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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

5:人間は特殊な形状記憶合金的仕組みである事を知っておく

5:人間は特殊な形状記憶合金的仕組みである事を知っておく

 

 敵を知り己を知れば百戦しても危うからず。この章では「己を知る」という部分について、正直なところ一般常識から考えれば頭がおかしいと疑われるような事ばかりを述べている。もしかしたらこの章を読んで本を破り捨ててみたり、壁に投げつけてみたりしている人もいるかもしれない。もしくはそのくらいの事がしてみたくなってみたり。実際はそれで良くて、この本はそれが狙いで書いているのだから、「なんだよこれ。。。もしもこいつの言ってることが本当だったとしたら、自分のこれまでの人生って一体何だったんだよ。。。」とそれこそ悲壮感漂う内容を書き記しているのだから。 

 だからこそこの本はとにかく若いうちに読んで、その真偽を自分自身で確かめてもらいたいという気持ちが強いし、大人であれば自分が親になった時に、愛するわが子に自らの手で、鉄仮面だの操り紐を括りつけて囚人のような人生を送らせるような事はしないで頂きたいという事を、星にだけでなくこの本にもそして世界中に願いをかけて世界の片隅で勝手に狂った愛を叫びつつげている訳ですが、とにかく我々は、何者なのかであるかははっきりしませんが、ある種の「嘘の教え」を擦りこまされている事は間違いのない事実なのでしょう。

 1章、そしてこの2章のここまでの内容を丁寧に読み進め、実際に自分の人生と照らし合わせてみたり、自分を実験台にしてそれらを確認してみれば、大分自分がどれだけ危険な状態でこの世界を、社会を生きてきたかについて気付いてきた者たちも多少なりとも増えてきたのではないでしょうか。もしも、それが1人であったとしてもこの本を書いた意義はあると思います。

 さて、非常にも非情にも恐ろしい毒ガス的現象である「人類総鉄仮面計画」については説明したので、この項では設計者が作った人間の魂的な部分というか基礎的な仕組みについて説明していきます。それは人間は特殊な形状記憶合金的仕組みであるという事だ。ここでのポイントは「特殊な」というここの部分。

 形状記憶合金というのは「ある形」に必ず戻るようになっている。もちろん過剰な力を加えすぎて、切り取ってしまえば元に戻らないという事も言えるが、基本的には元の形状に戻るのが形状記憶合金だ。人間の自我というか魂というか「人間の中にある自分という何か」も基本的には形状記憶合金のようになっている。では、人間はどのような自我という形を記憶させて、「これが自分だ」という個性というか個人という形状記憶合金になっていくのか?それが「三つ子の魂百までも」のシステムであり、「人類総鉄仮面計画」の中で形作られて、何かを境に「これが自分(の形状)だ」と設定が決まって、その形状の自分としての形状記憶合金的なパターンの人生を生きることになる。それこそ数十年の人生の中で、さまざまなイベントが起こったりするが、それこそその人間の「形状記憶合金的パターン」がフラクタル的に起こっているだけで、クッキーを作る時に星型の型でくりぬけば必ず星型になり、ハート形の型でくりぬけば、必ずハート型になるのと同じような人生のパターンを基本的には繰り返すことになる。これが基本的な「三つ子の魂百までも」のシステムの中身なのだが、では「一度型が決まってしまえば、人間はその型の通りの人生しか生きることが出来ないのか?」と言えばそんな事は無い。それなのに「一度決まったらお前はその型の「役割」を全うし続けなさい」という強制的な毒ガスが、「人類総鉄仮面計画」であり、この毒ガスは前の項で述べたとおり、至る所にも充満している恐ろしい毒ガスであるという事実がこの世界というか社会にはある。そして「自分」という形状はあるやり方によってカスタマイズできるが、「鉄仮面」においてはかぶるか脱ぐかぐらいしかできないので、その鉄仮面をかぶっている以上はずっとその役割を演じ続けなければならないし、本人が鉄仮面を自分の顔だと思い込んで生きているので、「それ以外の顔になる、なれる」などという事にすら気づかずにその役割を全うして一生を終わらせることになる。

 この自分の内側と外側の世界がある意味、協力し合って合体技みたいな事をして鉄仮面を生まれたその瞬間にこちらが気付かぬ速さでかぶせてくる強力さがあるため、もはやほとんどの人間は、「特殊な形状記憶合金的」ではなく「形状記憶合金そのもの」みたいになっている事も否めなかったりする。だけど、人間は形状記憶合金的ではなく、"特殊な"形状記憶合金的な仕組みになっていて、仮面を脱ぐこともできるし、自分の顔を自分の好きなようにカスタマイズする事が出来る。「実は出来る」と表現した方が適当かもしれない。

 とは言ってもここに生まれたばかりの赤ん坊が気づく訳がないので、その赤ん坊の人生がイージーモードになるか、ノーマルモードになるか、ハードモードになるかは、その赤ん坊のまわりにいる大人たちが、この世界をどのように理解しているかによって決まってしまうので、自分についている名前と同じでどうしようもなかったりもするのだが。

 今回は自分の外側ではなく、自分の内側について外部から与えられた力がどのように加わるかを知る事にしよう。簡単に言ってしまえば、生まれたばかりの状態は粘土の球体にでもなっていると想像したら分かりやすいかもしれない。その粘土の球にケンシロウの如く指先一つでグーーッと粘土球の中に指を突っ込んでみるとどうなるだろうか。粘土球は自力で元の状態に戻る事は無い。こんな感じだ。だけど、人間はある形状記憶合金的な機能、これをホメオスタシスと呼んでいる人間もいるが、私は通称「ホメ男」と呼んでいる。このホメ男は良くも悪くも融通の利かない律儀な野郎で、良くも悪くもいつでも「元の状態に戻そう」としてくれる。ホメ男の特徴は「良くも悪くも元の状態に戻そうとする」というのが特徴で、本当はこのホメ男ちゃん、元に戻そうとしすぎてしまう悪い癖も持っていたりする。ここに人間が、"特殊な"形状記憶合金であると言える理由があったりする。

[ホメ男(ホメオスタシス的機能の特徴)]

  1. 良くも悪くも融通の利かない律儀な野郎
  2. 良くも悪くもいつでも「元の状態に戻そう」としてくれる
  3. 元に戻そうとしすぎてしまう悪い癖も持っていたりする

  だけど、本当に指を突き刺した粘土球は元に戻っているのかというと、実は元に戻ってはいないのだ。例えば建てたばかりの新築の家はそれこそ誰も住んでいないのだからキレイな状態だ。ではこの新築の家に3年ばかり住んでみて、いくら掃除を頑張ってキレイに住み続けたところで、その家は建てたばかりの新築の状態に戻る事はまずない。それが20年、30年と時間が経てばもっと新築の建てたばかりのあの時からは大分遠ざかる事だろう。どうしたって「使用感」であったり、「取りづらい汚れ」であったり、「どうしてもついてしまうキズ」みたいなものはどうしようもできない。消耗品というものはそういうものだからだ。それは人間にも同じことが言える。いくら元に戻そうという機能があったところで、元には戻りきらない。それ以上に元の状態に戻りきれないからこそ、それこそ見てくれがどんどん汚くなっていくという事も言える。

 もちろん人体の成長システムからすればしょうがないとも言えるのだが、肉体としての物理的な部分はしょうがないとしても、「自分」「自我」というような情報的な部分がそこまで劣化する必要は本来はない。とは言え、この「自分」「自我」という存在は、物理的な世界にも、情報的な世界にも存在しているので、どうしても物理的な世界の何らかがそれらの情報(老いたり朽ち果てたり)という"人差し指"を自分という"粘土球"の同じ箇所をひたすらアタタタタと突き刺しまくってくれるので、やっぱりそんなにいじっちゃったら使用感は出ちゃうし、いじいじしすぎた部分が故障したりする事は止むを得ないし、それは自分を含めて、さまざまな人間を見ていてもそれは事実だとしか言いようがない。

 これについても前述したが、宇宙に意思であったり意志であったり意識であったり意図であったりがあるのかどうかは我々マリオレベルのキャラクター達にはなかなか「これが正解だ!」というステージにまでたどり着くことはできないが、やはり少なくとも太陽系の星たちを見ても、「方向」というか「ベクトル」のようなものは確認できる。今のところはこれを宇宙の意志であり意思と置き換えて考えても良いのかもしれないが、深追いしすぎるとそれこそ幻想と現実がごっちゃになってしまう陰謀論者や薬物中毒者達と大して変わらなくなってしまうので、注意が必要であることは各人肝に銘じる必要はある。

 だけど、"設計者"が現れない以上、我々にとっての手掛かりは物理法則や地球の自然的な活動であったり宇宙空間に存在する星々達の「ベクトル」ぐらいしかそれらを探る手掛かりは見当たらない。もちろん自分の脳内の世界にアクセスして、水星だの金星だシリウスだのプレアデスだのにワープして、そこの住民達から宇宙的なるアドバイスを聞いてきたり、5次元やら9次元やらといった多次元ゾーンにワープしてそこにいる異世界の住民達からアドバイスを聞いてきても良いのかもしれないが、それを私はドラゴンボールやone-pieceのようなフィクションとの区別をつける術を持っていないし、人間である以上それは無理な話だと思うので、やっぱり話半分以下でそれらの話は聞いていくことをおススメする。もちろん「神さまは実在する」という事を証明できないのと同じで、「神さまなんてどこにもいない」ということを証明する事もできないのと同じなので、それらの宇宙旅行話、多次元世界旅行話についても「そんなものは絶対にある訳がない」と言ったところで、それらが作り話かそうでないかは結局のところ決着は付けられない。それは、まさに幼い子どもたちの兄弟喧嘩と構造はまったく変わらない。もちろん兄弟喧嘩の方は、ある程度の決着はつくが、これが宇宙にワープできるとか、多次元世界からエネルギーをもらってくるとか、なんだとかって話になればもはやそれは宗教観の話になってしまい、「信じたい人は勝手にどうぞ」という世界になってしまう。

 一見、この項に関係ない話をしているように思ったかもしれないが、何が言いたかったのかというと「ベクトル」がある以上、人間にも「ベクトル」が存在していて当然だろうという部分についてだ。そうすると、ホメ男がどうとか形状記憶合金がどうとか言ったところで、人間という生命もどっちかには進んでいる「ベクトル」があり、それを人々は「進化」と呼んでいるのかもしれない。例えば「文明」は人間の歴史の中である一定の「ベクトル」で進んでいるように見える。この「ベクトル」については、"設計者"が我々を設計した仕様が反映された結果としての「ベクトル」のような気がしてならない。もしかしたら、人間の何者かがキャンペーン的に「そうだこっちに進もう」的に先導している可能性もなくはないが、おそらくここについては"設計者"の仕様から伴う「ベクトル」で進んでいると考えている。

 とは言っても、「進み方」についてはいくつかの特徴が見て取れるというか、例えば某有名な水前寺清子の代表曲とも言える「三百六十五歩のマーチ」の中には三歩進んで二歩下がるというような歌詞があるが、あれは言い得て妙というかひとつの人間の進化のベクトルと仕様についての関係を上手に表現しているし、その他にも人間の仕様からそうなっているであろう、進化のベクトルと進化の仕組みについては、これなんじゃないだろうかと予想できるものがある。私の中では、その一番手のフラクタル構造がDNAのあの二重らせんはしごであり、そのベクトルは弁証法的にある種、ジグザグに動きながら、ある一定の方向に進んでいるように見える。これが正しいかどうかではなく、人間の作った社会であれ文明であれを見ていると、そのような動きが見られるので、必ずそうなるということは、これは"設計者"の仕様から逃れられない部分なのではないだろうかと私は考える。次の項ではその二重らせんのはしご的なる進化のベクトルについて考察してみたり論述してみたりしていくことにする。