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10:どの"先生"を選ぶか?世界を見て相似形「フラクタル」というコンテクスト

10:どの"先生"を選ぶか?世界を見て相似形「フラクタル」というコンテクスト

 

 この章の最後に、この世界で遊ぶ上でのおススメコンテクストを紹介しておきたい。それは「フラクタル」という概念だが、「フラクタル」とか言っちゃってるだけで小難しい感じがするが、日本語で言えば「相似形」というものだ。なぜ、このフラクタルというコンテクストを常に意識して生きることが、"自分"を最大限生かすための人生戦略といえるのかというと、その理由はこの世界のいたるところにフラクタルな要素が組み込まれているからだ。

 実はこの世界は時代が進むにつれて複雑なように見えているが、それもひとつの"大人"たちの罠であって、昔であっても今であってもこの世界の複雑さは変わらない。むしろこの世界は非常にシンプルに出来ている。パターン的にもそんなに多様ではない。言ってみれば、かつて子ども番組「ひらけポンキッキ」の歌にあったような、「まーるさんかくしかーくー」ぐらいのパターンしかない。まる(円)・三角・四角の3パターンぐらいで、あとはこれらを足してるだけだ。その足し方のバリエーションが、この世界の構造を複雑に見せてたり、思わせたりするのかもしれないが、物凄い冷めた世界でこの世界を見てみると、パターンというのは非常に少なくてシンプルだ。

 それは音楽でたとえても同じなのではないだろうか。どう頑張ったところで過去に類を見ないようなパターンの音楽を作る事など今の時代において無理なのではないだろうか。形を足してみたり、スピード速くしてみたり、演奏の仕方を工夫してみたり。一見斬新に聴こえるその曲も、冷静に聴いてみれば過去に合ったとある曲に似ていることに気づくことが出来るだろう。

 これはこの章で取り上げた「歴史」のパターンでも同じことが言える。文化や時代が違うだけで、だいたいの流れはフラクタルな形になっている。「間違い探し」の逆バージョン。「こことここが似ているゲーム」みたいなものだ。

 実は、先人たちはこのフラクタル遊びをよくしていた。その証明となるのがことわざである。ことわざそのものの出来事が実際に起こる事はほぼない。犬が散歩して棒に当たっている光景をあなたは観たことがあるだろうか?おそらくないと思う。少なくとも私はない。豚に真珠をあげている人も見たことがないし、石の上に三年座っている人も見たこともないし、棚を開けたらぼたもちが出てきたこともない。そのくらいならもしかしたら出てきた人もいるかもしれないが。だけど、ことわざのそれらは非常に生きていてありがちな現象を上手に表現してくれている。あれもひとつのフラクタル遊びだ。

 このフラクタル遊びというのはただの遊びではない。世界をぼんやり見て「これとこれって似ている」という事に気づくこと。このフラクタルに気づく力こそ、この世界というゲームの中における裏技や裏ステージを見つけるコツであり、秘訣であったりするのだ。実際人間の歴史というのは、このフラクタル遊びによって、見つけられた裏技・裏ステージをこの世界というゲームの中でバージョンアップさせてきた歴史なのかもしれない。個人的にはこのフラクタル遊びの達人たちが見つけた、これまで見つからなかった裏ルール、裏システムによってこの世界がバージョンアップしてきたのだと考えていて、そのフラクタル遊びの達人集団が「ユダヤ人」だったのではないだろうかと予想する。

 そして、このフラクタル遊びは、この世界という「自分の外側」だけに適用されている訳ではない。「自分の内側」にももちろん適用されている。世界の構造と人間の構造は同じと考えてよいだろう。正解であるかは確認できないが、この世界も人間も"設計者"は同じ者が設計したと考えて間違いはないと思う。もちろん、正しいか間違っているかは"設計者"がラッパでも吹きながら、我々の目の前に現れてくれない限りは決着がつくことはない。

 この項のタイトルは、10:どの"先生"を選ぶか?世界を見て相似形「フラクタル」というコンテクストとしたが、これは何を意味するかといえば、自分にとっての人生の"先生"を誰にするのか?という問いのこと。言い方を変えて質問すれば、

 

あなたにとっての"先生"とはいったい誰なのか?

 

 ということだ。その"先生"とは人なのか?それとも宇宙なのか?誰を師と仰ぎ、この世界を遊ぶのか。その選択の差によって、人生の質も大分差が付くことだろう。本質的な事を考えれば、人としての"先生"など不要であって、それこそ老害になる可能性しか秘めていないと言っても過言ではない。いつの時代であっても"とてつもなく優秀な先生"は、それこそ国が義務教育などという制度を作らなくても、この世界の設計者は無償でその"とてつもなく優秀な先生"を1人1人にそれこそ十分なまでに派遣してくれている。それがこの世界そのものであり、フラクタル遊びなのだ。そういった意味で、人としての自称"先生"がどれだけ我々の人生にとって有益な存在になれるのだろうかと考えると、有益な存在になれる可能性としては「微笑ましく見守る」か、「自分自身がなりふり構わずフラクタル遊びに興じる背中を見せ続ける」ことぐらいしか、子ども達であったり生徒たちに有益な存在になれる可能性は、本質的にはない気がする。もちろん社会という"大人"たちが作ったローカルルールの中であれば、いくらでも"先生"たちは有益な存在になる事は可能だろう。だけど、それらのすべては"設計者"から見れば、滑稽者ぐらいにしか見られないのかもしれない。まさにそれは失笑の的程度の酒のつまみ以下の存在として、つまはじきにされるようなどーでもいい存在にしか見られない事だろう。

 人としてのよき"先生"とは生徒たちと共に遊び、共に学ぶぐらいしか答えが見つからない。なぜならば、この世界から見たら、人としての見てくれとして大人であろうが、子どもであろうが、そんな見てくれは大差なく。この世界という庭ではしゃいでいる子ども達にしか見えてないことだろう。それをいちいち"大人"ぶってみたり、"先生"ぶってみたりするというのは、いかにも臭い台詞を吐く、モテない男がカッコツケてサブい空気を辺り一面に吐き散らすあの場面と大差ないという事なんじゃないだろうか。まさしくその両者がフラクタルになっているのかもしれないが。

 もしも、この世界上にいる人間達が争うことなく、平和に暮らすのであれば、この世界を借りて、「みんなで遊んでいる」という感覚を共有できた時なのではないだろうか。しかし、人は人の上に人を作りたがるし、人の下に人を作りたがる。このピラミッド好きの習性は、果たして"設計者"の主旨の中にあるのだろうか、それとも外側にあるのだろうか。個人的には、ピラミッドシステムの支配から逃れることは可能だと考えている。自分でよい国家を築きあげ、よい領土の統治をすれば、それは可能であると考えている。自分自身が築く世界であれば、自分の外側がいかに間違った世界を作ったとしても、そこに影響されず、この世界を"先生"としてそれこそ本質的な部分ではフラクタルな国家を築くことが可能なのではないだろうか。今の時代、誰もが領土ゲームに参加できる自由さを与えられているという事は、この世界と社会(人間達が勘違いして作ったミニチュア世界)のかい離を埋めることが、誰でも出来る、誰でもチャレンジして良い時代が到来していることを意味しているのだ。

 本来、義務教育で"先生"が子ども達に伝える事は、領土ゲームフラクタル遊びの2つぐらいで事足りている気がする。それらの上に、国語算数理化社会が乗っかっていればよくて、学校の授業は常に遊びであれば良くて、「勉強」などという世界観をいちいち作り上げる必要性を感じない。「学校」などという世界観を作る必要もなく、むしろ「遊び場」という名前でもよいぐらいだ。子ども達は人生というこの世界での遊び方を実践を伴って学ぶぐらいで良いし、それ以上の事をすれば、蛇に足を描いたり、ドラえもんに耳や尻尾を描き加えているのと同じことだ。

 教育指導要領などというものを、人が作る必要はない。それこそ犬が歩いて棒に当たる確率よりも何万倍、何億倍も高い確率で、我々がこの世界を学ぶ教科書にしても、先生にしても、授業内容にしてもそこら中に存在しているのだから。もはや"設計者"は人間達がこの世界で学ぶだけの要領などはじめから確立しているのだ。

 フラクタルというモノの観方をしてこの世界を生きてみると、不思議な事に、これまでと同じものを見ても入ってくるものが全く違う。もしも、あなたのこれまでの人生がとてつもなくおもしろくなかったものであるとしたら、そこに「フラクタル遊び」がなかっただけなのかもしれない。