harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

1:日本と日本以外の違いって何?

1:日本と日本以外の違いって何?

 

 まず、大和魂が他の国の〇〇魂とそれほど違いがないのであれば、こんなもの研究する必要はない。その反対に、この大和魂という魂が、とにかく独特で、外とは違う部分が多分にあるのであれば、これは研究の必要性も多分にあるはずだ。

 では、魂がどうこうという前に、「そんなに日本って特異なのか?」って事を考えてみたい。ぼんやりしたイメージとしては日本は世界から見たらやっぱりへんてこな国のような気がしてならない。ではその「日本ってへんてこな国」っていうイメージはどこから湧き上がってくるのだろうか。

 1つ目はやはり『神さまの違い』にあると言って良い気がする。日本人が信仰する『神さま』を他の国の者が信仰していない。ここに日本の独自性が窺える。その理由は日本が島国であるという理由もあるかもしれないが、例えばイギリスも島国なのにあのあたりの神さまはみんな「キリスト様」のように思える。それこそ信仰の仕方というか「神さまの定義」のようなものは個性があるのかもしれないが、基本的に「キリスト様」であることに変わりはないし、そこから移民して創られた国々も基本的には「キリスト様」を信仰している。そのため世界観はそれほど違いがない。「これがヨーロピアン」というテイストには国が違ってもなんとなく似たものがある。そう考えれば、日本と中国も似ていると言えば似ているようにも見える。もちろん共通するものも多い。だけど、やはり日本と中国も何か違う。それこそ、中国は大陸側に存在し、日本は島国だ。「鎖国」などという言葉もあり、日本は良くも悪くも外部要因があまり入ってこなかった。その為日本独自の世界が創られていったのだろう。

 魂と神さまにはある共通点がある。その共通点とは「目に見えない」。これは何を意味しているのかと言うと人間が創作できる部分だということだ。例えば「木」であり「人間」の設計というものは人間が創作することは出来ない。もしもクローン技術などで、「生命」を人工的に作り出すことが出来ても、現時点では「生命」そのものを人間が設計することは出来ない。それはどういうことかというと、「心臓がなくても生きていける人間」だとか「魚の様に泳ぎ回れる人間」を創れないという事だ。結局は人工的に創れたとしてもそれらは、この世界の『設計者』の仕様の範疇の中でしか可能ではないという事だ。結局この「魂」であれ「神さま」も人間が創作する『概念』でしかなく、それらはすべてこの『設計者』の掌で転がされているに過ぎないという事なのだろう。

 死ぬと体重がいくらか軽くなって、その正体を「魂」と呼ぶ者もいるが、果たしてこれもある種の都市伝説とそれほど変わらず信憑性がない。そもそも、心臓や肺や胃のような内臓とは別で、自分の魂がどこに内蔵されているのか、何の機能を果たしているのかもわからない。もちろん裸の王様ごっこの好きな妄想好きの人間達は、そんなものがあるのかどうかも分からないのに「魂が」「魂が」とやってくるが、そんな泥酔しているオッサン以上にラリッてる者たちの戯言に付き合ってあげられるほどこちらも暇ではない。

 では、意味のある「神さま」であり「魂」の理解でありの解釈はどのようなものが妥当かと考えれば、それはやはり『概念』として理解する事が妥当だろう。「自分の外側の世界」に「神さま」や「魂」が存在するかどうかについては、現時点ではある事もない事も証明することが出来ない。だが、「自分の内側の世界」であれば、それらがあるということは実証できる。もちろんないと実証しても良い。適切に言えば「あると思う者にはあるし、ないと思う者にはない」ということになる。『概念』としての存在であれば、「神さま」も「魂」も存在する。もちろん「自分の内側の世界」に存在するものは何で創られているのかは人間の「想像力」でしかない。

 しかし、私自身前著「『自分』を最大限生かす人生戦略」の中でも述べたが、「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」はリンクしているという説を提唱している人間の一人である通り、『概念』そのものが無意味な、ただの妄想であるとは思っていない。これが何を意味しているかと言うと、この「自分の外側の世界」に存在するそれらの物質的モノ達は、我々人間の「自分の内側の世界」の中で創られた『概念』が投影されて創られているという考えだ。そう考えると、実際物質的な意味合いでの「神さま」やら「魂」やらは存在しないにしても、『概念』としての「神さま」やら「魂」やらが投影されてこの「自分の外側の世界」における物質であれ、現象であれ具現化しているという考えを私は持っている。ここについては、そうでない限り、説明がつかないと考えるのは私だけなのだろうか。

 この「自分の内側の世界」によって作り出された『概念』によるそれらの世界が、「自分の外側の世界」に物質的に投影された世界が、我々がよく知る世界であるとすれば、『神さま』であり『魂』は、物質的には存在していないとしてもどこかに存在すると考えてもそれほど頭のおかしな話にならないのではないだろうか。

 そして、住んでいる地域ごとによる『神さま』であれ、『魂』という『概念』がこの「自分の外側の世界」に投影されて、ヨーロッパであれ、アジアであれ、日本であれといった世界を「自分の内側の世界」の投影的に創りだす。もしも、我々日本人がはじめからこの日本という島国において、ヨーロッパの人たちと同じ神さまを信じて、この「自分の外側の世界」を創っていたとしたら、ここまでヨーロッパ地方の「自分の外側の世界」と投影される世界がかい離したのだろうか。やはり、もしそうであったときはヨーロッパ地方のそれらと似たような世界がこの島国の中にも創られていた気がする。そもそも明治維新以降は、そういう傾向が強くなっていることに関しては、歴史が物語ってくれているだろうし、例の大戦で敗戦国になった後はさらに日本という「自分の外側の世界」は元々の日本という国とはかけ離れてきた事も間違いないだろう。

 とは言え、日本はアメリカのそっくりさんでもなければ、ヨーロッパ地方のそっくりさんにもなれていない。それこそ、似ようとしても似ることが出来なかったある存在のおかげのような気がする。それは何かというと「言葉」だ。我々日本人に英語を苦手とする者が多いのは何故なのだろう?日本の中にいれば、英語を使わなくて済む、使う必要がないというのはもちろんだが、そもそも英語と日本語の文法のつくりや単語そのものが違うので、ポルトガル人が英語を覚えるのとは訳が違う。

 「はじめに言葉ありき」という教えのようなものがあるが、これはこの項で「自分の内側の世界」の中の『概念』が「自分の外側の世界」に投影されて創られているという部分に通ずるものがあるし、もしかしたら同じ事を言っているのかもしれない。この「はじめに言葉ありき」の中の『言葉』が、「自分の内側の世界」の『概念』であるとすれば同じ意味合いの事を述べているし、それが「自分の外側の世界」側の言葉の事を指していたとしても、どちらにしても「世界を創っている要素は『言葉』次第である。」という事については、私自身もそこに異論はない。何故、日本という日本はこうのような国であり世界になったのか?それは、「日本語」という言葉によって「自分の内側の世界」で創られた『概念』をこれまた「日本語」という言葉によって、「自分の外側の世界」に具現化させるという流れからすれば、自分の内側と外側の世界のどちら側にも『言葉』という存在は介入していて、それこそ「自分の内側の世界」を「自分の外側の世界」に投影するテンプレート的な公式があって、そこに各国の『言葉』を代入すれば、それらの世界観が、「自分の内側の世界」から、「自分の外側の世界」に投影されて具現化されていくというある種の仕組みがあると言っても過言ではないのではなかろうか。

 そう考えていくと、やはり「日本語」について考える必要性があり、この「日本語」という世界創造ツールによって「自分の内側の世界」創られたそれらの『概念』が、日本の神さまであり、大和魂なるものをこの「自分の外側の世界」に投影しているのだろうから、まずは「日本語」についての独自性について次の項では、あーじゃねーこーじゃねーとこねくり回してみることにする。