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原澤出版の執筆用ブログ

5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる

5:西洋が入ってくる前の日本との対話をしてみる

 

 前項では日本の言語まわりから「大和魂とは一体何なのか」を探り出すというか炙り出してみたのだが、個人的にはなかなか良い線をつけた気がしてならない。「大和魂」とは低周波的であり、表現に倍音を内在させるひと手間加える的な要因があることを確認することが出来た。私自身、『大和魂』の中に含まれる要素としてこの「ひと手間かける」というか「何かしらの工夫」のようなものがある気がしてならない。そしてそれらは、西洋のそれらのようにそれをパッと見ただけでは、パッと聞いただけでは理解できない、なんらかの深み的要素があるような気がする。それはスローだからこそ確認できる何かしらの対話した後であったり、何かと格闘した後に確認できる汗のようなもの、そこに『大和魂』が集約している気がしてならないのだ。

 日本とそれ以外の国の違いは何なのだろうと考えてみればやはり開かれた土地であったか、閉ざされた土地であったかという部分があるだろう。つまり日本はある意味非常に「有限的な世界」だったということだ。その中で、領土として限界が来た時、日本人は日本人的創意工夫によって、この日本的なる世界を創造していったと考えてよいだろう。

 さて、この項は『西洋』が入ってくる前の日本について考えてみたい。『西洋』が入り込んできた分岐点のような時代は、簡単に言えば三つあるような気がする。一つは社会科の歴史の教科書に照らし合わせれば、フランシスコザビエルが日本にやってきたあのあたりであり、二つ目は明治維新あたり、そして三つ目は大戦で敗戦後にアメリカ様が日本を統治したあたりだ。その三つの時代で西洋が、日本に入り込んだ時に導入されたものはなんなのかを「大和魂が衰退した理由」として何かしらのヒントを見つけ出すことが出来ないかを考えてみたい。

 まず一つ目のフランシスコザビエルだのルイスフロイスだのといった宣教師達が日本にやってきた時代の事を考えてみると、あの時代に入ってきた大きな西洋的要素は、キリスト教と鉄砲ではないだろうか。それまで日本にはキリスト教などという宗教は日本人の「自分の内側の世界」には存在することがなかった。簡単に言えば「天使」という概念はそれまで我々日本人の中には存在していなかったという事だ。「隠れキリシタン」などという言葉があるが、日本人の民を統治する者達は、キリスト教を恐れた。中にはキリシタン大名的な存在もいるが、豊臣秀吉であれ、徳川家康キリスト教が広まる事を恐れた。織田信長に関しては、キリスト教をそれ程恐れていないような印象を受ける。それこそ、織田信長自身がキリスト教的発想の持ち主だったのかもしれない。ただ単に、それまでの日本の宗教をあまり好き好んでいなかった可能性もあるが、そこに関しては織田信長本人に聞いてみないと、実際のところはよく分からない。

 とは言え、織田信長は『西洋』を受け入れる事に積極的な思想の持ち主だった気がしてならない。それこそ「これまでの日本をぶっ壊して、あたらしい日本を創りたかった」ようにも思える。そして、それは人体の仕組みとして起こるホメオスタシスのような作用が、日本という1つの生命体の中でも起こったのではないだろうか。織田信長が死んだ後は、豊臣であろうが、徳川であろうが、『西洋』を取り入れることをそれ程積極的に行わなかった事実があり、家康の孫の代では「鎖国」と称されるように、『西洋』を取り入れることを反対に積極的に閉じる方法に進んだのは、歴史が示している通りだろう。

 まず、『西洋』の宣教師たちはなぜ、彼らの国から見てみればこんな最果ての地までやってきたのだろうか。日本をどのように見ていたのだろうか。おそらく、彼らは日本を植民地化しようと考えて妥当だろう。その後の歴史を見ても『西洋』がアメリカ大陸であれ、アフリカ大陸であれ、アジア地方の国々を植民地化している事実からすれば、日本とだけ仲良くお友達になろうなどという発想は考えられない。むしろ彼らは肌の色が白くなければ自分たちと同じ人間ではないぐらいの考えでいたと考えるのがそれこそ妥当だろう。そうでなければ「植民地」という言葉というか世界観自体が「自分の外側の世界」に投影される事は無いからだ。そう考えると、通常の日本人で、しかも天下統一するような大物であれば、『西洋』というウイルスが日本という体内に入り込むのを拒もうとするのは自然な反応のような気がするし、どういう理由かは分からないが織田信長だけがブッ飛んている気がして、それこそ一番怖いのは、外部からの侵入よりも内部から崩壊してくことの方が恐ろしさを感じるのは私だけだろうか。そして、徳川家康が最終的にこの時代の覇者になったのも何か日本的な低周波的な見えない何かに内在するエネルギーの強さのようなものを感じずにはいられない。見方を変えれば、日本に愛されたのは、織田でもなければ、豊臣でもなければ、徳川だったのだから。それこそその前には今川だの武田だのいたのに、この時代に愛されたのは徳川であり、徳川の時代は約260年も続いた。またこの江戸時代という世界から見たらおそらく不可思議な世界観を醸し出していた時代こそが、日本を日本たらしめる低周波的なゆっくりと日本という国を熟成させる期間だったのかもしれない。そもそも江戸自体の前の時代は日本の中にいくつもの国があって、日本人同士が殺し合って領土を奪い合っていた時代なのだから、それらが1つの「日本」という国になって、まとまっていくためには『西洋』なんてものに入り込まれたらそれこそ、日本という国の独自性は今現在のようにまとまらなかった可能性が高い。アメリカがイギリスっぽくないのと同じで、なんだか雑種っぽいよく分からない国が出来上がってしまった可能性が高いし、そもそも今の時代の日本は、多少なりとも雑種っぽい雰囲気を醸し出している。

 そういう意味合いにおいて、良くも悪くも、そしてたまたまなのかもしれないが、日本が日本として引きこもっているこの時間は、非常に貴重な時間だったような気がしてならない。もしかしたら、日本が鎖国をしていなければ、日本の領土は今とは全く違うもので、それこそ世界の覇権を握っていた可能性もなくはないのかもしれないが、その場合は、完全に日本人は「大和魂」を捨てて、ただの強欲な世界の覇者に成り下がっているだけの可能性が高い気がしてならない。もちろんそれを成り上がりと解釈することも出来るのだが。

 しかし、「日本人性」という観点で考えれば、今の領土のサイズと、日本という独自性を大事にする民族として生きることが望ましかったような気がするし、それが良くも悪くも「日本人らしい」生き方のような気がしてならない。そもそも日本人が国を奪って領土を広げていくという生き方に向いていない気がする。それは、言語の構造からしてそれらが窺えたように、言語だけでなくその他のコンテクストを踏まえて考えても、日本人というのは鈍行列車を楽しめるだけの情緒の豊かさを持つ民族なのだから、『西洋』のような世界支配ゲームに参加するよりも、日本という国の中で、「自分の内側の世界」の豊かさを目一杯楽しむ生き方を存分に味わうことが日本人としての幸せのような気がしてならない。それこそ、『西洋』かぶれしようとした日本人達にそのあたりの事をどう考えていたのかを聞きたい。ある意味の戦犯はその「大和魂」を売って、『西洋』の真似事をしようとした者達なのではないだろうか。とはいえ、その「自分の外側の世界」の豊かさよりも、「自分の内側の世界」の豊かさを味わう民族を、『西洋』がそうっと見守ってくれるかどうかというと、それは別問題だし、『西洋』的に考えれば、大人しくしていてもいつの間にかガブリとやられてしまうのが関の山なのだろうから、日本が『西洋』にかぶれようとしてみたり、好戦的になっていたのもそれはそれで必要な事だったのかもしれない。

 しかし、今の時代においては相当の事がない限り、日本が『西洋』にかぶれることなく、日本人らしさを追求する事でミサイルを落とされることはないので、もう一度『西洋』が入り込む前の「日本」を思い出してみて、やはり日本人としてのパワーが最大限出るような生き方であり、「大和魂」という国産のエンジンを搭載して日本人が日本人らしいパフォーマンスを発揮して、日本人の独自性がもっと発揮できるような生き方を見出すべきだと考える。そもそも『西洋』の宗教観ではない我々日本人が、『西洋』にかぶれたところで、なんだかよく分からない世界が創られるだけだろうし、そもそも、その奇妙な世界観を、日本の外側の国の人間達は面白がるかもしれないが、それは自分たちの発想とは違うなんだかへんてこな世界観が浮かび上がる事を面白がっているだけで、それほど彼らはリスペクトなどしていないのではないだろうか。

 もしも、本気で「『西洋』の者たちよ、どうだっ、これが日本だ!」と一発パンチラインをかますのであれば、もう「日本100%」を見舞うしかない気がしてならない。それこそキリスト教の伝統のない日本人が、いくら天使がどうこう的な世界観を創り出したところで刺身にケチャップつけて食べる奇妙なジャンクフードが出来上がるだけだ。またアマテラスオオミノカミやらコノハナサクヤヒメをキリスト教の世界観で描写したところで、なんだか醤油臭い西洋料理が出来上がるだけかもしれない。

 混ぜ合わせると力を発揮するものもあるが、混ぜ合わせることで微妙なパフォーマンスしか発揮しないものもあって、少なくとも「魂」という存在は、何かと何かを混ぜ合わすような事をしてはそれほど力を発揮できないような気がしてならない。

 しかし、日本は明治維新あたりで完全に『西洋』にかぶれだす。伊藤博文においては「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」と言ったようだが、ある種第二の織田信長登場と言っても良いような発言だ。織田信長はこんな卑屈な事は言わなかったかもしれないが、「日本の伝統」に関しては何も価値がなかったかのように捨ててしまうかのような発言だ。日本の近代化に向け一役も二役も買っているのだろうが、やはり日本という生命体は、伊藤博文織田信長同様にホメオスタシスしてしまったのかもしれない。事実、伊藤博文は暗殺されてしまっている。日本という生命体の意志はやはり日本というあの島国こそが自分自身なのだという主張をしているようにも見えなくもない。そして、日本という生命体そのものが『西洋』にかぶれたいと思っているように見えない。それこそ、日本語の母音に込める倍音メッセージではないが、日本という生命体に耳を傾ければ、この日本という島国が何を望み、どのようなメッセージを発しているか、それこそ我々日本人であればそのメッセージを聞き取ることが出来ると信じたい。

 「大和魂」とはその日本という生命体の声を受信する目に見えない内臓と言っても良いかもしれない。そして、我々も「大和魂」という発信機によって日本という生命体に語り掛けることが出来る。そこに『西洋』的なものが混ざれば、雑音だらけで聞き取ることも出来なければ、もはやそこにチャンネルを合わせる事すらできず、「大和魂?何それ?」という事になってしまい、ただの『西洋』かぶれした高周波的な「日本」というコンテクストにそぐわない何かの猿真似的なそれこそ二番煎じ的な魂でしか生きることが出来なくなるだろう。もちろん、それらを選択するのは本人次第だが、私個人としてはせっかく日本人として生まれてきたのだから、純日本的な生き方を追求した上でこの世界を味わいたい。そうでなければはじめから『西洋』の国に生まれてくれば良かったのだから。日本の外側の何かを取り入れる前に、まず日本式のそれらを徹底的に学ばない限り、何をやったところでその目に見えない皮膚はかぶれてしまう事になる。

 しかし、そもそも日本の教育が「大和魂を学べ」という内容のものではなく、すでに『西洋』にかぶれてしまっているので、それこそ三つ子の魂百までもではないが、今の時代の日本人の多くは、かぶれているのではなくはじめから『西洋』っぽい生き方をしているので、もはや我々は日本人なんだか何人なんだか分からず、とりあえず日本語をしゃべってる『西洋』っぽい生き方している人間みたいな括りになってしまっている可能性は高く、過去の時代の日本人達が私たちを見た時に我々を見て喜ぶのか、憂うのかそれとも嘆くのか。やはり先輩たちは我々に対して「日本人としての誇りを持て」と説教してくるような気がしてならない。もちろんその「日本人としての誇り」の中身も各時代によって込められているエネルギーは違うとは思うが。