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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

2:再考:任天堂とマリオの関係から知る「自分の成分」について

2:再考:任天堂とマリオの関係から知る「自分の成分」について

 

 しつこくなるが、あくまでもたとえ話として説明しているのでそっくりそのままそうなっているという訳ではなく、あくまでもフラクタル(相似形)として、この話を理解してもらいたい。再び「任天堂とマリオの関係」を用いて「自分の成分」について考えてみたい。

 1章でもこの内容には触れてきたが、まず宇宙にしても地球にしても、そして我々人間の設計図にしても、それらはメイドイン人間ではない。人間以外の"なにものか"が人間の設計をし、地球や宇宙も設計した。そうすると、我々人間はどこにいるのか分からない"設計者"に作られた「この世界」というゲームの中のキャラクターなのだという事が言える。ここについては、1章で触れたのでこれ以上の言及はしないが、今回考えてもらいたいのは「マリオはマリオなのか?」という問題を一緒に考えてもらいたい。

 例えば、私が小学生の頃、スーパーマリオブラザーズを楽しもうとしたら、テレビをつけ、チャンネルは2Chにして、あの山吹色のカセットをファミコンのカートリッジの部分に差し込み、(もちろん、挿す前に接合部分には息を吹きかけ)スイッチをONにすると、あのスーパーマリオのオープニング画面が登場する。そしてスタートボタンを押せば、世界的にも有名なあのBGMが流れ出して、私はマリオになってスーパーマリオの世界で冒険することが出来た。

 だけど、ここで考えてもらいたいのは「本当にあのマリオはあのマリオなのか?」という問いだ。もちろんクリボーにしてもブロックにしても同じだ。よく禅のお話の中にも「美人もブスも皮一枚引っぺがして骨にして見てみたら、美人もブスも大差ない」というような話がある。それと同じで我々が見ているそのスーパーマリオの画面というのは、"皮の部分"に他ならない。何が言いたいのかというと、それらビジュアル的なマリオであり、クリボーというのは皮を引っぺがしてみれば、任天堂プログラマーたちが打ち込んだプログラムコードでできているということだ。そしてそのプログラムコードもさらに引っぺがせば、ただの0と1の羅列と言えるのかもしれない。

 「まあ、そりゃそうだろうね。」とあなたは何も気づかずにここを通り過ぎてしまうかもしれないが、もちろんお気づきの方も多い事だろう。それは、「あっ、我々人間も。。。」というそこの部分だ。もしもこの世界、そして人間が、任天堂とマリオの関係と同じかそれに似たような関係であれば、この世界もそして我々人間というキャラクターも、任天堂プログラマーたちが打ち込んだようなプログラムの羅列で作られている可能性があるという仮説が立つ。数字の羅列であるかどうかは別として、ビジュアル的な我々人間であったり、この世界は、スーパーマリオと同様に、皮一枚引っぺがしたなんらかのプログラムコードのようなもので作られているだけなのかもしれない。

 もちろん、マリオは自分自身の事をまさか数字の羅列で自分が出来ていて、まさか自分の自由度が、数字の羅列により設定されているなどと疑いもしない事だろう。だけど、悲しいけど現実は数字の羅列で作られた世界、そして自分という存在も数字という羅列で作られているのが事実なのだ。だから、我々人間も「まさかそんなはずはないだろう」と自分たちではそう思っているし、そんな訳の分からない構造が事実だったとしても受け入れたくはないだろう。だけど、「この世界はフラクタル」という設計者がおそらくこの世界を創ったテンプレートから予想すると、我々人間もこの世界も、「任天堂とマリオの関係」と少なくともフラクタルな関係であることは、疑う余地がさほどない気がする。むしろ自分たち人間がこの世界を創った神さまのごとく、自分勝手な振る舞いをすればそれこそ、大きなしっぺ返しを受けるような気がしてならない。これは「気がしてならない」というよりも、これまでのこの世界の歴史を遡って見ていっても、その「大きなしっぺ返し」を幾度と受けている事実があると言って過言ではないだろう。

 では、マリオが「自分は0と1の羅列で作られているキャラクターなのだ。」と自覚した時、マリオには何が出来るのだろうか。どう頑張っても、マリオはカセットの外に出て任天堂プログラマーたちに、クレームをつけることはできない。もし、マリオのここをこうしろ、あれをああしろとクレームをつけることが出来るのは、我々ユーザーであって、マリオ本人ではない。なので、我々人間もこの世界の仕様がどうなっていようが、どうしようもなくその仕様の中で生きていくしかない。ただ、我々人間はある意味もう少しマリオよりも自由度が効く部分はある気はする。我々はマリオのように大きくなったり、手からファイアーボールを投げたりは出来ないのだけど、もう少し自由度は効いている気がするのと、まだまだ我々人間達がいまいち気づいていない様々な操作方法、裏技、裏アイテム、裏ステージはどこかに用意されている気がする。それこそ、人間の歴史が進んでもスマホのようなビックリアイテムが開発されたり、自動車が自動運転になるのもまだこれからだし、我々は宇宙空間をワープする夢の未確認飛行物体を想像する事は出来ても、創造することはまだできていない。

 そして、いつかはもしこの世界のどこかに"設計者"なる存在がいるのであれば、探してみて「なんでこんな世界創ったのよ?」と質問ぐらいはしてみたい。任天堂とマリオの関係で言えばそれは難しいが、もしかしたら研究者とモルモットの関係であれば、研究者を見つけ出すことは可能なのだが、どこを見上げても巨人の姿は見当たらないので、おそらくこの世界と我々人間は、残念ながら任天堂とマリオの関係なのだろうけど。

 であれば、"設計者"がこの世界を、そして我々人間を設計したというその事実から、この世界であれ人間の設計がどのようなテンプレートに当てはめて設計されたのかを探るしかない。それが前項で述べた「自分の内側と外側の世界のフラクタルな部分を見つけていく事」なのだ。"設計者"がこの世界と人間をどういう仕組みで設計したのか、その理解を"皮"のステージで理解するのか、"肉"のステージで理解するのか、"骨"のステージで理解するのか、それとももっと神髄の奥のステージの理解をするのか。「自分の内側と外側の世界のフラクタル遊び」というスーパーマリオブラザーズは、そういうステージ構成になっているのだ。

 スーパーマリオにたとえて考えれば、子どもであっても大人であってもずっと単調な1-1のステージであったりステージ1という初めのステージを繰り返し楽しめる猛者はなかなかいないことだろう。ただし、残念ながら人間というマリオは結構この世界というゲームの1-1を何十年も繰り返したり、ステージ1のクッパにも出会うことすら出来ず人生を終わらせてみたりしてしまう。むしろ社会という"大人"はこの世界というゲームがステージ1しかないかのように教育という名で洗脳してきたりもするし、酷い"大人"は、ステージ1どころかこの世界は1-1しか存在しないぐらいの事を非常にまじめな深刻な表情で壊れたテープレコーダーのごとくずーっと繰り返してご指導ご鞭撻してくださる。それが、自分の両親だったりするととてつもなくやっかいな話なのだが、ある意味それらも設定のようなものなのでゲームの「イージーモード」「ノーマルモード」「ハードモード」のような設定の違いなのかもしれない。それはそれでどう楽しむのかが問われているのかもしれない。

 1章で述べたようにこの世界が、何の意味も大してない任天堂の大人たちがこんなゲーム作ったらおもろそうぐらいの意図で創られたもので、そこにつくられたキャラクターたちが、我々人間だったとしても、まだ前人未到のステージは用意されている気がする。用意されていなかったとしてもキリストだったりブッダだったり孔子だったりが到達したステージまでは進めることが確認されている訳だから、せっかくこのゲームに参加しているのであれば先人たちが叩きだしたハイスコア、ハイステージまでは進んでみたいし、やっばり前人未到のステージに挑戦してみたいという欲が出てしまう。もちろん全歴史上の中で1-1のステージを徹底的に極めるという遊び方もこれまた乙なのかもしれないが。別の意味での乙にならないことを祈りたいけど、それはそれで、個人の趣向なのだろう。と言いたいところだが、"設計者"は1-1を極めよというメッセージはなく、「ステージを進めてさらに未知なるステージに進みたまえ。」というメッセージをこの世界に書き残した気がする。というか、これもまた自分の内側と外側の世界フラクタル遊びをしていると、その節を感じる瞬間に何度か出会ったりするので、"設計者"の意図的にはやっぱりラストステージやラスボス目指して冒険していく事が本筋なのだろうなと私は考える。