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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

10:最後に"バトる"のと"悟る"のは何が違うのか?について語る

10:最後に"バトる"のと"悟る"のは何が違うのか?について語る

 

 この本も最後の項になったが、正直"悟り"の方向に進めばもはや述べる事は無いし、述べれば述べるほど、それこそお釈迦さまに無言のDisをアンサーされるネタを提供するだけで、それこそまだ微笑まれてればいいけど、ふつーに寝たりされたりするかもしれない。"悟り"ってのは、言うだけなら簡単なので、説明してしまうけど、

[悟りって何?]

  1. 自分の内側の世界で幸せ感じてりゃそれでいいんじゃね?
  2. どうせこの世界は内側も外側もないんだからさ。
  3. 嬉しいとか悲しいとかっていうそういう感情はただの錯覚でしかないんだし。
  4. 悟るってのは何かを得るっていうか、ただ「味わう」ようなものなのさ
  5. 観察と味わいの世界。それが悟り

 こんな感じだろう。もちろんこれが"悟り"について的確に説明できていないかもしれないが、大方こんなようなもんだ。別にお釈迦さまの言いたい事など的確だろうがそうじゃなかろうが、「何もない」って言ってるんだから何が的確かだって関係ない気がするし。そもそも「何もない」的世界観を言葉で説明している自体に無理がある。それこそ、お釈迦様の弟子の誰か様のように、立ち上がって何もせずにニコッと微笑む方が、「"悟り"って何なのかYou達言ってみ?」っていうお釈迦さまの問いに対する回答に対しては的確であることは私自身、疑問も否定の余地もない。だけど、この世界はどうなったかっていうと、世界中の人々が立ち上がってただ「ニコッ」と微笑んでいるような世界にはならなかった事実がある。

 それこそ、ガラの悪そうな不良が通うような風紀の乱れた中学校、高校のようにお釈迦さまの教えなどそれこそオシャカにされて、それからというもの自国内で殺し合うわ、次は他国の連中と殺し合うわ、金品は奪い合うわ、領土は奪い合うわという、立ち上がってただ「ニコッ」と微笑んでいるような世界とはほど遠い、似ても似つかない世界が、我々の外側の世界には広がっている。もちろん、それでもお釈迦さまは「どうせ何もないんだから、いいのいいの。」とどこかの全宇宙を統治する王様のように言ってくるかもしれないし、ただニコっと微笑んでいるだけかもしれない。

 だけど、やっぱり不思議なのは、皆が立ち上がってただ「ニコッ」と微笑んでいるような世界が我々の目の前には出現しなかったこれは一体何なのだろうか?それこそ、人々は「"悟り"最高!!」という世界を追いかけもしなければ、欲しもしなかったのだ。それこそ、この世界は生命の危険性の有無に関係なく、"悟る"のではなく"バトる"方向へと進み、今の世界を創り上げた。

 これは、本当にたまたまなのだろうか。「何にもない」だとか「なんでも良い」という空気の中で、たまたまこういう世界が作られたのだろうか?個人的には、私はそうは思わない。やはり"設計者"は意図を持たずにこの世界を作ったとしても何らかの「ベクトル」ぐらいは指示したような気がしてならない。つまり、"設計者"に、「"悟る"のと"バトる"のどっちかって言えばどっち?」と質問すれば、答えない可能性が一番高そうではあるが、やはり"バトる"方と答える気がしてならないし、この世界の結果が"設計者"からの答えだとすれば、その答えはやはり"バトる"方が正解だったという事になる。

 正しい間違えているというよりも、これは「ベクトル」なのだ。それこそ太陽が東から昇って西に沈んでいく事にいちいちクレームをつけてもそれこそ何も意味がないというよりも無駄でしかないのと同じで、宇宙のベクトルは"悟る"のではなく、"バトる"方向を向いているのが事実なのだと思う。そうでなければ、もうとっくに皆がお釈迦さまのようになっていたはずだし、それを平和と呼ぶかどうかは別として「争いごとのない世界」が我々の目の前に出現していたはずだ。だけど、そんな世界は我々の目の前には出現していない。むしろ、世界は大分平和な芳香を漂わせているようにも思えるが、何かきな臭い臭いもしているような気がしてならない。

 それらは過去の歴史から学べば、そして「歴史は繰り返す」というフラクタル構造から考えるのであれば、善悪という価値基準とは関係なくしょうがなく起こり得る事のようにも見える。そして、私自身は何故、人は"悟る"方向には進まず、"バトる"方向に進んでしまうのか?その原因は人間自体の設計というか仕様がそういうベクトルを向いているからだと思っている。いくらお釈迦さまが弟子の前たちでただ微笑み、その弟子たちがそれらを人々に伝えたところで、大して広がらずに、"バトる"世界の歴史を常に更新し続けているのは、誰か影響力のある者達が裏で牛耳ったとかそういう面白そうな話ではなく、ただ「人間がそういう作りになっているから」という単純な理由に他ならない気がするのだ。

 それこそ、基本的に我々は心臓の鼓動を自分の意識で自由自在にコントロールできないし、内臓においても同じことが言えるし、血流であったり、細胞に至るまで意識的にコントロールすることができない。人間が生まれて成長し、そして衰えて死んでいくまで、その「自分の意志ではコントロールできないそれら」は、どれだけ"何もの"かと"バトる"という営みを繰り返し続けているのだろうか。それこそ、体内に外敵が侵入した時に、お釈迦さまの体内の細胞であれ、免疫システムは「ニコッ」と微笑んでそのまま立っているのだろうか。そこについては確認する事は出来ないが、普通に考えればその状況下においてお釈迦さまの体内では"悟る"のではなく"バトる"方向で世界が動いている気がするのだ。

 それが「ベクトル」なのだ。生命のベクトルとは"悟る"方向を向いていない。そもそも"悟る"方向にベクトルが向いているのであれば、人間そのものの存在意義など本当に何もない気がする。そして、いちいち赤ん坊から大人に成長して、今度は衰えて死んでいくなどというこのシステムについても意味が分からなくなってくる。それこそ「どんなときもどんなときも、"悟って"ニコッと健康家族」的なCMでも流すのだろうか。

 "生命"というコンテクストを宇宙の視点で見てみれば、それはリレーの襷渡しのように見える。我々は先人たちの生命のバトンを受け取って、また後世の者たちへとバトンを受け渡していく。それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。では、その"生命"のバトンリレーを繰り返すうちに、この世界はどうなっていくのだろうか。数千年を経て、今我々はこのような世界を作りあげた。それが正解不正解に関係なく、「人間とは何か?」という問いに対する答えなのだろう。

[お釈迦様以降人間が辿ってきた歴史を見る限りでは・・・]

  1. "悟り"?どっちでもいいんじゃね?だけどまあ心身健康な方が良いっちゃ良いよね。
  2. "バトる"ことから逃げたらさ、この世界ってバージョンアップしないじゃん。
  3. 我々が"バトる"事を辞めないのは、まだまだ進化する可能性を信じているからさ
  4. だけど、命を奪い合うのは良くないよね
  5. もっと言えば、人間だけでなく地球に存在する仲間達とも共存したいよね
  6. そういう意味で、みんなでニコニコしていたいよね。
  7. だけど"バトる"ことから逃げたら、それは神への冒涜じゃないのかなって気がするけどね。
  8. だって、我々そういう仕様になっていて、長年"バトる"ことで進化し続けてきたんだから
  9. もしかしたら、退化しちゃった部分もあるかもしれないけどね。

 

 こんな感じではないだろうか。個人的には、何回お釈迦さまのいたところからコンティニューしたところで、結果としては今の世界と似たり寄ったりになる気がする。もしも異世界的な結論を得るためには、人間自体の設計であり、仕様自体を変えない限り無理だと予想している。

 そして"バトる"というここについて、人は臆病になりすぎているのではないだろうか。それこそ前項で述べた「自動ブレーキ」システムと同様に。進化する事は楽な事ではない。それこそ、もしかしたら立ち上がって「ニコッ」としていた方がよっぽど楽かもしれない。だけど、風は「進化」という向きに吹き続けているのだ。流れに逆らわずに進むのであれば、やはりそれは"悟る"のではなく"バトる"しか方法がないのではなかろうか。何故ならば、"バトる"、つまり弁証法的に何かと何かをぶつけて止揚していくしか進化のしようがないからだ。

 "悟る"のか。それとも"バトる"のか。もちろん各人がそれらを選択すればそれで良い話であるというオチについては否めないが、"設計者"が、我々人間に"設計者"ですら持っていない「ある可能性」という種をを蒔いたのであれば、それは"バトる"というこの進化システムをとことん繰り返し続けた先に、"設計者"ですら知らない領域であり、世界が用意されているかもしれない。そんな可能性が0ではないと信じたいが、これは私自身の都合の良い世界観であることは否めない。

 いろいろ考えたところで、もし正解に辿り着いたとしても、少なくともそれは我々の代ではない事も間違いない。ただのバケツリレーの真ん中辺で、バケツを隣りの誰かに渡すぐらいの役割でしかないのかもしれない。だからこそ、この時代に思いっきり迷惑が掛かったとしても、世界を派手に塗り替えるチャレンジに興じても良いのではないだろうかという呼びかけが、同じ時代を生きている者達に私が発信する唯一のメッセージだったりする。

 それこそ、どこかで"設計者"が我々をずっと見続けて「あの時代のあいつらはヤンチャな連中が多かったなー」と評価されるのと、「ん?そんな奴らいたっけ?地味すぎて忘れちゃった。」と評価されるのだったら、大したことないのかもしれないけれど、皆で"設計者"を一瞬でもドキッとさせられたらそれはそれで楽しいんじゃないのかなと。

 まず、お釈迦さまやキリスト・孔子やその他ちょっといるかもしれないけれど、ここ最近歴史に残るような人物っていない。それは「出来上がっちゃったからだ」と決めつけて先人たちのやってきたことを見習ってお行儀よく生きても良いのかもしれないけれど、某大国のように何事にも左右されない自由なパラダイムで、この世界をドキドキワクワクさせたのと同じようなチャレンジをしても良いのではないだろうか。それこそ、かつて「自由の国」と人々のあこがれの的だった国も今となっては「常識」だったり「しがらみ」だったりが出来上がってしまい、あの時の輝きなど放ってはいないことだろう。

 新大陸は「自分の外側の世界」にもうなかったとしても、我々の内側には無限に広がっている。「自分の外側の世界」をいじり尽くしてしまった今だからこそ、それこそ、お釈迦さまが「こっちの世界もええでー。」と呼びかけた自分の内側の無限なる広がりを持った世界を開拓しまくるフロンティアスピリットを、先人達以上に発揮して新時代であれ、新世界であれ、制約に左右されない中でどういった面白い世界を創り上げることができるか少なくとも、私自身はチャレンジする事にする。そういう事で、私は"悟り"の世界において、"バトり"の流儀で暴れてみたい。もちろん罰当たりだとかどこかの"大人"たちに怒られるかもしれないけれど、宇宙から見ればまだまだガキ盛り。とにかくこの世界を遊び尽くすためには、まだまだこの程度じゃ飽き足りない。