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原澤出版の執筆用ブログ

2:実際に体験すること・研究することの大切さを知る

2:実際に体験することの大切さを知る

 

 前項では少なくともこの本の中では、『魂』とは「生きる意志」であるという定義をした上で、「大和魂」を手に入れるためには、『独自』に日本を研究する事を提唱したのだが、この項では、『独自』に日本を研究する事で、自分のくすぶっている埃まみれの『魂』をなんとか見つけて手にすることは出来たとしても、その長い間燻ぶっていた魂が再び輝きを取り戻すためには、磨きをかけなければならないのは、石にしても意志にしても同じだということだ。意志(=『魂』)は、磨いてナンボなのだ。

 では、その『魂』を磨くにはどうしたら良いのか。これは何事においても重要なのは基礎練習であり、基礎の力をしっかり磨く事だ。では、『独自』に日本を研究する上で重要な基礎的な取り組みとは何なのか?それは、実際に体験することというこの部分にこだわる事だ。これは何も「大和魂」の研究に限ったことではない。

 人は理解をするという事において、二つの段階の理解がある。それが「分かる」と「出来る」であり、知識=分かる、知恵=できるという関係で考えれば良いだろう。何故、時代が進むにつれ学歴が高くても、社会で使える人材となるかどうかが分からず、むしろ学歴など関係なく、社会で活躍する力が高い人間がいるというのは何が重要なのかというと、知恵であり、「できるかできないか」というこの領域までその分野を学んでいるか、研究しているかという部分が大事なのだが、学校における学力競争の仕方というのは、特に「出来るか出来ないか」は評価されない。理屈として分かっているかどうかだけしか評価しないため、「できる力」が強い人間でも学力的にレベルが低い人間はいるし、何もできないのに、学力的にはエリートと評価される環境だったりするため、学歴と社会における実力が比例していない事は多々ある。

 例えば筆記テストで「バク転の仕方を説明しなさい。」という問題が出題されたとしよう。実際にバク転そのものを何回させても失敗することなくオリンピックレベルでバク転が出来るバク転の達人がこの問題の回答を「筆記」では間違える可能性があり、小学生のマット運動の後転すらきれいにできない運動音痴が、「筆記」のテストであれば正解を記入し、マルをもらってしまう現実がある。

 しかし、結局実生活レベルにおいては、筆記テストで何点取れるかなどまったく意味がなく、実際に「出来るか出来ないか」において「出来る」レベルのものをいくつ自分が持っているかが重要になってくる。そういった意味で、あなたが『独自』に日本を研究する上で、ただただ何かの本を読んだり、インターネットでそれらを調べて研究したところで、それらは「知識」レベルに留まってしまう事が多く、やはり「知恵」のレベルにまで昇華するためには、子どもにでも出来て、基礎的な方法としては、実際に体験することというこの方法をとる事だろう。百聞は一見に如かずの精神を疎かにすることは、自分の中に知ったかぶりのという埃であれ、カビを生やしてしまうことになる。

 実際、私自身の体験としてはやはり、日本人であるというだけで日本に関しては大方知っているような錯覚に陥っているし、その錯覚に陥っていることにすら気づかないため、日本各地を自分自身で行ってみて自分の目で見たり、肌で感じたりすることをしなかった。ある時、歴史の教科書の中で名前しかしらなかった場所へ行ってみた時、「やはり、自分自身がその場に行って、自分の目で見て、肌で感じないとやはり理解の度合いが大きく違うという事に気付かない。よくある刑事ドラマにありがちな会議室から一歩も出ずに、知識だけで事件を解決するようなものと同じで、やはり行ける限り現場に出向いて自分の目で見て肌で感じる事で、一見ノーヒントのように見える難解な事件の中にも、綻びをどこかに見つけることが出来る可能性は高いのだ。

 時代が進んで、そこに建っている建物がたとえ、過去の歴史とはまったく異なる近代的な建物ばかりでその当時の歴史を感じることが出来なかったとしても、ただ情報だけで分かった気になるのと、現場に足を運ぶのでは得られるものは大分違ってくるだろう。

 もちろん、現場に足を運べばそれで良いのかといえば、それで良いというわけではなく、自分なりに『独自』に日本を研究するという事は、その教科書に書かれている日本とは違う、自分なりの見解であれ、仮説を立てている訳で、その検証を自分なりに現場に行ってするつもりで足を運ばなければ、ただただ意味も分からず、奈良や京都で大仏や金ぴかの寺を見に行った中学生とそれ程変わりはない。

 仮説の検証と言っても、当時の原型をまったく留めていない土地に行って一体何をするのだ?と思うかもしれない。もちろんビジュアル的に当時の原形をとどめているような歴史的建造物であったり、土地そのものもあるかもしれないが、実際は残っていようが残っていなかろうがそれほど関係ない。何故かと言えば、五百年前、千年前、もちろんそれ以上前の時代でも良いのだが、今の時代には消えてなくなってしまったようなそれらのものも当時あったのは間違いないのだから、そのあたりは、自分の想像力と妄想力を駆使して、補完しつつ現場において自分の『独自』に研究した中で導き出した仮説を検証してみれば良いのだ。それだけでも「知識」は「知恵」と昇華する可能性は高いのだ。もちろん完璧に仮説検証できないものもあるかもしれないが、出来る限りの事は尽くした上で、仮説検証をする事と、自宅の部屋の中でインターネットの情報だけを駆使して仮説検証をする事では、同じ仮説検証の結果になったとしても得られるものが大きく違ってくるのだ。これはやった者ではないと分からない。

 「大和魂」を復活させる事よりも、「知恵」を得られるレベルでの研究の仕方を身に着けていなければ、研究そのものをすることが出来ない。まずは、「研究する力」を我々は身に着ける必要がある。日本の外側の教育はどうなっているか分からないが、少なくとも日本の教育については「研究の仕方」を教えようという空気を感じない。とにかく、教科書に書かれている内容をしっかり覚えているかどうかが重要な教育しか我々には施されなかったため、「何かを自分で『独自』に研究する」という事ができるかどうかは、それこそ、親であれ教師であれ大人たちの教えを右の耳から左の耳から流して気叶った人間達の方が「何かを研究する事」については自分なりに生きていく中で身に着けて、その力を養っているものも多く、その反対に「良い子」と言われて育ってきた大人達の言う事をよく聞いて生きてきた人間は、そもそも大人たちの言っている事を鵜呑みにして、疑わずに教科書であれ常識であれを一言一句間違えないように覚えて、先輩たちのやっている事をコピペするかのような人生をすることが優秀とされてそのような生き方をしてきているので、そもそも「何かを研究する」という選択肢自体が、そういった「良い子」の諸君達には存在していないのだ。

 「大和魂」に限らず、自分そのものの『魂』(生きる意志)を強化していくためには「何かを研究する」事が出来る「研究する力」を身に着け、養う必要がある。そうでなければ、そもそも自分なりの人生を生きることも出来ないし、自分の人生を、自分自身でプロデュースする事も出来ない。自分以外の何者かの傀儡のようなイエスマン的人生を送っている限り、自分の中の『魂』の電源はずっとOFF状態のままだ。とにかく、なんでも良いので自分なりに考え、仮説を立て、検証していくという事を繰り返し、「研究する力」を養い、『魂』の電源をONにし、さらに『独自』に自分なりの日本観を研究する事で、あなたの中にある「大和魂」にもスイッチが入るはずだ。