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原澤出版の執筆用ブログ

8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察

8:世界から蔑視される「学習塾・お受験文化」についての考察

 

 日本好きの私が、一番嫌いな日本の文化は間違いなくこの「学習塾・お受験文化」だろう。そう考えると、私は実は日本人らしくないのだろうかと思ってしまう節もある。正直、どんな刑罰に処せられることよりも、私は「お受験の刑」に処せられるのが一番苦痛かもしれない。もうとにかく、この文化が嫌いだ。

 では、この悪しき文化は明治維新であれ、戦後であれ『西洋』の持ち込んだ異物なのかといえばそうではないようだ。むしろ西洋であれアメリカの教育は、日本の教育と比べて「のびのび育てるスタイル」だったりする。それこそ、西洋人達は日本のこの「学習塾・お受験文化」を蔑視している。それこそ、「子どもを厳しいルールにがんじがらめにするな」「日本の学生はどうしたら試験に合格できるかを教えられ、どう考えるべきかは教えられない。」「日本の教育は、単なる公式に100%当てはめてるだけ。」「学生たちは誰ひとり自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」と、言いたい放題Disの嵐だが、私自身もこれらの意見に対してme tooとしか返せないし、反論する気持ちもない。まったくの同意見だからだ。

 それなのに、なぜ日本人はこの腐りきったもはや教育と呼ぶこと自体に嫌悪感を抱いてしまうこのクソシステムをずっと採用し続け、さらにもはや「家に帰るまでが遠足」という校長先生がよく言うことあるあるとフラクタルの関係のように見える「学習塾に通わせるところまでが義務教育」みたいな事をしているのだろうか。個人的には、トランプ大統領に「日本よ、お前の国から「学習塾・お受験文化」を撤廃しないとミサイル落すぞ。」ぐらいに警告してもらいたいというのが私の本音だ。とにかく馬鹿げているとしか思えない。タバコ以上に百害あって一利もないのが、この日本の「学習塾・お受験文化」だ。

 では、なぜこのような世界から蔑視されても続けるそれこそ、こんなクソ文化にしがみついているという事が理由でイエローモンキーとバカにされるのであれば、甘んじて受け入れるしかないような頭の悪い文化に日本人は固執しているのかを考えてみたい。ちなみに海外に不登校児のような存在がどのくらいいるのか知らないが、確実にこの

「学習塾・お受験文化」というクソ文化のせいで、学校に行きたくない子どもたちが増加しいるのは間違いない。もっと楽しくやれば、学校生活だってそれなりに楽しかったりするはずなのに、人間をロボットのように扱おう的な事をしていけば、そんなの病んでいくに決まっているし、感覚の鋭い人間達にすればそんな「人間をロボット化」するような場所に行きたくないと思うのは当然だし、そもそも子どもと大人という関係において、逆らう事さえできず、それは言ってみれば犯罪を犯して入れられる刑務所のような事になっているのだから、そこにお行儀よく通えること自体がもはや病的なのだ。

 それこそ1章で「人間をモノのように扱う民族」と私は西洋人達の事を称したその西洋人達に「日本人の教育は人間をロボットのように扱っている低能なもの」と蔑視されているのだから、もうここについては何も言い返すことが出来ないし、なんでそんなことをするのだろうかと本当に残念でならない。

 私はこの「学習塾・お受験文化」についても、これは戦後の「復興モード」が創り出してしまった一つの応急処置的教育システムなのではないかと推測する。とにかく、復興している時には「優秀な労働力を効率よく量産していく」という戦略は、まあ想像しやすい。そこに「競争システム」を大人になって社会に出る前から、学生時代に植え付けてしまおう的な発想も出そうな気もする。もしも、当時「学習・お受験文化」によって復興のスピードを劇的に加速させた可能性もある。子どもも大人も「追いつけ・追い越せ」的な空気で日本全体が「復興して、世界を追い抜くぞ!」という追い風というか神風を利用したようなものなのではないだろうか。

 そして見事日本は復興し、復興しただけではなく世界トップクラスの経済大国になれた。そして、もちろんお決まりの日本の悪い癖というか、副作用の「応急処置モードをひたすら進化させてしまう日本人性」がここにも発揮されてしまう。もうそんな「追いつけ・追い越せ」なんて事をしなくてよいのに、さらにその「学習塾・お受験文化」を日本人の優れた加工・進化能力によって、ポケモンのキャラクター以上に進化させていくという事をし始めて、今の時代の「学習塾・お受験文化」がここにある。

 例えば、お隣の国が未だに日本に「戦争の時の損害賠償をしろ」と言い続けているが、「もういいんじゃないの?」というのが私の本音だ。何代まで祟れば気が済むのだろうかと思ってしまう。それは「戦争でやったことを正当化」したい訳ではない。例えば犯罪を犯した祖父の罪を孫が背負う必要などどこにあるのだろうか。という事を言いたいだけだ。

 それは実際にこの「学習塾・お受験文化」もそうなのだと私は強く訴えたいのだ。もう裕福になった国日本にこんな「追いつけ・追い越せ」文化は無用の長物であるし、もっと言ってしまえば「戦後の祟り」みたいなものだ。これによって、どれだけ日本の若者のポテンシャルがボロボロにされ、さらに言えば裕福になったというのに「過労死」などという情けない社会現象を作り出してしまう始末に負えない不始末を起こす国に成り下がってしまっているのは、本当に悲しい事だ。もちろん、このような事を文部科学省に意見したところで、馬の耳に念仏状態であるだろう。

 本来、日本の上に立って国であれ国民をコントロールする者達は、誰よりもこの「戦後の祟り」を取り除く事に心血を注ぐべきだったのだが、今の時代の日本を見る限り、国民の所得を倍増させることに関しては躍起になったが、そのミッションを達成した後の計画までは考えていなかったという事が良く分かる。日本の教育は後手後手で、それこそ以前「ゆとり教育」などというテコを入れてみたりもしたが、まったくビクともせず、それこそ未だにコテコテの「学習塾・お受験文化」が蔓延ってしまっているのが現状だ。

 外国人達が日本をDisっている中に、「自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」というようなDisがあったが、もう日本の教育における「戦後の祟り」を除霊する事に対してはもう国になど頼ったところではどうしようもならないし、それこそ、日本は子どもを金稼ぎのターゲットにしてしまった。もはや「教育」であり「子ども」というのは、銭ゲバ達から言わせれば金を稼ぐための対象でしかない。

 本気で、日本の教育をどうにしかしようという気持ちのある人間達でなんとかするしかない。それが小さなことでも良いから、ネットワークをつくって自分の言葉で自分の意見を述べることができる人づくり」の環境をつくっていくしか、日本のあ式教育システムを破壊して、変えていく事は出来ない。時間がかかろうが、いくら邪魔されようがこれだけは本気で日本の教育における「戦後の祟り」を成仏させてあげない限り、日本はさらに上のステージにはたどり着けず、それこそ何かしらの傀儡として日本という形をいろいろと保てなくなる危険にすでに晒されていて、それはもうだいぶレッドゾーンに近いレベルのイエローゾーンにいる事に気付かないとまずい。

 もちろん、このような心配をよそに、子どもたちであれ若者たちは、その「戦後の祟り」にやられずに逞しく生きている若者たちも少なからずいるので、彼らに期待するというのも一つの手だろう。前著『自分』を最大限生かす人生戦略の中でも書いたが、今の時代は「学習塾・お受験文化」という「社会のレールゲーム」など流行らないし、コスパも悪い。早急に領土ゲームの経験値を積んで、自分の領土統治をして自分の作り上げたい世界を創って幸せ生きていってもらいたいと私は願う。

 それこそ、日本人は「妄想の天才」なのだから、「自分の内側の世界」で、世界を驚かせるトンデモワールドを創り上げて、「自分の外側の世界」にそれらを上手に投影して、それこそ「学習塾・お受験文化」→「就活文化」→「過労労働文化」というレールに乗って消耗しまくる人生を送る者たちを脇目に、常夏以上の楽園ベイベー人生を謳歌してくれる日本人タチだらけになる事を期待するのと共に、私自身もそういう日本の教育システムが広がる何かを作って提供できるように出来る限り尽力していく事にする。もちろん仲間は多いに越したことはない。

 戦後日本の良い部分は徹底的に伸ばし、戦後の祟りであったり、悪しき部分は徹底的に見直して改善する。先人たちが蓋をしたままの「臭いもの」の蓋を開けて向き合うのはたしかに大変かもしれないが、誰かがどこかの代でやらなければ、それはさらに腐敗臭を増して、次の代へとキャリーオーバーしていくだけだ。

 戦後の祟りは、孫・ひ孫の代でなんとかそのツケはきっちり清算してやりませんか?という提案が私の提案だ。誰も乗っかってこなかったとしても、孫悟空の親父のバーダックのように一人果敢に挑むまで。フリーザよりは難攻不落ではないでしょう。せめて文部科学省ジャイアントスイングかますぐらいまではしたい。そのフラフラになったところを誰かが一発シャイニングウィザードでもかましてくれれば、日本の悪しき教育スタイルもK.Oされるのではないだろうかという訳の分からない事を述べてしまったので、それこそ意味不過ぎてWhat say?だろうけど、西洋人達にDisられないように、私自身の自分の言葉で自分の意見を述べる」っていうここに関してはちゃんと明示することは出来ただろう。