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原澤出版の執筆用ブログ

5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察

5:「ドラゴンボールはなぜ、世界的に人気があるのだろうか」の考察

 

 戦後の日本において、世界で賞賛を受けるのが漫画文化アニメ文化であり、その中でも頂点に君臨しているのが「ドラゴンボール」なのではないだろうか。もちろんその他の日本の漫画やアニメも世界からの評価は高い。他の国の追随を許さないのは、この漫画・アニメのレベルなのではないだろうか。かと言って、日本の映画が、日本の漫画・アニメのように賞賛されているかというと、洋画のレベルと邦画のレベルでは、やはり洋画の方がズバ抜けてクオリティの高い作品が多い気がする。

 「漫画・アニメ」にしても「映画」にしても言ってみれば創作のお話であり世界観のものが多い。何が違うのかと言えば、「2D」か「3D」かという違いぐらいだろう。映画に関してはお話を誰かが作り、その作ったお話のキャラをまた別の人間が演じる。人間が演じる訳だから物理的な舞台やセットも必要になる。

 それに比べて「漫画・アニメ」はお話をつくる人間も、キャラクターをつくる人間も大体は同一人物で、ストーリーと世界観をすべて一人で創り上げることが出来る。キャスティングに誰を使おうと悩む必要もなければ、どの舞台で撮影しようかなど悩む必要もない。すべて自分の創造の世界で作ることが出来る。

 私は漫画・アニメ・映画のすべてにおいてプロでも専門家でも評論家ですらないので細かい事についてはよく分からないが、とにかく日本人は「2D世界の創作物」のレベルが抜群に高い。そしてすでに考察した「オタク」「マニア」に関しても、漫画・アニメに関しては「オタク」っぽいイメージがあり、映画に関しては「マニア」っぽいイメージがある。

 そこから導き出せるものは何かというと、「やはり、日本人は閉じている」ということだろうか。「1人遊びの天才」のような要素を持っているのかもしれない。その理由が島国であるとか、長年の鎖国体質だからとかそういう要素からきているのかどうかは知らない。ただ、非現実的な仮想世界を、仮想キャラクターを作り出す能力が何故か極めて高いのだ。その反対に、西洋人達はその能力に極めて乏しい気がする。

 個人的にはやはりその要因は「宗教の差」にあるような気がする。「神は人間を、自分に似せて創った」的な発想の一神教的思想の人間達には、日本人が創り出すような世界観であり、キャラクターというのは創り出すことが非常に困難であり、あれらの信じる宗教の世界観からすると、ほぼ無理なのではないだろうか。

 そして、日本人達が何故、世界が驚くような「2D創作物」をつくる事が異常なまでに長けているのかは、日本の宗教観が多神教で、その八百万的な神さま達が一人一人というか一神一神というかは分からないが、個性的でストーリーがあるからではないだろうか。

 これは、個人的趣向にもよるのかもしれないが、初期のキャプテン翼は非常に私にとっても魅力的であったし、それこそサッカーのレベルの高い西洋人達からも愛された。そしてその作者は「サッカーをあまり知らなかった」ような気がする。何が言いたいのかというと、申し上げにくいのだが今の時代の大人になった翼君たちのキャプテン翼は面白くないのだ。個人的には「作者が本当のサッカーにかぶれてしまった。」つまり西洋人っぽい作りになってしまったからなのかもしれない。キャプテン翼は「現実的にそんなことできないだろ」っていうのと「だけどもしかしたらできるかもしれない」的な融合的要素が強くて面白かったのだが、キャプテン翼ジャイアントキリング的要素を少なくとも私は一切望んでいない。翼君は生きているし、生き物として成長しているけど、「キャプテン翼」という作品そのものは死んでいるか、もしくは瀕死寸前の危機に瀕している気がしてならない。

 それに比べて、個人的には絶好調のように見えるのがキン肉マンなのだが、キャラクターが本当に生きているんじゃなかろうかというぐらいに、ストーリーが進む。そしてゆでたまごワールドは、独自の宇宙原理であったり物理法則を披露し続ける為、昔からのファンも新しいキン肉マンのストーリーにそれほど違和感を持たずに楽しんでいる者が多いような気がする。そこにはもうブッ飛んだ人間離れした世界観が引き続き継続されているからだと推測する。

 さて、漫画・アニメの王様と言っても過言も異論も無さそうな「ドラゴンボール」についてだが、商況的な匂いは感じつつも、やはり「続編がどうしても見たい」と熱望が強いのは我々読者・視聴者側の方なのだろう。世界中で続編を熱望している感がハンパない。そして、元からあの世界観なので、「神さまの世界」だとか「十二個ある宇宙」とかとんでもないことになってきている。極めて、パターンもそれほどいろいろある訳ではなく、どちらかというとワンパターンなのだが、それこそ「2D版水戸黄門」のような感じで、皆が孫悟空達を応援してしまうという不思議な漫画・アニメだったりする。

 この日本の漫画・アニメを世界に普及するというこの流れは、そんな狙いがなかったとしても少し、戦国時代当時のフランシスコザビエルやルイスフロイス達宣教師たちの布教活動に形が多少フラクタルな要素を感じてしまうのは私だけだろうか。日本の漫画・アニメの影響によって「日本に一度行ってみたい」と外国人達に思わせ、実際に足を運んだ外国人達は今となっては相当数いるのではないだろうか。

 もちろん漫画・アニメは宗教ではないが、madeinJapanのものがここまで外国人達の心に入り込んだものは漫画・アニメがその他の日本の魅力的なモノであれ者の中で、ズバ抜けて強烈なインパクトを与えているのではないだろうか。そしてドラゴンボールは、「神さま」の世界観が出てきているので、変な言い方になってしまうがある種の新興宗教のようにも見えてしまう。この形は非常に新しいとしか言いようがない。私自身も無宗教をうたっているが、ある意味「ドラゴンボール教」の信者と言ってもそれほど間違っていない部分があったりする。

 そして、ドラゴンボールの世界観はブッ飛んでいるようで、何気に世界の真理的なものを捉えていたりする可能性が高かったりする。もしも、お釈迦さまが「自分の内側の世界」の事を、鳥山明先生ばりのセンスで弟子たちに伝えられていたら、もっとこの世界も人間達も変わっていた可能性は高いだろう。やはり、「何にもない。だけどこんなにある。」って事を淡々と淡白に語られたところで、時代が経てば経つほど人々はそれほど興味を持たなくなるし、少なくとも子ども達にはまったく響かない。だけど、「ドラゴンボール」は我々四十のオッサンにも、今の時代の子ども達にもビシビシ響かせているし、それは日本人だとか西洋人だとかの線もとっぱらってしまっている。

 実際、日本復興モードという応急処置的鉄仮面を被り続けてしまうという間違った融合を見せてしまったのが「日本のサラリーマン文化」であり、日本の復興モードを終え、復興後にしっかりと「日本人らしさ」と近代的要素を融合させて「今の時代の日本」を上手に表現することが出来たのが、日本の漫画・アニメ文化であり、その代表作がドラゴンボールなのではないだろうか。

 もし、この仮説が正しいのであれば、日本の教育方針は大きく転換する必要がある。もちろん「鉄仮面」を狂信している者達が今現在国をコントロールし、国民をコントロールしているのだろうから、過剰な期待をしても変わる事は無いだろうが、この仮説からして、少なくとも日本の過程の中での教育においては「2D教育」というか「想像力の養成」「妄想力の養成」というものに熱を入れるべきであって、学校が終わったらさらに学習塾に通わせて優秀なサラリーマンを養成するためにいろいろと人的な資源を費やしていくのは、それこそ「消耗」の一途を辿ることになるだろう。気づいた人間から、その「死の行進」的、非日本人的な教育を手放し、断捨離し、日本人の本来性を伸ばす事ができる「2D教育」をとにかく幼少期であればあれほど熱心に力を注ぐことをおススメしたい。そうすれば、結果的に日本であり、日本人は、世界からもっと賞賛を受ける事になるし、日本人達自身がもっと幸せそうな顔をして生きてる人間達をそれこそ量産する結果へと繋がると私は確信している。

 常識にとらわれずに「日本の何が世界から賞賛を受けているのか」を観察すれば、日本の教育をどうデザインし直せば、良いのかぐらいは別に頭の良し悪しとは関係なしに分かるのではないだろうか。もしも、国のお上が分かっていてそれをしないのであれば、もはや我々日本人は、日本人から毒の水に漬けられていることになる。正直、早いうちから「国に頼らず、極力自分たちでできることは自分たちでやる」という気持ちで生きていないと、取り返しのつかないことになる危険性は時代が進めば進むほど高くなっていく事だろう。情報に踊らされることなく、情報を冷静に観察して、自分が最大限に発揮されるような戦略をとることが要求されていて、その中に「大和魂の発現」という部分は切っても切れない重要な要素だと私は考える。