読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

6:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察

6:もう1つのオタク文化である「コンピューターゲーム」の考察

 

 漫画・アニメに負けず劣らず、madeinJapanのコンピューターゲームも世界から賞賛され、2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式で、マリオが登場したら世界中の観客達が大興奮するという具合なのだから、コンピューターゲームの領域においても日本の圧倒的な強さは揺るがない。やっぱり、「キャラクターの創作能力」においては、日本人は、世界と比較して圧倒的にセンスが高いのは間違いない。

 何故、漫画・アニメ・コンピューターゲームの創作能力が高いのかについては、やはり日本人は、頭の中でぐるぐるいろいろと想像して楽しむ事を伝統的にやり続けている事が原因だと考えた方が無難だろう。そして、西洋人達はそういう遊び方というか、楽しみ方を伝統的に持っていないため、そもそもそういう遊びをすることに不慣れなのだろう。

 極端な話をしてしまえば、西洋的な宗教間の中では、それこそ日本の漫画・アニメ・コンピューターゲームの類は「禁止している内容」なのではないだろうか。麻薬の類に似ている。しかし、世界はそれらの甘い蜜を吸ってしまい、教師達が隠し続けてきた、禁じ続けてきたそれらの味を知ってしまったのではないだろうか。それこそ、戦後我々日本人がいろいろと禁じられ、その反対に3S政策的に与えられた「日本人を骨抜きにするためのおもちゃ」を日本人達は与えられて骨抜きにされたかと思えば、日本人的な「迎合的融合力」を駆使して、今度は日本発の漫画・アニメ・コンピューターゲームを世の中に出して、世界を骨抜きにしようとしたかどうかは分からないが、それらを知ってしまった外国人達の中に、漫画・アニメ・コンピューターゲームの虜になって骨抜きにされてしまった人間達も相当数いるのだから、日本のお家芸合気道」的な「相手の力を利用して、さらに自分の力を加えてお返しする」という伝統的なやり口で、それこそ、核が危険だとかどうだかいうダイレクトな反撃方法ではなく、相手が仕掛けてきた事を加工し進化してお返しして悪気がないのに、浸蝕するという見方によっては、とんでもなく悪い集団が我々日本人なのかもしれない。そういう意味合いにおいては世界から見て、日本であり日本人という民族は危険極まりない連中ということも出来る。西洋の常識がまったく通じない非常識集団なのだから。

 実際、「日本の常識は世界の非常識」「世界の常識は日本の非常識」というような事を言われることがあるが、これは良くも悪くもであって、決して日本の常識を世界の非常識に迎合させていく必要もない。もちろん、今の時代日本が他の国と交流せずにやっていくことなど無理なのだから、世界の常識をしっかり学んだうえで、日本の強みを出して行く必要がある。常に「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」の意識は持ち続けるべきだろう。

 とはいえ、なんというか日本の合気道的センスは、西洋人達は真似したくても真似できないもののように見える。日本人が英会話を勉強する以上に難易度が高そうに見える。領土の狭い島国であるという性質から、海外から資源を輸入して、加工して新しものをつくって輸出するというここについては、良くも悪くもどうしようもない部分なので、やはり日本人は合気道的な民族なのだろう。海外のものを輸入して、日本人的合気道的加工力によって、日本人のセンスでしかなかなかつくれないものを創り、それらを海外に輸出して世界を驚かせれば日本はまだまだ沈む危険性はないように見える。「労働力」として日本人よりも東南アジアの人達を雇った方がコストは削減できるだろうけど、この日本人特有の「合気道的加工力」を日本人以外の国の人達は持ち合わせていないのだから、そこについてはコストを下げてよその国の人達を雇ったところで、問題を解決させることは出来ない。そう考えれば、日本人に対してどういう教育をして、日本人達はどういう大人として生きていけば時代がどう進もうとも生き残っていけるのか、有利なポジションに立てるのかは自ずと見えてくるのではないだろうか。

 とにかく、日本人は妄想力を鍛え上げ、それを「自分の内側の世界」から「自分の外側の世界」へとひねり出すことが出来れば、日本人らしくたのしい遊びだか仕事高分からないライフスタイルを堪能することができる民族なのだと推測する。それを「遊びは遊び」「仕事は仕事」と西洋医学のような発想で区切ってしまうことによって、日本人の本来の生命力は削られて、どんどん弱まっていく事だろう。

 それこそ、私が小学生時代、結構子どもにとっては大金を払って購入していたコンピューターゲームのクオリティなど、今の時代であれば、小学生自身がその程度のクオリティのゲームだったら自分で作りだすことが出来る時代になっているのだから、子ども達にゲームを作る授業などをしても良いかもしれない。「ゲームを作る」「遊びをつくる」という創作活動をもっと日本は教育として取り入れた方が良い。もちろん昔はそんな事を学校がしなかったところで、我々は勝手に遊びやゲームを作ってはみんなで楽しんだ。ここについては時代が進んでしまい、要領が当時とは違ってきたのだから、少し時代に合わせたデザインをすべきだろう。「外遊びしない日本人の子ども」の解決策として、「ポケモンGo」を提案するという事は、結果はどうあれひとつのチャレンジだったようにも見える。あのゲームを「コンピューターゲームと外遊びの融合」と考えて創ったゲームであるかは分からないが、ひとつの新しいチャレンジとしては良かったようにも見える。何事もやってみない限りは、それがどれだけ世の中にインパクトを与えられるかも分からないのだから。

 また、漫画・アニメ・コンピューターゲームにおける共通点としては、「自分ではないけど、キャラクターに自分を投影できる」という部分がある。もちろん、これは映画やドラマにも共通して言える事ではあるが、映画やドラマは何か生々しすぎて、ちょっと遊びの要素としては物足りないというか、リアルな世界の中で陶酔したところでやはりあまり面白みを感じないのだろう。非現実的であり、この世とは違うもう一つの世界で、自分に代わってキャラクターたちが大冒険をしてくれるのは、ある一つの乗り物に乗ってそういった非現実的な世界を冒険できるという、現実世界では体験することが出来ない体験をする場としてそれらが提供されているのだろう。それだからそのゲームだけをやった者たちだけにしか分かち合えない何かがあるのだろう。これはゲームの内側の世界においても外側の世界においても同じ原理がはたらいている。

 そういう「新しい体験を分かち合う場」づくりが日本人は上手い。西洋人達はそういう世界を創り上げる能力が非常に乏しい。無駄にリアルな世界でゲームをつくる事はもしかしたら日本人よりも上手い場合があるが、マリオだったり、ピカチューのようなキャラクター、そしてそれらが生きるための非現実的な世界観を創り出す能力に欠けている。しつこくなるが、この理由は1章で考察・論述してきた言語構造や宗教間の違いからきているものだと考えている。

 ここについては賛否両論が激しい部分かもしれないが、「日本人は論理的ではない」と言われる事がある。もしもこの説が正しいのであれば、「論理的過ぎると、リアルとは違う非現実的な世界観であれ、キャラクターを創り出す能力に欠ける」という見方も出来なくはない。

 論理力を養う事は必要だし、重要だ。特に日本の中に引きこもらず世界を相手に生きる上では論力がない事は、戦場に出て秒速で殺されることを意味しているかもしれない。だとしても、もしも日本人の漫画・アニメ・コンピューターゲームで他国を圧倒するだけの「非現実世界の創作能力」を捨てることになるのであれば、私自身は少なくとも、世界レベルの論理力よりも、日本人のイカレた妄想力と心中したい。もちろん、日本人の妄想力と世界レベルで要求される論理力。この両者をしっかり備えて生きていけるかどうか。この問題を乗り越えた日本人が、世界をリードして行けるだけのリーダーシップ能力を持った日本人として、世界レベルでリーダーになる資格を持つのではなかろうかと考える。