harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める

2:病める日本人の死への行進を止めるにはサラリーマンを辞める方針を決める

 

 最近、ブログのタイトルの流行りなのか「サラリーマン辞めた」的なブログを見かけることがある。これは、ある意味私が提唱している流れに人々が乗っているように見える。別にその人たちは私が提唱したからそういう生き方をしているのではなく、「こんなに辛いならもうそのレールから外れた方が楽じゃね?」ってことに気付いたのだろう。そして、冷静に世界を見てみれば、「サラリーマンじゃないと飯を食っていくことが出来ない。」などという世の中になっていないことに気づく。そう思っていたのは自分の思い込みで、幼少のころからかけつづけられた催眠術にかかり続けていただけに過ぎないのだ。

 その催眠術が解けたとしても、「いやいや、自分はサラリーマンというこの生き方が性に合っているのだ。」と思うのであれば、思う存分、毎朝起きて、いつもと同じ時間の電車に乗り、定時に会社に行って仕事をこなして、定時で帰宅する。的な生活を繰り返せばよいのだが、問題はその生き方が性に合ってもいないのに、「大人になったらそうやって生きていくしか方法はないのだ。」と思い込んでいる者たち。そういう人達にとって日本のサラリーマン文化はいろいろときつすぎる。それによって若いのに自ら命を絶つ者もいるが、やはり、なんとかその「日本社会ではサラリーマンとして生きる事しか選択肢がない」みたいな催眠キャンペーンから抜け出せるようにそこに関しては祈るしかないし、こうやって本でも書いて発信していくしかない。その内容に常識人共からバッシングを受けたところで別に気にはならない。

 そもそも、朝、駅のホームに立ってそこにいる人間達を見てみればいちいち言葉を尽くして説得するよりも火を見るよりも明らかに「サラリーマンたちがどれだけエネルギー低い」のかを誰でも確認することが出来る。元気はつらつオロナミンC的な元気そうな大人を見かけることは出来ない。それこそ、朝からキヨスクで、気安くファイト一発でもやってなんとかしてるモノも少なくないかもしれない。そして、そのまま彼ら彼女らと電車に乗ってみれば良い。そこにどれだけの「ストレス」が生じているか。朝の駅のホームから電車でギューギューのあの一連の流れは、まさにこの国におけるストレス発電所のようにしか思えない。

 さらに人ごみの中を会社に向かって歩き、最近で言えば歩きスマホでまわりなどまったく見ずに歩いている、それこそゲームの障害物のような者達の突進をかわしつつ、会社へ。会社に行けば、話の分からない上司、言っても分からないような部下達とのNAZOのとれてるんだかとれてないんだか分からないコミュニケーションをとりつつ仕事をこなす。こなしているのであれば良いが、変なおじさんが「なんだチミは?」と言われる以上の勢いで「何やってんだ」と説教なんか受けてみたりして、上下関係においては言い返したくても言い返すことも出来ず、自分の本音は飲み込んで、納得いかない効率の悪そうな仕事の仕方を強制されたりしながら、さらにストレスを溜める。

 そんなこんなで朝から晩までストレスを溜めるもんだから、ビールでも飲むか日本酒でも温めるかでもして酒を飲んで、その日のストレスを洗い流す錯覚でもしてみるが、酒などというものがストレスを洗い流すものではない事は、それこそ現代人であれば常識の一つなのだが、時代遅れの者は未だに「朝から夜までストレス溜め込んで、夜になったら酒を飲んでストレスを洗い流す」的な事をルーティンとして行っている。

 正直なところ、このルーティンは「負のルーティン」でしかない。なぜなら、酒を飲めば人体にどういう影響があるかなどというものは、それこそ科学的に実証されている訳であって、酒に「ストレスを洗い流す」などという効果はなく、「その人のストレスから逃避する」ぐらいの効果でしかないから、結局その洗い流されていないストレスは、心身へと蓄積される。例えば、酒を飲んで8時間寝た時と、酒を飲まずに8時間寝た時では疲れの取れ方が違う。そう考えるのであれば、その日に溜めたストレスを洗い流すのであれば、早い時間にゆっくり風呂にでも浸かり、寝てしまって、早起きしてジョギングでもした方がよっぽど健康を保てるだろう。

 それこそ、昨今の見た目重視で、添加物たっぷり的な食べ物を食べ続ければどうなるのかというのと同じで、その「体に悪いもの」は体内に入れば、もちろん我々の内臓たちは非常に優秀なので、ある程度はなんとかしてくれるが、摂り続ければ花粉症になるあの原理と同じで、コップから溢れればいろいろな症状として体が「もう勘弁してくれ」とばかりに、病気という形で我々にイエローカードを提示してくるだろう。

 「ストレス」というのもそれと同じで、ちゃんと考えないで「大丈夫だろう」と思ってみたり、例の「酒でなんとかしよう」みたいな事をすれば、どんどん蓄積されていく。もちろん食べ物と同じで、ストレスも溜まって自分のコップの許容量を超えれば、溢れだしてしまうのだから、何かしらの変調をきたすことになる。ちなみに「酒を飲めば何とかなる」というのはたしかに現象としてはそうなのだが、それはなんとかなっているのではなくて、「センサーがバカになっている」だけであって、いずれ気づいた時には取り返しのつかない位、身も心もダメージを負っている事に気づくだけなのだ。

 多少、酒Disリが激しくなってしまったが、一番良くないのは「ストレスを酒で何とかしよう」というこのルーティンなのだ。「楽しい時に酒を飲もう」という事であればそんなに危険ではないのかもしれないが、基本的に健康な人間は、そんなに酒を自分自身が要求してこない。デブが甘いものをやたらと要求して食べてぶくぶく太るのと同じで、必要がないのだ。

 「それが「大和魂」と何の関係があるのか?」と思うかもしれないが、ここで問題にしたいのは『ルーティンの危険性』なのだ。前著である『自分』を最大限に生かす人生戦略の中で、この事を「人類総鉄仮面計画」として論述したが、役を演じていた者が、そのままその役の人間に成り代わってしまって、もう元には戻れない状態になるのだ。もはや日本人は「サラリーマンという顔の鉄仮面」をそれが日本人の顔とばかりに思い込むというよりもそれを「当たり前」として生きてしまっている。

 前項でも述べたがその「サラリーマンという顔の鉄仮面」は、戦後における応急処置モードで活躍したお面であって、本来の日本人の顔そのものではないのだ。だけど、それほどの年月ではないのに被って復興のために頑張ってきた日本人達はそのお面が皮膚化してしまって「これこそが日本人」というまさに、役を演じていたら、役そのものになってしまった現象が起こってしまい、ここ数十年程度のお面を「自分たちの顔」と勘違いして、今もはや復興など終わったというのに未だに復興モードの有効アイテム「サラリーマンの顔のお面」を愛用し続けてしまっているのだ。むしろ、愛用というよりもそれは国民の義務レベルにおいて。

 正直なところ、そっちの方が上で国民をコントロールする立場の者にとっては扱いやすいのも事実だろう。だけど、それで良いのだろうか?扱いやすさによって捨てられた日本人性。もしかしたら上で扱っている人間自体も本来の日本人性など疾うに忘れてしまい、みんなでその「ただのお面」を「これが日本の顔だ」とばかりに勘違いして、日本を創り上げている節がある可能性もある。

 おそらく以前の学生運動的なムーブメントは、その表現こそ過激ではあったが彼ら彼女らが本来訴えかけたかったメッセージは、「それが日本じゃねーだろ」「それが日本人じゃねーだろ」というメッセージだったのかもしれない。そしてその牙まで抜かれた今の日本は、もはやこのお面を自分の顔と信じて疑わない、日本の歴史と伝統については二の次以下にして、いかに従順な労働ロボットとして日々のルーティンを黙々とこなすかどうかに焦点を当ててしまった結果としての社会が今の日本社会なのではなかろうか。

 単純に、朝の駅のホームや電車の中がそれこそパーティ状態で、人々がパーリーピーポーにでもなっているのであれば話は別で、それこそ毎日が楽しくてしょうがない事だろう。だけど、行けば分かる。見れば分かる。そこにいる覇気のない人々の表情、そしてエネルギーの低さを。別にそこにいる人たちをDisっているのではなく、そういう生き方をすればそうなるのはそれこそ当たり前の事なのだ。私はあのライフスタイルを「死への行進」のようにしか今は見えていない。

 それこそ、私自身もそれに気づかず毎朝駅のホームへ行き、電車にギューギューになて通勤していた時代がある。そうしなければ生きていけないと思ったからだ。だけど、まったくそんなことはなかった。なぜ、「サラリーマンをしないと生きていけない」と思ったのかが分からない。ということはなく、やはり子どもの時からずっと、「勉強が出来ることが良い事」「良い会社に入ることが良い事」と擦りこまれてきた。それこそルーティン以上に、もはやそれは空気となって我々を包み込んでいたし、息を吸えばその空気が体内に入ってきてしまうのだから、「いやいや、今の日本は別に復興モードの緊急事態じゃないんだから、もっと自由に楽しく生きられるでしょ?」なんていう事に気づく心の余裕もないし、「これおかしくね?」と何度も疑問に思ったが、それこそ「思春期によくある反抗期的なアレですね。」ぐらいにまわりの大人達からは軽くあしらわれ、反抗期を過ぎて「やっぱおかしくね?」なんて事を言えば、それこそ今度は大人達からだけでなく、同年代の者達からも「お前の方がおかしくね?」ぐらいの事を言われ、一人疎外されていく。そしてやっぱり自分の方が間違っているのかなと自信をなくし、社会に迎合してしまい、その「復興モード用のお面」をこんな時代でも重宝してしまったのだが、やっぱり現実を冷静に見てみれば、やはりそれは戦後日本復興モード用のお面に過ぎなかったのだ。

 サラリーマンはストレスがハンパない。先ほどなんとなく典型例を挙げてみたが、上司であれ、取引先であれ、もちろんあいつらが好きな事を言うのは良い。だけど、こちらが好きな事を言い返せるようなそれこそ平等なルールはなく、かなりのハンデ戦をさせられるというよりもそもそも勝ち目がない。そうは言ってはいないけど、ある種のご主人様ごっこであって、下の者はある意味の奴隷のような状態として生きることになる。もちろん、会社であったり、そこにいる人間達の質によってその奴隷をどのくらいの強弱で強制させられるかの度合いは違うが、最悪な環境に入ってしまえば奴隷以下と言っても良いかもしれないし、基本的には無駄にストレスが溜まる環境に週に5回×8時間程度身を置くことになる。

 極端な話、「自分の内側の世界」を健康に保つことが出来れば、そういう劣悪な環境下においてもストレスを溜めずに、健全さを保って生きていく事も可能だろう。だけど、考えてもらいたいのはだからと言って「自分は心強き人間だからどんな状況でも大丈夫だ。」とばかりに、敢えて自分の家をゴミ屋敷状態にして腐った生ごみに囲まれた中で生活をするだろうかと問えば、いちいちストレスの溜まりやすい状況下にわざわざ身を置くというのはナンセンスであって、それを繰り返すことを楽しめるのは、SMごっこを生きがいに感じている者でしかないような気がしてならない。

 それに、多くの人間は「不労所得」的なライフスタイルに憧れているのは何故なのだろうか?それは「働きたくない」という願望の表れそのものだろう。ちなみに私は「サラリーマンはやりたくない」が、「働きたくない」などと思ったことは人生の中で一度もない。なので、「働きたくない」と思う人間というのは、相当毎日がきついのだろうなと察してしまうのだ。むしろ「働けない」なんて事になったら個人的には、もう死んだ方がマシなんじゃないだろうかという気持ちになってしまう。働けるから幸せな気持ちになれるし、個人的な話をしてしまえば私はいつ休みがあるかも分からないし、1日何時間働いているかもわからない。それこそ日本人の本来性を発揮させて、遊びなんだか仕事なんだか分からない「迎合的融合」をしたライフスタイルを確立することが出来たので、サラリーマンが朝から夜までこつこつ毎日溜めるようなストレスをほとんど受ける事がないのだ。

 これは自慢ではない。ちょっと自慢したい部分も無くはないが、別に自分が特別能力が高いからこういう生活が出来るという事を述べたくて書いたわけではなく、「今の時代ならばそういう生き方を誰でも出来る」と提唱しているということだ。「では多くの人は何故できないのか?」それは約20年前の私と同じで、その「サラリーマンというお面」を自分の顔だと信じて疑わずに生きているから、というただのそれだけの事。だけど、その「ただそれだけの事」に気づくことも難しい。だって「それが当たり前」なのだから。そして、例えば40年もそのお面を自分の顔だと信じて疑わずに生きてきた人間が、今更気づいてしまうとやっぱりある種のパニック状態というか、「それは分かるんだけど、今更もう無理だろ・・・」という事で、気づいたけど見て見ぬふりをする人間も少なくないだろう。その気持ちはもちろん分からなくもない。前に進もうが、後ろに下がろうが、どっちにしても不利なように思えるからだ。もう、その生き方に慣れてしまったのだから疑わずに最後まで突き進んだ方がよっぽど楽なのかもしれない。日常のストレスに対しての耐性はついているが、それこそ「自分らしく」「日本人らしく」などという生き方に今からシフトする体勢をとることの方がよっぽど不慣れで別のストレスを感じるかもしれない。だけど、多くの人達は宝くじに夢を託し、「三億円当たったら会社を辞めて・・・」みたいな自分にとっての夢のライフスタイルを思い浮かべてみたりするのだが、別に「会社を辞める」為に、三億円持っていないとやめられないなどという条件はついていない。