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原澤出版の執筆用ブログ

6:「先生」という設定に溺れ、「生徒」という設定に溺れている日本教育の罠

6:「先生」という設定に溺れ、「生徒」という設定に溺れている日本教育の罠

 

 「自分とは何者だ?」と問われたとき、自分が何者であるかを説明するには自分と自分以外の何者かとの関係によって「自分は〇〇だ。」と説明することが出来る。全ては何者かとの関係であり、設定によってそれらは決まる。「教育」というこれも同じで教える側の人間が一人でポツンと立っていたところで「教育」は成立しないし、教わる側の人間が一人でポツンと立っていたところで「教育」は成立しない。教える側と教わる側がセットになってはじめて「教育」という場が作られる。学校に先生しかいなくて、生徒が誰一人いなければ、そこは教育の現場とは言えないだろう。

 教室といういわばひとつのコントの舞台のような箱が設定されていて、「運転手は君だ、車掌は僕だ。」の如く、先生役が誰かで、生徒役が誰かというような場において教育が始まる。もちろん教育は教室の中でも外側でも行われてはいるが、「先生」と「正当」の両者が存在しない場においては「教育」は成立しない。

 そして、これは日本だけかどうかは分からないが、もはや「生徒」は全力で生徒を演じる。それはライオンに捕食されるシマウマを全力で演じるシマウマのようなもので、ただただ、「先生」に言われたことを無感情にこなしていくだけのような自称教育者たちの獲物のようにしか見えない。生徒は先生に反論する事など許されず、という前にもはや反論するという選択肢がそもそも今の生徒たちにはない。感覚の鋭い者達は反論ではなく暴れだしたりするのだが、個人的にはその判断の方が正しき判断のような気がしてしまうが、そういう者たちを世間では「〇〇病」だとか「〇〇症」だとか「〇〇症候群」だとか何かしらの病的なレッテルを張って「不適合者」として扱ってみたりもする。

 もはや学校教育というものは、「こうきたらこう」「ああきたらああ」というようなお約束事をひたすら繰り返している場に過ぎないのだ。先生が生徒になる事も無ければ、生徒が先生になることもない。これは、子どもに限ったことではない。私自身大人相手に何度も講座を開いてきたが、もうそれは生徒側の生徒を演じる力のセンスの高さはそれはそれは見事であり、完璧超人達もビックリなほどに完璧な指示待ちちゃんを演じてくれるのだ。その「場」をいかに壊すかが、新しい教育の風を入れ込むチャレンジになっていたが、その分厚い壁に風穴を空けるのは至難の業であり、なかなか「先生」と「生徒」というイメージプレーの常識をぶち破る事は非常に難しい。それは幼少のころから大人になるまで徹底してそのごっこ遊びというかごっこプレーをサラリーマンのごとく週休二日でひたすら叩き込まれ、挙句の果てには学習塾でさらにそのイメージプレーの力に磨きをかける。それこそ我々日本人は、「先生」の言う事に従う演技力に関しては世界有数のプレーヤーだと言ってしまってよいだろう。そのジャンルの世界大会があれば、日本人は世界トップクラスだろう、ベスト4に全員日本人が入る可能性すらあるような気がしてならない。そのくらい日本人の「指示待ち力」は脅威だ。

 私個人としてはこの「先生」と「生徒」の設定をしてしまうことが、質の高い教育環境を作っている大きな要因になっている気がする。なので、解決策としては

 

1:先生のことを「先生」と呼ばずに、「〇〇さん」と呼ぶ

2:いっそのこと、全員「〇〇先生」と呼ぶようにする。

3:先生の当番制

 

このような事で、「場」をおかしくさせてしまえば、少なくとも今の時代の日本の教育環境のようなイメージクラブとは違うコンセプトのお店が出来上がるはずだ。学校の教室の授業などというものは、性的な要素のないイメージクラブそのものであって、そのコンセプトがひたすら「先生の言う事を生徒が聴いてこなす。」というこのイメージプレーを繰り返すというもうこれそのものが劣悪な教育環境を作っている要因なので、この「教室で先生と生徒ごっこ」というイメージクラブのコンセプトをどう変えて、おもしろくしているかが本来は教育改革を行うための問題になっているのだが、国であり教師連中は、この「教室で先生と生徒ごっこ」であり、「指示待ちプレーの質の向上」というようなもはや、何がやりたいのか良く分からない方向に向かってしまっているので、それこそ頭のイカれた連中が日本の教育環境を作っているに過ぎないのだ。

 もちろん、その頭のイカれた連中を改心させるか、全員追っ払うかなどする事が現実的に可能であるのであれば、それはそれで真剣に考えても良いのだが基本的には現状それは無理な話なので、そのイカれたイメージクラブへの来店を自分から辞め、真っ当なお店へと足を運ぶという方法が現実的で建設的な方法と言えるだろう。ただし、このイメージクラブには少なくとも六歳から十五歳の九年間は、国から子どもの親たちに毎週約五日間通わせるように命じられている。そして、命じられていないのに放課後はまた民間のイメージクラブに通わせる。そこではさらに優秀な指示待ち人間、決まった問題に対し決まった答えを的確に返せるテクニックを伝授されていく。

 こう表現していけば、いかに日本の教育がナンセンスでバカバカしく、非常にコスパの悪いものであるかがお分かりいただけたであろうか。そして、何故学校教師はときたま本当に性的な意味合いにおける「先生と生徒ごっこ エロバージョン」に走ってしまうのかもなんとなくお分かりいただけたであろうか。それは、もはや学校という「場」がそういったイメージクラブと似たような構造になっていて、先生は先生なりに役を演じるその過程で、現実とイメージプレーの境界線がなくなってしまうと、変態エロ教師が一丁アガってしまって、学校教師の破廉恥事件へと進展してしまうという流れになっている。もちろんその事件自体を見れば、許されざることではあるが、もし許せないのであれば学校教育というそのイメージクラブ的構造を完全に破壊しない限りはそういった由々しき問題を根こそぎ絶つことは不可能だろう。

 また、この「先生と生徒ごっこ」では、ダブルバインドという状況を非常に作りやすく、これは言ってみれば人を統合失調症のような状態にしてしまう危険な環境なので、もはや人が人でなくなっていくような洗脳を、あれだけ長い時間毎日のように徹底して義務付けているのだから、本当に日本の学校教育というものは悪魔よりも恐ろしい存在であるようにしか私には見えない。ちなみに、教師たちの言う事を聴かないというかいわゆる「生意気なガキ」的な存在の子どもは、教師共に大人と子どもという埋められない力を駆使されて、ダブルバインドだろうがその他催眠的な事であろうがいいようにやってくるので注意が必要だ。その注意が必要というのは親が学校であり、教師を正しい批判の目で評価する事ができるかどうかであって、いちいちくだらない事にもケチをつけるケチなモンスターペアレントになれという事を提唱している訳ではない。個人的には、学校教育になど愛するわが子を毎週五日も漬け込むこと自体が恐ろしいので、出来る限り親自身が自分の子どもを教育する事をおススメする。

 「義務教育」の意味は「学校に通わせる」ことの義務ではない。「最低限の教育は何人も受けられるように」ということの義務であって、学校に通うかどうかではなく、その子どもが教育を受けられるのであれば、学校になど通わせる必要はないのだ。少なくとも貴重な幼少期であり少年期の時間の使い方をそんなイメージクラブに通わせることを第一義にしてしまうこと自体がどうかしているのだ。学校教育など「暇だったら行ってみるか」程度で良いのだ。

 それこそ、昨今「好きな事だけやれば幸せになれる」「やりたいことだけやれば幸せになれる」というような事を提唱している者達が増えてきたが、さんざん指示待ちイメージプレーを徹底的に教育されてきた指示待ちサラブレッド達が大人になって急に「好きな事やっていいんだよ。」「やりたい事やっていいんだよ。」などと言われたら困惑するだけに決まっている。それは太平洋戦争の時に沖縄で大人達と逃げていた女学生たちがいきなり「解散。」と言われて野放しにされたあの状態と大差がない。

 だからこそ、子どもの頃から自分の好きな事をやり、やりたい事をやり、自分の得意分野にのめり込み、ひたすら自分の才能と可能性を磨かせるような教育を親は子どもに施せばよいのだし、その教育に対しての支援を国が行えばそれで良いのだ。もちろん世の親達も千差万別、十人十色であるからそのイメージクラブにどうしても通わせて、当店のナンバーワンに育てたいという鬼畜のような親もいるだろうからもうそれはそれで、かわいそうだとは思うが自分の運命を受け入れるしかないのだが、親自身も「義務教育=学校に通わせる」というこの考えを改めるべき時が来ている事を知る必要がある。自分の人生を自分でデザインするためには、教育自体を自分でデザインする必要があるし、今の時代はそこを問われているのだ。子どもにはオリジナリティ溢れるユニークな名前を命名しているのだから、その調子で教育自体もオリジナリティ溢れるユニークな教育をわが子に施せばよいのではないだろうか。などと言えば、無秩序で無法的な教育が世に蔓延るだけなのだろうか。子どもを産んだ責任として、親はしっかり我が子に愛情をもってその子どもの生命力が最大限に発揮される教育を施してもらいたいと願う。あくまでも「義務教育」然り、その他義務ではない学校教育という仕組みであり、環境は、家庭教育の補助に過ぎない。と考えた方が良くて、この国の教育を誰がこのようにした戦犯だのと探すのもそれほど有意義ではないので、各自で教育のあり方、どういう環境を作り、子ども達であれ、若者たちに提供していくのかを真剣に考え議論すべき時がやってきているのだ。誰かお偉いさんのデカい声に尻尾を振って賛同するというのも、過去のイメージクラブの「先生と生徒ごっこ」の名残が強烈に残ってしまっている事に気づく必要がある。日本の教育を変えていくには、全員で取り掛かる必要が本来はある。もちろんそんなことは現実的でないことは分かっているので、やはり気持ちのある人間が立ち上がって地道に穴が開くまで掘り続けていくしかない。

 教育を変えるにしてもチャレンジする者達が「先生と生徒ごっこ」の延長でそんな議論なりチャレンジをするのは本末転倒そのものになってしまう。七転八倒したとしても七転び八起きの精神で、粘り強く世界に誇れる教育環境づくりにチャレンジしていく必要があり、今まさにそこが問われているのだ。