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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

7:日本とスポーツについての考察

7:日本とスポーツについての考察

 

 ここまでは、漫画・アニメ・コンピューターゲームという3S政策的コンテクストでいうところの「スクリーン」的な要素が強かったジャンルについての考察をしてきたが、今回は「スポーツ」について考察してみたい。実際のところ、スポーツは日本にどのように入り込んできたのだろうか。やはり、明治時代に『西洋』がドッと入ってきた時にスポーツも入ってきて、それからいろいろと入ってはきたり盛り上がったりして、今の時代に至るのだろう。そういうことで、おそらく力比べ、速さ比べだったり武道的なもので競い合ったりすることはあっても、あまり日本発の球技のようなものはなさそうだ。そう考えると、スポーツというものは『西洋』的な文化が強いと言えるだろう。

 そして、イメージ的にも事実としても日本人は野球を好む。ではこの野球は戦後、アメリカに首輪をつけられてから広まったものなのかと思えば、その前には野球は日本人に好まれていた風潮がある。しかも、野球は野球と日本では当たり前のように呼ばれている。「ベースボール」といちいち英語で呼ぶ日本人はほとんどいないだろう。それに比べ、サッカーを「蹴球」などと呼ぶ日本人はほとんどいない。サッカーはサッカーだが、日本人にとってベースボールは「野球」と呼ぶ。何が言いたいのかというと、そのくらい「野球」というスポーツは、「ベースボール」をこれまた日本人のセンスで「野球」という日本人的スポーツにしてしまった一つの例のような気がしてならない。

 バレーボールはバレーボールだし、ラグビーにしてもバスケットボールにしてもテニスにしても日本語的なよく分からない「庭球」だの「籠球」だのあるし、ごくたまに見かけるけど、そんな呼び方でそれらのスポーツの事を呼ぶ日本人など皆無に近い。「明日、籠球やろうぜ。」なんて言っている日本人を私は見たことがない。日本語で呼んでも馴染みがある球技は、「野球」と「卓球」ぐらいではないだろうか。まあ卓球は中国からやってきたスポーツだから漢字読みで当たり前なのかもしれないが、と言おうとして調べてみたら、どうやら卓球ももとは西洋のスポーツで中国が後に目をつけて国技にした歴史があるらしいのには驚きだ。とにかく、我々昭和生まれの人間にとっては日本人のスポーツと言えば野球というイメージが強い人間は多い事だろう。

 なぜ、日本人は野球を愛したのだろうか。おそらく野球というゲームの性質が日本人のDNAというか気質と相性が良いからだろうと推測する。野球の中にある「何か」と日本人の中にある「何か」がフラクタルな関係にあるのだろうけど、その部分はどこにあるのだろうか。

 今はちょっと違うが、21世紀に入る前までは、それこそ日本人は世界から見たらサッカーという協議においては「ヘタクソ」の部類にいた。ワールドカップに出場できたのは1998年が初めてで、予選を通過して決勝トーナメントにまで進めたのは2002年の自国開催時と、2010年の南アフリカ大会しかない。それに比べ野球に力を入れている国の数は、サッカーに比べて圧倒的に少ないとは言え、日本は野球の世界大会WBCでは世界一にもなっているし、常にトップクラスの成績を収めている。この違いは一体何なのだろうか。そして、アメリカ人もサッカーは最近結構強いけど、どちらかというとアメリカ人と言えばサッカーよりもベースボールだろう。

 そう考えると、日本とアメリカは野球・ベースボールであって、西洋の国々はサッカーを好む。この性質はなんだったのだろう。日本のサッカーのレベルは世界に追いついたようにも見えるが、イチローのような世界の頂点に立てるようなレベルのスーパースターは日本のサッカー選手にはいない。やっぱり日本人は野球のような性質のものに向いている気がしてならない。

 それこそ「フラクタル」という事を考えれば、野球のバットと、侍が手にしていた日本刀。あそこにフラクタルな関係を見つけられるが、こじつけている感がしないでもない。だったら、ボールを投げるというこれは、過去の日本の歴史の中の何とフラクタルな関係にあるのだろうか。

 しかし、日本人にはサッカーボールをリフティングする曲芸的な「フリースタイル」になるとレベルの高い選手が多かったりする。これは日本の蹴鞠とフリースタイルがフラクタルな関係にあるからなのだろうか。そうすると、「球を投げる」という何かと、日本の過去の歴史においてフラクタルな関係にある何かがあると考えた方が妥当な気がする。合戦の時に石でも投げていたのか、それとも何か投げて鳥にでも当てて捕まえていたのか、モリを投げて魚を捕まえていたそれなのか、はたまた別の何かなのか。

 いきなり唐突に「過去の歴史・伝統的な何かとのフラクタル要素のある者は日本人は強い説」を掲げてみたが、なんかそういうのってあるんじゃないかって気がしてきた。これはちょっと気持ち悪い話なのだが、胡散臭い「こいつ大丈夫か」と思わせるような自称スピリチュアリスト・霊能力者が「なぜイチローはあんなに凄いのか?」みたいな事に対して大体こんなことを言ってくるのだ。それはどういう屁理屈かというと、「イチローの過去世はそういうものを投げたり走ったりする仕事をしていて、それが引き継がれているから今の時代野球選手になって偉業を成し遂げているのだ。」というような根も葉も根拠も論拠も何もない理屈なのだが、「過去世」がどうとかは眉唾以下のトンデモ話だとしても、「日本人のDNAとしてのフラクタル現象」としては、西洋の歴史・伝統的な要素の強いスポーツよりも、日本の歴史・伝統的な要素とフラクタル要素を感じるような所作を要求されるスポーツの方が、日本人は強さを発揮しているのではないだろうかというこの推測は、それほど的外れの予想ではない気がするのは私の思い込みなのだろうか。

 だが、これだけでは説得力に欠けるのは承知の上で論述してしまったので、何かしらもう少し「あ、もしかしたらそういうのってあるかも。」というような何かを見つけたいなと思うのだが、逆に今立てた仮説に対して反論をしようと思えば、いくらでも反論出来る気がしないでもない。例えばスキーのジャンプが異常に日本が強い時があったが、あれは過去の日本の歴史の何とフラクタルな関係にあったというのだろうか。それこそ特攻隊とフラクタルな関係にあったとでもいうのだろうか。

 日本は体操競技も強い。これは一体何とフラクタルな関係にあったのだろうか。明らかに日本が歴史上どの年代でも大した成績を残せていないスポーツと言えばバスケットボールだが、日本人の遺伝上の「そんなに背の高い人いない」という部分以外にも、あのようなスポーツとフラクタルな関係にある所作がなかったのだろうか。

 フィギアスケートに関しては、いつの間にか日本は男女共に強豪国になっているが、どちらかというとあのスポーツはもっと昔から日本が強豪国になっていても良い気がする。あの競技は以前から日本の伝統芸能的な要素とフラクタルな関係があるように見えたからだ。

 と、少しこじつけ気味に、日本人性とスポーツの何か面白い関係が見つけられればと思い考えてみたが、今の時代で考えれば、テニス選手にも日本人ですごい選手はいるし、サッカー選手にしてもそれなりに世界で活躍している選手はいるし、大体の競技で何人かは世界のトップで戦っている日本人はいるので、「日本だからと言ってこのスポーツに特化している」というよりも、「人間」としてのアスリート的なポテンシャルをどう発揮できるかを知っている者が日本人だとか西洋人だとかに関係なくスポーツの世界では、「人間」という部分での優劣の方が強く関係しているのだろう。

 スポーツの中で、漫画・アニメ・コンピューターゲームのように「圧倒的に日本人とんでもなくセンス高すぎ」というような競技もないし、選手もいない。いるとしたらイチローなのだが、それこそイチローが「大和魂」を日本のアスリートの中でひとり発動させているかどうかの研究をしないといけなくなるが、「イチローだけ」というのはちょっと不思議な話になるし、そこまでイチローが一般人離れしていた生活をしていたとも思えないので、大和魂とスポーツに関係しているところを見つけることはなかなか難しい。前項の漫画・アニメ・コンピューターゲームで考えれば、日本人は「妄想力」がとんでもないという仮説が立つので、「スポーツと妄想力はそれほど関係ない」と言えるのかもしれない。それこそ、誰かがイチローに「イチローさん、あなたとんでもない妄想大好き人間ですか?」とインタビューして、「はい、僕は子どもの頃から三度の飯よりもぶっちゃけてしまうと、野球よりも妄想する事が好きでして・・・」とかい出してくるのであれば、もう大和魂の正体は「妄想力」って事でも良い気がするのだが、おそらくイチローはそんなに妄想大好き人間ではない気がする。

 ただし、スポーツというものは「自分のイメージした通りに体を動かすことが出来るか」という問題に対して、それを身体的なパフォーマンスで実際にその通りに応えることができるかどうかという「想像」と「運動」の連動であり対話であると見ても良いので、イチローの逸話で良く掲載されているような情報から考えてみると、「ルーティン」であり「反復練習」というものは、「想像」という自分の内なる世界と「運動」という自分の外なる世界をつなぐ架け橋のような何かを架ける所作なのかもしれないという仮説は出てくると言えば出てくる。しかし、そこに「大和魂」という言葉を彷彿させてくれるような何かは匂いすら感じ取れない。

 これまでは、スポーツという競技であったり、スポーツを行う選手にフォーカスして考察してみたが、観客というかファンというかサポーターというか「スポーツを観る者」「スポーツを応援する者」側に、日本人特有の何かがないかを考えてみたい。