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harasawapublication ~原澤出版~

原澤出版の執筆用ブログ

4:お受験大国日本という悪しき風習について

4:お受験大国日本という悪しき風習について

 

 日本の常識は世界の非常識。その最たるものが「お受験システム」だ。学校教育の中身もさることながら進学システムも日本の教育は、世界から軽蔑されるとても自信をもって世に出せるシステムにはなっていない。ちなみに、世界の学生たちは日本の学生たちのように学校に入るために訳の分からない暗記大会のようなものに参加させられることはない。とにかく日本人は無駄な事を我慢してやらせ、それに耐えてゴールに到達したものを勇者とする風習があるのだが、まったくもって意味が分からない。日本の神話の何かで、この日本のお受験システムを象徴するようなお話があるのだろうか。私はそのような話を存じてはいない。

 それとも日本には「職人システム」のようなものがある。それこそ昨今では「寿司屋の修業期間は無駄」というような主張をしている者もいるようだが、個人的には職人の「意志の上にも三年」というようなシステムと、何かを学ぶための資格を得る為の訳の分からない内容の修業期間は関係ないと私は考えている。こり「職人システム」が歪んでお受験システムにも移行されている可能性は否めないが、とにかく意味が分からない。「国の嫌がらせに文句を言わずに従順に従えるものが優秀」という一種のイニシエーションを六三三の十二年、そして最後の大学受験に課し、学校教育が終わればまたそれは社会へと引き継がれ、就職活動、出世争いへと続いていく。もうそれは洗脳に次ぐ洗脳、ひたすら洗脳されて優秀な国家ロボットとして洗練されていっているだけで、自分の人生の純度は、某ファーストフード店に使われる粗悪な質の肉の如く、劣化して行っている事は否めない。もちろん、そういう人間達の事を国や社会は「優秀」「エリート」と称賛してきた。まだ、その事実があるのであればその「優秀」「エリート」というバッヂ欲しさに己の人生を犠牲にして、そのバッヂ獲得レースに躍起になる事も意義はあるのかもしれない。しかし、残念ながら時代が進むにつれて、そのピカピカだったバッヂの色はどうも錆びついてきて、価値が大分下がってきているような悲劇的な現実が今の時代にはあるのだ。

 悲しい事に、それでも世の親たちは自分の子ども達を受験戦争の地へと送り出すのだ。フィジカル的な命を奪い合う場ではなかったとしても、物理的な命以外の「大事な何か」を奪い合い殺し合っているのがまさに受験戦争という名の線上なのではないだろうか。そもそも「受験戦争」など表現されている環境において、人が人間らしく成長する事などはない。それこそ、戦争をしない国、戦争をする事を力強く批判する国で、受験によって戦争する事を称賛しているというとてつもなく矛盾してナンセンスな事をこの日本という国は何十年にもわたって行い続けているのだ。何故、学問に対してもこの国は憲法九条のような条文をつけなかったのだろうか。

 まさに、この国は「教育」によって自国民たちを殺し続けているのだ。もちろんそれは人間が「死」という状態を認定される条件の中にあるような「死」ではない。日本の教育が殺戮を続けているのは何か?それは人間達の『可能性』であり、子ども達の『可能性』に他ならない。テロリズムを禁止し批判している国家そのものが、「目に見えないテロ活動」を長年我々国民に対して行い続けているのだから、たまったものではない。

 しかし、残酷ながらそれが現実なのだ。やみくもに信じて盲目に言われたことを鵜呑みにして進めば、そこには断崖絶壁の崖があり、皆その崖から命綱のついていないバンジージャンプをさせられるはめになる。それは自分の個性であり、可能性がすべて海の藻屑に消えるようなもので、飛び込めば綺麗さっぱり平均人、もはや夢など国の藻屑に消え、それこそいい歳こいて夢など追いかければ、なにやってんだあのバカはとばかりに自分の夢や可能性を追いかけている者達を見ては嘲笑し、嘲笑はするけど舞台には上がらない万年聴衆のようなただのヘタレとして、上司の命令に調子よく尻尾を振ってただただ動物としての寿命を全うしながら国に首輪をつけられて飼いならされた飼い犬のような人生を送ることになる。もちろん、どこかで自分の夢も才能もセンスも、自分自身でそれを分かった上で捨てることを選択したのであればそれはそれなのだが、良い話を鵜呑みにして信じて、いつの間にか崖から飛び込んでしまって、どうしようもない事になってしまっている者達のいかに多い事か。その最たる例が日本の「受験システム」「学歴社会」なのだと私主張している。

 そもそも、お受験競争で大半の労力を費やされる「記憶力大会」だが、子どもという貴重な年代で、記憶力など養ったところで何の得があるのかが理解できない。子どもの内こそひたすら体験させて、肌で学ぶことをひたすら味合わせれば人間力が自然と増す。それこそ大人になって社会に出れば、学校の筆記テストのような決まった問題に対し、決まった答えを出せば、正解がもらえるようなそんな子ども騙しレベルの問題は出てこない。それこそ、人間力が問われるような問題ばかりが出題されるのに、決まった問題に対し、決まった答えを返すその訓練の何が重要なのかがまったくもって理解できない。メリットがあるとすれば、それは採点する側のセンスが問われずに採点できることぐらいしかメリットを見つけることが出来ない。それこそ誰でも答えを見ながらマルをつけられるからだ。

 そして、日本は時間が経てば経つほど少子化に進み、進学の競争をさせる必要がどこにあるのかが分からない。入学段階で合格不合格をつけて何が楽しいのかが理解できない。就職の面接であれば理解はできる。何故「勉強したい」という人間、しかも勉強をする側がしっかりお金を支払い学ぶというのに、そこまできびしい試験を課さなければ良いのかが分からない。最低限の面接だけして、入学後やる気がなかったり、態度が悪ければ退学させればよいだけなのに、まず勉強できるかどうかを試験するというその上から目線がお前ら一体何様のつもりだ。という気持ちにしかこちらをさせてこない。まず、「受験させてください。」とお願いさせるその偉そうな態度、上下関係を作る時点で人の上にも人の下にも人を作っている。だから、「先生」と呼ばれている連中は、たいした人間性でもないというか、大したもんも持っちゃいないくせにふんぞり返っている連中が多いのだ。「全員じゃないだろ。」というツッコミは受ける事は承知で述べているが、「先生」というこの呼ばれ方と釣り合う人物が、現在学校教師の中にどれだけいるのだろうか。もちろんゼロではないとして、ゼロに近いぐらいしか存在しない事だろう。そもそも学校教師のほとんどは、それこそ大学を卒業した後社会経験がないのにすぐに「先生」になるのだ。人間的にレベルが高い者が存在する方がおかしい。

 そのため、学校教師と会話をすると大体視点が固まっていて、社会的に通用する会話になる事が非常に少ない。彼ら彼女らが通用するのは、「先生」と呼ばれるのはその学校という小さなコミュニティ内であって、その外に出ればそれこそ他のジャンルでは通用しないような人間ばかりだったりする。

 敢えて、強烈に書いてみたが、何が言いたいのかというと、「学校という独裁コミュニティ」にいちいち頭を下げてドン臭い感じで入り、そして洗脳され自分しか持っていない才能やら、可能性やらをいつの間にか捨てさせられる。というのが現在の日本の学校教育であり、「お受験システム」なのだ。そこに関わる人間達は例外なくもはや頭のやられている国から焼き印を押された公務員ロボットに他ならない。そして、そこにチンピラのように利権を振りかざすようなハイエナ共が学習塾だの予備校だのという存在で、一丸となってこのもはや使い古されて腐りきっている「お受験システム」にまだ昔と変わらず価値があるように、親たちを騙しているのだ。あれこそ「お受験教」という名の一大カルト宗教のようにしか見えない。

 実際、今の時代に学歴など大してアドバンテージにならない。サバイバルの度合いが高くなった今の時代に学歴というバッヂがどれだけの価値を持っているのか?それこそ自分で起業してしまえばそんなバッヂはあってもなくても同じになってしまう。何かの飼い主として生きていくのであれば、犬の血統書同様のある程度の効果はあるのかもしれないが、もはや昔と違って年功序列だとか終身雇用などあってないようなお話で、いつクビを切られリストラされるかも分からないし、各企業が正社員をなるべく減らそうという動きの中、そんな熾烈な飼い犬になろう大会になど出る必要がない。

 幼少のころからサバイバルの力を磨き、時代がどっちに進もうが自分の力で生き抜く力を身につけていけばそれで良いのだ。もちろん向き不向きはある事も確かなのだが、サバイバル力の高い者に、いちいち訳の分からない「お受験レース」などに参加させ、飼い犬の首輪をつけさせるような教育をする必要がないと私は主張しているのだ。好きな方を選べばよい。そして、好きな方を選ばせるような社会にしてほしい。それが「自由」で「平等」であるはずなのに、現在の一択しかない教育システムは、日本の憲法の中にある「人権」だとか「自由」「平等」という最重要のコンテクストを無視してつくられているようにしか思えないのだ。
 ここは何度もしつこくなってしまうが、受験を心からしたい人間はすればよい。私が批判しているのは「それしかない」ように見せる事、そして「それが優秀で、外は劣等」という演出を国を挙げて行っている事。その中枢にあるシステムが「お受験システム」なのだと主張しているだけで、各自の得意分野が生かされ、各自の才能や可能性が最大限生かせる、開花させる事ができる教育システムが作られるべきだと主張しているだけなのだ。今の日本の教育システムでは、あまりにも犠牲者が多すぎるし、しかも必要な犠牲者ではなく、過去の戦争における若い命を無駄に失った特攻隊作戦以上に、若者たちの才能や可能性が毎年のようにそれこそ四六時中削がれ、奪われ、消え去っているという悲劇が今も続いている事を日本の国民達は自覚すべきなのだ。