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10:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

10:現代日本の一大宗教「Japan教」についての考察

 

 では、この章の最後に今の時代の日本の宗教観について考えてみたい。日本のメイン宗教は仏教だというイメージがあるが、もはや日本人達に「仏教徒」と呼べるような人間はかなり少数で、それこそ葬式の時に形だけ仏教的な事を行っているだけで、日常仏教的に生きている人間等ほとんどいない。それこそ、クリスマスイブ・クリスマスにはお祭り騒ぎ、最近で言えばハロウィンではもっとお祭り騒ぎ。そして、西洋の音楽やら踊りに興じ、服装にしても和風な格好をしている人間等ほとんどいない。

 西洋人達は週末に教会に行くなどという風習があるかもしれないが、日本人にはそういう風習が昔はもしかしたらあったかもしれないけれど、基本的にはない。それこそ、「日曜日」などいう文化自体が日本のものではないだろう。もう日本の良くも悪くも「迎合的融合力」がこれまた独特のなんなんだかよく分からない無宗教的全体的な宗教の様で宗教ではない空気を皆で創り上げた。神さまはいるようでいないような世界観。仏教の方が都合の良い時は仏教キリスト教の方が都合の良い時はキリスト教、というような言ってみれば「いい加減教」が「Japan教」なのかもしれない。

 宗教的には「これ」というものは縛られない今の時代の日本人。だけど「戦後の祟り」にはガッチリ縛られてしまう日本人。もはや、ここまでカオスなフリースタイルをかます日本人は、騙す騙さないなどいうことも一向に気にせず、来るもの拒まず状態で、どんどん良くも悪くも取り入れて融合してしまう、奇妙奇天烈な民族にいつの時代からなってしまった。

 だけど、元からちょんまげだのハラキリだのと日本人の考えることは、世界から見れば奇妙奇天烈だったのだから、そんな日本人が『西洋』を取り入れ、伝統的「オタク力」を発揮して新しい世界を作った結果、こんなんなっちゃいました。って事なのだろう。

 やはり、島国という大陸の人間から見たら、日本という領土は牢獄的な部分は少なからずともあるのではないだろうか。大陸に住んでいれば、中国もヨーロッパも陸続きで、それこそ他国との交わりも盛んだけど、海外の人達から見れば日本というのは、日本人から見た沖縄のようなものなのかもしれない。その「狭く限られた空間」の中では、「いかに工夫して内に籠って楽しむか?」という問いに対する対話を多くの日本人達は常にし続けていたのかもしれない。日本人は意識を外に向けることは、これまでの考察からしても得意の様には思えない。だから、各地方毎に得意なものがあるのだろうし、こんなに狭いのに県民性のようなものが見られるのは日本人の「オタク力」からくるものなのではないだろうか。戦国時代はとっくの昔に終わったけれど、それは今の時代においては、形を変えてB級グルメだのゆるキャラだのに形を変えて未だに戦国時代ごっこをしているのかもしれない。

 たしかに、日本人が今の時代において、日本人だけが持つ「大和魂」を発揮させて、そのポテンシャルを如何なく発揮させるためには、「どうやってオタク力が発揮できる場を作るか」というコンテクストは非常に重要な要素になり得ると考えて良いだろう。そして、同時にそれはある罠と表裏一体の関係になっている事も忘れてはいけない。「融合力」は油断すれば「迎合力」になり、利用するためにかぶった鉄仮面は油断すればそれが鉄仮面であったことを忘れて、仮面が自分の皮膚に馴染んできて本来の目的を忘れてしあさっての方向で、ひたすらオナニーを覚えた猿以上に、ひとりよがりをしてしまう弱点も日本人のこの「オタク力」には備わっている事を忘れてはいけない。もちろんひとりよがりがその人間だけで終わるのであれば、好きなだけオナってれば良いと思うが、日本の歴史を見る限りそれが義務教育に結びついてみたり、社会の義務的な価値観と結びついて国民全体を縛り上げる亀甲縛り以上に、結構どころじゃないぐらいキツイ縛り上げをしてくれる「縛られ気質」に日本人はあるようにも見えるので、このバランス感覚であったり、手綱コントロール力は各自で注意しながら持ち続けるべきだ。

 例えば、クリスマスとハロウィンぐらいならまあ良いのかもしれないが、いつの間にか毎日が『西洋』的なイベントみたいになってしまったら、もはやそれは融合ではなく迎合だろう。悪い例で言えば、頭の悪い日本人サッカー指導者が『西洋』にかぶれて「日本人もスペイン人の真似して世界のトップクラスになれ」みたいなああいう考えだろう。あれはまさに融合ではなく迎合だろう。政治家でも「融合」と「迎合」の違いが分からず、必要以上に『西洋』に無駄に尻尾を振ってる売国奴のような人間がいる。それこそ国民は、自分が一票投じる対象の人間が、「融合力」のある日本人として今の時代を引っ張る力を持っているリーダーであるのか、「迎合力」の高いみっともない売国奴のようなハゲタカ共の手下のような輩なのかだけはしっかり見極める力を持つべきだろう。大体「迎合」してしまうような頭の弱さと心の弱さを兼ね備えた人物というのは、教育の考察の時に外国人が日本人をDisったあの言葉、自分の言葉で自分の意見を述べることはできない。」が象徴するような人間力の低さ、そして愛国心の欠如から来る頭の悪さがその発言であり、行動に滲み出てしまっている。それは加齢集のキツイオッサンが満員電車でとなりにいた時のあの強烈な悪臭と比べても比べ物にならないぐらいの悪臭を放っている。もう日本人はその悪習だけは絶たなくてはならない。そうしないかぎり、世界が我々にしている拍手は、賞賛の意味合いでの拍手ではなく、嘲笑の意味合いでの拍手になってしまうことだろう。

 それこそ、今の時代にとっての日本人に対して行うべき義務教育とは、「融合」と「迎合」の違いをしっかり理解して、融合できる力を兼ね備えたおもしろ民族日本人として育っていく事だろうというのが、ここまで日本と対話し、考察してきた私個人の見解であり結論だ。何かに謀殺されることなく、磨くべきは洞察力であり、迎合して吞み込まれることなく、包括するだけの包容力を持てるか、それとも呑み込まれるか言ってみれば囲碁の世界観のようなものなのかもしれない。「どっちが大きく包み込めるか」的な。大和魂を発現させるための世界観であり、意識する事はこのあたりだろうと私は総括する。