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6:人間の進化のベクトルについての考察

6:人間の進化のベクトルについての考察

 

 それでは、さまざまな自分の内側と外側の世界の事象とそれこそ何者かが張り巡らしている罠のようにも見えるそれぞれの仕組みであれ、機能であれ、環境であれを理解した上で、この項では人間の進化のベクトルについてを考察してみよう。まずどこからが人間としての始まりなのか、人間は猿が進化して人間になったという説が一般的な説になっているが、では、オタマジャクシとカエルの境目がどこにあるのかという問いのようなものはあるが、とりあえずここでは二足歩行をした時点でその猿のような人間のような生き物を人間の始まりとして考えてみる事にしよう。正直なところ生物学上、そのあたりをどう定義しているかは知らないし、なぜ、そこに興味がないのかというと、私自身、どうしても猿が進化して人間になったとは思っていないので、そんなところをいちいち細かく調べて定義づげたところで意味がないと思っているからだ。そもそも今我々が動物園に行けば見る事の出来るあの猿が、時間が経つと人間になって文明を気づくのだろうかと。ちょっと信じられないし、そもそもではなぜ、この世界には猿が人間になる手前の類人猿的な動物が存在しないのだろうか?現在、地球上には人間か猿かしかいない。この間の生き物がいない。むしろ猿の次が人間で、人間の前が猿というこの考えに納得がいかない。そして人間の祖先が猿だったという定義についてもなんらかの視点によってそう言えるだけで、それが正しいかどうかは「思い込み」の域を越えることができない。タイムマシンのようなものか、過去の地球を実際に見ることが出来る何かそのような製品でも作られれば話は別だが。

 その話は別の機会に追求及び追及することにして、よく「動物と人間の違いは何か」というような問いについて考えさせられることがあるが、ここについても簡単な理解で良いのであれば、ひとつは言葉を使う事、もうひとつは道具を作ったり使ったりする事という理解で良いと思う。細かく考えれば、道具を使うぐらいの動物は存在するかもしれないが、道具を作る動物はいない。「巣」を道具として考えれば動物も道具を作る事になるが、あれはそれこそ本能的に組み込まれた何かのような気がする。

 まず、人は道具を作ってきた歴史があり、その道具達はある「ベクトル」に従って進化してきた。まず道具であり文明は何が起因して起こるかを考えればそれは生死に関する事ではないだろうか。衣食住という分野において人は知恵を働かせ、道具であれ文明を進化させてきたと言っても間違いはない。歴史の教科書を見れば、その時代の人間達はどのような建物の中で、どのような服を着て、どのような食べ物を作って食べていたのかは大体記されているし、それらが時代によって変遷している事が分かる。

 それでは、衣食住における道具や文明が進化すると、何が進化したか過去に遡ればそれらと同様に進化したのは「戦い」に関する道具であり、戦い方が進化した。この「戦い」は本当の戦いについても進化をしたが、それらが命の取り合いではなく遊びへと変化もしたように見える。そして音楽や絵画などと言った芸術面も道具であり、その表現方法は進化した。性的な部分についても道具であり、趣向についても進化したと言えるかもしれない。

 それらの人間の進化のベクトルからある特徴と共通点をいくつか見つけることが出来る。それらについてとりあえず雑にリストアップしてみると、このような特徴であれ共通点を見つけることが出来る。

  1. より便利に
  2. より快適に
  3. より安全(ローリスクにも含む)に
  4. より自由に
  5. よりどこにでも
  6. より誰でも

 基本的には、大体このような要素が含まれている。では、なぜこの要素が道具や文明の進化のベクトルはその方向に向いて進んでいるのか?これも雑に言ってしまえば、

  1. より「快」を得られるために
  2. より「不快」を排除するために

 というこの2つの意図しかないように見える。そう考えると、"設計者"がこの人間を設計した仕様の中身が多少なりとも見え隠れしている気がする。

 たとえば「死にたくない」というような方向に進ませる仕様になっているのではないだろうか。この「快」と「不快」は基本的に生死に関係するものが関係しているように見える。例えば空腹で死にそうな時に500円拾ったら、その500円でノートを買う人はほとんどいないはずだ。やはり空腹を満たせるなんらかの食べ物を買うはずだ。なぜ、そういうことが言えるのかといえば、そこに「生死」というコンテクストが存在しているからだろう。空腹という状況に紐づいている「生死」というコンテクストで言えばやはり食料を手に入れる事を人は考えるだろう。ノートを買っても生き延びることもなければ何もない。だけど、これが何かを食べて満腹になっていたのであればノートを買う人も出てくる。その満腹という状態には、「生死」というコンテクストは浮かび上がってこないからだ。

 こういうことは食料以外でもどこかしこにもあるので、やはり人は「死にたくない」というベクトルがはたらいているように見える。そうでなければもっと普通に毎年死んでいる人は多いのではないだろうか。もちろん「死んではいけない」という教育的な洗脳を"設計者"ではなく、社会の"大人"たちが仕掛けた可能性はなくはないのだが、基本的には人間は、"死にたくない"というベクトルで進んでいると見て良いのではないだろうか。そもそも生まれてきてすぐ死ぬというのもなにか変な話なのだが、スーパーマリオに置き換えて考えてみると、特に「死んだらいけない」という事でもないように見える。自分の命は自分のものだと考えれば、どう使っても別に良いとか悪いとかいう話も議論する部分として挙がってくるものなのかもしれない。

 ただ、全体的に道具であり、文明でありという進化のベクトルを見る限り、大昔の頃から人間は「生死」に対しての「快」「不快」に振り回されて、歴史を進めてきた感がある。それこそ前項で取り上げたスタンフォード監獄実験においても、看守が囚人に与えた苦痛の多くは、生死に関するようなものだし、某「人類総鉄仮面計画」についてもやはり「生死」が大きく関係している。それこそ赤ん坊など素っ裸で「生死」と直面して生きているようなもので、もはや自分自身に選択肢がなく、その危険に直面したところで自分自身でそれらの危険を回避することはできない。

 それらの事を総合的に考えてみると、人体の中には「生死」に関することに関係している機能が組み込まれていると考えて間違いはないだろう。"設計者"は人体に「より楽しむように」だとか「より個人のこだわりを追求するように」だとか「より変態的に」という機能を組み込んでいるようには思えない。「より生きるために」というようなベクトルによって我々人間の中に組み込まれているさまざまな機能が備わっていると考えてよいのではないだろうか。

 そして、これまでは「生死」という観点で人間の進化のベクトルを考えてみたが、「生死」とはまったく関係なくというのは言い過ぎだが、「生命とは?」というコンテクストで考えたのが、釈迦やキリストや孔子達とも言えるのかもしれない。

 実は、先ほど人間の道具や文明についての進化の特徴であり共通点についてはまとめてみたが、それらとは別に人間の生命活動のようなものがどちらに進んでいるかというようなベクトルについても、ひとつの特徴が見受けられる。

 それは何であるかというと、抽象化というベクトルだ。1章で領土ゲームの話をしたがあれひとつとっても昔は実際に物理的な世界で、実際の命を奪い合う中で、領土を奪い合ってきたのだが、今の時代はまだその名残はあるとはいえ、命の奪い合いや領土の奪い合いはこの物理的な世界からはほとんど消えた。それこそ、多少の脅威はあるといえばあるのだが、ここ五十年は確実に日本にミサイルなど飛んできてもないし、爆弾をどこぞの国から落とされたこともない。その領土の奪い合いはどこに行ってしまったのかというと、抽象的な世界へ飛んで行ってしまったように見える。実は釈迦やキリストの時代にもその抽象的な世界は存在していたのだが、多くの人々がそれどころではなかった(生死に関する問題に関わることが多い時代)ため、特定の人間しかこの抽象的な世界に飛んでくることが出来なかった。

 これはひとつのベクトルというか、現象なのかもしれないが、「人は生死をあまり気にしなくてよい生活を手に入れた時、抽象的な世界、抽象的な思考を発見・獲得できる。」という見方をしても良いのかもしれない。

 そして、この私の著書のひとつの仮説は、その抽象的な世界(≒自分の内側の世界)

が物理的な世界とリンクしているという仮説がどの程度の関係があるのかという事を確認するための内容にもなっている。私の主張は、「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」はリンクしているという主張なのだが、わざとらしく言えば、自分の内側にある世界、つまり抽象世界で良い事「快」を感じるような状態の時、自分の外側の物理世界でもその「快」を具現化したかのような出来事が起きているというような主張だ。これの極端な話をしている連中が「引き寄せの法則信者」達なのだが、ここについては個人的には、否定ではなく肯定派なのだが、あの連中に私自身が否定的な理由は、彼ら彼女らの外側の世界がろくなものではなかったり、その反対に内側の世界についてもそんなに健康な状態であるようには見えないのに、ただその法則だけを水戸黄門の印籠のように掲げ、自分たちは大した現実を引き寄せてないのに、いかにも自分たちは引き寄せマスター(≒自分の内側の世界も外側の世界も自由自在のように扱える者)のように見せてくる事について私自身はまったくもってそれらのやり方に賛同できないというだけだ。そのため、私自身はもっと深く自分の内側であれ外側の世界と対話をしてもっと抉っていく事を推奨している。そんなに浅瀬の上澄みを掬った程度の対話の仕方で、この世界が全て分かってしまうのであれば、とっくに誰かが"設計者"の首根っこをドロボウ猫を扱うかのように掴んで、我々の目の前に連れてきていることだろう。

 それでも、私は「自分の内側の世界」が「快」であるとき、「自分の外側の世界」も「快」であるという互換性はあると信じている。「自分の内側の世界」が「快」なのに、「自分の外側の世界」が「不快」になっていたり、その逆の状態になること自体が不自然だからだ。

 とは言え、この説が本当であれば、それこそこの世界に錬金術の様なものであったり、魔法のような事は存在すると言ってもそれほど嘘にならない世界だということになる。だけど、「自分の外側の世界」は、それほど魔法の様にはなっていない。と思いがちだが、実は「自分の外側の世界」はすでに魔法のような世界になっている部分もあるのだ。

 もしも、「自分の外側の世界」を白、「自分の内側の世界」を黒とした時、その中間のグレーの世界はすでに我々の前に提示された気がしている。少なくともそのグレーの世界が、白の世界と黒の世界の橋になって我々を両者の世界を行き来できるように繋げたような気がするのだ。それがどの程度の完璧さのある橋なのかはなんとも言えないが、昔に比べて誰もがその白の世界と黒の世界を行き来できるグレーの橋を通行できる世界になったのが、今の時代なのだという事を私は声を大にして言いたいが、言ってしまうと、新たなホーリーネームを献上することになるのかもしれないので、自分の本で細々と主張することにしておこう。とすると、まだ時代はそこまでは認めていないのかもしれない。。