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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか

4:ジャパニーズヒップホップは、新しい日本を創生することができるか

 

 今、日本の若者たちは日本の演歌を聴くだろうか。今、日本の盆踊りをするだろうか。しない訳ではないだろうが、やはりそれらは若者たちがすき好む音楽であれ、ダンスではない事はたしかだ。では、若者達は何に興じるのか。そのひとつが「ジャパニーズヒップホップ」なのだが、何故これが「ヒップホップ」ではないのかと言えば、やはり日本人が輸入して加工すると、良くも悪くも「日本らしく」なってしまう。そこに、何かしらの「大和魂」を見つめることが出来ないだろうかと考えてみたい。

 まず「ヒップホップ」ときいて、ダンスであれ、ラップであれ、音楽であれを想像すると思うのだが、「ヒップホップ」とは文化だ。「室町文化」みたいなものと同義と考えてよいだろう。文化とは人が作り出す世界観だ。日本の若者たちが創り上げた文化としてはこの「ジャパニーズヒップホップ」と「オタク文化」などがあるだろう。

 しかし、「オタク文化」には少々世の中に対してのメッセージというか主張を感じることが出来ない。そういえば、政治家の麻生太郎氏はやたらと、オタク達から人気と支持を得ていたようだが、かと言ってもオタク達は何か世界にメッセージを発信しているとは思えない。ここで言うメッセージというのは、「こういう世界って最高だぜ」というような発信の事だ。もちろんなくはないのだが、日本人が一般的にイメージする「オタク文化」が日本のスタンダード的な表舞台に持ち上がってくることは、現時点ではちょっと想像できない。

 それに比べて「ジャパニーズヒップホップ」は世の中の表舞台に出つつある。私は、その理由は「ジャパニーズヒップホップにはあるメッセージであれ主張がある」からだと推測する。「俺たちの世界観はこれだっ!」「俺たちの世界の色に世の中も染めてやるぜ!」という主張を個人的には感じるし、世の中もそれを積極的に受け入れようとしている流れがある。やはり、テレビのCMにヒップホップ音楽であれ、ラッパー達が登場する事が多くなったことを考えれば、日本の文化に「ジャパニーズヒップホップ」が浸透しつつあるという事実が窺える。

 また1つの例として日本には、「甲子園文化」というものが存在するようにも見える。あるジャンルについて、高校生たちが日本一を競い合う大会が人々を魅了するという文化なのだが、ダンスにおいても、ラップにおいてもある種の「甲子園文化」によって人気に火が付いた節がある。

 そして、ヒップホップは文化ではあるが、やはりダンスは踊りであり世の中に対して何かを主張するというよりも、どちらかというと芸術活動のようなものなので、「自分たちはこういう世界観を創り上げている」という事についてはそれほど強烈な主張を感じない。それに比べて世の中に強烈な主張を提示したのが「ラップ」なのだろう。

 ラップそのものがやはり「強烈なメッセージ」をどう言葉としてリズムに乗せて韻を踏みながら吐き出すかという非常に知的かつ芸術的な創作活動になっていて、それだけでなく哲学的な要素も要求される。アメリカでも、モハメドアリのインタビューなどがラップ人気に火をつけた理由は、ただ単にそのメッセージがリズミカルで、韻が踏まれるユニークさがあっただけでなく、「そのメッセージ性の強さ」であり哲学的要素が含まれていた事が大きいような気がしてならない。

 これをヒップホップが流行る前に、似たようなものを見つけることが出来るかというと、芸術的な要素を考慮しなければ、ヒットラーの演説はラップっぽい要素を感じる。何かをDisり同時に自分の思想を主張するというある種のヒットエンドラン的所作。本来は、こういった世の中に対するDisりであり、主張は少なくとも日本においては、政治家位しか行わず、そして過激すぎればひっ捕らえられたりもするので、やはり公でそのような思想を主張する者は少なく、政治家以外で考えてみれば、〇〇評論家、一般人であればお決まりの「サラリーマンが居酒屋で酒飲みながら政治批判」という何かあまり世の中を変えてくれなさそうな、それこそ日本人のこれまた悪臭である「井戸端会議文化」の線上にあるような情けない感じの内にこもった主張文化があるように見えるが、ラップという存在は、その引きこもり的主張から、公の中での主張に進化したように見えるのだ。

 これは見方を変えれば、携帯電話は昔限られたビジネスマンしか持っていなかったアイテムが一般人に普及されたのと同じで、一部の政治家しかしていなかったなんらかの思想の主張を、中高生でも出来るようになったというある種の「ツールの普及」と見ることも出来る。

 以前、伊藤博文たちが「日本は幼稚で巨額」と自分たちをDisった理由はどこにあったのか?それは科学的レベルが『西洋』と比べて著しく低かったことを指示しているように見える。しかし、私個人の主張としては科学的レベルの差なのではなく、「思想を主張するレベル」が、日本人は西洋と比べて差があるのではないだろうかと思うのだ。そのコンテクストで考えれば、明治時代であれ、戦後であれ、日本人が世界から見て大人になれたのかどうかと言えば、残念ながら幼稚園児のままだったのかもしれない。もちろん科学的なレベルは明治時代のソレと比べたら物凄い飛躍を遂げたことだろう。しかし、「思想を主張する力」においては、さらに戦争に負けて牙を抜かれ、酒でも飲まないと自分の思っている事を主張することも出来ない。そして、せいぜい主張の場は居酒屋で会社の仲間達とダンゴムシのようにくるまってあーだこーだと大した議論レベルにも達していない話をしては虚しく盛り上がるだけだったのだから。

 その負け犬日本の自虐史観的呪い、そして思想を主張する事においての幼児的レベルを払拭する特効薬がジャパニーズヒップホップであり、ラップであるように見えるのだ。日本は選挙権が十八歳へ年齢が下がったが、その前から選挙の模擬授業など若者たちに政治に関心を持たせるような何かしらのチャレンジは実践されてきたとは思うが、投票率を見る限り、それほどの成果は出ていない気がする。私はここに「ジャパニーズヒップホップ」の文化を取り入れるべきだと主張したい。

 「ヒップホップ」というとやはりあまりよろしくない印象も我々に提供してくれるのだが、やはり拳銃社会のアメリカと、そもそも拳銃なんて持ってたら即逮捕される国日本とは同じ「ヒップホップ」という種を蒔いても咲く花が違うし、成る実も違う。それは「みかんとオレンジの違い」のようなもので、アメリカのサンキストオレンジ的な果物を「みかん」と訳してもおかしくはないだろうし、愛媛みかん的なあの果物を「オレンジ」と訳してもバツをつけられることはないかもしれないが、その両者がまったく同じ物と言われたらやっぱり違和感を感じずにはいられない。アメリカのヒップホップはやはり「オレンジ」であって、ジャパニーズヒップホップは「みかん」なのだ。そう考えると、ヒップホップに多少の「悪さ」的要素が含まれていたとしても、アメリカの「悪さ」とは質そのものが違う。そもそも日本のヒップホップの世界で拳銃で撃たれて死んだ人間などまずいない。「ギャング文化」と「ヒップホップ」は重なる部分は多少なりともあったとしても、それがぴったり重なっている訳ではない。そしてジャパニーズヒップホップが健全な方向へ進んでいる一つの表れとして「甲子園文化」がラップと融合して、中高生が別に不良でなくとも健全にラップをしているまた日本独自の新しい何かを作り出しているようにも見えるのだ。

 アメリカのヒップホップ事情にそれ程詳しくないので、それほどの比較をすることは出来ないが、日本人のラッパー達の中には「不良」というよりも「オタク」に見えるような風貌の者も普通に登場しているし、特に「ラップは不良の特権」というような縛りはそれほど見えない。やはり「年齢関係なく自分の腹の中にあるものをいつでもどこでも主張できるツール」としてラップは、携帯電話以上の画期的な発明のように見えるのだ。

 実際に、名言であったり、メッセージ性の強い発現にはラップの要素は普通に含まれている。小泉純一郎がなぜ、国民の心をつかんだのかは彼がある種のラッパーだったからだろう。「郵政民営化、賛成か、反対か。」狙ったのか天然なのかは分からないが、あきらかにリズミカルで韻も踏まれている。貴乃花が優勝して日本人ならば誰でも知っているあの名場面「痛みに耐えて、よく頑張った。感動した!」というこの小泉純一郎の言葉も、ラップにおける強烈なパンチラインの込められた言葉であって、優勝した貴乃花以上に小泉純一郎の方が目立ってしまっている。そして小泉純一郎と言えば「自民党をブッ壊す!」だが、まさにラップそのものである事は説明不要だろう。ただし、自民党よりもあの約10年間の間に、日本がぶっ壊れた気もしないでもないが、それこそ、痛みに耐えながら日本は今、改革されたのかどうかは意見が大きく分かれるとは思うが、言ってる事とやってる事があべこべにだけはならない事を、個人的な心証を受けてしまう訳で、不満があれば溜め込めずに、それこそ韻でもはめ込めてラップで主張してみたら良いのかもしれないが。

 『民主化』という意味合いにおいては、ようやくこのラップというツールが国民にいきわたる事によって完成形へと大きく近づく気がしてならない。選挙という制度によって「国民が政治に参加している」などというのは、大間違いというかそれこそ何かをすり替えて見せているような子供だましの手品みたいなようなもので、もっと国民ひとりひとりが自分の腹の中にある「日本をこういう国にしたい」という想いをもっと主張すれば良い。

 その為には、ひとりひとりがラップする力を鍛え上げていけば、自ずと日本の国民レベルは上がり、もちろん国としてのレベルも上がる。そこんところ有能な政治家先生諸君you know? というラップに対して、「I got it」とアンサーしてくれれば、それこそ国際的なすごろくゲームに対しても一気にサイコロで6のゾロ目でも出て、アガリに近づき、諸処の問題も解決することだろう。