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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー

4:ボインとhigh and low、倍音にRide on野郎、死因はアイアンクロー

 

 どっちの味方かなんて関係ない。この勝負がおもしろくなればそれでいい。というある超人の名言がある。そう考えた時、もうどっちの読み方なんて関係ない。そこの場で押韻できるのであればそれでいい。という精神を私は忘れたくない。それによってこの本の品位が著しく下がったとしても、強引に踏んでいきたいし、そこは貪欲に行きたい。むしろその精神にも「大和魂」は内在していると信じたい。そして金字塔を打ち立てたい。そして自らの手で切り開きたい新時代。

 さて、ようやく温まってきたところで、前項では言語の周波数という観点から、大和魂の重要な要素として1つの仮説を立ててみたのだが、今回も音に関するコンテクストから大和魂の要素を見つけ出してみたい。それは、以前から私が気にしていたある「音の秘密」のような話がある。それが倍音だ。

 とりあえず、倍音とはこのような辞書で調べてみると、

 

倍音

上音の一。振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音。ハーモニックス。

 

 という説明なのだが、正直なんのことだかよく分からない。基本的には鍵盤で叩く「ド」の音の中にも「ド」だけではなくさまざまな音が入っているというのが音の基本であって、ひとつの音に聞こえるようでもそれらの音の中には、複数の音が入っているし、入れることも出来る。ここと倍音が関係がある。

 たとえば「し」という音だが、日本語で「し」という音の意味は、「死」であり「師」であり、「詩」というものがあるが、「しをかく」といった場合に「死を書く」とは言わないし、「しをかくごした」といった場合に「詩を覚悟した」とは聴こえない。もちろん文脈上の意味もあるかもしれないが、「死」の時に発する「し」と、「詩」の時に発する「し」は違う。これは何が違うのか「音に表情がついている」のだ。日本語はこの「音に表情をつけることができる言語」といえる。それに対して西洋の言語は音に表情をつけることが出来ず、もしも言葉を強調するためには音量をコントロールする方法しかない。言ってみれば「凄み」的なものを日本語にはつけられるが、

西洋の言語には「凄み」をつけることが出来ない。

 そこに関わってくるのが「母音」と「子音」なのだ。日本語は母音がメインで使われている言葉であることに対して、西洋の言語は子音がメインで使われている言葉であるため、ここにそれぞれの言語の性質の大きな違いを見つけることが出来る。それはまさに「大和魂の要素」とは何かという秘密に迫ることが出来る一要因を見つけたことになるのではないだろうか。そして前項の低周波の日本語、高周波の西洋語というこの関係とも一致しているのではないだろうか。

 西洋人達の発音は口を大きく開けて発生するため、顔の表情が豊かに見える。それに比べて日本人の発音は口をそんなに大きく開かないため顔の表情が乏しい印象を与える。これが何を意味しているのか?それは西洋人の発する言葉の音には表情がなく、日本人の発する言葉の音には表情があるという事を物語っているとも言えるのだ。

 それはどういう事かというと、西洋の言語は子音がメインになっているため、子音に倍音によって表情をつけることができない。しかし、日本語は母音がメインになっているためそこに倍音をのせてさまざまな音の表情を作り出すことが出来る。ここに日本語と西洋の言語の違いを見出せる。

 そして、現在の発声法は日本式の発声法法ではなく、西洋式の発声法法を取り入れる傾向にある為、音に表情をつけるのではなく、音量によって言葉を相手に届けるやり方にシフトしてしまっている感がある。それは日本語の構造的に不適合な発声法であり、発声というものは呼吸の仕方にも直結しているので、ここに「大和魂」を我々が失った要因を見つけることが出来るのではないだろうか。

 例えば、若者たちは演歌を効かないし、興味もそれほど持たないだろう。やはり民謡であれ、演歌であれ「日本的な音楽」を感じさせるそれらの音楽は、倍音を意識した音楽が多く、時代が進むにつれて西洋的な倍音をそれほど意識しない音楽が浸透し、そして日本人の音楽そのものも西洋化している。ここにも「音の咀嚼」という要素が関係している気がしてならない。つまり、西洋の音量のコントロールだけの音楽は、音を咀嚼する必要がなく、日本の音に表情をつけているそれらの音たちは、出す側にとっても入れる側にとっても「音の咀嚼」を必要とするのではないだろうか。

 ここでひとつ仮説として立つのは、「大和魂」というものは、やはり目に見えないところに内在するそれらの何か要素を多く含んでいる気がしてならない。人と人とのコミュニケーションにおいて、『メッセージ』というものはただの言葉の羅列ではなく、表情であれ、音に倍音をどう載せるのかという事などの総合的なものが『メッセージ』として届くとすれば、西洋的なメッセージの発信であり受信というものは、それこそ表面的に出ているものであって、日本的なメッセージの発信であり受信というものは、その言葉の奥に入れられている何かエネルギー的なものと比較することが出来るのではなかろうか。そうすると、最近流行りのメールだのチャットだのというやり取りが、西洋的であるのか、日本的であるのかという事も分かってきて、やはり言葉の中にエネルギーを込めて伝える言語である日本語の場合、音を発する事の重要性というのは大いにある気がしてならない。

 音から表情がなくなった時、日本から「大和魂」は失われる。海外に『言霊』という概念が存在するかどうかは分からないが、今回の倍音というコンテクストと、その国の言語が母音メインか子音メインかという事で考えれば、子音メインの言語の国の人々には『言霊』という概念はおそらくないし、あったとしても違うコンテクスト上の意味合いのものを言っているのだろう。おそらく、素直に考えれば『言霊』の正体は、この「母音に倍音を載せて音に表情をつける」というここに集約されているのだろう。

 そう考えると、これもまた「言霊」だの「音魂」だのとオカルトチックな事にを勝手に自分の思い込みで妄想世界に憑りつかれる人たちの格好の餌食になってしまう『言霊』なのだが、基本的にはこの母音メインの言語である日本語の言葉にしっかり倍音によって表情をつけた言葉の音の事を『言霊』と呼ぶのであろうから、それは決して魔法のようなものではなくて、それらの原理さえ分かっていれば我々日本人は『言霊』を操ることが出来るということになる。そして、オカルト大好き人間達がありもしない世界観によって造っている呪文のような言霊世界など「自分の外側の世界」には存在していない。だけど、西洋の言語にはない特質言葉に倍音を載せる技術(=言霊技術)は実際に存在しているのだ。

 そしてそれらは身体にも影響を及ぼすのは当然だ。今現在、西洋式の発声方法で日本語を話すという事はどういうことかというと、刺身にマヨネーズをつけてたり、ソースをつけて食べているのと同じだという事だ。日本で食べる寿司と西洋で食べる寿司のクオリティのあまりの違いを知る者であれば分かりやすいと思うが、日本的なものを西洋的に表現すると、西洋的なあのクオリティの低い寿司のような状態が起こる。

 もしも我々が「言葉の発生の仕方」が西洋的になり、我々の日本語の『言霊』クオリティが西洋の国で食べる寿司クオリティに成り下がってしまっていたとしたら、それはパフォーマンスが落ちるのも当然だろう。昔と違って社会がグローバル化しているのは当然な事で、西洋の文化であれ、技術を鎖国的に受け入れるなという事を言っているのではないのだが、受け入れすぎて刺身にソースやケチャップをつけて食べてみるとか、西洋の国で食べる寿司クオリティに、日本的なものをいちいちベチャベチャにして、我々が本来持っているであろう「大和魂」をそうやってベチャベチャにして、何もかもを西洋かぶれにしてめちゃくちゃにする必要はないし、それこそせっかく日本に生まれてきたのにもったいないとしか言えない。ぺちゃくちゃしゃべるときにおいても、我々日本人は日本人としての誇りをもって、言葉に魂を込めてしゃべるそれこそ「日本人としての義務」のようなものがある気がするし、それこそ神さまがいるのであれば、日本人にGiveしてくれた特別な贈り物の1つのような気がする。だから、我々日本人は1人1人が『言霊使い』であるという自負を持つべきなのだろう。