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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

10:日本と『西洋』の違いについて今思うことについての考察

 

 それでは、この章の最後にこれまで考察しなかった部分の中で、『西洋』と日本ってこのあたりに大きな違いがあるんじゃないだろうかという部分について考えてみたり論じてみたい。

 まずは、私自身が気になるのは「なぜ、日本人はあんなに謝るのか?」という部分についてだ、逆から言えば「なぜ、西洋人はあんなに謝らないのか?」とも言える訳だが、我々日本人は、少なくとも今の時代の日本人達は、いきなり「すみません」から始まり、終始謝り続ける。海外に行ってそんなに「すみません」「すみません」言っていると普通に「なんなんだこの頭のおかしい連中は。」と思われる事だろうし、「すみませんって謝ってりゃなんでもやってくれると思ってるんじゃねーぞ、この野郎。」ぐらいに思われている事だろう。そして、反対に西洋人たちが日本にやって来ればその腰の低い態度であれ対応に、いろいろな意味で驚く事だろう。それこそ、「嗚呼、負け犬たちよ、70年経った今もよく躾が行き届いているな。せいぜい励めよ犬どもめ。」ぐらいに口では言わなくても、心の中では思っている人間達もいるかもしれない。やり過ぎたサービスをしてしまえば、こちらがその気ではなくても、相手にはそう受け取られる危険が大いにあるという事だ。

 まず、この日本人の「謝罪文化」がいつからはじまったのかを考えてみたい。そもそも戦争に負ける前、しかも日露戦争に勝利してイケイケだった当時の日本人達も今の時代の日本人のように「すみません」「すみません」を連呼していたのだろうか。そして、お侍さん達も「すみません」「すみません」と連呼していたのだろうか。そんなにこの「謝罪文化」のようなものは、日本のお家芸というか伝統的な文化ではないような気がする。かといって、昔の日本人達が西洋人たちのように何があっても謝らないような態度で生きているようにも思えない。

 これはあくまでも仮説だが、日本の歴史の中で日本語を使わない他言語を使う者たちとの関わりがなかったため、日本語を使う者たち同士の中ではそれら日本語的なやり取りが別に謝罪だとか謝罪じゃないとかそういう関係になかったのだが、日本の外側の文化の人間達とやり取りをすると、どうしても日本人というか日本語使いの者たちは、「すみません」「すみません」というような感じになってしまって、逆に西洋人達は謝らない訳だから、常に謝っているのは日本人みたいになってしまったのではないだろうか。そもそも「謝罪文化」が日本の伝統として蔓延っているのであれば、それこそ日本は敗戦国になる事は無いというか、戦う前から「すみません」で済んだような気がするので、少なくとも大勢の人達は死ぬことはなかったはずなのではないだろうか。これは殺した側にしても殺された側にしても同じ事が言える。何人殺したかは分からないけど、日本も自分の領土の外側に出て人を殺し、戦争に勝ってきた事実があるのだから、どうしても「元から日本人は謝るのがお好き」のようには思えないのだ。早まるのはお好きなような気もしないでもないが。

 やはり、そういう事実から考えても、戦争に負けて日本が焼け野原になってそこから復興していく何かの戦略的な要素というか立場的な部分が大きく加味して、日本人の「謝罪文化」が生み出されたような気がする。それこそ、あの戦争に負けて書いたであろう謝罪文から「謝罪文化」は生み出されたと言っても過言ではないだろう。

 たしかに、日本は歴史上、1945年あたりに戦争に負けて、敗戦国として生きてきた。だけど、我々今の時代の日本人は別に敗戦国で生まれた負け犬たちではない。たとえばじゃんけんで1回負けた位で、そこから死ぬまで「負け犬」というレッテルを貼られて生き続けているのと同じで、もっと言えば自分の祖父さんがじゃんけんで負けたという事実で、孫達が「負け犬」というレッテルを貼られて、その役を演じ続けているというような滑稽な文化を継承してしまっているということなのだ。祖父さん達は当事者だからしょうがないとしても、孫やひ孫である我々が、何故そんなレッテル貼られ続けて生きなければいけないのかが分からない。戦争をすることはよろしくない。だけど、戦争で負けた時のルールを70年経った今も引きずりつづけなければいけないというのも、おかしい話だ。戦争するかしないかの話に持っていかれそうなので嫌なのだが、「もうお前ら「今の時代の日本人」として自由に決めてくれ」と何故そうしないのかが分からない。もちろんそれをすれば損する国が出るからだ。「そんな事をすれば危険だろ。」みたいな事をそれこそでっちあげている連中がいるのだろうけど、それはこそがでっちあげなのであり、日本人がそんな世界征服的な事を考える訳がない。しかも、普通に今の日本は物質的にも裕福で、徴兵制度など望む人間も、一部の過激な連中だけで基本的には平和を誰よりも好む生き物であることは、震災時の日本人達の態度を見れば分かるはずだ。「調和の精神」を持っている民族が日本人であり、それを西洋と比較したり、戦争というハプニングによってその「調和の精神」が「謝罪文化」へと歪んでしまっただけなのだ。それこそ、日本人に自由に決めさせて、おかしなことをしたらそれこそ、一発で叩き潰してもはや、我々日本人から日本語を奪えば、もうこの島国に住んでいる西洋的なアジア人としか生きられないだろうから、そうすればよいだろう。しかし、何度も言うが、日本人はそんなに戦闘を望むような民族ではない。日本という生命体そのものが望んでいないのだから。そもそも、日本人の中でそういった物質的な領土を奪い合いたい人間がいるのであれば、今の時代は戦闘を好む国にでも移住して、国籍を変えて生きれば良いのだ。歴史の一部分を切り取れば、日本人は残酷に見えるだろう。だけど、それはどの国の歴史でももっと残酷な歴史などいくらでも存在している。日本人は、基本的には「優しい民族」なのだ。それによく分からない火を焚きつけたのは誰なのだろうか。それこそ北斗の拳の世界で言えばシンがまさしく「日本」であり、それに何かを焚きつけて豹変させるようなちょっかいをだしたジャギのような存在が『西洋』なのではないだろうか。その部分について、我々日本人は、もう一度「本来の「日本性」」というものを考える必要がある。その上では、やはり「謝罪文化」というこれについては、孫の代ひ孫の代まで続けてる必要はないし、それこそ「謝罪文化」という鉄仮面が我々日本人にもはや皮膚化しつつある。この鉄仮面をなんとかひっぺがすには、早いうちにひっぺがしておかないと、「謝罪文化」自体が日本の伝統になってしまう。もう「すみません」「すみません」言いながらペコペコやる必要もないし、西洋人たちのように一切謝らず、正面でぶつかり合うスタイルをとる必要もない。やはり日本人は合気道的な、和合的な精神が日本人らしい気がしてならない。敵と友達になってしまうスタイルが「大和魂」のスタイルなのではないだろうか。日本の伝統を辿る限り、私にはそう見えてしょうがない。

 この「和合的なスタイル」をとれるのが日本人であり、西洋人達はそれを苦手とする、もしくは出来ないのである要因を考えてみると、「足し算スタイル」「引き算スタイル」というものが考えられる。アメリカ人の作るそれらはとくに食べ物で考えれば分かりやすいが、「でかけりゃいい」みたいな考え方がある。日本人にはあまりそういう発想は本来なかったはずだ。いつのまにかそれは『西洋』にかぶれてしまった結果であって、「大和魂」の発動という意味合いにおいては、「大和魂」を錆びつかせてしまう発想と言えるだろう。日本的な発想とはやはり「和合的なスタイル」であるといって良いし、日本っぽいそれこそ海外の者達にファンタスティック、ワンダフルと驚かせるようなものは「デカけりゃそれでいい」の世界観ではなく、「和合的なスタイル」なのだと私は考える。

 ある意味、今の時代においても、それが西洋のものであったとしても、日本人らしいスタイルで臨む事が日本人として一番輝けるやり方なのではないだろうか。それはどんなものであっても、日本人の「和合スタイル」で臨む職人気質のようなそれらで、和合していく事で、「あの日本人イカしてる。」と西洋人たちが驚くようなモノづくりであれ、パフォーマンスであれを見せる事が出来るのではないだろうか。そして我々日本人には、和合できる職人気質が、日本人のDNAとして皆に刻み込まれているのは間違いない事実なのだから、邪魔なのは途中で入り込んできた「謝罪文化」という異物であって、この今の時代においては無用なかさぶたを1枚ひっぺがしちまえば、『西洋』を驚かすことが出来るだけの「日本」という独自の「和合スタイル」を生かした世界造りは、我々日本人であればだれでも出来るという事だ。「大和魂の復活」を私が提唱する理由は、まさにここにある。

 もう、世界からどんな催眠術をかけられようが、戦争をしていた何千年前からの日本をもう一度学びなおし、古きを温めて、新しきを知る事に冷静に立ち向かうことが必要だ。政治やニュースを見ていても、どうも今の日本は、敗戦当時の傷を気にして舐めてばかりいるように見える。それこそ、国際的な戦略上、「おーい、Japan。もう自由に自分たちで決めて自由にやっちゃっていいよー。」なんて言ってくる訳がないのだから、もうそういうのは適当にあしらって、自国の中においては「日本らしい日本」という国づくりをみんなでしていけばよいだけなのではないだろうか。それこそ、アメリカをはじめとする「日本の外側の連中」が言っているような日本を我々は全員で演じすぎている感がある。それこそ、我々日本人に「日本人の本来性」について考える隙を与えようとしないのかもしれないが、敗戦という特殊な一部分ではなく、日本の歴史であり、伝統の全体像を鑑みる必要がある。そこに「大和魂」が滲み出ているのであって、「日本=戦争好き」みたいな「お前は汚れ芸人だ。」的催眠術プロデュースからは、そろそろ卒業して本当の素の自分を出して、日本という国は生きていくべきなのではないだろうか。という「このまま汚れ芸人やって生きるか」「それとも本来の姿に戻って生きるか」という分岐点に、今の時代の日本であれ、日本人は立たされているように見える。もちろん私個人としては、残りの日本人が汚れ芸人の方を選択したとしても、その汚れ芸人に付着した汚れを洗濯して、キレイなころの日本としてこれからは歩みを進めていきたい。もうくだらない過去に、いちいち囚われたり、他国の催眠術に付き合う必要などどこにもないのだから。