上は何もない。そしてこの章のどこかで出てきた「自分探し」アラートシステムが発動して、中途半端な年齢で、この「社会のレールゲーム」から急にExitしたくなったりするから大変だったりする。

 もちろん、その流れは必要で、母親の胎内にいた胎児が、生まれてこの世界に出てくるその流れも「ある一定の時間が来たら「母親の胎内という世界」をExitして、この世界に出てくるそれと原理は同じなのかもしれない。歯が入れ替わるのもそうかもしれないし、細胞が入れ替わるのもそうなのかもしれない。だからあの「自分探し」アラートシステムが人間には備わっているのかもしれない。

 だけど、気づく気づかないにかかわらず、私はなるべく早い段階でこの領土ゲームに参加する事をおススメしたい。早いにこしたことはないからだ。早くしなければ、例のMATRIXシステムに洗脳されて、気づかぬうちに社会の傀儡として自分自身でコントロールする事が難しくなってしまう。そうなってしまえば、今回のあなたの人生はもうそういう事で。という事になる。何度もここは言い続けるが、歳を取ってからそこを抜け出して、自分の人生のコントローラーを握って、自分を自分の人生という物語の主人公と作者になる事は非常に難しい。世界の仕組みからしても、人間の仕組みからしても、それは非常に難しい事なのだ。

 だから、もしも私がこの社会を動かす者であれば、義務教育の中身を創ることができる者であれば、今の時代であれば領土ゲームの教育を導入する。いかに領土ゲームを攻略するかによって、個人も幸せになれるし、この世界もバージョンアップする可能性が高まる。そして、自分の人生のコントローラーを自分で握り続けることも出来る。

 もちろん、良い事ばかりではない。領土ゲームとは言ってみれば、「自分の身は自分で守れ」という性質のゲームなので、「社会のレールゲーム」のような飼い主が飼い犬を守ってくれる関係性に含まれるようなそういった保証はない。もちろん「社会のレールゲーム」の一番のメリットはそこにある。そしてそのメリットが時代が進むにつれて悪化している事実があるというだけだ。そして飼い主と飼い犬の関係を自然に作る大義名分としては最高のゲームシステムだったのかもしれない。そして、戦後の焼け野原から、短期間で経済大国へと駆け上がる為には、必要な国家の教育戦略だったのかもしれない。

 だけど、今日本は焼け野原ではない。むしろモノ余りの時代とも言われている現代において、それこそ裕福な国のように見える国へと変貌した。治安も良いし、食べ物も美味い。歴史が進む中、今の時代に「社会のレールゲーム」つまり「飼い主と飼い犬ごっこで豊かになろうキャンペーン」はそれほど魅力的でもなければ、むしろ大衆の足かせにしかなっていない可能性の方が高い。もちろん、このお国復興システムによって、甘い汁をすすり続けた連中たちは、「はいそうですか」とばかりに、このゲームシステムを手放したり、断捨離したりすることはない。むしろ最後の悪あがきとばかりに、手を変え品を変えで、大衆達にこのシステムが末期的、もはやオワコン的である事をひたすら隠し続ける。

 こういうケースは、これまでの歴史の中でも簡単に考えてみても、それなりに浮かぶ。ということは、こういうケースは世界的にもよくある事なのだろう。日本史だけで見ても、元寇の時の幕府と武士の関係がそうだ。日本の武士たちはそれこそ頑張った。神風という言葉が誕生したように、それこそ奇跡的にモンゴルの襲来を跳ね返した。あの時、もしも日本が負けていたらこの国は一体どうなっていたのだろうか。だけど、そんなに頑張っても武士たちに満足のいくような恩賞は与えられなかった。なぜならば日本の外側の敵が領土を奪いに来て、それを守ったにすぎないからだ。与えたくても与えられない。このような事は、戦国時代にもあった。朝鮮出兵だ。日本国内の戦国の世が終わろうとしていて奪う領土が自国にない。どうしたかというと、日本の外側に目を向けたのだ。

 つまり、「飼い主と飼い犬の関係」においては、このような問題がずっとつきまとう。犬に与えるエサがきびしくなる問題。これが露呈してくる。実は、この問題が起こる原因も領土ゲームがその原因であったりする。それが過去の時代における領土ゲームであり、領土ゲームとしてのリスキーな部分でもあったし、領土ゲームの限界であるようにも見えた。しかし、この領土ゲームは時代を経てとんでもない変革が起きたのだ。決して鎧をまとい、刀を振り回していた時代のようにいちいち人の庭に土足で踏み込んで命を奪って領土を奪うという野蛮な事を要さずして、この領土ゲームは至る場においても行われる時代がやってきたのだ。観方によっては、戦国時代以上に今の時代は戦国時代だと言えるのかもしれない。そう言えてしまうぐらい、今の時代はどこもかしこも領土ゲームが行われている。それだけ領土ゲームへの参加が非常に簡単な時代になったと言えるだろう。

 それこそ、数十年前は違った。領土ゲームに参加できる者は限られていた。だが、今は違う。数十年前はどう頑張っても飼い犬にしかなれなかった者でも、領土ゲームに参加できる。それこそ、今この瞬間から参加することが可能なぐらい世の中が変わってしまった。ある意味、良い時代になったとも言えるのだ。もちろん昔の時代では飼い主になる事を限定しある種特権としてその権利を与えられていた飼い主側にとってみれば、迷惑な話かもしれないが。

 日本は明治維新によって士農工商といった階級制度は廃止された。人々は自由になれたと思ったかもしれない。だが、それではまだ本当の自由と平等を手に入れたことにはなっていなかったのだ。結局、「飼う側」と「飼われる側」は決まっていたのだから。だけど、今の時代は違う。誰にも飼われることなく、領土ゲームの主人公として、君主として旗揚げをすることができるのだ。とんでもない時代と言えばとんでもない時代になった。

 そして、この時代の子ども達は「優秀な飼い犬」になどなることよりも、「優秀な君主」になることを要求される。彼ら彼女らが、成人した時はもっと「社会のレールゲーム」と「領土ゲームという名のサバイバルゲーム」のパワーバランスは今以上に反比例している事だろう。もちろん領土ゲームのできない人間は、社会的にも「負け組」として生きるほか選択肢がなくなるということだ。

 よく、学校の社会科の授業の時に、大家族というか多世代家族と核家族のお話が出たのを覚えているだろうか。まさにあれと同じで、社会は個人化の時代に進んでいく。これが社会という歴史のベクトルの1つだ。もちろんこれは後の章で述べるが、「弁証法的進化」というこれは言ってみれば社会のシステムではなく、「世界(人間以外の設計者的存在の創った)のシステム」として組み込まれている可能性が高いので、ひたすら個人の時代に進むことはなく、どこかで反動をし、またどこかで反動をしていく中で時代も社会もこの世界もどこかに向かって進んでいく訳だが、(その軌道がDNAのあの二重らせんはしごに似ているように私には見えるのだが)少なくとも今の時代の小学生、もしかしたら幼稚園児すら所持しているかもしれないあの携帯電話同様に、個人で領土ゲームを攻略することを要求されている時代が来ているのかもしれない。個人的にはすでに来ていると感じるのだが、国家や社会といったいわゆる"大人"たちが、それを認めるかどうかは別だ。

 もちろんこの考えにおいても、無理強いしてしまえば"大人"たちが我々にあの操り紐を括りつけたやり方と同じになってしまうので、参考程度という事での説明になるが、できれば各人で世の中をよく観察してもらいたいし、歴史をそれこそ教科書通り、"先生"の教え通りの観方ではなくて、それらを斜めに見ることによって、領土の歴史と人間の権利の歴史の両方が見えてくることだろう。そうすれば、国や社会といった"大人"たちが、子ども達に何をしてきたかが分かるだろうし、その"大人"たちの言っていることに大人しく耳を傾けることが安全であるかどうかも自分自身で判断することが出来るのではないだろうか。

 なんといっても、大事な事は"自分でこの世界を見て、自分で選択しを作り出し、自分で決断して進んでいく"。この生き方以外に正解などなく、結果などは二の次なのだ。結果の中に「生きているか死んでいるか」は存在しない。「自分で選んだか選んでいないか」の中に「生きているか生きていないか」が存在する。これは歴史の流れからして、大きく人々に平等に与えられた権利であり、生命の本質だと私は感じている。