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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話

6:日本食という大和魂について実験した西洋人のお話

 

 『西洋』が日本に入り込んだ歴史を調べていると、一人のドイツ人の医者がやたらと登場するのでそのドイツ人の事を調べてみた。そのドイツ人の名前は、エルヴィン・フォン・ベルツという明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人のようだが、彼の考えや発言を見ると、『西洋』だから高周波的で早い安いうまい的なチープな世界観を押し付けるものではない事が分かる。それこそ、「伝統」を重んじる大切さを説いている洋の東西を意識させない思想の持主なのであろうことがベルツ本人の発言からして窺える。

 私自身、もちろんワイン一つとっても『西洋』が何事においても雑で無機質なものを創り出していないことについては存じているのだが、それこそ医学の世界では、悪い部分があればその悪い部分をどうにかするという「結果に対してなんとかする」という手法がやはり『西洋』的であって、東洋の考えは、「結果」に対しての原因であり過程との対話により処方を考えるという手法と比べるとやはり、『西洋』のそれらというのは「結果」にコミットする価値観から創作された世界であることは否めない。

 とは言え、このベルツという人間は、調べている限りでは『西洋』的ではありながら、「過程」をしっかり大事にした上で物事の分別をしっかりと吟味できる人物だった事は間違いない。むしろ、ベルツの発言を見ている限り、『西洋』という新しいそれらを目の当たりにして、自分を見失い浮足立ってしまったのは日本人であるお前たちの方で、その姿がひじょうにみっともないし、情けないというような苦言を呈し続けている気がしてならない。ベルツの主張には何よりも「それぞれの伝統を重んじる事」。その土台のがあってこそ、の異文化交流である事を訴え続けている。「受け入れるのは良いが、魂まで投げ打ってまでして取り入れてしまえばそれは奴隷や傀儡と変わりはしない。」という事はベルツは述べている気がしてならない。

 そう考えると、『西洋』に対して、我々日本人が無駄に尻尾を振りだしたのは何も戦争に負けて逆らうことが出来なかったからではなさそうだ。個人的にこれに似たような事をサッカーの世界でそれこそフラクタルな関係として見たような気がする。「スペインの真似事をして日本も世界一になれ」というような馬鹿な指導者がいるが、まさに歴史上で、日本が『西洋』にかぶれてブレブレになったその歴史とまったく同じことを発言しているのだ。歴史から学ばない人間、歴史から学べない人間というのは非常に恐ろしいものがある。そういった日本という伝統を無視し、ただひたすら『西洋』に尻尾を振る売国奴的な発想の持ち主達は、「民族」というコンテクストが完全に抜けていて、そこに存在する「伝統」から練り上げて作られる「魂」というものの存在を知らないようだ。だから、簡単に自分の生まれた土地の「魂」を安売りして、「我々も『西洋』の真似事をして世界のトップクラスに立とう!」というような恥ずかしいキャンペーンを声高々とし始めるのだ。

 正直なところ、「伝統の安売り」的な事は個人的には戦争よりもやってはいけないようなことがしてならない。言う事も許されない位の話のような気がしてならない。もちろん法律上、自由の範囲内にあるので言う事は自由なのかもしれないが、「結果が出るのであれば、日本人としての誇り何て捨てちまえ。」みたいな、そういうことをよく公衆の面前で言えるなと個人的には呆れてしまう。

 何度も誤解の無い様に述べるが、「『西洋』のものなど取り入れるな!」という鎖国主義的な意見を述べている訳ではない。しかし、「大和魂」という日本の伝統的な土台まで捨てて、『西洋』人ごっこをしてそれによって結果が出たとしてもそれは日本人が素晴らしい事を証明したのではなく、「日本人は猿真似がお上手」という事を証明しただけに他ならない。そんな猿真似の為に、自分の有限なる人生を費やしたいとは思わないし、そのような事を偉そうに主張する者たちを私は指導者だとは思ってもいない。

 さて、そのような百円ショップ並みの安さで、日本人としての魂を安売りする連中の事はさておき、日本の伝統を大事にするよう主張したドイツ人・ベルツが行ったある食事の実験についての話を取り上げてみたい。

 ある車夫が長距離を何度も馬を乗り換えて進んだ時間と同等の時間で人を運んだのだが、車夫に何を食べているのかと聞いたところ、玄米、梅干し、大根の千切りのみそ汁、たくあんだけだったという。そこで、ベルツは、肉を与えたらどれだけ凄くなるのか思いと肉を食べさせてみた。肉食に変えたところ、すぐに根をあげてしまい、元の食事に戻してくれと訴えて来た。元の食事に戻すとまた元気に引っ張れるようになったという話なのだが、ここにも「日本食の凄さ」というものが垣間見える。

 この話だと、肉食は何も良いところがなさそうなのだが、おそらく瞬発的な力を発揮するのは肉食なのではないだろうか。ここでまた「瞬発的(≒高周波的)」と「持続的(≒低周波的)」な世界観が見え隠れしている気がしてならない。もはや日本人というコンテクストは、低周波的な生き方をしているのだから、肉食といった「瞬時の結果」を出すようなある種の高周波的な食事をとれば、パワーも出なくなるし、持続力が失われてしまうのは当然の事ではないだろうか。やはり、日本人にはそれこそ低周波的ともいえる玄米であれ、菜食のような食べ物が、力が日本人的なパフォーマンスとして出ると考えて妥当だろう。それこそ、日本人であればなおさら「結果」ではなく「過程」を考えた上で、その過程の中身に、エネルギーであれ、メッセージを込める必要があると考えてよいのではないだろうか。たしかに、『西洋』的な考えからすれば、面倒くさいだろうし、何も考えずに瞬時に届く『西洋』式は労力のようなものがなく、あるコンテクストにおいては非常に効率的な事は間違いないだろう。ただし、それは日本人的ではないし、折角我々に搭載された「大和魂」ならではの備わっている特別な機能を捨てて、『西洋』的なエンジンの真似事をしているだけに過ぎないと言えるだろう。やはり日本人特有に備わった機能を使ってこそ、使いこなせてこそ、世界を本当の意味で驚かせることができると考えるべきだろう。それは政治の世界においても学問の世界においても、スポーツの世界においても、その他すべてのジャンルにおいて同じことが言えるだろう。

 さて、では「日本人は農耕民族だったのだから肉なんて食わずに米を食え」という考えに落ち着けばよいのかというと、「いやいや、稲作なんてどっちかって言えば最近の出来事で、その前は日本人だって肉食ってただろうがよ。」的なツッコミが来ることは否めないし、そこについても考える必要がある。なんとなく調べてみればやはり原始的な時代はそれこそ「人間達が何かを作って食べる」などという頭の良い事をしていなかっただろうから、そこらへんにあったものを採ったり、獲ったりして食べていたことは間違いないだろう。

 また、ここでは「食事」についての考察なっているが、それこそ「食事」とは「結果」なのだろうか「過程」なのだろうかと考えれば、これはどこまでの幅を捉えて考えるかによっても変わるが、たとえば「生活」というコンテクストで考えた時、「食事」とはひとつの「結果」にも見えるし、「過程」にも見える。それはどういうことかというと、「何を食べて」というここだけで日本人がどうこうとか大和魂がどうこうとか考えてもあまり意味がないのではないだろうか。何故、食べるのか?それは活動するために食べていると考えてよいのではないだろうか。先ほどの車夫の話にしても、彼はとんでもない距離、とんでもない時間を人を載せて人力車を運ぶという仕事をしている。この活動においては、彼がしていたような菜食が力を発揮するのであって、我々現代人的な生活をしている人間が、同じ食生活をしたところで日本人特有のパワーが発揮されるかと言えば、まず発揮される事は無いだろう。「日本人的な食事」にするのであれば、「日本人的な活動」も心がけない限り、「大和魂」が持つ本来のパワーなど発揮されることがない。菜食だけして、デスクワークしていたところで健康になどなる訳がない。ベルツの車夫の話は、「車夫」だからこそそういう結果が出た訳であって、我々現代人に同じ結果が出る訳がない。と言いたいところだが、そうでもない実験結果などがある。俗に言う「カーボローディング」と言われるようなものだが、実際のところ時代が経つにつれて食べ物自体の質が変わってしまったため、もしも「食べ物」で「大和魂」を発動させるには非常に難しい時代になっていると考えた方が良さそうな気がしてならない。

 というのも、おそらく昔の日本人が食べていたニンジンやジャガイモは、我々の知っているニンジンやジャガイモと違うような気がするし、米にしてもその時代の米と今の時代の米は違うだろう。それらのすべてを戻して、「良き日本を」などということをすれば、車に乗る事をやめ、それこそ機械を使わずに農業をして生活しろという事になる。これが間違っているかどうかは分からないが、やはり古い感じがしてしまうのは、すでに私自身が『西洋』にかぶれている証拠なのだろうか。

 もしも、この先50年後、100年後どういう文明になろうとも、日本人には「大和魂」というエンジンが備わっていて、そのエンジンを発動させなければ面白みがない。という考えについては私の考えは変わる事は無いのだが、社会が進化していく上で、原始的な活動を一辺倒に推進していくというのもそれこそ「だったらお前はこんな時代に生まれずに、原始時代に生まれて生きてりゃいいじゃないか」とDisられそうなので、「今の時代における大和魂を発動させる生き方とはどういう生き方なのか」という問いに対する建設的な答えを見つけ出すことが、この「大和魂の研究」というテーマであーだこーだと考えたり、述べたりすることにおいて建設的な営みなのだと考える。

 そうすると、ちょっと意識しただけで取り戻せるものもあるし、時代が進みすぎて取り戻せないものもある。「食事」に関しては、もう時代が進みすぎてしまって昔のよきものを取り戻すことはほぼ不可能に近いレベルで難しいと考えてよいだろう。そもそも米やジャガイモを日本人が今現在どのように作っているかと言えば、農薬をばら撒いて機械を使って作っているところがほとんどなのだから、もはやそうやって作られた穀物であれ野菜を食べたところで、日本人らしいパワーが我々に備わるのかと言えばなかなか怪しいところなのではないだろうか。なので、今の時代において「食事」の部分で気を付けることは「自分は何を食べると力が出るのか出ないのか」という事を、客観的に自分で自分を観察して、知っておくことが一番大事な事なのかもしれない。もちろん、日本的な「お百姓さんに感謝」的な「この食べ物をつくる過程そのものを食べる」という目に見えない食事をする事は、日本人であればここを意識する事は音に倍音的なエネルギーが込められていたのと同様、なんらかの見えないエネルギーが、我々日本人は取り入れることが出来るようになっているだろうし、それが「日本人性」であって、「大和魂に備わっている特殊機能」との部分だと私は推測している。

 日本語という言語であれば、そこに機械であれ効率的であるかどうかという要素は排除して、昔の日本語としてのパワーを取り戻しところで、生活が原始的な生活に戻る事は無いが、食事に関しては昔に戻そうとすると生活自体が原始時代っぽくなってしまう。それらを体験する事は非常に大事だとは思うが、生活そのものを原始時代に戻すのはやり過ぎだと思うし、それこそ日本も世界の一部なのでそんなことをしたらそれこそ世界の笑い者にされるだけだろう。とは言っても、日本の歴史であれ、「伝統」を重んじることは、大和魂の発動を促す必須要素であることは間違いないので、物質的にそれら日本人らしい食べ物を日本字らしく作って食べることが難しかったとしても、「自分の内側の世界」では日本人らしい食事を心がけることは非常に重要な事だろうし、私の主張では、「自分の内側の世界」がこちらの「自分の外側の世界」に投影されていると考えているので、「自分の外側の世界」の食べ物であれ、文化が日本人的でないのは、「自分の内側の世界」が日本人的な世界観であれ、概念が薄れている事の証拠なので、基本的には、外側の物質に意識を向ける事よりも、内側の概念であれ情緒的なものに意識をむけて日本人らしい世界を「自分の内側の世界」に想像して生きていれば、「自分の外側の世界」に関しても、今の時代におけるパーソナルベスト的な「大和魂」の発動ができるように、魂の純度は高まっていく事だろう。もしも、食事に関わらず、「自分の外側の世界」が『西洋』にかぶれてしまっている事に気付いたのであれば、それは「自分の内側の世界」が、『西洋』にかぶれてしまっている事を意味すると考えてみてもらいたい。それを意識するだけでも、我々は「大和魂」を自分の内側、外側両方の世界に取り戻すことが出来るはずだ。

 大事な事は「どうやっても時代に逆らわないと難しい事」と「受け入れる必要がないのに油断して受け入れてしまう非日本的なもの」の区別を自分なりに意識して考えて、何を選択し、何を選択しないかという自分の人生のコントローラーを自分で握り続けることが最重要であることは民族の違いに関係なく、人間に共通して言える事なので「日本人」の下には「人間」という土台が地層のようになっているのだから、まず「人間」としての土台、その上に「日本人」という土台。そしてその上に「自分の人生」という建物が建っていることになる。ここのそもそも人間の仕組みに関してあーだこーだ言ったところでこの仕組みを変えることはどだい無理なのだろうから、人間として生まれてきてしまった以上共通の課題には目を背けずに向き合いつつ、「日本人」という「大和魂」という特殊なエンジンの搭載されている乗り物を乗りこなすことが出来れば、次第に自分自身に偉大なパワーが発揮されて、さまざまな不可能を可能にすることが期待できる。そういう生き方を私はもっとしてみたい。