harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

1:まず、世界が2つあることを知ろう

1:まず、世界が2つあることを知ろう

 

 この本のタイトルは、"自分"を最大限生かすための人生戦略という名前なのだが、有名な兵法家である孫子の有名な言葉「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」というものがあるが、この世界の仕組みも同様に「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」と同じ構造になっている。しかし、人生においての敵は"自分の外側の世界"であり、己とは"自分の内側の世界"である。この両者を熟知していればこの人間としての生を自由自在に遊びつくすことは可能だ。

 だけど、前章でも散々述べてきたが、我々人間は任天堂とマリオの関係と同じで、この世界の"設計者"と同等の立場になれることはない。まず、人間というこの存在である以上は絶対といって良い程ない。なので、結局は「いかに楽しくこの世界で遊ぶか」という事と、「いかに自分自身を自分自身でコントロールして楽しく生きるか」というぐらいしか、重要な要素はない。この部分においても別にそれらが正しいという訳でもない。よくコンピューターゲームに「オートプレイ」モードのようなものが組み込まれているゲームがあるが、パフォーマンスは落ちても、そのモードで適当に寿命が尽きるまであまり何も考えずに、生きていたとしてもそれはそれで問題はない。ただ、やっぱりその生き方は面白くないし、ある意味"設計者"が仕組んだ機能からいうと、「その生き方は間違っている」と言える節もある。

 「この世界に正解も不正解もない」と思わず言いたくなってしまうが、実は正解はあるのかもしれない。もちろん正解であるかは確かめられない。だけど、「世界も人間もこう設計された事実はある」ぐらいの事は言えるだろうし、事実自体の確認はできる。

 例えば、太陽が東から昇って西に沈むという事実はねじまがらない。いつか捻じ曲がる日が来る可能性は0ではないが、今のところ太陽は東から昇って西に沈み続けている。これは何を意味しているかというと、我々が住んでいるこの地球という星は、必ず同じ方向に回転している事を意味する。「どっちでもよい」のであれば、地球は右回転してみたり、時には気分を変えて左回転したりしてみても良いはずなのだが、地球はずっと同じ方向に回転しているし、太陽系の星たちもずっと同じ方向に向かって進んでいる。

 それらが「設計者の意図」であれば、正しいかどうかは分からないが、「どっちに進むことが"設計者"の意図に沿っているか」「どう生きることが"設計者"の意図に沿っているか」ぐらいは見えてくるはずだ。もちろん"設計者"は、流れるプールの流れに逆らって流れの逆に進む遊びのような選択肢もOKだという気がするので、必ずしも、それら宇宙原理の方向に沿う事が正しいとは言えないが、やはり波に乗るか、波に逆らうかという事で、起こる結果は違ってくる。

 前章の最後の項で「フラクタル」の話をしたが、最大のフラクタル遊びとは、

 

自分の外側の世界と自分の内側の世界のフラクタル遊び

 

 だと、私は考えていて、全てのNAZOを解くヒントはここに集約されている気がする。この世界とは何なのか?人間とは何なのか?生命とは何なのか?その問いの答えは、この「自分の外側の世界」と「自分の内側の世界」のフラクタル構造を解明すれば、ほとんどの事は解明する事だろう。そういう意味合いにおいて、今回は

 

1:敵:自分の外側の世界

を知り、

2:己:自分の内側の世界

を知れば、

3:百戦:どのような時代に生まれてこようが

しても

4:危うからず:思う存分楽しむことが出来る

 

 という具合で、1章では「敵を知る」について。この2章については「己を知る」について、そして最後の3章では「百戦しても危うからず」つまり"自分"を最大限生かすための具体的な人生戦略について述べていく事にする。

 そして、この部分についてはこの章で述べていくが、「敵」を知るのと、「己」を知る事の難易度で言えば、比較にならないぐらい「己を知る」ことの方が難しい。これこそ滑稽というか皮肉な仕組みがそこにある。"設計者"がこの部分を意図的にこういうつくりにしたのだとすれば、相当意地の悪い奴だと想像できる。なぜならば、自分の事を自分が一番理解できないようにしているというのは、なんとも奇妙であるからだ。普通だったら他人の事だったり、自分の外側の事はよく分かりませんが、自分の事だったらなんでも分かりますよ。だって自分自身なんだもの。みつを。みたいになるはずなのだが、残念ながら「自分の事を自分自身がよく分からない」構造になっている。

 この事は簡単に説明できる。まず「目」ひとつとってもそれが言えるし、「耳」にしても「鼻」にしても同様の事が言える。これらは何のために存在するのか?自分の外側の世界を見たり聞いたり嗅いだりする器官なのだ。そして、残念なことにこれらの器官は自分の内側の世界を見たり聞いたり嗅いだりしてくれないのだ。

 では、自分の内側の世界を見る「目」はどこにあるのか?自分の内側の世界を聞く「耳」はどこにあるのか?非常に難しい話になってくる。言ってしまえば"感じる"という話になってしまい、それは人間の世界で言えば宗教観的な話になってくる。そうすると、もはやそれらは形がないので、どれが本当の「自分の内側の世界」で、どれが自分が都合よく作った妄想の世界なのかの見分けが非常につきづらい。

 これを見分ける方法がある。それが「自分の外側の世界との照らし合わせ(フラクタル遊び)」なのだ。これはひとつの仮説の域を超えることが出来ないが、自分の外側と内側の世界はリンクしているという仮説を立てて生きてみると、いろいろなものが見えてくる。ここは答えの出ない議題になるかもしれないが、

 

"設計者"は、自分の内側と外側の世界がリンクしているように創ったか?否か?

 

 というこの問いに対して、各人で考えてもらいたい部分ではあるが、私個人としては自分の内側と外側の世界はリンクしていると考えて間違いない気がしている。もちろん「気がしている」だけであって正解かどうかは分からないし、逆の事を言っている人がいたとしてもそれは正解かどうかは分からない。これは楽観論かもしれないが、そもそも"設計者"がその「自分の内側と外側の世界の関連性」をめちゃくちゃなものにしているとしたら、ちょっとどころではないぐらい意地が悪すぎるし、面倒くさい気がしてならない。"設計者"は何らかのテンプレートにあてはめて、この世界を創ったと考えた方が無難だと私は考えている。

 実際に、先ほど述べたように星の軌道や回転する方向も規則的だという事実があるので、やはりこの世界はとりあえず何らかの規則性があり、その規則性には忠実な可能性が極めて高いと考えても、この世界の理解は、それほど間違った方向には進んでいないと予想している。

 そう考えた時、人間の構造と地球の構造がそれほど関連というか互換性がないとは考えられない。例えばいまいち予測不能の地震だが、人体においても地震のような現象が起こったりして、その原因については地球にしても人間にしても同じとまでは言わなくても、それはフラクタルな関係である可能性が高い。

 この世界の歴史についても同じで、歴史の流れと人体のなんらかの流れというのはやはりフラクタルな関係の何かを発見することが出来るはずだ。少なくとも、人間が創り上げる歴史は、人間の人体の構造や作用に影響されて当然だと考える。一見複雑そうに見えたとして、それらの人工物は、歴史においても文化においても物理的な作品においても、人間の構造であったり仕組みであったり作用であったりの支配から逃れることは非常に困難だと考える。

 そもそもこの「人間の構造という支配」が外の世界に出た現象として「"大人"たちの洗脳教育」という社会構造が創り出されている気がしてならない。これこそが、「自分の内側の世界」が、「自分の外側の世界」に具現化されている現象なのではないだろうかと推測する。時代の変遷とともに、社会現象が具現化するがあれらのひとつひとつも人体の中で起こっている何らかの現象が自分の外側に起こっているだけなのだろう。

 もし、この仮説が正しいとすれば、自分の外側に起こる問題において解決できない問題など1つもないと言えるだろうし、生きている以上悩みや問題が尽きない人間特有の問題も自分の内側と外側の世界リンク説で考えてみれば、それほど不思議な事ではなく、何かを食べたら何かを排泄するのと同じで、生きていればずっと続くひとつの生理現象とまったく同じなのだろう。

 ただ、"大人"たち自体もこの相互関係について理解できていないのだろうが、自分の内側の世界と外側の世界の関連など考える事もなく、「内は内、外は外」というよく子どもが親に何かを強請った時に、親がしがちなアンサーとまったく同じ考え方で、この社会上ではそういった教育が行われているので、多くの人間達は自分の内側の世界にも外側の世界にもトラブルを抱え、長年苦しむ者が後を絶たない。もっと言ってしまえば、そのトラブルを原因にして、生命活動を終える者も多い。

 そもそも人間の人体に何かトラブルが起きた時、今の時代においては医学の力に頼る者が多いとは思うが、基本的に、とくに西洋医学は、その症状(結果)にフォーカスしてその症状だけをなんとかしようとしているだけなので、根本的な問題解決にはならない事が多い。もしも自分の内側と外側の世界がリンクしているのであれば、物理的な世界を無理やり何とかしたところで、自分の内側の世界は特に解決していないのだから、その人間の世界そのものが改善しているかどうかと言えば話は別だ。

 日本は間違いなく医療費がかさんでいる問題が国家の問題にもなっているが、この問題はおそらく日本国内だけでなく、他の国々にも同じことが言えるだろう。そのため、無病であることにこしたことはないが、無病であるためには自分の内側と外側の世界のフラクタルな関係を自分なりに学び、自分の外側の世界をいじった時に、自分の内側の世界はどう変化するのかを観察し、またその反対に、自分の内側の世界をいじった時に、自分の外側の世界にその影響がどう及ぼされて変化したのかを観察することがとても大事な営みになってくる。私自身は、その「自分の内側と外側の世界のフラクタル遊び」に努めて学ぶことこそ、"設計者"が我々に課した本当の学びの活動であると予想している。もしも、この世界に、人間の生命活動になんらかの正解が用意されているのであるとしたら、それはこの「自分の内側と外側の世界のフラクタル遊び」を極めて極めて極めた先にしか存在しないだろうと予想する。

 そういった意味では、人間はこの世界のNAZOを今現在においてもほとんど解いていない気がする。せいぜい人間達が創った社会で裕福に生きる人生戦略を知っているか知っていないか程度なのではないだろうか。"設計者"が創ったクエストは、まだその先に用意されている気がする。もちろん「気がする」だけで何の根拠もない。ただ、そう思わせてくれる節はある。