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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

6:日本について大和魂について論じあってみることの大切さ

6:日本について大和魂について論じあってみることの大切さ

 

 これまでは『独自』に日本を研究することの大切さを述べてきたが、その次の段階としては『独自」に日本を研究してきた者たちが集まて、各自の意見を述べ、またそこから一人では見つけることが出来なかった「日本」であれ「大和魂」についてを皆で研究していく事で、さらにひとりでは出す事の出来ない強大なパワーによって、「日本」「大和魂」について深く知り、新たな仮説を立て、それを検証してみることでよりパワフルな「大和魂」へとチューンナップする事が可能になる。

 それこそ、一人の人間での研究では限界がある。まず、人間生きていれば思考の癖というものはどうしても出来上がってしまうだろうし、その思考の癖にやられないように細心の注意を払って臨んだとしても、やはり、自分の思考の癖にはどうやったって引っ張られてしまう。これはしょうがないことだ。では、どうすれば自分の思考の癖に引っ張られずにより多角的、より多面的にものごとを見て、いろいろな角度から研究するにはどうしたら良いか。それは自分以外の人間の力を借りることに他ならない。もちろん自分以外の人間においてもその人の思考の癖はもちろん存在する。だけど、この世に同じ人間は存在しないのだから、似ていたとしても自分とは違う切り口で、自分の気づかなかった「日本」「大和魂」について彼ら彼女らは論じてくれることだろう。さまざまな意見が出てくることは交錯し、収拾がつかなくなるリスクもあるが、その反対に自分ひとりの考えに固執することは、それ以上の発展を見せないリスクもある。

 しかし、こういった本を執筆する上でも、一人で調べて一人で論じていても埒が明かず、多くの他の者達の資料なども参考にしながら自分で仮説を立てたり、論述していくのが基本的な執筆作業になるし、どうしても一人で研究したり、物事を考えるには限界がある。とは言え、私自身何故この章で「まずは自分で『独自』に研究するべし」という意見を述べた部分については理由がある。それこそ、自分自身で『独自』に研究することなくみんなで集まって論じ合ったとしてもそれはその人間にとってはそれほど良い効果も成果も上がらず、むしろ逆効果になる危険の方が高い。

 これは、この本の中で再三にわたり述べてきた、「融合」と「迎合」の大きな違いがあるからであって、自分自身が何も研究せず、そのような場に出向いて他の者達からの話を聞いたところで、ほとんどは自分以外の何者かのそれらの論述にただただ迎合してしまうだけであり、迎合などしてしまえば「大和魂」どころか、自分自身の『魂』そのものに腐敗の粉をただただ撒き散らしたようなもので、大体は逆効果にしかならない。しかも、今の時代の日本人は、「迎合教育」と言ってもいいような迎合力をそれこそ養成されている。「みんながやるなら自分もやる」「〇〇さんと私も同じで」実際、私が数年前まで子ども達に指導していた時に子ども達に意見を述べさせると、ほとんどの者がこのようにとにかく条件反射的に、自分の考えを持つことなく何かに迎合するというベクトルに意識がはたらいてしまうという悲しい現実を何度となく見てきた。そして、そのような子どもたちが大人になるのだから、何故、子ども達がそのような迎合人間になっていくのかは、まわりの大人達もそうなのだろうから、日本はこのような迎合社会になってしまったのだろうと推測するまでもなく、現実そのものがどこもかしこもそれらを象徴してくれるような事ばかりで、我々日本人が「大和魂」を見失ったのは、私は戦後に、日本人は「大和魂」という牙を抜かれ、ひたすら迎合しながらなんとか国を保とうとした例の「応急処置モード」の名残があまりにも強すぎて残り、むしろ「迎合する民族が日本人」というようなとんでもない誤解が真実として根付いているように見えてしまう。まずは、この「迎合癖」を我々日本人は除去していく必要がある。そういう部分もあって、「まずは自分で『独自』に研究するべし」という主張を強めに私はしているのだ。

 「融合」というものは、自分の持っている何かと、自分以外の持っている何かが溶け合ってまた新しい一つの何かに生まれ変わるそういうイメージを持っている。つまり、「融合」を起こすためには自分がはじめから「何か」を持っていない限り何かと「融合」を起こすことが出来ない。そのため何も持っていなければ、誰かの「何か」に染まってしまう可能性は極めて高いという事が言える。本来、教育においてまずすべきことは「どんなことでも良いから自分の考えを持つこと」そして「その自分の考えを誰の前であっても臆せず話す事」だと私は考えている。少なくとも、今の日本の教育にはここが非常に欠けていて、それこそ迎合人間一号二号と迎合ロボットをコピペの如く量産しているのだから、その負の連鎖を断ち切るためにはとにかく「自分の考えをしっかり持ち、その自分の考えを誰の前であろうとも臆せず話す事」この力を養い、鍛えなければいつまで経っても何かと迎合しているだけの、迎合ロボットとして生涯を終えてしまうだけになってしまう。それは日本人らしくもなければ、大和魂を感じる要素などどこにもない。

 かと言って、決して自分の考えに固執しろという事を主張している訳ではなく、とにかく融合するためには、自分の確たるものであり、核たる部分をしっかり持って生きる勇気であれ覚悟を持てなければ、ひたすらまわりや社会に飲み込まれて迎合されていくだけの人生になってしまう。

 間違っているかどうかなどというものは実際にこの世の中に存在しない。それこそ多数決で意見が多かった方が「正解」ととりあえず暫定的に決めているだけで、それこそそれらをこの世界を創った創造主的な存在が「これは正しい」「これは間違っている」とでも言ってこない限りは、本質的な正解も間違いもこの世界にはいつの時代だって実際には存在していないことを念頭に置かないと、どこの誰がつくったか分からない「これが正しい」「これが間違っている」にいつの間にか迎合し、よく分からない価値観を搭載されて自分の生命であれ人生を自分以外の何ものかにコントロールされてしまうことになるだけだ。

 まず、大事な事は「自分の『独自』の考え」を持つこと。その為には「自分で『独自』に研究する事」。その上で、自分以外の何ものかと交わり、迎合することなく、融合していけるような付き合いをする事。それこそ、「融合」するためには一気に融合しようなどとは考えず、三歩進んで二歩下がる、二歩進んで三歩下がるぐらいのスピードでも構わない。今までは「迎合するな」と主張してきたが、自分の考えを強く出しすぎて相手を自分に迎合させることもそんな事をやっては、元も子もないのだから、自分自身も大事に、相手の事も自分と同じように大事に、それぞれの考えを尊重し合って新しい「何か」を生み出す共同作業的「融合」を心がけて、新しいバージョンの日本、新しいバージョンの「大和魂」へと、チューンナップできるようにそれぞれの立ち位置から発見できるユニークな日本とは、日本人とは、「大和魂」とは、それらの事を思い思いに語り合うことが出来れば、それは極めて有益な場となるし、そういった有益な場を本気で、日本や日本人を日本らしいベクトル日本人らしいベクトルに向いて進めて行くためにはもっとそういった場を作って活発に語り合える論じ合える場をつくらないと、日本という生命体そのものの「大和魂」が元気はつらつになることはないだろう。

 もちろんその為には語り合う場どうこうの前に、我々日本人一人一人が語り合えるだけの、論じ合えるだけの「自分の確たる思い核たる部分」をしっかり持ち、『独自』に育てていく必要があるし、大人達であれ、社会が、「まずは一人一人で自分なりの信念を持ち、その信念を大事にするとともに、しっかり主張していけるだけの勇気と覚悟の持てる人間になること」というこの部分を教育していく事であったり、推奨していく空気を日本中に創らない限り、まだまだ当分の間は、この島国に迎合ロボットは量産されていく事だろう。

 誤解のないようにここはしつこく述べておきたいが、私は過激な発想を抱けと言っている訳ではなく、「自分なりの信念を持て」と主張しているだけであり、例えばある人間の信念が「いかにまわりに迎合できるかどうかが私の信念なんです!」と心の底からそう思うのであれば、それはそれで否定しようとは思わない。もちろう、どういう経緯でそのような信念を持つようになったのかは、その信念の持ち主から話は聞いてみたいという興味はあるが、「こういう考えを持たなければならない。」という事を主張したい訳ではない。ただし、私個人としては、今の迎合社会そのものを「ディスイズジャパン」とそれこそ日本の外側の国に紹介もしたくないし、そう思われるのも嫌いだ。日本の外側の人達のどれだけがこの日本の迎合社会を「ディスイズジャパン」と思っているかは知らないが、結構な数の人間達がそう日本であれ日本人を見ていることは間違いない。そもそも、日本人である私がそう見ているのだから。

 もちろん、これは私自身の信念であり確たる思いなので、ここに正しいも間違いもない。それらをしっかり主張する事ができればそれで良いのだ。それこそまったく私とは信念も考えも違う人間が「日本人よ、もっと迎合すべし」というような主張をしたい人間はすればよいのだ。そして、その両者の信念であり思いをそれこそ「迎合」ではなく、「融合」したと気に、新しい「何か」が生み出されるのだと私は考えている。しかし、「日本人よ、もっと迎合すべし」という価値観の人間に私の主張をぶつけた時に、その人間は私の「日本人よ迎合するな」という訴えに、迎合して迎合しなくなるのかどうかは多少なりとも興味を抱いてしまう部分ではあったりする。そして、「迎合すべし」という人間が「迎合するな」に迎合させてしまった時、それはそれで私が述べている「自分だけではなく相手も迎合させてはならない」に反してしまっているので、それはそれでダメなのではないだろうか。というNAZOの対話がここで行われてしまうが、まあ、そのあたりにいては、まずはそれぞれが「自分の信念を築き上げる」こと、そしてその後に誰かと信念をぶつけ合って「融合」を試みるという2ステップを試みることで、各自がどのような「融合」であり「迎合」を体験するか、そのあたりから進めていきましょう。という事で、レッツトライ。