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原澤出版の執筆用ブログ

5:日本固有のものと対話する機会・習慣をつくる

5:日本固有のものと対話する機会・習慣をつくる

 

 日本人って凄い沢山文字を知っている。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットとかなりの文字を知っていて書くことが出来る。これは日本人だからだ。それらを覚えることが当たり前になって、幼少のころから幾度となくテストをさせられて書けるようになってきた。日本の外側のほとんどの国は、記号の組み合わせだけで文章を書いている。たとえばこのようにひらがなだけでかくとにほんごとしてはひじょうによみにくくなるのだけど、例えば英語であれば、全部ひらがなで書いているのと同じでアルファベットという記号が羅列されているだけだ。そして、彼らは漢字やひらがな、カタカナを覚える必要もないが、我々日本人は、日本語の外側のそれこそ広い世界に出てコミュニケーションをとるためには英語を覚えなければお話にならないので、頑張って覚える必要があるのだが、これは逆から見てみれば日本人は、もはや日本人であるというだけで、世界から見たら「他には稀有な存在」なのだ。その稀有な部分を捨てて、日本の外に出たところでただのダサい『西洋』かぶれのイエローモンキー的な扱いを受けるのは目に見えている。であれば、やはり日本人ならではの『西洋』にはない刀を帯刀し、それこそ対等以上に渡り合うのであれば、「日本固有のもの」と対話し、せめて「分かる」レベル、できれば「できる」レベルにおいてその数々の日本的なものを習得しておくことで、ダサい『西洋』かぶれのイエローモンキーではなく、「我々は確固たる日本人なのだ。」という事を身をもって証明することが出来る。それこそ、「お前らには日本人の真似は出来ないだろ。箸すらまともに持てぬくせに。だからこっちがお前たちに付き合ってやってんだよ。」ぐらいの強気で向き合うことができるというものだろう。そもそもあいつらは体以上に態度がデカい。ひるまず向き合うには、やはり自分の日本人としての得意領域は伸ばせるだけ伸ばしておいて損をすることはない。

 そして、2章の中で日本人の「オタク力」の高さや「融合力」の高さについて考察・論述をしてきたが、「融合」するためにはしっかりした土台が必要なのだ。もし、「日本人らしさ」という土台がなければ、ただ『西洋』にかぶれてそれは迎合しているだけに過ぎない。そして、日本人は戦争に負けた後の暗黙の了解的負け犬縛りのような卑屈さを『西洋』人達に持ってしまっている者が未だに多いため、油断すればすぐに『西洋』に尻尾を振って思わず迎合したがるという悪い癖がなかなか抜けない。私は、戦って勝てだとか、『西洋』に負けるなだとか、喧嘩を売れだとかそういう事を主張している訳ではなく、『西洋』であれ、その他であれ、「融合」をするためには、日本人は日本人たる基礎・土台を築かなければ、日本人の強みである「オタク力」であり、「融合力」を発揮して、世界を驚かせることは出来ず、ただの『西洋』に首輪と手綱をつけられた猿回しをさせられるだけに終わってしまうという事を主張したいのだ。

 その為にも、そして自分の中に眠る「大和魂」を活かすためにも、日本固有のものと対話する機会・習慣をつくるという事は大いに役立つだろうし、高い効果も見込める事だろう。今の時代において、それら日本固有の伝統的なものは、「やってもやらなくてもどうでもいい」ものばかりになってしまったが、それは時代が進むにつれて、必要性が薄くなっているだけであって、「日本人らしさ」を学んだり、磨いたりする上では、時代がこれから進んで行っても、少なくとも我々日本人にとっては非常に重要な先人から受け継いだ貴重なものたちであることは間違いない。

 まずは、上手い下手など気にせずとにかくそれらに触れあってみる。例えば書道であれば好き勝手に文字を書いてみれば良い。もちろん、出来る限り書道をすべき場所であったり、姿勢で行った方が良いが、それも難しい場合は出来る限りのことをやってみればそれだけでも違ってくる。茶道にしても華道にしても、武道全般にしてもそれらは同じだ。他の日本古来のものにしても同じで、とにかくまずはやってみることが大事であって、何事も一回やってみない事にはなんとも言えない。本格的にやるのであれば、それは体験した後に自分で決めればよい事であって、はじめからそれを続けてみようとかそういう気持ちを持つ必要もない。むしろ続けられるかどうかも分からない内から、続けることを前提にやろうと考えてしまうため、「はじめの一歩」を踏み出せないことが多いのだ。これは日本古来のものに対するチャレンジだけに言える事ではないが、後先など考えずとにかく一回やってみれば、結構世界って開けてきたりするものなのだ。

 そして前項で土地に呼ばれるだの、自然と触れ合ってみたり感じてみたりしろだのと述べてきたが、やはり日本の中でも土地によって個性があって、その土地に根付いた文化や芸能などがあるので、またその土地に行ってその土地に根付いた日本固有のそれらを体験してみる。そうするとまた新たな出会いであれ、発見を得ることになったりする。正直なところ「自分探しに行くならインド」というちょっとしたあるあるネタが存在するが、もし日本人が自分探しをするのであれば、日本の各地をまわった方がよっぽどいろいろな意味でのコスパは高い気がするのは私だけだろうか。別にインドに行ったところで、日本人としてのDNAであり、「大和魂」的な何かが震えたり、奮わされる事はあまりないのではないだろうか。もちろん日本にないモノに触れあったり、いつもとは違う環境に自分の身を晒すことで別の何かが喚起される可能性もあるかもしれないが。個人的には、まずは日本の各地をまわって、いろいろと体験して土地であり伝統でありそれらと触れ合うことで、自分の日本人特有の感覚を遺伝子レベルで起動した方が、日本の外側の世界を感じる上でもとても重要な事だと考えている。

 まずは、日本の伝統的な所作を体験してみる。それをしていくうちに自分が「これだ」とハマれるものがあるのであればどハマってしまって、その道を極めにいくことも良いだろうし、「これだ」というものと出会わなければ、とりあえず手あたり次第体験しまくってみることをおススメする。正直なところ、大体人間十個何かやってみれば「これだ」という感覚に近いものには出会えるはずなのだ。そして、今回の「大和魂の研究」というコンテクスト上においては、別に「これだ」というものを探す方法を考察したり、紹介をしている訳ではなく、自分の中に眠る「大和魂」が奮い立てばそれで成功といえるので、その方法としてはとにかく、日本固有のものを沢山体験してみるという事でそれなりの成果を得ることが出来る。一つの事を長く対話して深く掘り下げていく事でも「大和魂」の本質を見つけることは可能ではあるが、そうでなければいけないということでもない。多くのものを体験していく中で発見する「何か」もあるのだから、いちいち一つの何かの道を究めなければいけないというような誰かさまの偏った価値観に従う必要もない。とにかく大事な事は、それらを行うことで自分なりの見解、仮説などを立てられないかそれらと対話する事であり、やはり大事な部分というのは『独自』の何かであり、「自分なりに」というあまりまわりの事は気にせず、それこそ体裁など気にせずにひたすら内に籠ってそれらの対象と向き合ってみればそれだけで、「生きる意志」は磨かれてより強靭なものへと進化していくのだから。その道程において、必ず我々は日本人なのだから、「大和魂」の起動スイッチに勝手に気づき、OFFになっていたものがONになるはずだ。だから、物事に対しては決して童貞のような状態をかたくなに守るという事は、自分の『魂』を奮い立たせて、この世界を日本人性を発揮してより謳歌するためには、ただただ未完の大器を寿命を終えるまで、未完のままで宝の持ち腐れとして腐らせて自分の生命を燻ぶらせて終わらせてしまうだけなのだ。それこそ神さまが本当にこの世界に存在するならば、そのような者を見ては遺憾の意を表すしかなないだろうから、そのまではいかんなという危機感を多少なりとも持ち、志願者の気持ちで、何事にもチャレンジする精神を持ち続けることで、自分の『魂』であれ「大和魂」はイキイキし続けることになるのだから、歳など考えず、いつまで経っても我々はきかん坊のようにわんぱくにいろいろ体験して行けばよいのだ。わんぱくでもいい逞しく日本であれ、世界であれを遊びつくせばよいのだ。

 その「遊びつくすため」には、まずは自分の中に眠る「大和魂」を起動させるべきだと私は考えている。それは「日本人」というマシンのポテンシャルをすべて起動させた上で世界を味わえないと、そういう日本人が世界に打って出ると何か『西洋』の猿真似になって、失敗してしょっぱい感じで帰国してくるよくありがちのパターンになる事が非常に多いからだ。

 もちろん、いきなり海外に出てしまった方が自分の『魂』がイキイキするタイプの人間もいる事だろう。そこに関しては日本人かどうかというよりも、人間の気質として日本という島国が向いているか、大陸向きの気質であるかという問題もあるし、そもそも今の時代の日本は、2章の中においてギューギューに詰め込み式、自分の言葉で意見することが出来ないロボット養成型の教育に雁字搦めになってしまう現在の日本の悪しき制度に殺されてしまう者もいるだろうから、「日本人なんだから日本で活躍すべし」という考えを私は押し付けたくてこの項のこれらの内容を述べた訳ではない。基本的には自分の持っているものであれ、ポテンシャルが思いっきり発揮される生き方を自分で選択肢、カスタマイズしていけばよいということについては間違いない。

 とはいえ、我々は日本という島国で生まれ、そして育った日本人なのだ。もう日本で生まれ育った以上、日本人固有のポテンシャルである「大和魂」を起動しない手はない。しかも、今現在も日本で生活しているのであれば、日本固有のものと向き合い、対話し、「日本人」という日本刀に磨きをかけないのはあまりにも勿体ない話なのではないだろうか。