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原澤出版の執筆用ブログ

4:この世界はスタンフォード監獄実験風味になってしまうその理由

4:この世界はスタンフォード監獄実験風味になってしまうその理由

 

 何故、私はこの「人類総鉄仮面計画」にこだわるのか?それは「自分の内側の世界」の理解をしっかりしない限り、自分の世界の内側だとか外側だとかを考える必要もなく、我々人間はこの世界、そして人間達の創った社会における傀儡にしかならないからだ。実際その傀儡的人生というものは、首輪をつけられて、決まった時間にエサを与えられ、同じルートを散歩させられている犬猫の生とさほど変わらない。場合によっては、犬猫の方がまだ自由だったりもするし、そもそも犬猫というキャラは人間よりも自由度が少ない設定をされているのだろうから、それほど傀儡的な生き方をしたところで悲観視する必要もない。そして、傀儡的に生きるのであれば人間として生まれてくる必要がなかった気がしないでもない。それは犬猫にでも出来る事なのだから。

 もちろん人間という自由な設定を獲得しておきながら、自ら傀儡的に生きる選択肢もそれはそれで設計者を小ばかにしているようで面白いかもしれないが、やはりその反抗的な生き方は、自らの首を絞めているような生き方に過ぎないので、あまりおススメできない。社会に反抗して何もせずに不自由な生活を送っているようなものと同じだ。そして、社会の傀儡にならずに、もっと自由自在にこの世界を楽しむ方法をこの本では述べている。その為にまずは、その鉄仮面を引っぺがして自分の顔を獲得する必要がある。

 実は、すでにこの「人類総鉄仮面計画の恐怖」に関する実験をしているデータがある。その中でもっとも有名な実験がこのスタンフォード監獄実験という実験だ。さまざまなドラマや映画でもこの実験については取り上げられたり、モデルにされているので知っている者も少なくないかもしれないが、簡単に説明するとこんな感じになっている。

 

[スタンフォード監獄実験の概要]
アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験が行われた。
模型の刑務所(実験監獄)はスタンフォード大学地下実験室を改造したもので、実験期間は2週間の予定だった。
新聞広告などで集めた普通の大学生から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。
その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。

 [実験者]

囚人達には、よりリアルに演じてもらう為、牢獄という設定だけでなく、服装や食事、看守との対応までさまざまな設定と条件がつけられた。もちろん看守は看守としての役割にリアリティを持たせ、それっぽく演じてもらうよう指示。
[実験の経過]
次第に、看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始める。反抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、耐えかねた囚人役の一人は実験の中止を求めるが、実験者はリアリティを追求し「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま実験は継続された。
精神を錯乱させた囚人役が、1人実験から離脱。さらに、精神的に追い詰められたもう一人の囚人役を、看守役は独房に見立てた倉庫へうつし、他の囚人役にその囚人に対しての非難を強制し、まもなく離脱。
離脱した囚人役が、仲間を連れて襲撃するという情報が入り、一度地下1階の実験室から5階へ移動されるが、実験中の囚人役のただの願望だったと判明。また、実験中に常時着用していた女性用の衣服のせいかは不明だが、実験の日数が経過するにつれ日常行動が徐々に女性らしい行動へ変化した囚人も数人いたという。
[実験の中止]
実験者は、実際の監獄でカウンセリングをしている牧師に、監獄実験の囚人役を診てもらい、監獄実験と実際の監獄を比較させた。牧師は、監獄へいれられた囚人の初期症状と全く同じで、実験にしては出来すぎていると非難。
看守役は、囚人役にさらに屈辱感を与えるため、素手でトイレ掃除(実際にはトイレットペーパの切れ端だけ)や靴磨きをさせ、ついには禁止されていた暴力が開始された。
実験者は、それを止めるどころか実験のリアリティに飲まれ実験を続行するが、牧師がこの危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連れて中止を訴え協議の末、6日間で中止された。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したという。
[実験の結果]
1:権力への服従
強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。
2:非個人化
しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。

  スタンフォード監獄実験の内容には諸説あるが大まかな内容はこのような内容で、もう少し簡単にまとめてしまうと、

  1. スタート時点では別に学生たちは同様の立場であり
  2. 看守役と囚人役に分かれてから、人格(ペルソナ=鉄仮面)がその役柄を徹するように自然と作られていくという事実があるということ

 ここに注目していただきたい。そしてスタンフォード監獄実験と同様にこのような話になると挙がってくるのがアイヒマン実験(ミルグラム実験)だ。これらは、強い権威者の指示に従う心理状況の実験なのだが、これらの実験が非日常的な特別な環境下だからこそ起こっているレアケースだと思うのであれば、是非、この本をもう1度はじめから読み直して頂きたい。ここについてはしつこくなってしまうが、この世界はどこもかしこもフラクタル構造だと思って自分の内側の世界も外側の世界も意識的に見続けた方が良い。そうしないとすぐに傀儡の操り紐がどこからともなくそれこそエイリアンの伸ばす触手のようにそれらはあなたに括りつけられ、決めつけられた面白くもない職種に就かされる事になりかねない。それはスタンフォード監獄実験の囚人役のようでもあり、看守役の様でもある。あなたはもしも強制的にやらされなくてはいけないとしたらどちらの役を望むだろうか。

 そう質問されたときに「囚人」もしくは「看守」と答えなくてはいけないと思った時点でひとつの操り紐は括られてしまったのと同じで、「それ以外」という第3の選択肢は常に用意されている事を忘れてはいけない。そうやって選択肢はいつの間にか狭められ、人生の選択肢の非常に少ないその鉄仮面が自分の顔と同化してしまう事になってしまうのだから。

 さて、上記で紹介したこれらの実験は果たしてこの社会におけるレアケースなのだろうか?たしかに、あなたは囚人になったこともなければ看守という仕事をしたこともないかもしれない。もちろん実際にそれらを経験している人も実在するとは思うが、基本的にはそんなに多くはない。ご近所さんに囚人がまずいない。経験した人はいるかもしれないが、まずいない。看守のお仕事をしている人もそれほど見かけない。たしかに私にも知り合いに看守の仕事をしている人はいるが、1人ぐらいしか知らないし、近所には住んでいない。だが、フラクタルな見方をすれば、その「囚人と看守の関係」は家の外でも中でもどこにでも見つけることが出来る。

 たとえば、さきほど話に出した犬猫と飼い主の関係はどうであろうか。あれはまさに人間が看守のような役割をしているのではないだろうか。もちろん犬猫は囚人というか囚犬、囚猫ではないのかもしれないが、犬猫はよく首輪をつけられ散歩紐を括りつけられて散歩している。あの姿はまさに囚人のそれとフラクタルな関係にあるような気がしてならない。もしも人間が人間に首輪をつけて散歩紐でも括りつけられて街を歩いていたらまさに囚人と看守の関係そのもののように見えるのは私だけだろうか。

 「人間と動物の関係じゃないか。」と言われてしまうかもしれないので、人間と人間の関係においてもフラクタルな関係はいくらでも見つかる。赤ん坊と親の関係はどうだろうか。もちろん赤ん坊は囚人ではない。だけど、ベビーベッド的なものは見方によれば、監獄っぽいテイストを多少なりとも醸し出している気がしてならないし、赤ん坊だけでなくても子ども達にとっては、親という存在は看守と大差ない存在で、中には看守とまったく同じような事をしている親も見受けられる。

 そして、人間の発育段階で自我が形成されていく訳だが、ものごころがつくまで、人間はあくどい理由ではなかったとしてもある意味、囚人のそれと似たような生活を虐げられているかどうかは分からないが、性質上せざるを得ない。もちろん生まれてすぐにあなたは自由です。とそこらへんに放置でもされればよっぽど危険な目に逢う確率が高い事は間違いない。だからといって、赤ん坊から子ども、子どもから思春期、思春期から成人とすすんでいく過程において、彼ら彼女らは囚人のそれとフラクタルな人生を生きている可能性が高く、親であり教師であり"大人"たちは、彼ら彼女らにとっての看守的な役割を思わず演じてしまう環境がそこにあるという事実は拭えない。この事実からあれらの実験が、きわめて日常に起こりえないレアケース実験ではなく、むしろカブトムシを探す以上、否コンビニを探す以上に簡単に見つかってしまうきわめて日常性の高い凡庸且つ汎用なケースであるのだ。

 そういった意味合いで、我々人間は生まれた時から「役割」を演じることになる。これを繰り返すことによって「人格」が形成されていく。それがペルソナだ。ここで言っている「鉄仮面」のことだ。だけど、それは顔そのものではないのだ。あくまでも外部的な要因から作られた"仮面"に過ぎないのだ。言い方を変えれば自分ではなく"パーツ"に過ぎないという事だ。しかし、その"パーツ"をほとんどの人間は、自分の顔そのものだと思い込んで生きている。

 果たして、それは子ども時代という時間に制限された毒ガスなのかというと、そうでもない。会社の上司の部下の関係にだってそれを見つけることはできるし、夫婦関係においてもそうだろうし、お店とお客の関係にしてもそれを見つけられる。言ってしまえば「人間関係」があれば、そこに"役割を演じよ"という無言のメッセージが刻まれていて、人間は勝手に「今この場において自分は何の役割をすべきか」という無意識の何かが働きだす可能性が強いという事。可能性が強いのではなくて、それはほぼ絶対そうなるぐらいの強制力を持っている気がしてならない。

 大事な事は、我々人間は生まれてから死ぬまでずっとこのスタンフォード監獄実験の亜種のような実験を至る場においても、ずっとさせられ続けているという事に対する自覚を持つという事。その自覚がない限り、自ら鉄仮面を被ったりもするし、それを自分の顔だと思い込んで死ぬまで特定の鉄仮面をかぶりつづけて生きる可能性は高いし、自分の愛する子どもにその鉄仮面をガッツリ被せる存在が、皮肉な事に親だったりして、その負の連鎖は孫の代、その孫の子どもの代と受け継がれ続けていくという事になってしまう。これが「人類総鉄仮面計画」の恐ろしい連鎖システムなのだ。