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原澤出版の執筆用ブログ

4:日本の自然に触れてみる日本の自然を感じてみる

4:日本の自然に触れてみる日本の自然を感じてみる

 

 基本的に、もしも日本人達に「大和魂」なる魂が備わっているのであれば、日本人としての自然体を貫けば、何を意識する事もなく「大和魂」は、車に搭載されているターボーチャージャーの如く勝手に我々日本人にもなんらかのターボ機能的な馬力が加味されるのだろうけど、もはや今の時代の我々日本人にはそのような「大和魂」的なボーナス機能が発動する機会はほとんどお目にかかれないので、我々は日本人として不自然な状態にあると考えることも出来なくはない。

 この項では日本の自然に触れてみることで、その「自然」が我々日本人側に良い意味での感染をしないだろうかという仮説を提案したいなと考えている。もちろん、人工的な建造物に囲まれれば、そこは近未来的で何かカッコよさを感じるかもしれないが、そこに土もなければ水もなければ木もない風もないという事になれば、食べ物と同じように人間が不健康になる事は考えるまでもない。人間は食べ物だけを摂取して生きている訳ではない。それこそ、近代的な場所であれば車の排気ガスは多いだろうし、木も生えてなければ酸素の量も薄いかもしれない。よく喘息で悩んでいる人達は、田舎の空気の綺麗なところで療養する話がよくあるが、それらを考えても都会よりも田舎の方が健康的であることは間違いないだろう。

 もちろん、健康であるという事は人間として考えてみれば「より自然な状態」であり、病気の状態というのは「不自然な状態」と考えても良いだろう。しかし、この本では人間として健康であるかどうかというよりも、より日本人らしいかどうか(=「大和魂」を発動させることが出来るかどうか)という観点で、この「日本の自然に触れてみる感じてみる」という事が、どれだけ我々日本人の中に眠っている「大和魂」に対してなんらかの働きかけをするのかしないのかという事を考えてみたいのだ。

 ちなみに、これはかなりブッ飛んだ仮説であり、それこそ妄想レベルの話になってしまうが、私自身、ある事をきっかけに全都道府県をまわってみるという自分の中の企画を立ててまわってみたので、行ったことの無い都道府県は現在無いのだが、ある年は西の方へ行き、ある年は北の方に行く機会が多くなったりしたのだが、怪しいお話になってしまうが、何か「その土地に呼ばれているような気というか錯覚というか」そのような何かよく分からないのだけど、「俺との所にあいさつに来い」だの「いやいや私の所にまずは来い」というような、あくまでも感覚的なものに過ぎないのだが、日本をまわっている内に、土地に呼ばれているようなそんな感覚が自分を襲うというかなんとなくそういう印象を受信するようになってしまった。この感覚を強く提唱する気もないし、科学的なる根拠もこれが正しいと言えるような説得力も私は持ち合わせてはいないが、そういう気がしてならないし、日本各地を回っている人にこの事を話せば、もしかしたら賛同してくれる者も少なくない可能性もある。そういったところから、「日本の自然に触れてみる感じてみる」という事で、我々日本人に本来備わっている「大和魂」は起動し、機能し始めるのではないだろうかというトンデモ仮説を打ち立ててみたのだ。

 自然に振れれば感じれば、心身共に健康になる可能性が高い事はこれは科学的にも説明がつく部分なのでここでいちいち私のような素人がそのことについて解説したところで何も面白くないだろうし、それこそ自然と人体の関係について詳しく知りたい人は、そのジャンルの本など沢山出ているだろうから、そこから学べばよいのだが、「土地が人間を呼んでいる」などという事を主張している人物であれ、本はどこぞの多少なりとも胡散臭さを感じさせるスピリチュアル本の類だけで、真面目なジャンルでこのような事を述べている者もいなければ、研究している者ももしかしたら皆無かもしれない。

 では、もしも本当に「土地が人間を呼ぶ」などという事が本当にあるのであれば、それはどういう原理からそういう事が起こるのだろうか。「呼ばれる」ということは、呼ぶ側がいて、呼ばれる側がいる。例えばこれは人間同士の話でも同じことは言える。例えば街中の人込みで誰かが「おーい!」と大声で呼んだとしよう。その「おーい!」に対して振り向く者もいれば、まったく反応せずにそのまま歩いていたり、スマホを眺めていたりする者もいる。この「おーい!」と呼んでいる側と、振り向いてしまう側の関係。これが「土地が呼んでいる」というはたらきかけに対して、「土地に呼ばれているかもしれない」というなんらかのメッセージを受信した者の関係であるという仮説が立つのだが、もちろん「ただの自意識過剰な奴」という可能性も否めない事も申しあげておきたいところでもある。

 例えば、玉置神社や天河神社といった俗に言う「神さまに呼ばれないと行くことが出来ない神社」みたいな神社がある。もちろん真偽は確かではないし、誰でも行けるかもしれない。逆に言えば、これらの神社ではない別の神社だって「呼ばれないといけない神社」と説明することも出来る。ただ、この「呼ばれた気がする」というこの感覚は、どう説明してよいか分からないが、何かそう伝わって来るものがあるのだが、上手くは説明できない。だけど、「偶然」とか「たまたま」ではない何かがそこにある事を多少でも良いから説明してみたいので食い下がってみたいのだが、例えば「虫の知らせ」ということわざがあるが、これは自分の中にいる「虫」が何かを知らせてくれているのだが、これは「虫」ではなく、「大和魂」なのではないだろうか。とも考えてしまう。

 ただ、この「虫の知らせ」の「虫」は何か科学的にも説明できる何かのような気がしてならない。そして、それらはすべてではなくても、結構な高確率で的中している気がしてならない。スポーツにおける「ゾーン」の状態も、現実としてのプレーが起こる前にそれらがすべて頭のどこかに浮かび、本当にその通りになるような事がある。これは、スポーツをしていた人間達であれば、そんなに多い回数を経験していなかったとしても、この経験を味わったものは多いはずだ。「土地に呼ばれる」という感覚はゾーンほど何かが完璧に見えている訳ではなく、「根拠の無い自信」のような感覚として「なんかここから自分は呼ばれている気がする。」というようなうっすらとした感覚が自分の中に「予感」的な感じで過ってくる。そんな感じなのだが、私以外の人間が、この「土地に呼ばれる」という感覚に見舞われたことがあるかは確認していないため、「何を言っているんだコイツは・・・」と思いっきり誰からも賛同を受けられないような事を口走ってしまった可能性も否めない。

 自分で調べていった土地もあるし、それこそナビが暴走したかのように訳の分からない道を示して、着いてみたらそこは戸隠神社の奥宮のあたりだったなんて事もあった。別にこういう出来事が神社だとは限らない。なぜか、よく分からないけど、やたら関西方面に仕事が入ることがやたらあったり、東北地方に行く機会がなぜか増えたりと、何故かそういう機会は、大阪、東北、北陸、四国のようにまばらになることがなく、ある時期に同じ場所にばかり呼ばれていく事が私自身には多い。これは何か人に呼ばれているのではなく、その土地に呼ばれているような気がしてならないのだ。

 日本と言ってもやはり東北と九州では同じ日本でも違う部分がある。それはその土地に言ってみない限り分からない。日本各地に行って、それぞれの土地に触れて、自然を感じてみることで「日本人としての幅」が出来上がる気がする。これは、妄想話ではなく、日本各地をまわってみて私自身が、日本をまわる前とまわった後では同じものを見ても感じ取れるものが違うのは間違いない。これは、言ってみれば同じモーツァルトの曲を聴いても、誰かひとりの演奏を聴いてもそれが良いか悪いかは分からない。いろいろな人の演奏を聴いてみれば、それらの曲の良し悪しを感じ取ることが出来る。百円均一の回転寿司しか食べたことがない人間にとっては、通称「ウニチューブ」「ネギトロチューブ」から練って出されたあのNAZOの実際は何なのか分からない「ウニっぽく見える」「ネギトロっぽく見える」軍艦巻きが、ウニでありネギトロなのだが、回らないお寿司屋さんに行ってウニやネギトロを頼んで食べてみれば、回転寿司屋で出てくるひれらが、「ウニチューブ」「ネギトロチューブ」であったことに気付けるはずだ。そういった意味において、日本にある土地であれ、自然を様々なところに行って触れてみたり感じたりすることで、我々の中に眠っている「大和魂」は起動するはずだ。

 そして、私自身は「土地が我々に何かを訴えかけている」という事を信じているが、まったくといって良い程根拠も論拠もないので、今後の課題として「土地が呼んでいる説」については引き続き研究し続けることにする。