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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

3:「音」としての日本語について考えてみる

3:「音」としての日本語について考えてみる

 

 さて、前項では主に日本語の「文字」の要素で考察してみたが、この項では日本語の「音」の部分について考えてみたい。各言語には周波数的領域が存在することを御存じだろうか。実は日本人がなかなか英語を習得できないのは、この言葉の周波数の領域が違う領域に存在している事にもあるだろう。「英語がなかなか聞き取れない」という理由はおそらくここにある。しかし、今回は聞き取れるかどうかというよりもその国の言語発する言葉の周波数の領域が、何か「世界を創造する事」にどのくらい関係しているのかという部分についてだ。

 それはどういうことかというと、高い周波数の言葉で創られた世界と、低い周波数で創られた世界というものに違いが出るのかどうかという事だ。ちなみに、日本語の周波数の領域は低い。英語は高い周波数にある。ここでなにかヒントを掴みたいのは、「周波数が高いと何なのか?」「周波数が低いと何なのか?」という部分だ。そもそも言葉の周波数が低いとこのような世界が「自分の外側の世界」に投影され、周波数が高いとそのような世界が「自分の外側の世界」に投影されるなどという文献を私自身知らない。むしろ、この本がその部分について述べるはじめての本になる可能性すらあるのだ。

 もちろん、私自身が知らないだけでどこかで議論され尽くしている可能性もなくはないが、語学の学習関係については、それらの文献であれ、サイトを発見することが出来るが、言葉の周波数の高低差によって、世界がどう造られているかなどという内容をどこにも発見できないので、とりあえず手探りで探ってみる事にしよう。ヒントとなるワードは「周波数」「高い」「低い」という部分だろう。

 まず、私がこれらのワードから想像できるものは、「低周波」「高周波」というような世界観のあるものだ。身近なもので創造できるのは低周波治療器なのだが、これは周波数と関係しているのだろうか?どうやら関係しているらしいのだが、治療器の世界では、低周波が表面上で、高周波が奥の方に入っていくような印象をこちらに与える。さらに調べてみると、「低周波は貨物列車」「高周波は飛行機」と表現しているような内容を発見した。このあたりには何かヒントめいたものが潜在している気がしてならない。

 この、低周波は貨物列車」「高周波は飛行機」というこのたとえをヒントに1つの仮説を立ててみる事にしよう。これは言語に当てはめれば「日本語は貨物列車」「英語は飛行機」という事になる。もちろん「速さ」というコンテクストはもちろんあってそこだけで考えれば周波数の高い英語が優秀な気もするが、「地に足が着いている」というコンテクストで考えれば、低い周波数の日本語の方が何かしらの優秀さがあると考えても良い気がする。

 たとえば「ファーストフード」と言えばハンバーガーが代名詞と言ってしまって遜色はないだろう。このファーストフードの文化は周波数の高いアメリカから日本に流れてきたのかと考えると、日本は日本でファーストフードとは呼ばなくても、ファーストフード的な文化はおそらく存在していただろう。とは言え、そういった「軽くて速い」ような文化を創ったのはどちらかというと言語の周波数が高い国の文化であるような気がしてならない。最近で言えばAmazonの本を注文してから家に届くまでの速さはまさに高周波的速さと表現しても良いのかもしれない。あれらにしてもやはり、英語圏の文化から生み出されたビジネスモデルでありサービスなのではないだろうか。

 「速さ」であれ、「軽さ」であれ、これは何かの面においては非常に魅力的なものを生み出すが、それはまた違う見方をすれば、粗悪なものを生み出す危険性をはらんでいると言っても良いかもしれない。例えば、アメリカの畜産業はまさに我々日本人から見れば、生き物を工業製品を造るかのような方法で合理化させて造っている。それらが果たして本当に良いものであるかどうかは疑わしい話ではあるし、日本人の私としてはそれらの発想を理解する事も受け入れることもなかなか難しい。

 牛肉ひとつとっても、それですら「生き物ではないか」とツッコミを入れられる可能性はあるとしても、なぜ、日本の畜産業は素晴らしい食べ物をつくれるのかというと、やはりそれは日本人的な何かがそこに潜在しているからだろう。やはり、日本人は、アメリカ人のようにそんなに合理的にものを考えることはできない。いずれ殺して食べてしまうにしても、工業製品を扱うように生き物を飼育する事はできないのだ。そのあたりに低い周波数(≒貨物列車)的なる世界観が垣間見えるのは私だけなのだろうか。

 この「貨物列車対飛行機」に似たような事を私は考えたことがあるというか、以前、私はある人物のレポートの内容を指導した時に、「鈍行列車対新幹線」というテーマの議論をしたことを思い出す。この議論は単純に「鈍行列車で時間をかけて旅をする良さ」と「新幹線に乗って快適に早く目的地に到着するたびが良いか」というような議論なのだが、もちろん両方に良い部分と悪い部分がある。だけど、今の時代というのは「早ければ良い」「速ければ良い」という風潮がある気がしてしまうのは私だけだろうか。これは電車に限らず、様々なところで「早ければ良い」「速ければ良い」という価値観が蔓延っている気がしてならない。前述したAmazonの商品お届けの件にしたって同じことが言えるのではないだろうか。

 これは見方を少し変えれば「手軽さ」「便利さ」という部分に価値の重きが置かれたという事だろう。「じっくり」「手間をかけて」みたいな部分に価値が置かれなくなった。それこそ、最近では低料金でマッサージしてくれるお店であったり、散髪のサービスにおいても低料金で短時間でカットしてくれるお店などをよく見かけるが、これらも「手軽さ」「便利さ」を売りにしているサービスと言える。そこにはなんというか「軽さ」のようなものを感じてしまう。

 最近はあまり聞くことがなくなった言葉かもしれないが、「ヤンキー」という言葉がある。これは不良というような意味も強いかもしれないが、やはりアメリカナイズされた感じの不良というような意味合いがある気がしてならない。和風の不良の事を決して「ヤンキー」とは呼ばないだろう。そこにはやはり何か「軽さ」のようなものを感じてならない。

 良くも悪くも「日本語的」「低い周波数的」世界というものの中には、鈍行列車に乗って景色を楽しむ的な要素が含まれるのではないだろうかと考える。急いでいる時にそれらを速く済ましたり、目的地に早く辿り着くことは便利であるかもしれないが、それはどの部分にフォーカスでありコミットしているかというと、数年前から流行っている結果にコミットするという発想だろう。これに対して、鈍行列車の旅は過程(プロセス)にコミットしていると言っても良いだろう。

 もしも「低い周波数=届くのが遅い」と考えてみた時に、「日本人的」であり、「それらに内在する大和魂的」なるものを発見するのであれば、やはりそれらは鈍行列車の旅を彷彿させるような、目的地にたどり着くまでにおける過程を味わうような要素が含まれると考えては良いのではなかろうか。と、私は考えてしまう。

 再び、食べ物の話で考えてみても、アメリカナイズされた食べ物というのは基本的にそれほど咀嚼する事を要さないし、要求してこない食べ物が多いのではないだろうか?それに比べ、少なくとも「大和魂」を我々に喚起するような「日本ならではの」食べ物の多くは、咀嚼する事「よく噛む事」を要求している気がしてならない。「食の欧米化」という言葉があるが、欧米の食べ物と、日本ならではの食べ物の違いとは何なのか?やはり、日本人は作るところの過程から、「食」の世界が創られていて、アメリカ人の食文化と比較すれば、アメリカの「食」の世界は「食べる」という結果の部分にのみ世界があると見ることは出来ないだろうか。

 実際、このあたりの事は私がサッカー指導者をしていたときに各世界のサッカーをよく見て国ごとの違いを考えた時があったが、サッカーひとつ取ってもアメリカには「結果にコミットとする」サッカーが如実に表現されていたように見えたのだ。ヨーロッパの伝統的なサッカーに比べて、サッカーに伝統などないフィジカル的には優れた選手の多いアメリカのサッカーは、「とにかく点が取れればそれで良い」というように見えた。それだけに、私にとってはそのサッカーがある意味斬新で感動してしまったのも事実だったりする。

 日本語の文法と英語の文法を比較しても「結論」がズバッ早く届くのは比較するまでもなく英語であって、日本語程まわりくどい言い方をすることが出来る言語はないのではなかろうかというレベルで日本語はまわりくどい。この部分で考えても、欧米の言語は日本語に比べて「高周波的」であって、日本語は音の周波数にしても、文法の構造から言っても、「低周波的」だと言える気がする。

 この観点からすると、「日本人的」であり、「大和魂の発動的」な事を考えれば、『しっかり過程を咀嚼した上でゴールにたどり着く』というこういう物事の接し方であれ、生き方が「日本人的」「大和魂を震わせる生き方」と考えてよいのではないだろうかと、私は推測してみた。

 実際、今の時代において世界から評価されている多くの日本人たちも「ものごとを咀嚼する力」によって、日本国外の文化を日本人なりのカスタマイズであり、アドリブを効かせて世界を驚かさせているような気がしてならない。この項で「大和魂」の中にあるであろう必須の要素は「日本人なら咀嚼力」という事をひとつ仮説として立てたい。なので、自分なりに「大和魂=咀嚼力」という部分を意識して自分自身を実験台にして今後生きていく事で、どういう結果になるかで、「日本ならではの咀嚼力」がどうやなと魂に関係しているのかを引き続き追いかけていく事にする。

 そう考えた時に、個人的にこだわっている部分が1つある。それは子ども達の登下校だ。危険を回避するという理由だと思うが、集団登下校なるもので子ども達は自由を奪われた。何の事由が奪われたのか?それは『寄り道の自由』のことだ。この『寄り道』こそ私は「咀嚼」そのものと考えていて、もしも「大和魂」に「咀嚼する力」が大きく関係しているのであれば、今の日本は、義務教育の場において、我々日本人から子どもの内から「大和魂」というエンジンを奪おうとしていることになる。

 私の個人的な要望としては、国を挙げて『寄り道文化』を復活させて、「咀嚼する力のある日本人の育成」を皆でそういう環境づくりをするべきだと考える。が、国になど期待してもいつになるのかも分からないし、逆に進む場合すらあるので、やはり自分でやれることをやっていくしかないといういつもの結論に落ち着いてしまう。むしろ、日本の政治であれ、政治家たちを見て「咀嚼する」ような日本語的な政治をしている人間等皆無に見えてしまう。そういう意味で考えれば、今の日本は、高周波的世界だと言えるだろうし、少なくとも1000年前の日本と比べて、投影されている世界は明らかに高周波的な世界になっている事は事実なのではないだろうか。