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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

2:日本のヒューマンデザイン論に異論を唱える

2:日本のヒューマンデザイン論に異論を唱える

 

 「教育と洗脳の違いは何か?」この問いに対して、いろいろな表現で説明されているが、私個人としては、教育と洗脳の違いというのは、氷と水、水と水蒸気ぐらいの違いだとしか思っていない。つまり何が言いたいかというと「本質的なものは同じ」という事だ。水も温度が低ければ固体になり、温度が高ければ気体になる。こたつの温度調整の「弱・中・強」みたいなもので、やりすぎればそれが洗脳になり、適度な刺激になればそれは教育と言っても良いようなものになる可能性があり得るが、基本的にこの「教育」「洗脳」的な本質的な「何か」はそれほど、我々が「教育」という言葉を聞いて好印象を与えられるようなソレとは程遠く、現実的には「洗脳」に近いものにしかなっていないだろう。

 それはともかく、「教育」というものは何なのか?「義務教育」これは誰が貸しているのかと言えば国が課してのだから、国が考えた教育を我々は受ける事になる。そもそも「義務教育」とは教育を受ける側に義務が課せられている訳ではなく、教育する側、つまり親側に「子どもにはこれらの教育を受けさせなければいけない」という義務が生じている。実際大衆は「教育とは学校に行って何かを学ぶこと」という理解に落ち着いてしまっているが、別に学校に通わせることが教育ではない。分かりやすく言ってしまえば、「どの環境に生まれたとしても、せめて読み書きそろばんぐらいは誰でも出来て、生きていけるように」という平等にその能力を養える権利を与えるためのものであって、「学校に通わせることが義務」ではない。では、その義務教育によって苦しんで、自ら命を絶った子ども達は、それこそ生まれながらにして死刑宣告を受けているようなものではないか。何故、私がここまで義務教育なるものを忌み嫌っているかの理由はここにもある。ある者にとって義務教育とは一種の「死刑宣告」なのだ。

 肉体的な意味合いでの死刑宣告の場合もあるが、精神的であり、可能性という部分であればそれは大げさな話ではなく、多くの者に対してのある種の「死刑宣告」を国は生まれながらにして我々に課している。そんな事をしている国が掲げる民主主義というものは一体どのような主義なのだろうか。法律があるくなって今の時代にマッチせず機能していないのと同じで、義務教育であり、国の教育方針そのものが時代に全くマッチしていない。そして、教育者、つまり学校教師共に教育のセンスをまったく感じられない。それは時間が経てば経つほど教師共の教育センスは薄っぺらいものになっていっている事実がある。

 教師自体に問題があるのかと言えば、実はそうでない場合が多かったりする。これはまさにフラクタル。学校教育が生徒たちの個性を奪っていくのと同様に、実は教師たちも国から個性を奪われているのだ。個性を奪われた教師たちが、言われたことをロボットのように生徒たちに同じクオリティで対応していく。もちろん、そのクオリティが高ければ問題ない。少なくとも日本の教育とは「下位のレベルに合わせていく」やり方なので、それはまさにロークオリティで平均化させていく手法なのだ。

 これが何を意味しているのか。それは個性的な人間ほど、苦しむ環境を押し付けているという事を意味している。何かに尖って突出すればするほど、問題児とみなされ徹底的に出る杭を打っていく。これが大人対大人であればまだやりたきゃ勝手にやれという気にもなるし、望むところだバカヤローという気にもなってくる。しかし、残念ながら大人対子どもというこの状況、そして多数派対少数派のようなその状況の中で、子ども達の個性は、それこそ、質の悪い牛肉をアンモニアで消毒するファーストフード店のハンバーガー用の肉で使われているような管理をされて、均一化、つまり「変わらない味、変わらないクオリティ」を提供し続けているというその手法を国が採用しているという事だ。考えてみて欲しい、100グラム5000円の松坂牛をいちいちアンモニア消毒などして最悪の状態にするという事を。国の教育というのはまさにこういうことなのだ。天才の芽を根こそぎ摘んでいくのが、国のヒューマンデザイン論なのだ。国は天才など望んでいない。従順に死ぬまで生かさず殺さずで、税金を納税してくれる飼い犬を量産できればそれで良いのだ。まさに映画MATRIXのあのMATRIXシステムと同じで、従順なロークオリティの飼い犬以外のイレギュラーなマイノリティたちは扱いづらくてしょうがないのだ。だから、まだ気づかぬうちに「お前はこういう人間だ。」「人間とはこう生きることが正しい。」「立派な人間とはこういう人間の事を言う。」親も学校も大人全体でそうやって教え込む。まさにそれは洗脳と言ってしまって支障をきたさないだろう。

 もちろん、何も洗脳せずに「僕は平均化人間になりたいんです。」「私は平均化人間になりたいんです。」と本人が心から望むのであれば、それを止めようとは思えない。本当にそんな人間がいるのかどうかは非常に興味深い話ではあるが、まあ、皆さんご存知の通り生まれた時から、否、生まれる前から我々はなんらかの洗脳が施されているかもしれないし、年齢が一桁の時代からずっと我々は何かを「正しい」と叩き込まれている。それこそ、私自身「学校に行かなくても良い」などという事を疑ったことは一度もなかった。学校に行けない人間は人間として不良品だとすら思っていた。というよりもそれが当たり前だと思い込んでいたのだ。そこに自分自身の思想を入れ込む余地すらなかった。今思えば、「この事実が分かっていれば学校なんて絶対に行かなかった。」と本気で思っている。中卒ですら生ぬるく、自分の学歴は小卒で良かったと思っている。

 時代が今ほどではなかったし、バブル絶頂期に私自身中学生高校生だったこともあり、今ほど学歴に左右されない時代ではなかったとはいえ、もしも過去に遡ったら私は中学校にも高校にもいかない。いちいち毒に浸かって、自分の可能性を腐らせるなどというドMな行為を自ら選ぶことはしない。では何をするのか。それについては別の項で述べることにするが、国の「教育」とは、国の考えるヒューマンデザイン論なのだ。表向き「人々が幸せに生活できるために」などと言っていたとしてもそれこそがJAROもビックリな過大広告であって、別に国は我々国民ひとりひとりに「幸せに生きてもらいたい」などとは思ってはいない。例えば「健康に生きてもらいたい。」と国は思って入るとしてもそれは医療費をかけたくなかったり、健康を保って働いて税金払ってもらいたいだけなのだぐらいに理解しといた方がそれこそ健全に生活することが出来る。国だから結構色々な事が許されているだけで、国ほど詐欺を働いている存在はないだろう。「教育」というこの一種の水戸黄門の印籠的な言葉は、使い古されて異臭が出ているかもしれなくても、それでも「教育」と言えば、ほとんどの国民達はははーって感じで、恐れ入る感じになっている。まずはこの洗脳が解けない限りは、国家の奴隷として生きて一度しかない自分の人生を腐らせて終わらせていくしか選択肢がない。

 国が我々に施す教育というのはクッキーを作る時に使う一種の型どり用の型なのだ。もちろん、その型にあっている人間は、大事な部分を失わないかもしれない。しかし、その国の決めたヒューマンデザイン用の型と、あなたの形が著しく違った場合、どういう悲劇が起こるのか?あなたしか持っていない大事な可能性が、その型の外に外れ、それらの部分はゴミ箱にでも捨てられてしまうという事だ。そして、それらの本来あなたの持っていた才能であり、可能性ははじめからなかったものになり、本人ですらそんなものははじめからなかったのだ。というよりも思い出す事すらできない。(実は生きていると三十歳、四十歳あたりに思い出したりするある何かが起こって実は苦しかったりするのだが。これさえなければ一生忘れていられるというのに・・・)

 というように、実は洗脳をされてもやはりそれは自分が望んでいる生き方ではないため、何かのきっかけで「本当の自分は違うんじゃないか?」だとか「あれ?自分ってもっとこうだったんじゃないのか?」なんて疑問が首をもたげてきちゃったりするからあら大変!っていう話なのだ。もうこれは生きてみないと分からないが、自分らしくない型にはめられた人間は、何かによってその真実と向き合うような何かをしらのイベントがどこかで起こる。一番わかりやすいのは「病気」だろう。自分と向き合わずに生きていられる人間などいないのだ。だけど、国は「こういう人間が素晴らしい」という私個人から言わせていただけばそれはそれはとてつもないネガティブキャンペーンをひたすら打ち続けてくれるのだ。それはまさに朝のニュース番組のCMで流される生命保険のCM然り、朝のニュースでは流すべきではない悲惨な事件の類のように。

 本来、国が我々一人一人をもっと幸せな人生を送らせるように真剣に考えているのであれば、このような状態にはなっていない。なぜ、いちいちテストをし、マルとバツをひたすらつけて、自分の評価を他人にされるというこの繰り返しを行うのか。それは「自分の人生のコントローラー」を本人から奪って、本人以外の何者かが簡単に操作する魂胆があるからに他ならない。それこそ、国の教育は、人間一人一人から幸せを少しずつ奪っていっているのだ。気づかないように、少しずつ。ゆでガエルのお湯の温度を気づかぬうちに上げて、のぼせて何も考えられないような状態にしては、国の都合の良い思想を植え付け、それを自分自身の思想、価値観だと思い込ませているのだ。

 それはもう、一大国家プロジェクトでこの日本の学校教育システムが間違えているなどと思っている人間は、昔よりも多少増えたかもしれないが、反対に学校教育に子育てを完全に依存しているモンスターペアレント的な輩も同様に増えているのだから、むしろ国が困っているのはやりすぎて、親たちがそっちの方向に行きすぎたことには悩んでいる可能性はあるが、まあ国としては自分たちの言いなりになって従順に学校に通い「優秀な大人」「立派な社会人」になってくれればそれで御の字なのだ。