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原澤出版の執筆用ブログ

3:食べ物について研究する

3:食べ物について研究する

 

 1章の中でも食べ物については触れたが、物質的に考えれば、「人間は食ったものでできている。」と考えてもそれほど間違いはないし、少なからずともそう言えるのは否定も反論の余地もない。であれば、やはり「何を食うかでその人間の能力であったり人生は左右されて当然だろう。」と考えた上で、もう少し食べ物と「大和魂」の関係について考えてみたい。

 まず、「ここ一週間の自分の食事メニューを思い出してください。」と言われてメモでも付けてない人は一週間の間に自分がいつどこで何を食べたかなどという事はほとんど覚えていない事だろう。まず、この事実からして「いい加減なものを適当に食べている」という事が窺える。もしも「人間は食っているもので出来上がる」という部分が色濃いのであれば、この一週間の間に何を食ったか忘れてしまうなどという食生活は、話にならない。そう言っている私自身も三日前に何を食ったかなどという事はほとんど覚えていない。などと書いているうちにひとつ気づいたことがある。それはプロ野球界のレジェンドイチローの食生活の誰でも知っていそうなあの逸話「毎朝カレー伝説」なのだが、いつも同じものを食べているのであれば、忘れたくても忘れるはずがない。そのルーティンたるやなかなかの恐ろしさを今多少感じてしまったのだが、そういう意味合いにおいてイチローが毎朝カレーを食べているのかどうかは分からないが、もしそうであるのであれば、イチローは意識的に何を体内に入れて、自分が何でつくられているかを我々よりも明確に理解して、生活していることになる。

 イチローだけではなく、アスリートは特にそうだと思うが「何を食べるか」というよりも「どんな栄養を摂り入れるか」という事を考えて、食事をしている人間も少なくない気がするし、一流であればある程そういう考えで食事をとっているようにも見える。そう考えると、「いい加減に食べている」というこの態度であり、所作自体にやはり「魂が輝くような行い」を見ることが出来ず、何食ってんのか分からずに、脳の要求にだけ任せて食いたいものを体内に適当に入れ続けるというその食生活は、魂の色を燻ぶらせているようにしか思えず、おそらくこの予想はそれほど的外れな予想にはならないだろう。

 私自身、食生活についてはまったく自慢できるような食生活ではなく、むしろ「こうならないように気を付けてください。」という典型例のような人間なのだが、もちろん、この「大和魂の研究」という本を書こうと決めてからは、いろいろと意識的に食生活の改善などを実際に自分の体を実験台に行っているが、やはり結論としては「何を食べているかとその人の能力や人生の質は大きく関係している」としか思えないような結論を自分の中では導き出せたと思っている。

 若い時はそれこそ結構運動もしていたし、新陳代謝も若者なので問題なかったので健康ではあったし体重も少なかったのだが、これが歳をとり、運動をしなくなり、食生活も適当にしていると、まず見た目からしておかしくなるし、太ってくればそれこそ体のあちこちがおかしくなったりする可能性が高い事はいちいち私が説明するまでもないだろう。しかし、脳はストレスを感じると何かを食べてごまかしたくなる。内臓は「もうやめてくれ。」と訴えかけていても、自分の首から上側は「もっともっと」と要求してくる。まずこの首の上側と首の下側の対立で、やはり首の上側の要求を飲んでしまう心の弱さを何とかしない限り、食事の改善を行うことは出来ない。

 ちなみに、今現在私自身基本的には一日一食か二食程度で、夜の六時前には最後の食事を済ませるように心がけている。極力、晩御飯は米を食べないようにしている。それほど絶対のルールではないが、自分の体調などを観察する限り、夜に米を食べることがそれほど、自分に良い影響を与えている気がしないからだ。そもそもずっとデスクワークのような生活のため、米を食う程エネルギーを消費しないからだとは考えているが、以前は、極端な例で言えば、寝る前にかつ丼やラーメンを食って食後三十分後には寝ている。というような生活をしていたのだから、今の食生活とは大違いなのだが、夜の二十三時ごろラーメンの大盛り麺固めを食べて即寝ているような食生活と、夜十八時にはその日の食事を済ませる食生活とではもちろん何かが変わってくるのは当然だと言われてしまえば当然なのかもしれないが、デブにとっては、その日の最後の食事が質素な食事で、しかも米も食えないというのは、いじめに近いようなものなのだ。もちろん、いじめられているのは自分の首の上側だけで、質素な食事であれば首の下側は大喜びなのであって、どちらも「自分」なのだから、いじめているのか喜ばせているのかはよく分からない関係にある。ただただ自分の自我が「もっと食わせろ、もっと食わせろ」と要求してくるだけなのだから。

 しかも、これは大分言われてきた事だが、食べ物を消化する為に費やすエネルギーと人生の関係の話なのだが、とにかく、食べ物の消化には一日我々に与えられるエネルギーの大半を費やす。なので、消化するためのエネルギーをもっていかれると、生活の中で他の事に使えるエネルギーが極めて少なくなってしまう。その為、一日の中で自分が精力的に出来ることが限られてしまうし、それほど特別な事はできなくなってしまうのだ。「いやいや、食べなきゃエネルギー出ないでしょ。」と思う人もいるかもしれないが、もちろん栄養は必要な事は間違いない。だけど、揚げもん食ったり、ラーメン食ったりして栄養を摂り入れたところで、自分の体内ではそれらの消化に多大なエネルギーを浪費するため、もう残りの限られたエネルギーでは何か特別な事を行うことはできない。それらを運動などで補うことはできたとしても、それはただ相殺しているだけで、何か建設的なエネルギーマネジメントを行っているとは言えない。

 と、ここまで食事とエネルギーマネジメント的な事を述べてきたが、ここから「大和魂」というコンテクストを意識した食べ物であれ、食事についての研究をしてみたい。まず、これは日本だとか西洋だとかに関係なく、いきなりポイントになってしまうのだが、「何を食べ」「何を食べないか」という問いに対してのある一つの消去法とも言えるのだが、

江戸時代にはなかった食べ物は食べない。

 というここについては、このルールで考えてしまえば、大体の食べ物はなるほどtheワールドのキンキンの往年の名ゼリフ「はい、消えたー」状態で、次々と「食べないものリスト」の中にそれらが入って行くので、自ずと「何を食べ」の方が大体は決まってくることだろう。

 基本的に、明治時代に入ってから『西洋』的なものがドドッと入り込んできたのだろうし、スナック菓子や生クリーム的なお菓子、カップラーメンだったりレトルト食品のようものは、江戸時代には存在していなかったものが多いだろうから、それらは「何を食べ」リストからは除外し、「何を食べないか」リストの中に書き入れてしまった方が無難だろう。もちろん、「絶対にそれらを食べるな」という事を言いたいのではない。せっかくこの時代に生まれてきたのだから、さまざまな食事を楽しめばよいと思うのだが、その「何を食べないか」リストに入るようなものを毎日食べている食生活というのは、非常に危険な食生活であると言えるし、「大和魂」に輝きを持たせることは無理だと言えるのではなかろうか。基本的には江戸時代以前の日本の食生活を手本にして、基本的な食生活をしていくことが自分の日本人性であり、「大和魂」の力を発動させるためには必要な事なのではないかと私自身は考えている。

 また、江戸時代にあった食事においても、もしかしたら「もっと昔はあったけど、江戸時代にはすでになくなっていた食文化」というものもあったかもしれない。原始的になればなるほど良いものであるかどうかは分からないが、例えば縄文時代に我々の祖先が食べていたようなものと同じものを食せば、やはりこれまでスイッチがOFFになっていた原始的な大和魂的要素は、スイッチONになる可能性も多分にあると考えられるので、今の時代ではなかなか一般的には食さないドングリやクリ、クルミ、トチの実などといった木の実を食してみることも大事かもしれない。何事もどれが正しいのかという前に、自分で『独自』の研究をしていく事が自分の『魂』そのものに磨きをかけることになるので、そう思ったらやってみれば良いのだから、縄文人の食事をしたら自分の中の「大和魂」がイキイキするという仮説が立てばそれをやってみれば良いのだ。もしかしたら、とんでもない力がどこからともなく漲って来るかもしれなければ、ただただ腹を下してお腹ピーピーピー状態で、ろくなもんじゃねぇと叫ばずにはいられない状態になるかもしれない。それはやって見なけりゃ分からないし、お腹ピーピーになったところで、それが悪かったという事を証明する訳ではない。もしかしたら、縄文時代の伊調の強さと比べたら、我々現代人の胃腸は比べ物にならないほど、弱っている可能性だってある。それこそ、日本人は特にそういう人が増えてきていると思うが、ウォシュレットがなければトイレで用を足せないというような人が増えている事だろう。それと同じで、食べ物に関してももはや現代人の弱い胃腸では処理できないようなエネルギーの高い食物たちを我々側が処理する能力を失っている可能性も考えられる。

 また、同じ野菜にしたところで、昔の土や水のパワーと今の時代の土や水のパワーも異なるだろうし、明らかに今の時代の土や水にはパワーがそんなに宿っているとは考えられず、また、野菜などは特に農薬などがふりかけられていたり、動物にしても化学肥料的なもので育てられいたりもするのだろうから、同じ名前のものだからと言って、江戸時代以前やそれこそもっと古い日本人が摂取してきた食べ物のパワーを我々が手に入れることが出来るかという問題は別問題として存在しているので、本当に我々が食べ物によって、「大和魂」を鍛え上げたり、磨き上げたりしたいと思うのであれば、この問題は個人で解決する問題ではないのだから、皆で問題視して、出来る限りの事をやって、日本の土であれ水にパワーが備わるような改善活動をしていく必要がある。もちろん、そんな事は綺麗ごとに過ぎないので、やはり個人、もしくは少数のグループで、意識のある人間達が出来る限りの事をして、食生活にしても出来る限りの事をやって、自分の中の「大和魂」を磨いていくしかない。

 良くも悪くも今の時代はそれこそ、捨てるほど腐るほど食べ物がありふれているのだから、その中で人間にパワーであれエネルギーを与える食べ物、その反対に人間からパワーであれエネルギーを奪っていく食べ物を皆で研究して、それらデータを共有していく事は非常に重要な事だと私は考える。