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原澤出版の執筆用ブログ

8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる

8:日本には神さまがたくさんいることについて考えてみる

 

 「魂」というぐらいなのだから、目に見えないものである代表である「神さま」についての価値観であり、世界観にも大きなヒントは隠されている事だろう。基本的に宗教は「一神教」か「多神教」かという分類をされているが、『西洋』の宗教は、「一神教」であり、日本の宗教は「多神教」だ。今の時代の科学的な発展は一神教的な宗教観の者たちが発展させたような気がする。日本の多神教的な宗教観が、このような「自分の外側の世界」へと発展させたとしたら、とんでもなく違和感というか矛盾を生じる気がしてならない。それこそ、日本的な宗教観で時代が進んでいたとしたら、もっと自然と調和したような世界になっていると予想できる。もしも、今の時代の近代的なものたちが『西洋』的であるとするのであれば、本人が『西洋』の宗教の信者ではなかったとしても、もはやそれは一神教の信徒であることとそれほど変わらないのかもしれない。

 その部分に関しては、この章で伊藤博文であれ、その当時『西洋』に憧れ、陶酔しきってしまった者達は、すでに建物であれ国のルールを改修しただけでなく、『西洋』を培ったその一神教に改宗してしまったかのようにも見える。それこそ、日本が『西洋』に買収されてしまったようにも見える。「大和魂」の復活を望む者にとって、そこに漂うのは哀愁しかないだろうし、それこそよろしくなどとは思わないだろう。そこに対して決して「Here we Go!」などとテンション高めに掛け声をかけたり、スーツの両脇を掴んで、ヒラッヒラさせてみたり、自分自身をクルックル回転させることも出来ない。だけど、その当時の大衆達は、毎週のように当時日本が『西洋』化して、それこそエキゾチックな「Japan」へと進化していくことを大歓迎したのだろうけど、それが本当に正解だったのかどうかは、分からない。ただし、歴史的に言えば『西洋』化した数年後には、もっととんでもない強制的な『西洋』化を受け入れざるを得ない状態になったので、もうその明治時代の『西洋』化についてどうこう考察してみたり、論じてみる必要すらなくなっているのかもしれない。

 乱暴な主張であることは承知の上、ブッ込み気味に持っていってしまうと『西洋』という一神教は「科学崇拝主義」のようなものだ。人間は神(創造主、私の言うところの『設計者』)と似せて作られた存在と定義し、神が我々の前に姿を現さないのだから、我々人間が、神に代わってこの世界を統治して良い。というようなまあ人間にとってとんでもなく都合の良い世界観であれ、宗教観を創り上げたのが、『西洋』という名の一神教なのだと私は考える。そして、明治時代の日本人達も、子どもたちが新しいおもちゃを持っている友達のソレを羨ましがるのとまったく同じ関係で、「いいなー」とばかりに『西洋』君が、たくさん持ってる『新しいおもちゃ』たちを自分たちも欲しいとばかりに、「日本」という古臭いおもちゃを捨てて、その『西洋』という『新しいおもちゃ」欲しさに、いろいろな大事なものを捨ててしまったのだろうと推測する。

 もちろん、とんでもない破壊力を持つ大砲だったり、戦艦だったり、それこそ空を飛ぶ乗り物なんて持ち出されたら、そりゃあ身も心も魂も奪われてしまう同胞たちの気持ちも理解できる。しかし、当時伊藤博文が発言したような「東洋の宗教であり学問は虚学に過ぎない。」というような発言はやりすぎであり、ベルツがそれこそDisったように、「そんなにお前ら、簡単に魂まで売ってるんじゃねーYo」という意見と私は同意見だ。それら『西洋』の『新しいおもちゃ』を羨ましがったり、手に入れたがるのは構わない。だけど、それらを手に入れるために「大和魂」まで売っちまっては元も子もない。それこそ、豊臣や徳川が頑張ってキリスト教を排除した理由はなんだったの・・・というお話になってしまう。それこそ、石崎君や浦部以上に豊臣秀吉徳川家康伊藤博文に対して「それにつけても俺たちゃなんなのー」と歌わずにはいられない状況なっているように見える。やはり「魂まで売っちゃいけないんじゃないの?」って疑わずに、『西洋』にブッ込み過ぎたことに関しては、明治時代のお偉いさんやっぱアンタ達ちょっとヨダレ垂らしすぎちゃったんじゃないの?と言わずにはいられない。

 これは東京でもなく、娘でもないけど、タラレバ話に過ぎないが、もう少し明治時代が、「日本を大事にしつつ、『西洋』と迎合する」という石橋の上を叩いて歩くスタイルで、『西洋』をゆっくりそれこそ低周波的に噛みしめながら日本の改革を進めていったのであれば、その後起こったあの戦争も起こらなかった可能性もあるし、そもそも領土を日本が広げていこうという『西洋』的発想を持たなかったのではないだろうか。とまで思ってしまう。日本という島国が本当に1つの生命体であるとしたら、日本という生命体自身は決してそんな『新しいおもちゃ』を欲しがっているようには思えない。

 もちろん、『西洋』というその一神教は、私の言うところの『設計者』がこの世界を設計したタネと仕掛けのいくつかに関しては、解明したからこそその魅力的な『新しいおもちゃ』を作り出すことに成功したのだから、それはそれでこの世界というスーパーマリオの裏ステージ、隠しアイテムを発見したので、とんでもないお手柄であることは間違いないだろう。だけど、その『西洋』という発想で発見できる裏ステージや隠しアイテムもあるけど、反対に「日本」という発想ではないと見つけられない裏ステージや隠しアイテムだってあるのだということを何故、明治時代の日本人達は疑わなかったのだろうか。そんなに「大和魂」的なものが時代錯誤の恥ずかしい代物のように見えてしまったのだろうか。事実からしてそういう事になるが、この催眠術的なインパクトが、日本を世界を物質主義、拝金主義的な世の中へ加速させていったように見えるのだ。

 もはや今の時代において、それらが「当たり前」となってしまっているので、もはや日本的な多神教的考えであったり、「神と共に生きる」的な発想こそが人間レベルにおいても知的レベルにおいても幼稚だの未熟だのと言われてしまうが、果たしてそうなのだろうか。その発想は、学力のみにおいて人間の優秀さを決めるようなやり方と同じで、ある一方向からしか評価基準を固めて、世界であれ、人であれを一方的に評価するやり方に過ぎない。まさに、まわりくどいのがお好きではない『西洋』的なやり方だということだ。その結果どうなったのか。今の時代にその一方的な人間評価システムが正解だったのか不正解だったのか。その評価システムが大人的で、成熟したものだったのかの確認ができる。結局、それらによって人間的に育っていないな大人とも言いづらい未熟で幼稚な大人たちが、今の社会に蔓延り蔓延している事実からすれば、『西洋』が大人で、以前の「日本」が未熟で幼稚だという発想自体が、何かのコンテクストに欠ける浅はかな見解だったのだと私は主張する。

 『西洋』で言うところの「神」と「日本」で言うところの「神」は違う。『西洋』の「神は人間を自分(神)と似せて創った」という仮説からそれらの世界観が創られているのだろうが、それこそ「日本」の多神教の世界観以上に、この世界を人間が都合よく解釈してつくられた「中二病」的世界観でしかない。まず、神はそんな事を我々人間に言っていない。

 それに対して、少なくとも「日本」的多神教の発想というものは、『西洋』で言うところの神、この世界の創造者が、人間も、星も、太陽も、火や水や土も創った。それは創造者が創ったものなので、そこに「神」が宿っている。もちろん人も創造者が創ったものなので「神」が宿っている。だから我々もそういう意味合いにおいてはそれらと兄弟であり、仲間であるのだから共に仲良く生きよう的な発想で創られている世界観なのだ。それこそ創造者ご本人が登場して、「そうだよ、お前たち人間は私に似せて創ったのだよ。」とでも言ったのであれば話は別だが、それこそここに論理的なものを感じることが出来ず、「日本」的な発想の方がよっぽど論理的だと考える。「日本」的な発想の方が、実際は事実に基づいてそう言えるのは間違いないだろうし、『西洋』のそれは、ヒトラーが掲げていた発想とただ、危険の度合いが違うだけで根本的にはそれほど変わりがない。もしも、「日本」の中にも「私が神だ」だの「私が神の使いだの」と言って何かをしでかそうとした者がいるのであれば、それは残念ながら『西洋』にかぶれてしまっただけなのだ。「日本」的に考えれば、「我々は日本という生命体を皆で創っている。それ以上もそれ以下もない。」という発想において、この日本をどう進めていくかを決めるはずだからだ。「日本」という伝統を土台として考えれば、そうなるはずで、少なくとも、明治維新前後からの日本は、『西洋』に憧れを持ちすぎて自分を見失っている感じがする。戦争に負けたのも日本が未熟、幼稚だったからではなく、「らしくなかった」からであり、それは戦争に勝つ負けるではなく、『西洋』ごっこ的な事に参加して「らしくない」ことをしたから大目玉を食らったというただそれだけの事だと私はこれまでの日本という特徴を見て考えて導き出した見解だ。

 それこそ、オカルト的な話だが、日本は歴史上、戦争に負けるまでは他所の国によって一度も統治されてない。それは日本という生命体が、我々日本人を愛しているからであり、外の民族の支配を受け入れない免疫の強さを持っているからだという事も言えるし、反対に領土を広げようとしても、日本という生命体はそれを受け入れず、やはり「日本は日本」という何か強烈な意識を持っている気がしてならない。もちろん彼は仮説にすぎないが、そうでなければもうとっくに日本は中国大陸であれ『西洋』に1度や2度侵略され、何度か支配された中での、ミックスジュース的な国になっていてもおかしくないのに、ずっと「純日本」を貫き通してきた。ここに意味がない訳がない。世界のほとんどの国が、なんらかのミックスがされているのに、日本だけがそのミックスをことごとく拒み続け、「純日本」を貫き通してきた。そこに「大和魂」が強烈なポテンシャルを秘めている秘密があるのではないかと推測する。そして、「日本」の考える神さまのように、土地は何か神さま的な力を持っている可能性がある。それを純粋に感じることができるのは、「日本」的なOSの持ち主達であって、『西洋』のOSではそういった多神教的な意味合いにおける「神の声」を聴くことも出来ない。聴くことが出来なければもちろん話すことも出来ない。そして、仲良くなることも出来ない。

 『西洋』はそれらの「日本」的な多神教世界観の中で定義する神々たちに首輪をつけ、それこそ彼ら彼女らを奴隷のように扱っている。それら多神教的発想の神々と西洋人は従属関係を築き『西洋』は発展してきた。しかし、『西洋』が発展させてきたのは「自分の外側の世界」であり、「自分の内側の世界」を発展させたとは言いづらく、「自分の外側の世界」に者や金が溢れた結果、「自分の内側の世界」では何が溢れたのかと言えばただ、さまざまな『欲』が溢れ出ただけなのではないだろうか。それは「日本」的発想で考えれば、決して幸せになったわけではなく、ただただ人が自分を創造主だと勝手に思い込んで、この世界をひたすら汚し続けただけに過ぎず、「自分の外側の世界」に一見魅力的なもの達、つまり「光」を増やしているように見えるが、それは同時に病みという「闇」も同じだけ生み出しているに過ぎず、それらは「自分の内側の世界」の中ではどういう事になったのかと言えばそれは「落書きだらけの世界」「ゴミをやたら排出する世界」を作り出しただけに過ぎない。お祭りは楽しいけど、お祭りをした後ってなんだかゴミだらけで街が臭い。まさにあんな感じだ。

 『西洋』的発想は「自分の外側の世界」に現れる現象を「結果」とし、その「結果」にコミットしてつくられた世界観であり、文明なのだ。それによって、我々人間達の「自分の内側の世界」はどうなってしまったのかを考えれば、今の時代だからこそ「大和魂」を発現、発動させた生き方というものが、外の人間達にとっての何かの提言であり、提案であり、新しい時代の生き方への手本となる可能性が高いのだ。それは決して『西洋』を全否定する事ではない。だけど、『西洋』のそれまでの全行程を全肯定する訳でもない。それらを「日本的」に考えれば、従属ではなく、同属として考えるだけ。天は人の上にも下にも人をつくらないだろう。それは神という部分においても同じで、神の上にも下にも神は作っていない。言葉が喋れるから、ものが作れるからと言って思い上がってはいけない。それこそ、ホントに我々人間が創造主に似せられてつくられていたとしても、別にこの世界のリーダーであるなどというのはただの思い上がりに過ぎないし、仮にリーダーだったとしても他の神々に首輪をつけて散歩するような世界を創り上げているようでは、それこそ他の星に宇宙人がいた時に、「ナンナンダ、アノ未熟ナ地球トイウ星ノ生物ハ。」と笑い者にされる事だろう。

 もしも地球という星が、1つ上の生命体レベルに上がる為には、人間達が「自分の内側の世界」と「自分の外側の世界」についての理解を、もっとじっくり観察して、この世界がどうなっているかを考えるべきだろう。もはや、ここまで物質主義的な方向に偏ってしまえば、それこそこれ以上物を増やすことは無意味でしかない。そこに偏りすぎてしまった約50年100年の間に、反対におろそかにしすぎてしまった「何か」があるはずだ。世界が今後も物質主義に偏り続けていたとしても、少なくとも「日本」だけはその「何か」について考え、そこと向き合う姿勢と行動をとっていくべきだと私は考える。