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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~

1:日本からJapanへ。~良くなった部分と、悪くなった部分はどこか?~

 

 この章では、日本が純粋に日本として進んできた時代から、『西洋』にかぶれ、挙句の果てにアメリカ様にべっちょ染められてしまってもはや「日本」というよりも「Japan」と呼んだ方が適当だろうという時代からの日本についていろいろと考えたり、論じてみたりしたい。

 ではざっくりと良くなった部分と、悪くなった部分について考えてみたい。まずは「良い部分」からだが、やはり良くも悪くも「戦争しない国」になったのは良い事なのではないかと思う。それを日本は戦争に負けたことでそうなるのではなく、「我々はどことも戦争しない。」と自ら宣言していれば、その後アメリカに何かされたら、完全に悪者はアメリカだったと思うのだが、まあそれは出来なかったでしょうし、そうならなかったのがちょっと残念ですね・・・「平和」と「ヘタレ」は違うんですけど、これがなかなか難しい。何もしないと、ちょっかい出してくるめんどくさい奴とか学校に必ずいて、そういうのがちょっかい出してきても、相手にしないと、どっかのお笑い芸人コンビの総理大臣ごっことか好きな奴みたいのが、そのままやらせっぱなしにするとちょっかいが激しくなったりしそうな感じがして、それでも黙っておくのか、ある一線越えたら倍返しするのか。みたいな事を考えるとやっぱ難しいんだけど、基本スタンスとしては「日本は戦争をしません。」とカッコよく言ってもらいたかった気持ちもありますが、もしも、本当に日本がアジアのいくつかの国を助けに行ったのであれば実際の歴史でも、当時の日本って英雄なのかもしれませんが、それはちょっと美化しすぎなんじゃないかなって節があります。そもそも中国人とか朝鮮人を殺していたのは事実ですし。東南アジアの中での「日本は英雄話」ってのは、敵の敵は味方みたいな状態にどっかしらの国ではなってただけなんじゃないのかなと。

 そう考えると、決して日本が特別野蛮な国だったんじゃなくて、どちらかというアジアの国々を植民地化しようとしていたアメリカだったり西洋の国々の方がよっぽど野蛮だと個人的には思いますが、まあ勝てば官軍って事で、彼ら西洋式のやり方が正しい流れになってしまいましたが、それこそアジア人達は、アメリカにも西洋にも攻め込んではいませんよね。どちらかというと、日本人達は西洋から何かを学びたかっただけだったのに、なんだかおかしな方向に進んでしまいました。もちろん、男がハニートラップに引っかかるのと同じで、日本のにそういう領土広げたいというよな下心はあったのだと思いますが、やっぱり歴史の教科書で書かれてそうな勢いで、日本の事を悪者視するのはやりすぎなんじゃないかなと。

 ただし、「相撲に買って勝負に負けた。」という言葉のように、日本は「戦争に負けて平和を得ることが出来た。」と言えなくもないのかなと。たしかに、戦争で亡くなった多くの方達、特に軍人でもない民間人の方にはいたたまれない気持ちにはなりますが、もはやどうしようもないことですから、その人たちの分生きている日本人が、頑張っていくしかもうやれる事は無いのですが、だけど、どんな形であれ日本は「戦争をしない国」になれた訳です。これは戦争には負けたけど、ある意味の勝利だと私個人は考えています。もちろんこの考えに対して「何を言っているんだ、お前は。それでも日本男児か。」とDisられる事を覚悟で述べていますが、もしも、1945年以降も日本に軍隊が存続していたら、それによって何人の日本人がこの70年間で命を落とすことになったのでしょうか。という事を考えれば、やはり「平和っていいな」って気持ちはどうしても強くなってしまいます。

 確実に、この70年間の歴史で何度か戦争に参加することになっただろうし、それこそ、アメリカと日本の関係は同盟国といえども、織田信長徳川家康の関係のような同盟関係でしょうから、汚れ仕事は全部日本側に「お前やっとけ」的に任された可能性が高かっただろうとも言えます。それを「お前ら危険だから二度と戦争すんじゃねーぞ。」って方向になったのは素晴らしいと考えます。

 もちろん、日本のお隣の国々が、危険な感じになっていて、イエローカードもんのラフプレーを仕掛けてきたとしても日本は手を出せない軟弱な国になってしまった。どうするんだ?と言われてしまえば、「だったら軍隊あった方が良かったのかな?」とも思いますが、それこそ、何故人はそんなに殺し合って領土を取り合いたいのかを世界各国でもっと話し合えば良いのであって、「何かされたときに、自分たちも手を出せるように。」などという事を議論するのは果たして建設的なのでしょうか。

 それこそ、本当に「何かあった時」は、「日本は、一切手を出しません。」って言ったてそんな約束は反故にしちまって、レッドカード覚悟でもやっちまえばそれでいいんじゃねーの?って事でもあるでしょうし。サッカーその他を見てたって「有事の際は退場覚悟でも反則をおかす」というのはひとつの戦略ですから、もちろんルール破って日本からどっかに攻撃するなんてのは言語道断ですが、「あっちから何かされたとき」ってのはルール破ってもかますかかまさないかは、別問題として考えればよいだけで、別に世界から「勝手に日本がやり返していいよ」なんていうお墨付きをもらおうがもらわなかろうが、そんなの関係ねぇ。って事なんじゃないかなと。ただ、基本的に「戦争をしない国日本」っていうのは本当に素晴らしい事だと思います。なんか、基本的な日本人らしさを醸し出せている気がして。というか、「戦争しない国日本」は、日本という生命体が、戦争にかぶれた日本人達に対して起こしたホメオスタシスなのではないかなと。そこに「過剰な日本人性」が滲み出ている気がしてならないのです。

 もちろん、そこに引っ張られて日本人はお人好し過ぎる。という欠点もあるのかもしれませんが、その「お人好し」という部分は、戦争に負けて過剰になっている部分もあるけど、そこは「日本人の本来性」なのではなかろうか。と私は考える。

 なので、日本人はお人好しで良いのだと思うし、その人の好さを存分に活かせばよいのだ。もちろん、サッカーと同じでお人好しになんてやっていれば、自国の領土をいつのまにかさらに削られて、それこそいいように利用されてしまうかもしれないが、やはり他国が汚い手を使ってきたからといって、「だったら自分たちも」というやり方に引っ張られてしまう事の方が、日本が日本らしさを捨て、魂を売ってまでしてなんとかしてしまう日本らしくない浅ましい低ステージの生命体に成り下がるような気がしてならない。

 別に他国をバカにしている訳ではないが、私自身は「日本最高」の精神で生きているので、「シャツを引っ張っても審判が見てなけりゃそれでいい」だとか「手を使ってゴールして『神の手』」みたいな戦略を日本人が使う必要はない。日本はそんなカラーでもなければ柄でもない。白地に赤丸のあの国旗からそんな汚い精神が滲み出ているとは思えない。それこそ審判が見ていなかったとしても、日の丸はずっと我々日本人を見守り続けているのだろうから、そういう日本人らしくない事をしてまでして、価値にこだわる必要もないと私は考える。

 そんな事をして勝てば、他国から「おお、日本も我々の一員になったようだな。」と思わせるような一因を自ら作っているようなものだ。もっと分かりやすく言えば、伊勢神宮や皇居を洋風なつくりにして「近代美術」とか言っちゃうようなものと同じだ。

 我々のやり方で、世界を驚かせてこそ「本当のmadeinJapan」であって、西洋の真似事をして世界を驚かせたところで、「あのイエローモンキーは猿真似が上手いね。」と評価されるだけで、別にそれ以上もそれ以下もない。そこに「日本らしさ」「日本人らしさ」がなければ、どう評価されたとしても意味はあまりないと考える。

 ただし、もしかしたら日本人は良くも悪くも「猿真似」のスキルはヤバすぎるぐらい溢れているとも言えるので、それを活かさない手もないだろう。というのも事実としてはあるだろう。「いろんな神さまと仲良くなれる民族」が日本人なのだから、「これは日本」「あれは西洋」と受け入れない文化ではなく、受け入れて融合する事にかけては天才的なセンスというかDNAを我々日本人は持っている気がしてならない。

 それこそ、日本人のように西洋人たちが、上手に「和風」を取り入れる事ができているように見えず、せいぜい「カルフォルニアロール」がせいいっぱいのセンス。それこそ、フッチボーラージャポネーゼ以上に、日本の文化を他国が上手に真似する事などほぼ皆無に近いレベルでできているとは言えない。

 その「独自の日本性」と「猿真似スキルの異様な高さ」をかけ合わせてつくられたものが、madeinJapanのものの中で、世界を驚かせているようなものであり、者なのではないだろうか。なので、この両者のどちらも欠くことは出来ないし、欠いてしまうと、日本国内ではまだ良いにしても、日本の外側に出て評価を受ける事は難しいだろう。それこそ日本人はお人好しだから、「猿真似の上手な猿だねー」と笑われてていても「嗚呼、スゴイ喜んでくれてるなこの人たち」ぐらいの誤解をしする可能性は低くもないが。

 やっぱり日本の外側の文化、国民性の持ち主の人間達には日本はまわりくどいように見えたり、何が言いたいのか分からないと言われがちなのだろうけど、そこにサッカーの試合中のユニフォーム同様、そこの部分に引っ張られる必要はない。そもそも、我々日本人同士ではそのまわりくどさは受け入れられているし、会話も普通に通じているではないか。「互換性」というのは大事かもしれないが、媚びへつらって胡麻を擦って近づいたところで、そのやり方は日本人としての純度を下げて、それこそ西洋の付録程度にしか成り下がっていない。

 日本の独自性というのは「迎合しているようで実は融合している」というスタイルなのではないだろうか。日本国内の西洋料理であれ、中華料理であれ、本場のそれらとは違うものになっているだろうけど、それが決して「カルフォルニアロール」のようにはならない。あれを日本っぽく置き換えれば「肉じゃがバーガー」みたいなとてつもなくダサい感じの食べ物をつくり出すことになるが、日本的なセンスの高い者はそういう「なんかとなんかをくっつけりゃそれで融合」みたいな事を決してやらない。ラーメンが一番わかりやすい例なんじゃないかと思うが、もはや中国の食べ物だったラーメンはどちらかというと日本の食べ物になってしまった。そしてとんでもない進化を遂げている。あれが「日本式迎合的融合」なのではないかなと。

 この「融合」と「迎合」のバランスが絶妙であるかどうかで、日本人であれ日本の価値が高くなったり低くなったりするのだ。それは相手の力を利用する合気道的な要素がかなり含まれている気がする。日本的なスタイルというのは「相手の力を利用して三倍返し」的なスタイルであって、筋肉量の勝負をすれば西洋人に勝てるDNAも伝統も持ち合わせていないが、「相手の力を利用してそこに自分の力も載せて返す」というスタイルであれば、日本は世界のどこにも負ける気がしないように見える。つまり、そのスタイルで生きている民族が日本の外側にいるように見えない。

 それは、日本は世界から見れば小さな島国で、資源を自分の国では賄うことが出来ない事もその要因になっているだろうし、日本人そのものが「工夫して加工する」という職人気質的な気質を持っているのではないだろうか。こんなにさまざまな地方に、さまざまな種類の伝統工芸品がある国が、日本の外側の国に存在するのだろうか。あまり聞いたことがない。乱暴な言い方かもしれないが、「職人の国ニッポン」で良いのだと思う。「サラリーマンの国ニッポン」になったのは、明らかに戦争に負けて復興させるための戦略をとりはじめてからであって、そもそも士農工商の中に「サラリーマン」が含まれているように見えない。

 この「職人」というのは、別に工芸品という物質的なものをつくるということだけではない。物質的であろうが、情報的であろうが、「職人気質の発揮される仕事」を日本人が行えば、それこそ「大和魂」が発動されて、世界を驚かせる発明であれ、開発ができるのではないだろうか。「指示待ち人間ニッポン」というのは、それは戦争に負けた時は逆らったらもっと危険な目に逢うかもしれないから逆らえないだろうし、日本の復興をという時も誰かの指示に従って進んだ方が効率が良いのも当たり前の事なのだが、それらが、戦争をしていた代の孫、ひ孫の代まで引き続く必要はないと考える。そして、何度も言ってしまうが日本はもはや復興するために頑張っている国ではない。

 それこそ、「有事の時は緊急事態なのだからいつもとは違うモードで」というのと同じで「復興モード」というものは、有事の後に応急処置的にとられた対応であって、その応急処置モードの時の日本を「これが日本だ。」と思い込むのは、日本人の悪い部分である「迎合力」の高さがとんでもなく偏って出てしまった典型的な例なのではないだろうか。

 緊張しすぎたり、思い通りの展開にならなかったりすると、人はテンパって我を失う事があるが、まさにそれと同じで、戦争に負け、なりふり構わず日本をどうにか復興させようと突き進んだ日本は、「日本の本来性」という自分を見失いかけたか、もしくは見失ってしまった可能性がある。私の主張は日本人はそんなに指示待ち人間型の民族ではないという事。その他「自然の神」と「バランスのとれた迎合的融合」をしながら職人気質に面白い文化を生み出して、独自に楽しんできたそれこそ「オタク民族」なのだと考えている。だから、「オタクイズビューティフル」的な事を世界からは言われたりするのだ。「オタク」である部分を良い方向に出すか、悪い方向に出すか。資源のない日本が、世界にこれでもかというぐらい輸出できる資源はこの「オタク力」であり、その「オタク力」を日本の歴史と伝統に照らし合わせて、他の追随を許さないレベルでひたすら「オタク力」全開で、「ディスイズジャパン」的な日本テイストを世界にブチかませば、それで良いのだ。もうこんな平和な時代に、いちいち『西洋』にべったり迎合しすぎて、ムヒを塗ってもかゆみがおさまらないレベルでかぶれる必要はまったく無く、思いっきり、「大和魂」を発動させて日本人の独自の世界観を出していくことが、世界の中においても無比な存在になれるのであって、もういちいち70年前の傷を気にしていちいち慈悲を請うような生き方を我々孫、ひ孫の世代がする必要がない。