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原澤出版の執筆用ブログ

7:「遊び」というコンテクストは"設計者"のつくったイタズラなのか?

7:「遊び」というコンテクストは"設計者"のつくったイタズラなのか?

 「遊び」ときくと子ども達が学校が終わったらみんなでゲームしたり鬼ごっこしたりというあのイメージがあるが、「遊び」とはそういった娯楽的な意味合い以外に

 

・ 物事にゆとりのあること。

・ 機械などで、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品の結合にゆとりをもたすこと。

 

 という意味合いがある。少なくとも日本人は、この「遊び」という言葉に"ゆとり"という意味合いをもたせている。実際、「ゆとり教育」なるものがあってしょっぱい感じになっていたがこれも本来は学業において座学一辺倒ではなく"ゆとり"を入れる事で、機械的な人間教育ではなく人間的に幅を持たせて教育しようという言ってみればこの「ゆとり教育」自体は、この本のタイトルである"自分"を最大限生かすための人生戦略の基礎作りを国が行おうとしていた可能性がある。結果としては学校が「ゆとり教育」を導入した結果、世の親は子供たちに何をしたかというとそらに学習塾に通わせるなどという「ゆとりない教育」を導入し、何が何だか分からない結果に終わるわ、学校はカオスになるわで、狙い通りにはなかなかいかないものだなという人間の思考と起こり得る現実のギャップを目の当たりにすることになる。しかし、「教育に"ゆとり"を」という考えは私自身は反対どころか賛成したい気持ちが強い。もちろん、私が「ゆとり教育」を実施するのであれば、過去に国がやった「ゆとり教育」のようなやり方も導入する事は無いし、あのようなやり方が「ゆとり教育」だとは思うことも出来ない。

 前項では、"設計者"が我々人間の仕様の中に組み込んださまざまな機能は「生死に関係するもの」説を唱えた。そしてこれは"設計者"が我々に組み込んだ仕様としてはそれこそ「遊び」の要素を感じない。この世界には果たして「遊び」は存在しないのか?私が見る限り、むしろ「遊び」だらけのように見える。世界の構造は至る所にフラクタル構造を発見する事実からすれば、人間の仕様の中に「遊び」がないとはちょっと考えられない。むしろ、その反対に「この人間は「遊び」だらけの仕様になっている」と言えないと「随分と人間だけは「遊び」のない真面目設計をしましたね。」と"設計者"にツッコミを入れたくなる。もちろん、これは私の悪ふざけであり、やはり人間も、"設計者"が作った人間以外のそれらと同じで、「遊び」だらけの仕様になっている。

 では、人間に内在する「遊び」の部分とはどこなのか?それらを説いたのが主にお釈迦様のような気がする。お釈迦様のあれらを「悟り」と呼ぶのであれば、「悟り」とはこの人間の中の「遊び」の部分を知り尽くし、極めた状態の事を呼ぶのではないだろうか。人間に内在する「生死」に関する機能を飛び出した「お遊び」機能やそれらの仕様。生きる目的もよく分からず、この世界が何のためにあるのかもはっきりしないどうしようもない世の中で、お釈迦さまが見つけた「生死」に関する機能ではない、裏技、裏ステージ、隠れコマンドの数々。それが人間の中にある「遊び」機能だ。

 もしも人間の脳が2%か3パーセントしか機能していないのであれば、もしかしたら我々人間の本来の仕様は、釈迦やキリストや孔子達の気づいたその先の仕様も隠れているのかもしれない。そしてそれらは未だ発見されていないのかもしれない。そう考えることも出来なくはない。

 もちろん、そんなプロ野球の世界における「夢の4割バッター」のような前人未到の領域の事を考える前に、我々はお釈迦様が発見した3割バッターの世界をよく理解する必要がある。そうしなければその先の領域に到達することなど夢のまた夢でしかない。

 それでは、お釈迦さまが悟った人間の中にある「遊び」とは一体何なのか?それがド真面目な「生死に関する機能」とは別に備わった機能なのではないだろうか。つまり抽象世界(≒情報世界)がそれにあたる。それらを現代の人間達にも分かりやすく書き記したものが般若心経なのかもしれない。色即是空、空即是色。この8文字に集約されている意味がそれにあたる。何もないのに物理的な世界であれ、感情、思考におけるまでこの世界にはさまざまなものが溢れかえっているが、それらは本来は何もない。良いとか悪いとかいう意味もない。それこそ人間達が内在する「遊び」で作ったどうでもよいもの達なのかもしれない。

 この色即是空、空即是色を今の世界と照らし合わせれば「なんにもないのにこんなにある」ということになる。お釈迦さまから言わせれば「なんにもない」のに、実際は「こんなにもある」という現実がある。これは一体何なのか。ある種のエントロピー増大の法則的なものとのフラクタルな関係がそこに見え隠れしている気がする。世界は時間が経つにつれてエントロピーが増大する。より無秩序な世界へと広がっていく。おそらくお釈迦様が説くように、この世界には本来何もないのかもしれない。こんなにあるのに何もない。だけど、エントロピーが増大していくかのように、何もないのにこんなにあって、それはどんどん増えていく。ここに"設計者"の遊びの本質がある気がしてならない。

 つまり、お釈迦さまも3割バッター程度に過ぎず、夢の4割バッターの世界には達していない気がする。「何もない」って言えばそれはそれまでだ。「野球に何の意味があるの?別に意味はないのだよ。」と言ってもそれはその通りかもしれない。だけど、それを言っちゃあおしめぇよって話であって、この世界は「何もないから何もない」とはなってない、「何もないんだけど、こんなに増えちゃってもう大変」ってのがこの世界の実際なのだから。そう考えると、お釈迦さま的「遊び」を超越した「遊び」が存在するのではないだろうかというブッ飛んだ仮説までもが飛び出してきたりする。

 もちろん、お釈迦様の説いた「何もない」というここに目を背けてはいけない気がする。それこそ「意味があるから、こんなにある」と考えれば、それこそお釈迦様の掌で転がされて、先人たちがこれまでたどり着けたステージの手前で、Gameoverすることになるだろう。「何もない」だけど「こんなに増えちゃってもう大変」そして、今現在「さあどうする?」と問われている時代なのではないだろうか。

 そして、一番の問題は「なぜ、「何もない」のに、「こんなに増えちゃったのか?」というここに、人間の内側の世界と外側の世界の相互関係のNAZOに迫るヒントが大いに隠されている気がする。少なくともお釈迦さまは「何もない」と言っておきながら約2000年経てみた今現在は、何もないどころかお釈迦様の時代以上にこんなにもいろいろと有り触れてしまって、増え続けちゃったのだから、それこそ今この時代にお釈迦さまがやってきたら、この世界を見てなんというか聞いてみたい。もちろん、「それでも何もないモノは何もない」と言うのかもしれないが、現代においてそんなお釈迦様の言う事に耳を傾ける者がどのくらいいるのだろうか。前略、お釈迦さま。あなたが色即是空、空即是色と唱えて約2000年。世界はこんな感じになっちゃいました。。。もちろん何もないのでしょうけど、こんなにいろいろ増え続けちゃいました。っていう「無」を感じるにはいろいろと誘惑してくれるものが有り触れているっていう、悟りゲームのハードモードが現代だって見方も出来るのですが、そのあたりはいろいろと思索を巡らせてみたい気持ちが強いが、結局はそれらも「無」に過ぎないのだよ的な事なのかもしれない。それでも人間は遊びまくってこの世界を作ってきた。そして、自分の内側の世界と外側の世界に橋を架け、誰もが両者の世界を行き来できる世界を作った。ここに関しては、お釈迦様もキリストも孔子も実現する事の出来なかった世界であることは間違いない。今の時代、コツさえ掴めば、重要な部分さえ理解すれば、誰もがお釈迦さまやキリストになれる時代が来たのだと言っても過言ではないし、その権利は誰にでも自由に与えられている時代がすでに到来している。その状況で、「さて、あなたはどう生きますか?」と問われていないんだけど、ベクトル的には問われていると感じちゃって良いのではないだろうか。