harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

6:何故、新大陸発見の為には、マゼランやコロンブス達に混ぜてもう必要性があるのか

6:何故、新大陸発見の為には、マゼランやコロンブス達に混ぜてもう必要性があるのか

 

 ここで、再度領土ゲームについて考えてみたい。領土ゲームとは一見領土の奪い合い、つまりすでに他人の所有する領土を奪わないと、増やすことが出来ないような印象を与えているが、それは物理的な世界の話であり、情報の世界においては、もちろん奪っても領土を獲得することが可能だが、いちいち誰かの領土を奪いに行って、傷だらけになって熾烈な争いを繰り広げる必要などなく、新しい誰も知らない新大陸を発見して、そこを頂けば争いもなく領土を獲得することができるのだ。

 マゼランやコロンブス達が見つけた新大陸に関しては先住民がいたので、何もない土地を自分たちのものにしたわけではないのだが、この情報の世界においてはまったくといってよいほど、先住民も存在しないいわゆるひとつの「ブルーオーシャン」的な空白の土地はまだまだたくさん存在している。それこそ無限に広がっていると考えてよいのだ。

 では、皆がその空白の土地を見つけて好きなだけの領土を獲得すればいいじゃないか。ということになるが、やはり「空白の土地」を見つけ出すにはコツがいる。とは言ってもそのコツさえ押さえてしまえば、誰にでも見つけることが可能だという事も言える。しかし、それはもしあなたが過去に大きなけがを負ってしまったのであれば、それが癒えるまでは、なかなか難しいとも言える。その間、この世界にそれだけ無限の空白の土地が存在していたとしても、あなたの世界の中にはそれらが見えないので、その間はあなたの世界からそれらの空白の土地は消える。

 では、どうすればあなたの世界の中にニューマップを更新できるのか?それらについてはもうこの本の中で散々述べてきた。その「傷を癒す方法」についてもだ。そこに気づくことができて新たな土地に大きな城を築く事が出来るのか、それとも気づかず傷ついたままの状態で鉄仮面を被り続け、同じ場所に居続けるのか。それはあなた次第。気づきたいのであれば何度でもこの本を読み、あなたの中にいる"将軍"と"軍師"と冒険に出続ければ良いのだ。

 それでは、その空白の土地を見つけるための方法について述べてみたい。それこそ自分の外側の世界の歴史を参考にすればよいのだが、実は答えは簡単な事だったりする。その答えはというが、自分の知らない場所に進む。というただこれだけの事だ。開拓されて道が舗装された世界の中に、空白の土地など存在する訳がない。もし、そのような考えをニギシメてしまっているのであれば、まずはその考えを手放さない限り航海にすら出ていないし、出たくても出ていない。大航海時代のように新大陸を発見するには、誰も進んでいない場所を進み、誰も知らない世界を目指すしかない。そうでなければ、この自分の外側の世界の歴史で繰り返された、誰かの持っている領土を奪い合う命がけのゲームをするしかない。それはもはや「自分の内側の世界」であったり、「情報の世界」の存在を知っている者にとっては、領土と命を奪い合うゲームなどバカバカしくて付き合う気持ちはまったく起こらない事だろう。それでも、まだ社会を覗いてみれば、命までは奪い合っていないとしても、その他のものに関しては、誰かの持っているものを奪い合っている者達ばかりだったりする。

 もう日本には奪い合える領土がない。奪う領土がなければどうするか?領土の所有者の命が尽きるまで待つ。その間に、自分がその所有者とどのような関係を築けるか。それが、社会という"大人"たちが生まれてくる子ども達に長い時間かけて染めていく「社会のレールゲーム」なのだが、そんな頭の固いガンコオヤジ、ガンコジジイが押し付けてくるアホらしい遊びに付き合う必要はない。

 ここでもあることとあることがフラクタルの関係にある事を発見できる。すでに存在する大陸とは何を指すのか?そして、新大陸発見のためにどこから飛び出せば良いのか。それはその頭の固い連中がそこにしか土地は存在しないとばかりに我々を長年閉じ込めてきたその領土のことだ。

 今の時代はまさに、新大航海時代と呼んでも良い。その情報空間という世界には新しい広大な土地が無限に広がっている。それこそ人の一生ではすべてを統治する事も発見することも出来ないぐらいの広大な空白な土地が広がっている事を見つけた航海者たちが存在するのだから。その新大航海時代における航海者となるのか、頭の固い"大人"たちの傀儡となって後悔者となるかは、もちろんあなた自身が選択すればそれで良い。だけど、"自分"を最大限生かすための人生戦略という文脈においては、前者が相応しいとは思うのだが。

 あなたが、今現在どのくらい"大人"たちの言いつけを守り自分の生命を消耗してしまったのかは分からないが、そのかぶっている鉄仮面が皮膚のようにしか思えなくても、かぶったままで良いので、自分なりの新大陸発見の為の航海へと船出してみることをおススメしたい。それこそ、新大陸を発見できた時に、今の旧大陸と決別するかを選択しても良いだろう。もちろん、そのような中途半端な考えでは、新大陸など発見できる訳がないという部分がある事もあるが、それほどいきなりストイックなチャレンジができる者などほとんどいないので、とにかく意識の向きを新大陸発見の向きに向かせるだけでも、あなたの止まった時間は再び動き出すことになるだろう。

 新大陸の発見のための航海のためには、まずは"将軍"と共に旧大陸をひたすら疑わせ、"軍師"と共に、新しい仮説という帆を立てて船出する以外にない。何かを疑わない限り、船の碇が今の停泊している港からあがる事は無い。まずはとにかくその重い碇をあげる為に、出来る限りのチャレンジをして、新たな新大陸発見への航海に旅立っていただきたい。

 何故、多くの者達はすでに色塗られた領土にばかり意識を向け、限られた領土をどう手に入れていくかという戦略を考えてしまうのか。ここについて考えてみると、「在る」と「無い」の世界観が存在することに気づく。コップに半分水を入れてみる。この水の入ったコップを見て、ある者は「コップに半分"も"水が入っている」と思う者もいれば、ある者は「コップに半分"しか"水が入っていない」と思う者もいる。これはどちらも同じ対象物を見て印象が違うのと同じで、"も"「在る」の世界に生きる者と、"しか"「無い」の世界に生きる者の世界の両者があるということだ。

 実際に物理的なもう限りのある領土を意識して生きている者というのは"しか"「無い」の世界で生きていることになるので、もはや自分の外側の世界で、セコくいかに領土を奪い合うかに躍起になるしか道は残されていない。もちろんそれは「奪い合い」の状態なのだから、1つのパイを何千人何万人で奪い合う地獄の鬼たちもそれは見ていてゾッとするような熾烈なイス取りゲームに参加することになる。

 その反対に、"も"「在る」の世界に生きれば、それこそ自分以外は誰も参加していない絶対に勝てるゲームとしては最高につまらないイス取りゲームに参加することが出来るのだが、この領土ゲームは誰かから奪い合う事が主旨かどうかを、疑う必要性がある。お釈迦さまが我々に残したメッセージとしては「You、自分しかいない新大陸を領土にして、思いっきり人生を楽しんじゃいなヨ?」的な事なのだと思うが、どうしても隣の芝生が青く見えてしまう習性が人の中には備わっているのか、誰かの持ってるソレらを手に入れたくなってしまう衝動に駆られるのかもしれない。しかし、この時代における勝者はお釈迦さまのメッセージ通りの生き方をしている者であり、彼ら彼女らは奪おうという気持ちがないのだが、"しか"「無い」の世界の者達の世界は、結果的に"も"「在る」世界の者達に奪われていく結果になってしまっている。

 やはり、ニギシメれば、ニギシメる程失っていくのが世の常なのではあるが、意図せずして"しか"「無い」の世界の者達がニギシメていた領土が、奪うつもりのない"も"「在る」の世界の者達へ渡っていってしまう皮肉な結果になってしまっている。この結果を見ても、今の時代は「自分の内側の世界」において、新大航海時代に参加し、新大陸を発見して、「自分の内側の世界」の新大陸を発見し領土を統治していく事が、「自分の内側の世界」においても「自分の外側の世界」においても、最善の"自分"を活かすための人生戦略と言えるだろう。そして、やはりお釈迦さまが言っていた通り「「自分の内側の世界」をなんとかすれば、「自分の外側の世界」なんて気にする必要もなくなんとかなってるってばよ。」的なメッセージは、実際にその通りになっているし、世の中で言われている自己啓発だのスピリチュアルだのというものが説く教え的なものは、このお釈迦さまのメッセージを、それぞれがアドリブきかせて言っているだけなので、我々が分かっておけばよいのは、お釈迦さまが言ってるこのメッセージを自分の腑に落ちるような言葉に変換して理解して生きていれば、それが自分の人生であり、1日1日の生活の中でのパフォーマンスとしてはパーソナルベストを叩きやすくなる生き方であり、生活の仕方と言える。

 それこそ、この新大航海時代における航海は、「自分の外側の世界」においてあなたが何かしら不自由な状況に置かれていたとしても、自由に航海することができるし、その反対に、自分自身が「自分の外側の世界」でどれだけ物理的に自由であったり裕福だったとしても、「自分の内側の世界」において航海へ出ないのであれば、それは「自分の内側の世界」においては狭い狭い独房に閉じ込められている状態となんら変わらない。意識という目が、自分の世界のどちら側に向いているのかというここが最重要であり、その舵を取るのは"将軍"でもなければ、"軍師"でもない、他ならぬ自分自身なのだ。陸地においても船上においても、旗を揚げることが出来るのは自分自身にしかできない仕事であり、それを"使命"と呼んでも良いのかもしれない。それでは、次項ではその「旗揚げ」について述べていく事にしよう。