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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

7:敵を知り己を知れば百戦しても危うからず式で日本を知る

7:敵を知り己を知れば百戦しても危うからず式で日本を知る

 

 人間には必ず「立ち位置」というものがあることは知った方が良いし、それ以上に受け入れた方が良い。私は日本で生まれて日本で育って日本で生活してきた日本人だ。そのため、出来ることとできないことがある。私はネイティブの日本人として日本を見ることが出来るが、日本以外の国のネイティブの人間として日本を見ることが出来ない。ひとつ例を挙げれば、私はネイティブの日本人としてアメリカを見ることは出来るが、ネイティブのアメリカ人としてアメリカを見ることは出来ない。何が言いたいのかというと、もはや生まれた時から人間とはいくつかの色眼鏡をかけた状態で生まれて来ていて、日本人として生まれて育てば、日本人という色眼鏡はそれこそ顔の一部レベルでくっついているし、アメリカ人として生まれて育てば、アメリカ人という色眼鏡が顔の一部レベルでくっついてしまっている。もちろん「色眼鏡」はどの国で生まれて育ったかというその眼鏡だけでなく、他にもいくつか与えられている。

 その為同じ世界を見ても、各人には違うように見えているというパラダイムの仕組みがある事を忘れてしまえば、それらのすべての色眼鏡を外した「現実そのもの」を見ることも出来ず、実物の虎を見たことの無い人間達が、見たことのある猫から想像してその人間の頭の中の創造で創られたその者たちの色眼鏡で創られた虎について真顔で議論することになる。それこそ、宗教論争を代表する「目に見えない世界」についての議論などはこのような各自の色眼鏡の度合いに依存した、現実を現実としては捉えていない落書きを見せ合っては、「これが本質だ」「いやいやこっちの方が本質だ」などというお互いがお互いにバシャバシャとそれこそ無尽蔵にかける水のある大海で、掛け合いまくっているそれこそ、論拠にも説得力に欠ける言葉の大水掛け論大会を方々で見かけるが、それを繰り返せば繰り返すほど大体はさらに不要の新しい色眼鏡を新調する結果に終わるだけなので、そういう議論や主張をする時は慎重に進めていく必要がある。

 実際すでにこの「大和魂の研究」そのものが、猫を見て虎を想像して論じているような状態になってしまっている事実がある事を忘れてはならない。どう頑張っても私自身戦国時代の日本人そのものになることも出来ないし、平安時代の貴族そのものの人生を実際に体験する事は絶対にできない。DNAの中に刻まれていると主張することは出来ても、実際にそれらの時代の日本人という立ち位置では、日本を語る事も、日本人を語ることも出来ない。どこかの歴史の教科書であったり、その他これまた私と立ち位置の似ている現代人が書いたり、論じたりしているそれこそ猫を見て虎を創造して描いているような「そのものではないもの」的に日本をヒントに、過去の日本という想像上の日本について考えたり論じたりすることが精いっぱいなのだという事を忘れてはいけない。

 もちろん、人間の寿命の限界からすべての時代を実際に体験するなどという事は不可能なのだから「歴史という猫」を見てそれらの時代がどうであったかを想像して知ろうとするその営みについては無意味だとは思わないし、それなりの説得力のある過去の日本であり、過去の世界を知ることは可能だろう。しかし、本能寺の変ひとつとっても真相がどうだったのかも分からなくなっているというのに、外の日本の出来事を正しく自分は知ることが出来るのかと問われれば、それも一人の人間が五百年年生きるのと同じぐらい難しい事なのだ。

 それでも、何かを研究するとき、自分の色眼鏡が外せなかったとしても、似たようなものをモデルに、別のものを想像して描かなくてはいけない状況しか得られなかったとしても出来る限り、その現実と、現実っぽいけど決して現実ではない自分の脳内で創り上げてしまう別世界の溝をなんとかして埋める努力をして、「現実の世界」が実際にどうなっているかを見ようとする聞こうとする知ろうとする努力は、決して無駄な事にはならない。しかし、しつこくなるが人間は「現実そのもの」を見ていないし聴いていない事についてを自覚した上でなければ、何を研究したところでそれは「オタク力」を発揮したとしても青木ヶ原よりも恐ろしく戻ってくることのできない妄想の樹海の奥深くへとただただ潜って彷徨うことになってしまうだろう。

 この項のタイトルは私が愛して止まない孫子の兵法の中の有名な一説である敵を知り己を知れば百戦しても危うからずというこの教えを意識して、ここまでの考察では届かなかった細部に「大和魂の研究」の手を届かせようという作戦を提唱している。もちろんこれは「大和魂の研究」なので戦ではない。だけど、この項でここまで論じてきたように「色眼鏡による現実そのものではないパラダイム」と「猫を見て想像して虎を描かなくてはいけない事実」というこの二つの罠に負けず、現実の世界をしっかり自分で追いかけることが出来るか否かという部分においては、それこそお釈迦様の掌の上で転がされずに、自分がどこまで現実そのものを捉えようとするチャレンジができるかどうかというこれは一種の戦いのようなものだと言っても過言ではないだろう。

 今回のコンテクストであれば、「敵」という部分は自分の立ち位置の限界と解釈しても良いだろう。これはまさに「大和魂の研究」に限らず、人がこの世界を生きる上での最大の『敵』になるので、人生の純度を上げていくための標的にしてよい『敵』そのものとも言えるし、それこそこの罠に嵌らないよう油断大敵である強敵だ。ここにやられずに世界を見続けることが出来れば、それこそお釈迦さまから「上出来だ」という高評価を頂戴できるかもしれない。

 その自分の立ち位置そのものを『己』と考えれば、それ以外の立ち位置はすべて『敵』であり、そう考えれば、我々が現実そのものの世界を捉える戦を戦っている状況はそれこそ四面楚歌の状態あり、五里霧中をさ迷っているような状況なのかもしれない。『己』の立ち位置など物凄く限定的で、それこそそれ以外の立ち位置はすべて『敵』なのだから、『己』という視点で世界を見たところで限界はすぐにやってくる。『己』という立ち位置で日本であれ、世界を見ること以外に、現実を捉え、「大和魂」のポテンシャルを如何なく発揮するためには、やはり『己』以外の立ち位置から多くの情報を拾い、それこそ己の色眼鏡の罠に恐れずに、しかし慎重かつ丁寧に、時には命綱を留めずに上杉謙信の如く大胆に単騎駆けして攻めいる事も大切だったりするかもしれないが、その上杉謙信の単騎駆け伝説ですら実際はどうだったのか非常に怪しいお話なのだが。

 今回の「大和魂の研究」というコンテクストにおいて『敵』を知るなどという事をたった一人で行ったところでそれらのすべてを知ることは無理だ。ではどうしたら良いのかと言えば、仲間を作ることでしかその広大な『敵』のすべてを知ることは出来ないだろう。『敵』の『敵』は味方なのだ。自分とは違う立ち位置の者たちと交流することで、この世界を知る上でのさまざまな『敵』を知ることが出来る。同じ日本人でも北と南の地域のものでは見ている日本が違うだろうし、似たような場所で生活していたとしても職業が異なれば、見えている世界は大きく違って見えいてる可能性もあり得る。それは性別や世代の違いによっても同じことが言える。

 もちろん、日本ではない国で生活していた者達からは、我々の見ている日本とは違う日本の事を話してくれることだろうし、それこそ日本人からすれば、「そんなことしてないから!」とツッコミたくなるような「猫すら見ないで描いた虎」のような日本を彼ら彼女らは我々純日本人に話してくれるかもしれない。

 『敵』という自分以外のパラダイムというサンプルを多面的に集め、そこから自分の見えていない日本であり、世界をか弱い糸を優しく手繰り寄せるようにして探る。もちろんググる事も大切な『敵』を知る為の活動にはなるが、インターネット上の情報ばかりに頼ることに依存すれば、依然として以前の状態から色眼鏡を新調し続けている袋小路をグルグルと徘徊し続けている二十日鼠以上に妄想という名の大海の中に漂流してしまう危険もあるので、インターネットの情報だけでなく、実際にリアルに人と会ってみたり、その場に行ってみたりしながら『敵』を知る努力を怠れば、それこそすぐにバカたれになってしまうだろうし、お釈迦さまは「このハナタレが。」と失笑すらされずからかわれもしない。

 しかし、反対に言えば昔と違ってインターネットで世界は繋がっているのだ。『敵』を知る上ではインターネットは我々現代人にとっては、強力な武器になる事も間違いないのだから侮れない強力な武器になる事も間違いない。いつだって大事な事はバランス感覚を保つことであり、たとえリアルに『敵』を知る活動をする事がめんどうで、あまり捗らなかったとしてもリアルで『敵』を知ることと情報という大海の中で『敵』を知ることに関しては、しっかり右と左の手で両方の手綱をコントロールしつつバランスをとって、ものごとを研究する事が難航せずに着実に「大和魂の研究」という航路を進めていくセオリーでもあり、難攻不落の壁や要塞が目の前に立ちはだかったとしても、それこそ我々日本人にとっては馴染みの深い恐ろしい妖怪が行く手を阻もうとしてきたとしても、恐れることなく突き進めば良いのだ。リアルの世界と情報の世界の両者のバランス感覚さえ失わなければ、それこそ我々現代人にとっては、進み続けるだけの仲間であり、武器はそれこそ大海の水以上に無尽蔵に用意されている。それこそ、歴史を味方につけ、生きている人間だけでなく過去の歴史の先人たちをも召喚して突き進む事だって可能なのだ。もちろん「色眼鏡」と「猫を見て虎を描く」のトラップには終始自覚しつつそれらの召喚術を活用しなければ、すぐになんらかの刺客に刺されて妄想という牢獄に収監されてしまうので、そのトラップにだけは常に牽制球を投げつけるだけの習慣は持っておくべきだろう。

 『己』というパラダイムをよく理解し、「色眼鏡」と「猫を見て虎を描く」のトラップに嵌らないだけの用心と強靭な精神を養い、リアルで『敵』を知る事を大事にしつつも、現代人の最大の武器である「インターネット」を駆使しつつ、これまでの時代では知り得る事の出来ない膨大な『敵』というパラダイムのサンプルを集め、日本であれ日本人であれ、世界を知る。この営みを同心達と切磋琢磨して繰り返し、対話し、議論し、共振し、弁証法的に純度を上げていく事で、未だ誰も辿り着いていない「大和魂」のパーソナルベストを更新する事が可能になるのだと、ここに関しては妄信している。「大和魂」を迷信だと言わせないように、私は日本人である以上、「大和魂の研究」に邁進してきたい。