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原澤出版の執筆用ブログ

9:生まれちゃったら「早めのパブロフ」~どんな人でももらえる報酬システム~

9:生まれちゃったら「早めのパブロフ」~どんな人でももらえる報酬システム~

 

 前項の中で、この項では、「どれだけ人間が自分に都合の良い世界を作り上げがちな生き物であるか」ということについて考察すると述べた。この項で考察する内容が、非常に"設計者"の遊び的要素を感じずにはいられない部分というか、イタズラ好きというか、完璧さというか、なんともいえないこの世界の多様性を創った原因とも言える乙なシステムであり意地悪なシステムでも言える部分だ。

 それは、この項のタイトルにもした~どんな人でももらえる報酬システム~なのだが、実際のところ難しい事を考えずに、それこそこの世界を人間としててきとーにそれこそある意味平均点以上の点数ぐらいの人生を楽しむのであれば、ここが分かっていればおつりがくるぐらい十分なシステムと言って良いのかもしれない。

 そもそも人は生まれて、子どもから成人になり、そして寿命を全うするまで生きている訳だが、「生き方」については特に今の時代は多種多様である、、、ように見えるが実は複雑っぽく見えるだけで、実際は昔の時代の人間達と大差のない「生き方」しかバリエーションがなかったりするのが、実情だったりする。

 まず、ここについて考えてもらいのだが、それはどういう問いかというと、「人は本当に成功者とそうでない者が存在するのか?」ということだ。前項で取り上げたいわゆる「社会の勝ち組、負け組」論争のようなものだが、それについては社会が「こっちが勝ち組、こっちが負け組」というルールを創っているだけなので、もしも時代が違えばその勝敗は逆になっている可能性すらある。例えば、ある時代ではムキムキのマッチョ男がモテた時代もあれば、なよなよしているいわゆる草食系男子がモテた時代もある。こういうのは言ってみれば「その時代の流行り」みたいなものなので、時代に合ったか合ってないかっていうただそれだけなのだ。例えば、この時代にワンレンボディコンの格好をしている女性を見れば、一周回ってちょっとアリかなって気もしなくはないが、実際は時代にマッチしていないので、ダサい感じがするが、それこそバブル経済絶頂と言えばイケイケギャルの象徴で、その姿を見て世の男たちはFu-Fuしていた訳だが、今の時代そんな女性とちょっと夫婦になりたいという男はそんなに多くはないだろう。

 なので、社会と時代にマッチしたような人間であれば勝ち、そうでなければ負け。というのが社会から見た勝ち組・負け組のルールなのだが、社会ではなく"設計者"の観点から我々人間は、どういう人間が勝ち組で負け組であるかと考えてみると、実は社会だの時代だのに合致するかどうかなどまったくもって考慮する必要もないのであって、"設計者"はどの時代であろうが、どういった社会であろうが、基本的に誰にでも平等に勝ち組になれるシステムを「自分の内側の世界」に組み込んで入れているので、実は一生不幸に生きなければいけない人間など誰一人として存在しない。

 社会においては富のあるものを勝者とするような演出を好き好んでいるが、それは社会の"大人"たちが、子ども達を洗脳しやすいからであって、彼ら彼女らが大人になっても従順な労働力として頑張ってもらうための一大キャンペーンに過ぎない事を忘れてはいけない。では、社会における「富」とは何か?簡単に言ってしまえばそれは「金」「経済力」だろう。もちろんその他にも要素はあるが、基本的には「いくら金持ってるか」ということにフォーカスされている。

 もちろん"設計者"はそんなに銭ゲバではない。そして支配欲自体がない。そもそも支配する必要がないので。ここについては"設計者"と社会の支配者の関係はフラクタルではない気がする。死んだらいくら金持っていようが関係ないし、そもそも"設計者"はこの世界に「マネーゲーム」などという低俗なゲームを持ち込んでは来ていない。それらは人間が作った駄作に過ぎない。なぜ故、駄作というのかという理由は、「もしもこの世界のベクトルが"進化"という方向を向いているのであれば」という話で、もしもそうでなかった時は、「マネーゲーム」は不朽の名作と言える可能性ももちろんある。とは言え、"設計者"は「マネーゲーム」になど興じなくても人間達に平等の、報酬システムを授けてくれているのだ。

 この社会においては、何らかの「価値あるもの」を持っていない限り、富を増やすことはできない。それが時代に合っているかどうかも大いに加味される。だけど、自分の内側の報酬システムは、「価値あるもの」を自分自身が持っていようといなかろうと、報酬は与えられ、受け取ることが出来るし、時代に合致しているとかしていないとかも関係ない。では、この「報酬」とは一体何なのか?それは巷では脳内物質といわれているそれらのことだ。ちなみによく報酬として我々が与えられ受け取る脳内物質にはこのようなものがある。

 

[報酬的な脳内物質]

  1. ドーパミン[ご褒美系]
  2. ノルアドレナリン[緊張とプレッシャー系]
  3. アドレナリン[怒りと興奮系]
  4. セロトニン[癒し系]
  5. メラトニン[睡眠系]
  6. アセチルコリン[稼働系]
  7. エンドルフィン[脳内麻薬系]

 このような報酬を我々は与えられて受け取ることが出来る。そして、実はこの報酬欲しさに我々はせっせせっせと生きている悲しい事実があったりもする。なので、時代がどう変わろうと価値観がどう多様化しようと、これらなんらかの報酬欲しさに頑張って生きていることに変わりがない。何故、人間はやってはいけない薬物に手を染めるのか?それはこれらの報酬がドハドバといただけるからに他ならないからだ。

 そして、どんなに崇高な想いであろうと、崇高な偉業であろうと、そしてどんなに残忍な犯罪行為であろうと、この報酬システムに人は逆らうことが出来ない。社会的に見れば、それらに善悪のレッテルを張る事はできるが、結局のところはこの「自分の内側の世界」における報酬システムのそれこそ傀儡になっていると言っても過言ではないし、社会の傀儡からは抜け出すことが出来たとしても、この「自分の内側の世界」の報酬システムの傀儡から抜け出すことはほぼ不可能のような気がしてならない。もしかしたら、この報酬システムの傀儡から抜け出すことが出来た人間を「悟った人間」と呼ぶのかもしれない。だけど、もしかしたらお釈迦さまも寝そべりながら、弟子達をからかう事で何かの報酬を得ていた可能性が絶対にないとは言えない。もちろん今確認する術はないので、なんとも言えない。だが、キリストが十字架で磔にされる事については、キリストの内側の世界では報酬が出ていたように思えるのは、私だけであろうか。

 もう少し分かりやすく説明すると、何かをしでかして廊下に立たされるカツオ、波平の盆栽を壊して「バカモーン!」と大目玉を食らうカツオ。一見すれば「そんな時に報酬など出ている訳ないだろ。」と思う人もいるかもしれないが、その時カツオの内なる世界ではなんらかの報酬がドハドバ出まくっているのだ。だからカツオはあれらの行為が辞められないのだ。そして、マスオがときおり見せる、両かかとに全身の体重を預け、両手両足の指先を思い切りピーンと張ったポーズで繰り出す「エエェェェェ」だが、もうあの時のマスオなんていうのは、それこそ自分の内側の世界では報酬が出まくっちゃって出まくっちゃってしょうがない。そんな状況になっているのだ。

 もちろん、先ほどの脳内物質にも種類がある。ということは報酬にも種類があり、どの報酬を好むかによって個性が出る。そしてその報酬のいただき方にもこれまた個性があるので、人間が多様化しているように見えるが、自分の内なる世界で与えられている報酬の種類は1000年前2000年前と大差ない事だろう。時代において人気のある報酬は違う可能性もあるが、それほど変わっていないのではないだろうか。

 実は、映画MATRIXのあのMATRIXシステムというのはまさにこの「脳内物質の報酬をもらいながら、ロボットたちの養分にされられている報酬システム」のことであって、実際の人間のこの報酬システムを、如実に描写していると言っても良い程上手に表現しているように見える。そして「自分の外側の世界」は、この「自分の内側の世界」の報酬システムとフラクタルな関係にあると言っても過言ではない。何故、人は快楽に溺れるのか、それらに欲情するのか、欲しがるのか?これらの人間の内側の世界の報酬システムとフラクタルな関係にあり、相互関係があるからだと推測する。推測するというよりもここに関しては事実だとしか言いようがない位、それこそそれは人間の歴史から見ても、いくらでも根拠を示すことが出来る。

 人間の内側にある"設計者"が組み込んだ報酬システムについて、完全にその支配から逃れることはまず無理と考えてよいだろう。だけど、自分が実際にこの社会で生きている際に、何をして、何をされる際に、これらの"報酬"が「自分の内側の世界」で与えられ、それを頂くことで自分自身が幸福感というか"生きている実感"を得ているのかについては、なんとか意識を完全に"報酬"に持っていかれなければ、そこには首の皮一枚レベルで留まって、うっすらと気づけるはずだ。まず、あなたがこの社会において、それほど幸せだと思えない、むしろ不幸だと思えるのであれば、この「自分の内側の世界」の報酬システムと「自分の外側の世界」の報酬システムの相互関係に気づく必要がある。

 「自分の外側の世界」において、あなたが富を得たり、幸せな人生を送る事はそれほど難しい事ではない。なぜならば、自分の内側の報酬システムと、現在の自分の外側の報酬システムの繋ぎ合わせを変えれば良い。というただそれだけのことなのだから。だけど、そこに一生気づかなければ、あなたは社会上においては、まわりから「何やってんだアイツ」と思われるような事をしては、「自分の内側の世界」の中であなたが"生きている実感"を得られるための某報酬をドバドバと受け取り続けるっていう事になる。

 疑問に思う部分があるとすれば、「何故ある人は社会的にはあまりよろしいとされない行為などをすることで「自分の内側の世界」から報酬を受け取ってしまっているのだろうか?」という部分ではないだろうか。この世界に存在する人間が、自分以外の者から感謝されるような行為をした時のみにおいて、「自分の内側の世界」から報酬が受け取れていればこの社会の中で、「勝ち組」だの「負け組」だのという環境はほぼ作られることがなく、それこそ極楽浄土とまではいかなくとも、実際の我々が生きている悩みや苦しみの多い世界からはまったく想像できないような幸せに満ちた平和な世界がそこに現れていた事だろう。だけど、実際はそうなってはいない。何故か不思議な事に、多くの人間達が、自分以外の者から嫌がられたり、気持ち悪がられたりする事などをすることで、「自分の内側の世界」から報酬を受け取っている事で、この「自分の外側の世界」は混沌に満ちてしまっていたりする。

 それでは、なぜその人間は、それらの行為を行う事、考えることで、「自分の内側の世界」から報酬を受け取るようになったのか?それは、生まれる前から決まっていて、生まれた時にはその赤ん坊はそれらをしたり、考えたりすることで、「自分の内側の世界」から報酬を受け取るような設定になっていたのか?という、ある意味そうとも言えるが、実際はそうではない。それがこの項のタイトルを生まれちゃったら「早めのパブロフ」とした理由でもある。要は、反復を繰り返すことによって条件反射のように「Aという行為をすることで自分は自分の内側の世界から報酬を受け取れる」という事を、意図せずひたすら訓練してしまったということに他ならないのだ。我々は生まれながらにしてのパブロフの犬のような生き方によって、「自分はAをしたら、自分の内側の世界から報酬がもらえる」という事をこれまた鉄仮面を自分の顔と覚え込んでしまったかのようなパブロフの犬として生きながらえてしまっているということだ。

 この報酬システムは、自分の内側と外側の世界において非常にフラクタルな関係でもあり、シンクロしているとも言える。自分が泣きわめいたりした時に親が自分を心配してくれればそこに"報酬"の匂いがするし、自分が「ある特定の何か」をしたときに、親が異常に喜んで、自分の事をかわいがったりした時にはまたそこには"報酬"の匂いが立ち込めている。

 また、そういう分かりやすい例では良いのかもしれないが、普段は何も関心を示さない親が、自分が何か悪さをしたと時にだけ異常なまでの反応を示し、それこそ暴力を振るわれるような事をされたとしたら、その子どもはそういうことにより"報酬"を受け取れることを学ぶだろうし、親のストレス発散のために自分が怒鳴り散らされたりする時にだけ相手をされたのであれば、またそこに"報酬"の匂いがたちこめる。まさに、この"脳内の報酬"というパブロフの犬式訓練は、まさにこれらの応酬だという事が言える。それこそ、もしもよろしくない「自分の外側の世界の思考や行動」と「自分の内側の世界で出る報酬」のつながりが、歪んだものであるのであれば、電気の配線の繋ぎを変えるかのような作業が必要になってくる。基本的にはそれが「よろしい」繋ぎであったとしてもこの「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」の「報酬の配線」については、知っておく必要がある。そうしないと、結局は何のために生まれて何のために生きているのかも理解できないまま、一生を終えることになってしまうからだ。

 もしも、あなたがこの本を読み、自分なりに考えていく中で、「そんなのは嫌だ。」と心から思うのであれば、是非、これを機に自分自身がどのようなことを考え、行うことで、自分の内側から報酬を得ているのかの理解に努めていただきたい。お釈迦さまの到達したステージに、我々が到達するためにはここについては理解しておかなければ、それこそどこかの階段の踊り場においてある宝箱から出ている溢れ出んばかりの"報酬"に、身も心もやられて、よく祭りにいそうなくじ引き・射的のおっちゃん達から声をかけられる「はい、残念ーー。」というような事を視覚・聴覚的に認知できなかったとしても宇宙のどこからかはそうやってからかわれているような気がしてならない。まずは、ここをしっかり理解して、自分が自由自在の"報酬"の配線ができるようにならなければ、お釈迦さまにチャレンジする資格を得ることが出来ない。