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原澤出版の執筆用ブログ

9:お侍の精神・武士道について考えてみる

9:お侍の精神・武士道について考えてみる

 

 よく、「大和魂」的な言葉を使えば、「はいはい、それは帝国主義か何かですか?」と安っぽい議論に引っ張られそうになりがちなのだが、少なくとも私はそういう議論がしたくて「大和魂の研究」をしている訳ではない。日本というこの島国の伝統から滲み出る「日本人性」の部分を研究したいのであり、そこにしか「大和魂」は存在しないと考えているし、その「帝国主義」的な日本などというものは、それこそ乱暴に切り捨ててしまえば『西洋』という欲に駆り立てられて、『西洋』ごっこに陶酔している日本らしくない日本だとしか思えない。それこそそこに武士道であり、お侍の精神が本当にあったのかどうかは疑わしい。都合の良いところにのみ「日本の武士道がどうのこうの」みたいな事を押し付け、「お国の為」的な事を言って焚きつけたのだろうが、そもそもその「お国」自体が戦争を望んでいないのに、何故「お国の為」になるのかも分からない。戦争を望んでいたのは決して「お国」というこの日本という生命体ではない。望んでいたのは『西洋』にかぶれ、物質的に「もっともっと」とそれこそ危ない薬物に中毒症状を起こしている人達と変わらず、欲にやられた「日本人らしくない者達」が、それこそ物が増えたスピード同様に異常増殖しただけに過ぎない。

 これまでこの本では、「日本らしさとは何なのか」について、いくつかのコンテクストに載せて考えてみた。実際、もう少し「日本らしさ」であり、「日本的誇り」みたいなものは、やられたらやり返す的何かがあるのかと思っていたが、そもそも「日本的」というものは、じっくりとみんなお友達、目に見えるものも見えないものも。過程を楽しむ民族だという平和的な姿が窺えたのだ。実際、日本的な民族はそれこそ戦闘して勝っただの負けただのをする事が得意ではない根っこを持っている気がしてならない。素朴な民族なのだ。そんな事を言えば「お前たちは戦争の時に」だの「悪魔の子孫がどうのこうの」と言われてしまうだろうが、それこそ日本国民の多くが何か「物質主義」的な催眠術を誰かにかけられていたような気がしてならない。見当違いかもしれないが、やはり日本人というものは、基本的には素朴を愛する生き方をする民族なのだと考える。そうでなければ、世界から見たら特異な「日本的な文化」というものは生まれていない気がするからだ。

 とは言え、日本には「お侍文化」があったことも事実で、歴史もあった。それが日本全体の歴史の中のどのくらいにあたるかは長いと見る人もいれば、それこそ一部のブーム的なものと見る人もいるだろう。実際のところはお侍さん達に直接聞いてみなければ分からないし、お侍さん全員が同じ考えではなかっただろうけど、「侍」「武士」という一本筋の通った何かは皆が共通して持っているものだろうからそれを考えてみたいのだが、個人的な予想としては「自分の内側の世界」を鍛えるのが、侍の精神であり、武士道なのではないだろうか。

 「自分の内側の世界」を鍛えることが、「自分の外側の世界」においても強き者となる。というこの発想が基本的には武士道のような気がしてならない。だけど、その発想は映画ラストサムライで描写されたような感じで、「自分の内側の世界」で強くなったとしても、「自分の外側の世界」では機関銃の弾一発であなたたち何て死んでしまうのですよ、ねぇ?ザーボンさんドドリアさん。とばかりに、無情にも打ち砕かれるようにも見えるのだが、ここに『西洋』のどこを受け入れるけど、「日本」の何を大切にしなければいけないのか。その問いとその問いに対する答えをあの映画ラストサムライは描写していたのだろう。科学が発達すれば、この世界のパラダイムは変わる。そこを受け入れなければ時代錯誤の頑固者になってしまうことは事実なのだが、かと言って、「自分の内側の世界」を鍛えずに、「自分の外側の世界」でどれだけ武装できるかなどという発想で生きれば、それこそ人は武装したまま風呂に入る訳でもなければ、寝る訳でもないので、無防備なところで襲われてしまえばどんなに凄い武器を持っていたとしても一発でやられてしまうというこれもまた事実なのだ。そして、いくら強靭な「自分の内側の世界」を持っていたとしても、鉄砲弾一発で死んでしまうというのも事実。ではどうする?という問題に直面しているのが我々の生きている時代なのだろう。

 その両者の世界で強き者となる事が今の時代における「文武両道」の世界なのかもしれない。武器に長けるだけの頭と、何事にも恐れず立ち向かえるだけの心の強さこの両者をもってして今の時代における強き者と言えるのかもしれない。そう考えると、『西洋』のそれらにしても、「日本」のソレにしてもどちらかだけでは片手落ちなのだろう。だからこそ、我々は「日本」であり、「侍の精神」のようなものを簡単に手放してはいけないのだと考える。科学的というか近代的な武器をいくら扱ったところで、効率的に結果を出すことが出来たとしても、「自分の内側の世界」を鍛えることは難しいだろう。その反対に、今の時代で弓矢などでいくら達人になったとしても、弓の届かない距離からライフルで狙撃でもされてしまえば弓の達人はそれこそ無防備で、弓の技術など何の役にも立たないかもしれない。だけど、弓を射るその精神の高め方などは、物理的な命の取り合いではない状況においては、非常に強さを発揮する事だろう。今の時代における日本的な武道とはある種の「精神鍛錬」において効果を発揮するのだ。それで良いのだと私は考える。

 ある意味『西洋』と「日本」の二刀流で良いのだ。だけど、メインの刀は「日本」であるべきなんじゃないのかなとも思ってしまう。もちろんその理由は、我々が日本人として生まれて生きているからだ。そして、今の時代世界で活躍している日本人達は少なからずともこの「日本」という刀をしっかりどちらかの手に握りしめているように見える。その反対に100%『西洋』にかぶれようとしている日本人達は、それこそ魂の色がくすんでいるというか、結果的にも洋の東西に関係なくあまり相手にされているように見えない。そして、世界から見れば時代錯誤に見えても「日本」の一刀流に関しては彼ら彼女らから見れば、とても不思議な世界に見えるのだろうから、それはそれでアリと言えるのかもしれない。一番やってはいけないのは、我々日本人が、ただ単に『西洋』にかぶれる事だ。そんな付け焼刃の一刀流に、誰も見向きをすることはないだろう。

 日本の中には武道以外にも、茶道や華道もそうだし、その他の伝統芸能などでも、精神を鍛錬することが出来るだろうし、「日本的な」それこそ「大和魂」的なる何かを揺さぶりながら身も心も鍛錬する事が出来る。それらを活用しない手はない。そして、その中で鍛錬された強靭な心身によって、今の時代に求められているものと関わる。それが『西洋」と「日本」的なるものの弁証法的進化を作り出すとも言えるし、この時代を止揚してその先に進むひとつのやり方であり、それが日本人としての独特なこの世界の進化のさせ方なのではないだろうか。

 そういう見方でこの世界を見た時、形は変えたとはいえある種の「戦場」は今の時代にも広がっている。そこに挑み、必死に突き進むとすれば、我々は日本の先人の教えを頂くとともに、「大和魂」という土台の上で、『西洋』を吸収して新しい「新時代」というパラダイムをいかに創り上げていくかという事が課題であって、『西洋』ごっこというものまねトーナメントで優勝を目指すような事をしていては、それこそフッチボーラージャポネーズ的な世界の笑い者にされて、ものまね大会という牢獄に閉じ込められてしまうだけになってしまう。乗り越えてさらに先に進むか、媚びてそこに留まってペコペコし続けるかに関しては、誰が決める事でもなく、自分自身で決めるしかない。

 侍の精神、武士道を大事にするというのであれば、それこそ日本という生命体という意味合いにおいての「お国の為」を考えるのであれば、この日本という生命体が長年培ってきてくれた精神力を備えて、世界を築いていく事が今の時代の日本人としての本懐なのではないだろうか。それこそ、『西洋』に必要以上に尻尾を振ってかぶれようとしてしまったあの時代に戻って、もう一度本来の日本人性を大事にした生き方とは何なのかを各自で対話して、新時代の日本らしい日本とはどういう国なのか?新時代の日本人らしい日本人とはどういう国民であるのかを、日々バージョンアップさせていく必要がある。そして、しっかりと進んでいくためには、無思考で「当たり前」と受け入れずに、それらの1つ1つを疑って、自分なりに考え、真実が何なのかを見ていく必要がある。