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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

3:子ども達にとって良い教育者とはどういう存在なのかを考えてみる

3:子ども達にとって良い教育者とはどういう存在なのかを考えてみる

 

 基本的に、「良い教育」について考えてみれば、その人にとって最大のパフォーマンスであり、ポテンシャルが引き出されるような教育が成されるのであれば、それはどのような方法であったとしてもそれなりには良い教育と言えると定義してよいだろう。たしかに、過剰に強制したり、暴力や暴言を奮うようなやり方でそれを達成しても良くはないとは思うが、そもそもそのやり方によって人のパフォーマンスがものすごく引き出される事は無いので、ここに関して考察する事はそれほど建設的ではない。大人の言う事を無理やり聞かせるという手段においては有効かもしれない。それはまさに容疑者や捕虜に対して拷問を行い、無理やり何かを言わせたり、やらせたりする事と変わらない。

 しかし恐ろしいのは、「学校に通わせる」というその営み自体がもはや「見えない拷問」のようになっているという事実で、そこに選択肢がないなどというのは、一番恐ろしい。「この崖から飛べ」と命じられることもなく、「みんなが飛んでいるから飛んでいる。」と無思考で飛んでいるのと同じだ。もしもそのような光景を見れば、誰もがゾッとするはずなのだが、まさに義務教育然り、その後の日本の教育というレールを無思考無批判に歩いている人々の様は、まさにゾンビのような人間的思考をもって自分の人生の選択を放棄しているある種の「魂」をどこに置き去りにしてしまったのか、無理やり奪われてしまったのか、そのようなフラフラとただ、どこかに向かって無表情無感情に進んでいる不気味な存在にしかなれていないような気がしてならないのだ。

 ここで、考えたいのは「教育」もある意味戦略的な要素がある事を、親は理解をすべきなのだが、よく教育熱心と言われそうな類の親たちはたしかに教育は戦略的なものであると理解しているものの、もはやゴールが決められていて、その決められているゴール設定自体が教育者としてのセンスの欠乏を感じざるを得ないのだ。

 まず、教育におけるゴールの設定がいまいちで、具体的に何が正解になるかはその人その人の「持って生まれたもの」によって違うのに、すべての人間が同じ競技に参加させられているような錯覚に陥り、思わずそのレースに参加してしまう事自体が多くの人間に悲劇を招くことになる。まあ、多くの人間達はその悲劇にすら気づかずろくに成果の出ない競技に参加してはパフォーマンスも上がらない競技の訓練をひたすらさせられている訳だが。

 それは、イチローが将棋を頑張っても名人になれず中途半端なレベルで終わってみたり、羽生善治が野球を頑張っても草野球のピッチャーの投球に対して一球もヒットにできない事と同じようなものだ。しかし、イチローがバットを握れば、世界的にも驚異の成績を残せるし、羽生善治も将棋の駒を手に取らせれば名人という称号を得られる。

 多くの人達が間違えている事はこれらの「天才」と呼ばれる人物たちは特別紙に選ばれし者のように考え、「決して自分には彼らのような才能はない。」と思い込んでしまっているそれ自体が、「悲劇」そのものなのだ。そうではないのだ。人間はひとりひとり「イチロー」「羽生善治」といったような「天才性」を持ち合わせていることを私は主張している。それはその人間と「何か」をかけ合わせた時の一種の化学反応の結果だと考えればわかりやすい。

 

イチロー×野球=天才

羽生善治×将棋=天才

 

というように

 

あなた×「何か」=天才

 

というような、この公式のようなものに代入する「何か」というXの部分に、多くの人間は、イチロー羽生善治のようにこの公式の解が「天才」になるような値というか対象を代入していないため、

 

あなた×「何か」=凡人

 

という解になってしまっているだけで、別にイチロー羽生善治が特別な人間であるとは私は思ってもいないし、考えてもいない。彼等に対してリスペクトをしても、羨む必要は大してどころか全くない。なぜならば、私にもあなたにも「何か」をかけ合わせれば解が「天才」になるその「何か」があるからだ。もちろん、多くの人々は自分のその人生の公式における解が「天才」になる「何か」というこのXの中身が何なのか分からず苦しむし、もっと悲劇的なのはこの公式の存在も仕組みにも気づくことなく、親やら学校やら社会にやら何ものかにこの「何か」の中身を勝手に決めつけられて「お前の人生の解はコレだ。」とばかりにもはや疑う余地もなく、そのしょっぱい人生を何も疑わずに生き続けてしまうことになっている。ただそれだけのことなのだ。

 そして、多くの人間達がこの「何か」の部分に訳の分からないものを代入されてしまった結果として、イチロー羽生善治その他の「天才」達のように、自分の人生の解が「天才」になっていない。人は誰もが「自分にしかない世界に一つだけの花」の種であり、芽であり、つぼみを持っている。そこを無視して訳の分からない割くこともない花を無理やり咲かせようとするのが、現在日本で行われている義務教育であり、学校教育であって、その副作用であれ後遺症に悩んでいる人間達はもう世の中を見渡せば溢れかえっていてそれこそ、自分の人生が突き抜けずに窒息死欠けている顔を真っ青にした大人たちが街中を徘徊している、まさにバイオハザードさながらのゾンビワールドを創り上げてしまっている現実が今の時代に投影されているのだ。私が日本の教育を激Disりしている理由はここにあって、いちいちゾンビだらけの世界を創って、国がなんとか生き延びていくなどというようなその頭の悪い人間達が考えた戦略自体が、もう腐敗しきっていて、もうすでに多くの人々は腐敗してしまっているし、このままいけば国自体も腐敗して、日本という国は滅亡する危険すらある。

 もちろん、ストレスをかければ進化するという弁証法的飛躍前夜がまさに今の時代なのかもしれないが、もしもこのまま進めば日本という船は沈没することだろう。少なくとも、自分自身に問わなければいけないのはその沈没寸前の船に乗り続ける事なのか、自分で小舟だろうが、筏だろうがを作って脱出し自分で前述した人生の公式の中の「何か」に何を代入すれば自分の人生の純度が劇的に上がる解になるのかを探す冒険に出るかの選択に迫られていて、すでにその船が完全に沈む前に、脱出するかどうかは現時点では選択の余地がないレベルなのだが、残念ながらその船が沈んでいる事すら気づかないものたちも未だに多かったりもする。

 株式の投資にも「塩漬け」という状態、つまり購入した株価が下がってどうしようもない状態であるのに、なんとか元に戻ってもらいたい、V字回復してもらいたい、願わくば高騰してもらいたいと期待してそれこそ紙くずになるまで持ち続けてしまう状態と同じで、そういうもの達の人生がV字回復する事も無ければ、高騰する事もない。それこそそのような者は、苦しい事は分かるが損切りして、自分自身の人生の公式の中に代入する「何か」を変えない限り、沈没船と運命を共にするだけの運命でしかない。

 何故、日本の教育を忌み嫌うのか。それはすでに沈没寸前の船に「この船は安全です。」とばかりに、人々を騙し続け未だに次々と乗船させていくそのやり口が卑劣で汚いやり口だと私は主張しているからだ。その沈没船に乗る事のメリットとリスクをしっかり説明し、一人一人に選択させたうえで、それでもその沈みゆく船に乗船する事を選択するのであれば、それはその人の人生なので、他人がとやかくいう事ではない。しかし、嘘をついてそれを信じ込ませて、沈没船と共にその人間の可能性を埋れさせ、溺死させる事に関しては、私は国は詐欺罪に問われるべきだと考えている。

 逆に厳しい事を自分たちに課せば、その国の詐欺行為を見破って自分自身で生きるか、それとも大きな力や体制に依存して国の傀儡として生きるかを問われていると考えても良いかもしれないが、さすがに五歳六歳の子ども達に問うのはさすがに酷ではないだろうか。だからこそ、親に対する教育者としての責任がそこに問われているのだ。

 もちろん、その「親」は、すでにその人生の公式についても、国民は同じ競技に参加させられているという「義務」という国の詐欺行為にも、NOを突きつける必要がある。どこかでその負のスパイラルのベクトルを断ち切る勇気を求められているのだ。

 とは言え、洗脳され自分の顔ではないその鉄仮面を自分の顔だと思い込んでしまっている大人達に期待すること自体が、沈みゆく船が浮上する事に対してこの国の教育の行く末を賭けてしまっているような、浅はかな博打行為とも言える。ではどうしたらよいか?

 それは、若者達が自分たちでその事実に気づく事だ。もう、この国の教育など完全に腐りきっていて、可能性の「か」の字も感じない。すでに何人かの大人達もこの国の教育が腐敗しきっている事を訴えている。現在の日本の教育を推してくる者達の声と、現在の日本の教育を激Disりしている者達の声を聴いて、両者の言っている事のどちらが現実的に正しい事を言っているのか。それを若者達ひとりひとりが自分で選択すれば良い。

 その人間が、良い教育とは具体的に何であるかについては各自で責任をもって考えて選択すればそれで良い。そこに口を割り込もうとは思わない。しかし、誰でもその人間にとって「天才」という解が出るような「何か」は確実に存在していて国の憲法が保障しているようなレベル以上に、それこそ宇宙レベルで何人でもどのような環境で生まれようとも、その「何か」をしっかり生まれる前から手土産として持たせてくれているというその「平等」については間違いのない事実だということだけは主張し続けたい。時間がかかっても、その「何か」というXにひたすら代入し続けて自分の人生の解がすばらしい解になる実験はひたすらチャレンジすべきだろう。それこそエジソンが千回チャレンジし続けたのであるならば、最低でも我々も千回はチャレンジし続けてみませんか。という提案は常にし続けたい。そもそも多くの人達は、二回すらチャレンジしないし、酷い人は一回もチャレンジせずに、自分の可能性を放棄するというのは悲しすぎる。