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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

5:さらに人生の純度を上げるために必要な"軍師"をお供に加えてみよう

5:さらに人生の純度を上げるために必要な"軍師"をお供に加えてみよう

 

 さて、我々にとっての最強のお供である"将軍"を連れて冒険するのは良いのだが、さらに「自分の内側の世界」の領土の質を上げていくには、"将軍"の他にもう1人強力な助っ人が必要だ。それは、あなたの人生戦略の質を上げ、そして現実度を増してくれるまさに"軍師"のような存在だ。

 強力な"将軍"、そして"軍師"を従えたあなたに怖いものは何もない。あなたは自分自身で、"自分"を最大限生かすための人生戦略を考え、彼等と共に、自分の内側と外側の世界の領土ゲームがどこまでのステージまで突き進むことが出来るか、行けるところまで思いっきりチャレンジすればよいのだ。

 実際に「自分の外側の世界」において、一流だの超一流だのと言われている人物たちは、例外なく「自分の内側の世界」の中に優秀な"将軍"と"軍師"を従えている。その両者を従えて、この世界というスーパーマリオにチャレンジすることが、お釈迦さまの進んだステージへと近づくセオリーである事を彼ら彼女らはよく分かっているし、このゲームで自分自身が最大限のパフォーマンスを発揮していくためには、この両者を従えて、領土ゲームに参加することが、一番コスパの高い人生戦略だという事も良く分かっている。とにかく、人生の純度が高まり続け、自分の生命の輝きが増すので、人はそういった人間達からは何か見えないオーラのようなものが出ているという錯覚を覚えたりもするかもしれないが、もしかしたらそのような目に見えない何かが出ている可能性ももちろんある。

 そして、逆さから述べれば、同じような事をしても三流だの五流以下だのと悪評される人間というのは、"将軍"も"軍師"も従えずに、「当たり前」という毒の霧の中で、それこそ五里霧中、四面楚歌のような状態でどっちに進んでよいか分からず、だけど、本人の中ではある訳もない「嘘」を信じ込んで、犬が自分の尻尾を追いかけまわして、グルグル同じ場所を回り続けているようなまさにオナニー大将という恥ずかしい称号をしつけられるしかない恥ずかしい人生の純度しか手に入らない。それこそ天下の大王になどなれず、TENGAの代用でもするしかないもうそれこそぬるぬるの人生を送るぐらいしか選択肢はなく、今世では、いろいろな雑音というか不純物と自分の人生を混成するしかない。中には借金の工面に奔走するしかない人生を送るしかない者もいることだろう。

 ここでちょっと横道に逸れたいのは、「自分の内側の世界」が「自分の外側の世界」にリンクしているのだとすれば、それこそその「気持ちいい」を得るための代用というのは、「自分の外側の世界」に良質な人生の純度という結果をもたらすのではないのだろうか。
なぜならば、「気持ちいい」という感覚が「自分の内側の世界」に生じるのであれば、それは悪いというよりもどちらかというと「良い」側にいるからだ。だけど、"設計者"は「自分の内側の世界」を探求する事と、自分の殻に閉じこもって自慰行為をする事は別物であると設定しているように見える。それこそその行為は、この世界というゲームをチャレンジする事に対する辞意行為であるようにも見える。

 やはり、「自分の内側の世界」の感覚がいくら「気持ち良い」という感覚を得たところで、それが自分の殻に閉じこもり、何かをニギシメて、気持ちよくなったところでそれは「自分の外側の世界」においても、自分が何かの殻に閉じこもって、一人で妄想をオカズにしてただただ一人で喘いでいるのと同じで、やはりそんな様を他人から見られれば、「気持ち悪い」という感情しか与えないのは明白で、やはり、自分と同様に、他人からしてみてもそれらが心地よい感覚であり、感情を提供できるかどうかが、ただの爺さんなのか、優秀な軍師さまなのかを見極めるポイントとも言えるだろう。

 先に出してしまった感があるが、この"軍師"の正体は何かというとそれは「対話」に他ならない。性質上、「対話」というのは、見た目自慰行為と変わらないし、その様を自分以外の誰かに披露する事で、「自分の外側の世界」の領土の質を高めたり、バージョンアップさせていく方法というか所作なのだ。

 それでは、この両者は何が違うのだろうか。「対話」は正直時には息苦しいし、深く入り込めば入り込むほど苦しくて、頭がおかしくなりそうになる事もある。それでも潜り続けて何かを見つけて、窒息することなく陸地に戻ってこれるかどうかというような営みなのだ。それは、高級なアワビを素潜りで潜って獲ってくる海女さんのようなものなのかもしれない。ある種、命がけで潜ってそこでしか獲れないお宝を発見するという営みにおいて、やはり自分だけではなく、それを他人が絶賛する事は想像に難くない。

 この「自分の外側の世界」をバージョンアップさせてきたのも、先人たちが「対話」によって築き上げてきたものだ。何も疑わずに、そして何も対話せずにいたら、この世界は原子の時代とさほど変わっていない事だろう。もちろん、それが悪いとは言えないのだが、良くも悪くも、この「自分の外側の世界」を我々人間は、疑い、そして対話をし続けることでバージョンアップさせ、ある種の「自由」と「平等」を獲得することに成功した。もちろん今と昔ではその「自由」と「平等」の部分が異なる事もあるが、お釈迦さまをはじめとした限定された者しかたどり着けなかった「「自分の内側の世界」における自由と平等」については、一般人である我々でも容易に手に入れられる時代が、今ここにある。

 ステージ1-1をクリアできずにずっと繰り返してしまうオナニー人生を堪能するか、
"将軍"と"軍師"を付き従えてラスボスに届く勢いで、この世界を突き進むかは、もちろんあなた自身が自分で選択をすればそれで良い。とにかく怖いのは、覚えてしまってもう辞めることも出来ないようなおサルさんのようになってしまうことで、それを自分がやりたくて選択しているのであれば、1-1と徹底的に向き合う事だって、それは立派な対話とも言える。
 だけど、私はやはり"設計者"はこの世界に進んでいる向きを創っていることが確認できるので、やはり先に進むという通常のゲームを楽しみたい。そして同じ考えの者が、付き合ってくれればそれで良い。 

 それでは、この"軍師"の活用、つまり「対話」の方法はどうするのかだが、最近流行りの「ナナメに見る」的な事をしていくことだ。それは「見えていないコンテクスト」を発言させそのコンテクストを含めて、その対象について自分なりに思索に耽る。たしかに自分なりに思索に耽ることになるので、自己満足的な行為になりがちであることは間違いないのだが、そうなってしまったらそれはそれでしょうがない。それこそ、「対話」の回数を増やせば、自分の殻の中ではなく、自分の殻の外に出て「対話」をすることができるようになってくるからだ。

 ひとつ例題を挙げてみよう。例えば"将軍"がこんな相手を見つけてきたとしよう。それは「風邪をひいた時に食べ物を食べるべきかどうか?」という問題だ。ちなみに私が風邪をひいた時、両親は「盆と正月が同時にやってきた」かのような料理を作って食べさせていた。理由は「病気の時に栄養のあるものを入れまくれば元気になる」と思っているからだ。果たして、本当にそうなのだろうか?この考えに、「内臓」というコンテクストはまったく考慮されていない。とにかく「栄養」というコンテクストで考えてしまっている為、このような惨事が起こってしまう。

 そもそも「何故風邪をひいたのか?」「風邪とは何なのか?」という事をまったく考えていない。「風邪=栄養が足りない」みたいな世界観になってしまっている。コンテクストが極端に足りない。いわゆる「コンテクスト不足」の状態だ。そこで"軍師"を登場させて、さまざまな対話をするための新コンテクストを加味して、「風邪」と対話すれば、私の両親とはまったく正反対の「風邪の時はほとんど食べずにただただ静養した方が良い」という考えが浮かんでくる。そんなに元気な時の倍以上風邪をひいている時に食べ物を体内に入れればどういう事が起こってしまうかは、ちょっと考えれば分かる事なのだ。ただ、やはり「当たり前」という毒牙にかかってしまった者達にとってはこの部分すら疑うことも出来ないし、コンテクストを見逃してしまう結果を招く。「風邪をひいている状態」とはどういう事か?「普段より運動していない状態」とも言える。そこには「運動」というコンテクストが現れる。ちょっとした風邪ならば、逆に運動すると治ってしまったりする場合もある。ここに関しても「症状の度合い」というコンテクストが隠れていたりもする。

 というように、「ナナメに見る」的な事をしていくと、その対象がさまざまな視点・コンテクストを加味した上での見解になるので、「当たり前」で無知性的に無思考的な状態の考える「ソレ」と同じものを見ていても、見解がまったく違うものになってくるのだ。これがいわゆる「一流と三流の違い」のようなものだ。そしてその流儀というのは人生の純度と比例しているように見える。

 "将軍"に疑わせ、"軍師"に対話で深堀りさせる。これが最強の人生戦術だと言えるだろう。