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原澤出版の執筆用ブログ

1:まず、『独自』に日本を研究してみる

1:まず、『独自』に日本を研究してみる

 

 1章では過去の日本、2章では現在の日本を考察し、最後のこの3章では、どうすれば大和魂を入手して、さらにその力を発現させ、強化していくメンテナンス・カスタマイズの方法について考えていきたい。

 まず、『魂』という存在は、物理的には存在していないし、もっと言ってしまえばそのものがあるのかどうかも分からない。だけど、あると考えている者は多く、なぜ、見えもしないものをあると考える者が多いのかは、やはり生きていると目に見えるものだけの世界であれ法則では考えられないことが起こったりする事から、『魂』と呼べるような何かがなければおかしいと感じる者が多いからだろう。

 「『魂』という言葉を使わずに『魂』を説明せよ。」という問いについて考えれば、もう少し言語的にも『魂』とは何なのかを理解できるかもしれないので少し考えてみると、たとえば、ことわざに「仏作って魂入れず」ということわざがある。これは、意味的には骨折って成し遂げながら肝心な点を欠いていることのたとえ。なのだが、『魂』とはこのことわざで考えてみれば、「肝心な点」ということになるのだが、人間の人生に置き換えても「仏作っても魂入れず」的な生き方はなんとなくイメージできる。

 たとえば、家族のためにマイホームを購入したものの、そのローン返済のために働き続け平日も帰りは日付が更新されてから、土日も休むことなく馬車馬のように働き、家族団らんした生活もない。みたいな事になれば、これは「仏作って魂入れず」的な生き方なのかもしれない。これに類似した生き方はたくさんある気がする。迷路であと一歩でゴールは見えてるけど、残念ながらそこに1枚壁があって残念でした的な。この、「最後ゴールするのに、一手足りないその「一手」」これを『魂』と人は呼んでいるのかもしれない。また「悪魔に魂を売る」という言葉があるが、ここで人間は『魂』という何を売っているのかを考えてみれば、『魂』の輪郭のようなものが見えるかもしれないが、それは「人として大事なもの」というか人間の良心から想像される何かなのかもしれない。おそらく、その人間に「良心」のようなものがなければ、悪魔に魂を売る事さえできないように見えるし、すでにその者は悪魔に魂を売ってしまっているような気がする。

 『魂』とは大事なものをたとえる時に使われるという事は間違いなさそうなのだが、では『魂』とは何なのかと問われれば、私個人手しての見解は「生きる意志」のようなものではないだろうかと考える。つまり大事な事は「意志を持って生きる事」であり、「意志」を持たずに生きる生き方は、仏作って魂入れず的な生き方であり、悪魔に魂を売って生きている生き方であるとも言えそうなので、『魂』というものは「生きる意志」と考えても良いだろう。

 では、本題の「大和魂」とはなんぞやという事になるが、『魂』を「生きる意志」と考えれば、「大和」つまり「純日本的な生きる意志」という事になる。ここで敢えて「純日本的なる」と述べたが、今の時代の日本人に何か「大和魂」的なものを感じることが出来ないのは、この「純日本的なる」という意味合いにおいて何か別のよく分からない日本といって良いのか分からないような意志で生きているため、そこに「大和魂」を感じないのではないだろうか。そういう意味で敢えて「純」という言葉をつけた。

 我々は、それでも幼少のころから「日本はこういうものだ。」と教えられてきて、それを学んで大人になった。そうしたらどうやら、「大和魂」とは別のよく分からない魂をエンジンにして生きてしまっているような気がする。私個人の話になるが、ここに気づくのがちょっと遅かったような気がする。「あ、、、騙されちゃったのかな」的な、ある種の「魂」の改ざんというか、『魂』=「生きる意志」と考えれば、その意志そのものを誰かにコントロールされてしまったというか、デザインされてしまったというか何か「自分で自分の手綱を握っていなかったのかもしれないな」と思わされる節があり、それでもそれなりのしっかりした『魂』が込められていればそれはそれで良かったのかもしれないが、やっぱり何か弱弱しくてブレブレの『魂』が自分の中に搭載されてしまったことに後になって気づくものが後を絶えない。そこに自分の中に搭載された本来の『魂』、つまり「自分が本来どう生きるかという自分固有の意志」のようなものが、何か自分にシグナルであり、サインを送っているような気がしてならないのだ。「このままで良いのか?」「大和魂を奮わせよ」と。

 それらの今の時代の人間達のなんとなくのパターンからすれば、何故、我々の『魂』が脆弱な『魂』になってしまっているのかは、間違った歴史を信じ込んで生きているからのような気がしてならない。つまり、「生きる意志」をそこに強く載せることが出来ないため、何かふにゃふにゃしたような『魂』にしかならないのではないだろうか。

 実は、私自身がどの程度「大和魂」を発現させ、発動させることが出来たのかについては比べるものがないので曖昧になってはしまうものの、あきらかにそれまでとは『魂』の強さが変化したきっかけになる事があった。そのきっかけになったのが、歴史を疑うということだったのだ。

 正直なところ、もはや過去の歴史などタイムマシンがないのだから、資料やその土地から出土されるなんらかのものから研究して「おそらく過去はこうだっだろう」という推測をするしかない。そして、時代が変われば、歴史の解釈が変わったりすることもある。何が言いたいのかというと、「どういう歴史が正しい歴史と言えるのかは今の時代の人間に分かるはずがない」という前提がある事を知ることが大事で、例えば我々日本人が日本であれ、世界の歴史であれをどうやって知るのかと言えば、学校の教科書の内容を信じて「これが日本だ」「これが世界だ」と思い込む。ひたすら記憶させられる。これが非常に危険だという事を私は言いたいのだ。

 それはもはや「歴史の教科書」に我々の『魂』は手綱を握られてしまっていることを意味する。もちろん歴史の教科書だけではなく、親であれ祖父母であれまわりの大人たちが「日本はこんな国だった」というような事を言って教え込んだ可能性もあるし、日々のテレビのニュースによって「日本はこうだ」「世界はああだ」とひたすら教え込まれてしまっている可能性が高い。しかし、それらが本当の情報なのかという事をなかなか疑いもしないのだが、そもそも「正しい事を言っている」という保証がないのだ。

 何が言いたいのかというと、「外に出てくる情報というものは、誰かにとって都合の良い形にデザインされて出てくる」という事なのだ。「おいおい、貴方は陰謀論者だったのですね・・・」とツッコまれるかもしれないが、どこからどこまでを陰謀論と定義するかは分からないが、いつぞやの大地震は自然的なものではなく人工的なものである。というような主張をしたくて私はこの、「外に出てくる情報というものは、誰かにとって都合の良い形にデザインされて出てくる」という事を言いたい訳ではなくて、例えば、その日本に起きた大きな大地震ひとつとっても、日本の内側にいた人間と、日本の外側にいた人間ではあの大地震の印象は違ったりする。何が言いたいのかというと、我々日本の内側にいた人間には、大震災の特に津波の映像だと思うが、生々しい映像はほとんど見ていないのだが、海外の人間達は生々しい映像がニュースとして映されたようで、実際日本の中側にした当事者たちの方が、実際の悲惨さを知らなかったりする。もちろんそれは「被害者の方達への考慮」も含まれているのかもしれないが、「実際そのもの」とは違うものを私たちは見させられていたという事になる。

 こういう事は、この時ばかりだけではなく、あらゆるところで行われているということだ。何か難しい事を言っている訳ではなく、「実際のものと違うものを信じてしまっている可能性が非常に高い」という事を言いたいのだ。なんでもかんでも、他人の言っている事を鵜呑みにすると、とんでもない事が起こるし、そこに自分の「意志」の強さをそれほど感じられない生き方をする事は間違いないので、『魂』=「生きる意志」と考えれば、やはり「なんでもかんでも、他人の言っている事を鵜呑みにする生き方」というのは売ったつもりがなかったとしても、少しずつ少しずつ毎日の食事に毒を盛られて弱っていくのと同じような感じで、自分の『魂』が毎日毎日ちょっとずつすり減っていくような生き方をしているという事と同じなのだ。

 では、どうすれば自分の『魂』は脆弱なベクトルではなく、強化される側のベクトルに意識を向けることができるのか。それは、各自で『独自』に日本を研究してみる。という事が一番大事であって、唯一の「大和魂」の強め方なのではないだろうかと考える。もしかしたら、外にも方法はあるのかもしれないが、少なくとも、私自身はこの方法で、自分の中にある「大和魂」を発見することは出来たし、自分の『魂』としても弱っていた状態から回復させ、強い『魂』へと強化することが出来た。それまでは、誰が得をするための正しいのか正しくないのか分からない情報を鵜呑みにして生きてきた。やはり、そういう時は、自分の人生自身にそれほど強い「生きる意志」はなく、何者かに自分の人生そのものをいいようにコントロールされていたような気がしてならなかったのだが、自分自身で『独自」に日本を研究し始めたことにより、自分の中の「大和魂」を発見し、自分自身の「生きる意志」がその「大和魂」を意識して生きることによって、強化された為、人生の質が劇的に向上したのだ。これは、実際に体験した者ではないと分からないと思うが、誰でもやってみればすぐに分かる。自分の『魂』がどれだけ弱り切っているかにも気づくことが出来るし、自分の中に本来の「大和魂」が備わっていた事にも気づける。

 ここも、誤解されやすそうなのでもう一度述べておくが、私は別に右寄りな過激な日本人になるべきだという主張をしている訳ではない。「自分の意志で日本とは何かを知らなければあなたの『魂』は瘦せ細った脆弱な魂になってしまう。」という事を言いたいのだ。映画MATRIXを観れば、それがどういう状態なのかイメージしやすい。カプセルから出たばかりの主人公は弱り切っていた。まさにあのような状態そのものなのだ。

 大事な事は、正しい日本を知る事以上に、『独自』に日本を研究してみる。という事。それ以上もそれ以下もない。そもそも「何が正しいのか」なんて事は、タイムマシンに乗れない以上誰も白黒つけられない。そもそも歴史のテストでマルやバツをつけられること自体が非常にナンセンスなのだ。それは「この教科書に書かれている事をどれだけ覚えているかテスト」であって、決して「あなたがどれだけ正しい歴史を理解しているか」というテストにはなっていないことに気付くべきなのだ。

 そして、我々が正しい歴史を知るためにはそれこそ、一生を費やしてももはや調べる事だったり、改ざんされている歴史の罠だったりNAZOだったりを解くために時間と労力を割かなくてはいけないので、本当にそれが好きな人は一生を捧げても良いかもしれないが、そこまでする必要もない。だけど、『独自』に日本を研究してみる。ということをしないかぎり、あなたの『魂』はこれからも日々少しずつやせ細っていくだろうし、あなたの中に実は存在する「大和魂」とも出会うことは一生ないだろう。

 そして、この『独自』に日本を研究してみる。は、やってみると結構楽しかったりして、それこそ一生捧げちゃうぐらいのめり込めるほど面白かったり楽しかったりする事実もある。「え?こんなに違うの?」という事にも気づくし、自分なりに研究していく過程で、あなたの『魂』は徐々に健康を取り戻すので、この『独自』に日本を研究してみる。という営みは、やらなければ分からないだろうけど、やってその恩恵を知ってしまった者にとってはある種中毒性のある営みになる可能性もあるのだが、それこそいき過ぎた陰謀論者の道にさえ、道を誤りさえしなければ、とても有意義な営みになる。運動と同じで、「適度な運動」レベルで、適度な『独自』の日本研究を日課にすることをおススメしたい。