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原澤出版の執筆用ブログ

9:入浴と睡眠について疑ってみる

9:入浴と睡眠について疑ってみる

 

 ニューヨークで入浴する。これはもっぱらオヤジギャグとしても低能な分類に入るダジャレだが、しようと思えば出来るだろうけど、ニューヨークで入浴したところで気持ちよくもなんともないだろう。そもそもニューヨークに温泉などあるのだろうか。というよりも、アメリカに「入浴文化」などない気がする。もちろんただこれが言いたいだけで文字数を稼いだことは言うまでもない。

 入浴文化はかなり日本独特のもののような気がしてならない。ということはそこに「大和魂」の扉を開く鍵があると考えても良いだろう。やはり、入浴文化は独特で日本固有のものと考えてよさそうだ。

 まず、入浴文化から連想されるものとしては「体を洗う」というコンテクストがあるが、たしかにイメージ的にも日本の外側の人達は、そんなに毎日お風呂に入るようなイメージがないし、香水文化がそれこそ発達している事を考えれば日本人のようにあまり体を洗う事は無いのかもしれない。たしかに体臭がキツイ印象を少なからず感じる。日本人の男性などそれこそ毎日風呂に入って清潔にしていたところで、加齢という逃れられない現実から醸し出される加齢臭なるものに、まわりから忌み嫌われる存在になるのだが、日本の外側のお国の人達は、そもそもそれほど体臭というもの気にしていない風習を感じる。ここには何か「体を洗う」という文化であり、習慣を感じ取ることが出来ない。むしろ「洗ってはいけない」というような何か宗教的な何かすら感じずにはいられない。そこまで強烈な教えはなかったとしても、少なくとも今の時代の日本人の考えるような「風呂に入らない奴は不潔」というような発想自体、彼ら彼女らは持っていない気がするのだ。

 とは言え、「入浴=洗体」と考えるのは少し間違っているような気がしてならない。私はどちらかというと、入浴文化に「大和魂」のなんらかの要素が隠されているのであるとすれば、『湯に浸かる』というこっち側に内在されている気がしてならないのだ。もしも日本人が、この世界で暮らす人々の中でやたらと体を洗う人種だったとしても、外国人達が体を生まれてから一切洗わないという訳でもない。もちろんそういう人たちもいるかもしれないが、多かれ少なかれ体を洗うというこの所作はするはずだ。

 しかし、『湯に浸かる』というこっちに関してはどうかといえば、世界的にも『湯に浸かる』というこの文化を持っている国は皆無に等しい。我々日本人にとっては、入浴という行為は、ただ単に「体を洗う為」というような「トイレに行って用を足す」というその機能面だけを見て行っているものではない気がしてならないのだ。もしも体を洗うという機能面を追求するのであれば、『湯に浸かる』という行為は、水の量的にも、お湯にする熱のエネルギー的にも非効率的であるとしか言いようがない。それなのに我々日本人は、『湯に浸かる』というこの行為を好む。もっと言ってしまえば温泉のような特別な成分の混じったお湯に浸かった時など、それこそ「幸せ」まで感じてしまう。こんなことが出来るのは日本人だけで、それこそ世界から見れば滑稽にしか見えないかもしれない。もちろん、彼らは『湯に浸かる』というこれの気持ちよさを知らないとも言える。

 もしもこの『湯に浸かる』というここに日本人にしかない独特の何かが内在しているのであれば、『湯に浸かる』というこれをしたときに、我々の人体にどういう事が起こるのかを考えてみれば良いだろう。

 入浴による効果はさまざまあるようだが、どれもどのくらいの効果があるかは分からない。というのも、『湯に浸かる』というこの行為をした時としなかった時でちょっとでも効果があるのであれば、それは「効果がある」ということになってしまい、その「ちょっとした効果」を持ち上げて「だから湯に浸かることで大和魂は起動するのだ!」と鼻息を荒くして主張したところで、ただただ恥ずかしい事を偉そうに豪語してしまうことになるので、その点には気を付けたい。なので、ここでは世間一般で言われている効果効能をどうのこうのと並べて述べるというよりも、それこそ『湯に浸かる』というこの行為をほぼ毎日、約四十年間続けてきた私自身の身体に聞いてみたい。自分の身体に聞かずして、他所の文献やら実験室の結果を鵜呑みにするよりも、よっぽど信憑性がある気がしてならないからだ。

 その上で、私がこの『湯に浸かる』というこの行為に特別備わっている要素というか効果としては『気持ちよさ』のような気がしてならない。ここでいう『湯に浸かる』ことで得られる『気持ちよさ』とは、ホッとする気持ちよさだ。人体で何が起こっているかを別の言葉で述べれば、それは「リラックス」という言葉であったり、交感神経優位の状態から副交感神経優位の状態にする。というこの効果なのだと予想する。

 では、たとえば西洋人達は、交感神経が優位な生活をしているのか、それとも副交感神経が優位な生活をしているのかと考えれば、日本人のライフスタイルと比較しても、おそらく彼らは福交感神経優位の生活をしているように思える。そのため我々が好む『湯に浸かる』などという行為を求めなくても、そもそも必要がないのかもしれない。この仮説に関しては、以前私自身がサッカーについての研究をしていた時に、日本人と西洋人の違いについて考えて立てた仮説とも一致する。そもそもの基本の状態が、交感神経優位の状態の人間と、副交感神経優位の状態の人間では、人間的な機能であり性質に特徴が出てもおかしくない。

 2章の中でもスポーツについて触れた項があったが、個人的にサッカーについて研究した私なりの結論は、サッカーというスポーツは、性質上、副交感神経と交感神経をスイッチさせる技術が何よりも重要であるという結論に至った。実は、この事を巷のサッカー指導者もサッカーに携わる某協会の幹部のような人間達も、まだ気づいていない節があるので、このようなことを声高々に主張するとサッカーのサの字も分かっていないド素人とDisられるだろう。しかし、残念ながら私が主張している「サッカーは交感神経と副交感神経を切り替える技術が肝」というここについては、いずれはっきりとすることだろう。というよりも、すでにそれは実証されているようにしか私にはそういう風にしか見えないのだが、未だにサッカー業界は技術論とフィジカル論と戦術論にしか着目できない悲しさがある。では、なぜ野球においては日本人は優秀なのかと言えばおそらく、それほど「交感神経と副交感神経の切り替え」を要求されないスポーツだからだと推測する。

 歴史上、どこでそうなったのかは分からないが、日本人はこの交感神経と副交感神経を切り替えることが出来ないか、もしくはヘタクソなのだろう。その為、どうしても日本人は『湯に浸かる』というこの行為を行うことで、交感神経優位の状態から副交感神経優位の状態へ切り替える必要があったのではないだろうか。

 現時点でこの項で述べられている事は、私の個人的な思い込み仮説を並べ立てているだけだが、以前この交感神経と副交感神経の切り替えについては、自分の人体を実験台にしてひたすら行ったので、非常に自信がある部分なのだ。そこで、トンデモ仮説といくらDisられても、この項では私の暴論を撒き散らす事を選択した。どこぞの大学の博士のエビデンスなど持ち出したところで役に立たない時は役に立たないからだ。昨今の水素水の問題一つとってみてもそういう部分は伺える。いくら理屈で良いだの悪いだの言っても、自分が水素水を飲んでみればなんとなく分かる。たしかに良さそうな気はするが、博士たちがお墨付きをつけるほどそんなに凄い効果は一向に感じられない。

 もちろんエビデンス的な裏を取る事も大事ではあるが、やはり事件は会議室ではなく現場で起きているので、現場レベルの体験談をもとに、この「なぜ日本人は『湯に浸かる』のか?」ということと、交感神経と副交感神経の関係の話を論じていきたい。裏を取りたければ、各自していただければというのと、やはり自分の体を使って試していただきたいというのが私の本音だったりする。

 日本の特異性でよく言われるのは、電車などに顕著に表れる時刻表通りにきっちり電車やバスがやってくるというあの神経質さ。あんなに時間をきっちり守り、守れないととんでもなく謝罪させられる国は日本だけではないだろうか。欧米人はもっとゆったり生きている事を考えれば、中には国のルールでお昼寝したりする国があるぐらいなので、日本人と欧米人のどちらが全体的に神経が張り詰めたような生活をしているかは比較するまでもないだろう。

 そして日本人のお家芸である「謝罪文化」だが、これもストレスがたまりそうな文化だと言える。外国人はあまり謝らないという印象があるが、そもそもそんなに細かい事を気にしないのかもしれない。風呂に入って体をキレイにするというのも、日本以外の外の洗体事情からすれば、日本人は臭いに関してやたらと神経質だし、外国人男性はハゲの方がむしろモテたりするぐらいだが、日本人はやたらとハゲを気にする。とにかく日本人は無駄に神経質なのだ。見ず知らずの人とも平気で話せるのも外国人だし、日本人は特に昨今、知らない人になど話せば犯罪者と間違われ、電車の中で男性陣は痴漢と間違われないように両手を上に挙げて乗る。ウォシュレット文化も神経質な日本人だからこそ作られたようなものかもしれない。もう日本人の神経質な気質、交感神経優位そうな気質から生まれる生活文化を挙げだしたら、それこそ枚挙に暇がない。そんな日本人だから、湯船に浸かることでホッと一息、一日に一度ぐらいは思いっきりリラックスする必要があったのではないだろうか。

 なぜ、そんなに日本人という人種がそこまで世界の中でも神経質で、常に交感神経優位な生活をしているのかはよく分からない。たしかに、何か問題を起こした時に自ら腹を切って詫びるなどという文化は世界でも例がなさそうに思えるし、自分のボスから腹を切る事を命じられることにビクビクしながら生きていたとしたら、これは戦後の復興からアメリカ様から流入してきた文化ではなく、元から日本人という人種は、非常に神経質に生きることを植え付けられて生きていたことになる。

 欧米人のイメージというか特にアメリカ人のイメージは「でかけりゃそれでいい」みたいな大雑把な世界観を持っている印象を受けるが、やはり日本人が作るモノであったりサービスは良い部分で言えば精密で、細部にもこだわっているようなものが多い。そういったメイドインジャパン的なものを、副交感神経優位でいいじゃんいいじゃん楽しけりゃ何でもいいじゃん的なラテン系の血の流れている人間がそれらをつくることは難しい。再び、サッカーの話になってしまうが、やはりサッカーの強豪国はブラジルだったりスペインだったりといったラテン系の血の流れている人々が強かったりするのは偶然ではないと思うのは私だけだろうか。そしてさらに付け足してしまうが、日本人のサッカー指導者は、子ども達に「楽しめ」といちいち命令するのだ。どれだけ日本人が交感神経優位の呪いにかかってしまっているのかは、このあたりを見ても拭えない事実だろう。いちいち他人に「楽しめ」などと命じられたら楽しめるものも楽しめない。

 また、もしかしたら言語の周波数においても日本語は周波数が低い音の言語である事が分かったが、この周波数の低い音というのは交感神経を優位にさせる効果がもしかしたらあるのかもしれない。そして周波数の高い音には副交感神経を優位にする効果がもしかしたらあるのかもしれない。もちろん都会の人口密度の高いゴミゴミした場所では、交感神経が優位になるであろうことは実験しなくても容易に想像できるし、大陸の人達は日本に比べれば基本的に土地も豊富だからゴミゴミする事も少ないだろうし、そんなに人口密度的な事でストレスを感じるような機会も、日本で生活する我々と比べたら、極端に少ないかもしれない。

 と、この項ではゴリゴリ仮説で攻め続けてみたが、私の実体験から立てた仮説なので個人的にはかなり自信がある。そして、私はここ数年間この「交感神経と副交感神経の切り替え」をものすごい意識的に切り替えて生活してみた。その結果としては、思い込みもあるかもしれないが「交感神経と副交感神経の関係」を意識していなかった時よりも生活も人生も好調であるし、「大和魂」的にも健全な状態で生活できているように思える。それまではやはり無駄にピリピリと神経を張り巡らせて常に集中を切らさないように心がけて生きていたような気がする。教育について触れた時にもこの部分は指摘したが、小学生の時代からお受験を意識させられ、ひたすら比較され、合格不合格という評価にさらされて生きている日本人。いつの間にか「交感神経優位人間」として形成されていくのはしょうがないことで、これを"日本病"と呼んでしまっても良いのかもしれない。

 そういう視点で考えると、日本人というコンテクスト上、エネルギーマネジメントという問題は非常に重要になってくる。「日本の常識は世界の非常識」といえる事は多々あるし、今回私が立てた仮説のように「もはや欧米人と日本人は真逆に近い性質を持っている。」などという説が事実であるとすれば、日本人式のエネルギーマネジメント術を確立する必要がある。

 そのエネルギーマネジメントを間違えて、最悪の結果になってしまうのが「過労死」というようなストレス過多によるなんらかの現象、症状だと言えるだろう。私個人としては、一日二十四時間の中で、自分がどのくらい交感神経優位の状態で生活しているか、副交感神経優位の状態で生活しているかをある程度把握しておくことをおススメする。人間という一本の形状記憶合金も、ある程度のストレスであれば元の状態に戻れるだろうが、負荷をかけ過ぎてポキッと折れてしまえばもう元に戻る事は相当難しい。

 そういう意味では、入浴以上に気を付けたいのは睡眠だろう。それこそ睡眠は人間であれば誰でもしている行為であり、睡眠によっていろいろと回復させている事は間違いないだろう。寝ないで生活すれば健康状態が悪くなる事も疑う余地はない。

 ただし、この本は「大和魂の研究」なので、日本の独自性から睡眠というものを語らなければ面白くないので、そのあたりを探ってみるとどうやら「居眠り文化」というものは日本人の独特の文化だというのだ。欧米人達は「人前で自分の寝る姿を見せない」というのだ。だとすれば、電車の中で立ったまま居眠りをしている日本人を見た時はなんとも不思議な気持ちになった事だろう。

 また『西洋』が日本に入り込んだ後と入り込む前の違いから探るとすれば、時間の数え方というか「太陽暦」と「太陰暦」の違いがあるだろう。太陽暦太陰暦のメリットデメリットもいくつかあるようだが、私が着目したのは「太陽歴=工業的ライフスタイル」「太陰暦=農業的ライフスタイル」という点だ。そこには「自然を無視して生きる」「自然と共に生きる」という大きな違いを感じてしまう。もちろん、日本人の多神教的な性質としては「自然と共に生きる」というスタイルの方が、日本人らしく生きられるような気がしてならない。

  そして一日が二十四時間であるという二十四時制に関しても、何か人間をロボットのようにルーティン的に管理する意図を感じずにはいられない。太陽暦であり、二十四時制というものは、人間を均一的に管理する目的で考えれば非常に効率の良いものなのかもしれない。しかし、自分たち人間が、地球という星の一員であるという事を忘れさせ、あたかも神の使いにでもなったかのような錯覚をさせようとしているようにも見えてしまう。戦争するしないという価値観以上に、我々日本人は、世界の国々がどういう価値観、態度をとったとしても、「我々日本人は、国際人である以上に地球という星の一員として生きていく。」と力強く主張しても良いのではないだろうか。なぜならば、そこに日本人性が強く含まれている気がしてならないからだ。

 なぜ、ここの部分を強調するのかというと、「工業的なルーティンワークのライフスタイル」の上で「どう寝るか」などという事を考えても、朝六時に起きなければ会社に間に合わないのであれば、帰宅時間が深夜二十三時になるのであれば、成長ホルモンがどうとか、ゴールデンタイムがどうとか論じ合ったところで、現実味がないそんな話をすることは、ニューヨークで入浴するというオヤジギャグを披露する以上に、無駄に疲労するだけの論議になると考えているからだ。

 そもそも日本人の日本人らしい生き方であり、睡眠を考えるのであれば、我々日本人は、「工業的な利得の傘下」として生きるのではなく、「地球という星の一員として自然と共に生きる」という選択をしない限り、いつ寝るか、どう寝るかなどという事を論じ合ったところで何かが変わるなどという事はまずないだろう。

 実際は、それこそ日本の外側で十五分程度の仮眠を取ると体に良い。などやりはじめているところがあるようだが、人間が根本的に健康に生活したいのであれば、労働ロボット、生産ロボットのようなライフスタイルと決別する事だと私は考えている。すでに日本人は、過去の歴史において「どう生活して」「どう寝れば」自分たちのポテンシャルであり、パフォーマンスが発揮されるかについては我々現代人があーだこーだと論じ合う必要もなく、ほとんどの答えは歴史を調べれば正解についてはほぼ記されている。その事実から、「日本人らしい睡眠」を獲得したいのであれば、工業的なロボットごっこを捨てて、農業的な地球の一員ごっこを選択すればただそれで良いのだという結論を述べておきたい。そして、欧米人の効率主義に迎合することなく、自然と融合して生きる独自の日本式の日本人の基本的なライフスタイルを確立すれば良いのだ。今からチャレンジしても遅くはないし、そこにチャレンジせずにひたすら迎合し続けていたとしても、いずれ自然と融合する本来の日本式ライフスタイルの確立に迫られる時は必ずやってくる。だったら、今からやり始めた方がそれこそ一番効率良い選択になると個人的には考えている。